コギト・エルゴ・スムという言葉 その② | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

行きががり上、続けてヴァレリーのテキストを読んでみようと思います。すごく抽象的な文なので、日本語訳が分かり難いかも知れませんが。

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デカルト自身、彼の自我(soi)から引き出したこれらの言葉(Cogito ergo sum)を方法序説に定着してから10年後に、これらの言葉に戻り、これらが三段論法から導き出されたのではなく、それ自体によって認められるもの(simplici mentis intuitu)だと、多少困惑を交えて明言しながら、もう一度(Cogito ergo sumを)使っている。

しかし、デカルトはそうすることで、多分彼の側で生起していることと言語との溶接点そのものに触れ、言葉を誘発し、ある独自な放出を決定づけている。それは、一つの表象であり得る。いや、それはひとつの感覚、もしくは、類似の感受性のなんらかの事件であり得る。

後の場合、言葉は直接の帰結として、ありきたりと、反射的価値を生み、感嘆詞や間投詞、呪詛や悪態、祈願や戦闘の雄叫び、などの形が定まった表現に見るように、その文字について考えてみると、結局、その言葉自体は何も意味しないことに思い至るほかないのだが、それらの言葉は、期待とか、一個の生きた体系の親密な方向付けの、突然の変化にあたって、瞬間的な役割を演じたのだ。(デカルトの一面、p825)

Descartes lui-meme revenant sur ces mots, dix ans apres les avoir tires de soi et fixes dans le Discours de la Methode, les redit avec quelque embarras, nie qu'ils procedent d'un syllogisme; mais affirme qu'ils enoncent une chose connue par elle-meme << simplici mentis intuitu >> (Entretien avec Burman).

Mais il touche par là au point meme de soudure du langage avec ce qui se passe, sans doute, en deca de lui, et en provoque et determine une emission particuliere.Cela peut etre une representation; mais cela peut etre une sensation, ou quelque evenement de sencibilite analogue.

Dans ce dernier cas, la parole se produisant comme consequence immediate, l'insignifiance et la valeur d'un reflexe, comme on le voit par l'exclamation, l'interjection, le jron, le cri de guerre, les formules votives ou imprecatoires, sur lesquelles la pensee ne peut revenir que pour constater qu'elles ne signifient rien par elles-memes, mais qu'elles ont joue un role instantane dans une brusque modification de l'attente ou de l'orientation intime d'un systeme vivant.(Une vue de Descartes p. 825)

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なんとなく判ったつもりで、デカルトの合理主義と、その影響が至る所に見られるフランス社会とフランス人について書いてみようと思い立ったのですが、デカルトの著作がどこかにしまい込んだまま見つからないので、ヴァレリーの助けを借りようと、断片を読んだところ、「コギト・エルゴ・スムは無意味」だという、衝撃的なフレーズが目に止まって、続きを読みもしないうちに訳したのが過ちのもとでした。

上の括弧で括った(simplici mentis intuitu)がゆっきー女史が「あ た か も 自 ら知 ら れ る も の と し て 」と訳されている言葉でしょうか?

上に引いたのは前回引用したすぐ後のパラグラフで、ヴァレリーは、ちゃんとコギト・エルゴ・スムが三段論法から引き出した帰結ではなく、生きた人間が「私」という自我を強烈に自覚した叫びのようなものだと言っているのでした。前段で「意味が無い」と言っているのは、ヴァレリーの巧緻なレトリックで、めのおのような半可通は見事、陥穽に嵌ってしまいました。

ここでは、前段で、「意味が無い」と言ったのは、卑近な例で申し訳ないですが、近頃の若者が、ことあるごとに発する、「ぴゅた~ん」とか「ニッケル」とかの悪態や感嘆詞には文字どおりの「淫売」とか「ぴかぴかのニッケルメッキ」とかの意味は無くなっている。それと同じように、「コギト・エルゴ・スム」には文字通りの意味は無いんだ、と言ってるように理解できます。行きががり上、しばらく続けて先を読んでみようと思いますが、お付き合い頂ければ幸甚です。

 (つづく)

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