ワークショップ  「トリウムって知ってる会」 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

ワークショップ  「トリウムって知ってる会」  第1日


トリウムって知ってますか?

トリウムは自然界には少し光沢のある石として存在します。

トリウムは1828年にスエーデンの化学者イエンス・ヤコブ・ベルセリウスによって発見されました。

より正確に言うと、1815年にベルセリウスはトリウムという新物質を発見したと発表しました。

そしてその新物質に北欧神話の雷神トールにちなんで「トリウム」と名付けました。

でも、後で、これはイットリウムと呼ばれる発見済みの一形態であると気が付き13年後に訂正しました。

ノルウエーのHMTエスマルクという牧師がノルウエーの西海岸にあるレヴェ島を歩いて旅してるときにある珍しい鉱物を見つけました。

 

それは表面が光る黒い鉱物だったといいます。エスマルクはその石を鉱物の新発見で世界的に有名だったベルセリウスに送りました。

ベルセリウスはその石の化学分析を行いそこから未知の物質を純元素として単離し1829年にスエーデンの地質学の雑誌に論文を掲載したのでした。

 

13年前に新発見と発表したのは誤りであれはイットリウムの新形態だった。こんどこそまちがいなく新発見の物質であり、前に名付けた「トリウム」をそのまま継承して「トリウムを再発見した」と公表しました。

すでに1830年代には、トリウムはガス灯の炎の周囲に置いて発光させるマントルとして使われていました。パリのオスマン通りなどは夜も明るく輝き「光の都」と呼ばれていました。

夜の帳が降りる頃、ガス灯に点火して回る姿が絵に描かれてますよね ↓ 

 

 

画像はウイキからお借りしました。

 

 

19世紀も終わり近くポーランドからパリに亡命留学したマリー・スクウオドフスカは1894年ソルボンヌ大学で数学の課程を修了後、核物理学者ピエール・キュリーが教える学校のクローゼットほどの部屋を研究室に使わせてもらい次々と新しい発見をしました。

 

ラジウムの発見に始まり、第一次大戦の戦場を放射線透過器を積んだ車を運転し重症者の救済に奔走しました。

 

ピエールが馬車にひかれて死亡した後も強い意志を持って研究を続け2度もノーベル賞を受賞しました。女性として初めてフランスの英雄が祀られるパンテオンに殿堂入りしました。

マリー・キュリーがトリウムに放射能があることを発見したように言われていますが、最初に発見したのはドイツの化学者ゲルハルト・カール・シュミットです。

 

マリー・キュリーがフランス科学アカデミーに論文で発表する2・3週間前のことでした。ところがシュミットはその後トリウムの特性について突っ込んだ研究をしなかったのでトリウムの放射性について突っ込んだ研究をしたマリー・キュリーに発見の栄誉が帰せられているというわけです。

マリー・キュリーはトリウムの圧電(結晶の一方の端をハンマーで叩くともう一方の端から僅かな電流が発生する)能力について研究中、トリウムの謎に満ちた性質に気が付きました。
トリウム酸化物が発生させる電流が一定ではないのです。トリウムを検査しているとき電位計中の活性を示す値が徐々に上がっていくことに気がつきました。

マリーはこの現象に気が付いたもののすでに老いていたし健康がむしばまれていました。マリーの研究を引き継いでさらに深くし研究したのがアーネスト・ラザフォードでした。彼は核物理学を大きく発展させました。

弟子のソデイ―と共にトリウムの研究から原子崩壊説を立て、α線、β線、γ線の別を明らかにし、α線がヘリウムn原子核であることを実証しました。
また、原子模型を確立、物質構造の根本を明らかにしました。

ラザフォードはニュージーランド出身ですが英国のキャベンデイッシュ研究所で数多くの功績を挙げ、その後カナダでも研究を続けました。

キャヴェンデイッシュでのラザフォードはその人柄の良さで皆に慕われました。明るい陽気な性格で鼻歌を歌っている時は仕事がうまくいっていることをみんなが知っていました。

 

アダ名は「クロコダイル=鰐」ワニは決して自分の尻尾を振り向くことがなく常に前を向いて進むことからつけられたといいます。

 

ラザフォードは生涯を通じて有能な弟子の育成に励み、その功績により晩年1931年にはラザフォード・オブ・ネルソン男爵に叙せられアイザック・ニュートンと並ぶ偉大な物理学者として
ウエストミンスター寺院のニュートンの墓に並んで葬られています。

(ワークショップ 第二日 につづく)