雷神トールのブログ その⑧ | 雷神トールのブログ

雷神トールのブログ

トリウム発電について考える

核分裂の際に放出される膨大なエネルギーを熱交換器により蒸気に移転しタービン発電機を回して電力を得る。この一連の装置を「原発(原子力発電所)」と呼んでいる。

 

いま世界中に建設され運転中の原発は500基ほどあるらしい。これらの原発はすべてウランの固体燃料を使用し軽水(普通の水)を減速材兼冷却剤として使う軽水炉と、呼ばれている。そして「原発」といえば私たちは押しなべてジルコニウムの鞘に入れられたウラン235のペレット(固体)が核燃料であり、核分裂により飛び出す中性子の速度を緩めたり冷却したりするための水が満たされた炉が中心となる設備だと思い込んでいた。

リチャード・マーチン著の「「トリウム原子炉の道」(野島佳子訳、朝日新聞出版)を読むと、テネシー渓谷開発公社とマンハッタン計画の延長上にオークリッジ研究所があり、大戦後のアメリカはソ連との核開発競争に勝つためにそこに核物理学者を集め、核分裂によるエネルギーを動力に換えようとする試みが様々に展開された。

それは第二次世界大戦の終わり、とくに太平洋戦争の末期から戦後の1950年代にかけてであり、日本がポツダム宣言を受容し、極貧と混乱から復興を目指して必死で働き変革を受け入れてゆく時代。東京大空襲の火の中を母親が生まれたばかりの私を背中に負い兄の手を引いて神宮外苑まで逃げた戦争末期。その後、私が小学校へ上がり、中学、高校へと成長していった時期、安保反対の国会デモや、佐世保に米原子力空母エンタープライズ入港を許すなと全学連の活動家たちが必死で抵抗していた、そうした時期と重なる。

 

この本を読みながら、そこに書かれた原子力開発の一つ一つの事件が私個人の少年期青春期と重ね合って、ああ、あの時に、こんなことが起こってたのか!と感慨を抑えきれなかった。

いちばんの驚きは、最初の原発、つまり原子炉の祖先を遡るとそれは液体燃料を使った炉だったということ。しかもその炉は増殖炉を目指し航空機に搭載するために設計された溶融塩増殖炉だった、ということ。航空機用原子炉は100時間運転した後停止し、航空機が墜落した際の被害の甚大さが障害となり計画は廃止された。リチャード・マーチンは書いている。
「航空機用原子炉は、溶融塩増殖炉にとって直系の先祖であった」と。

原子炉開発初期の頃、世界はウランは極めて稀な鉱物で埋蔵量が限られている、と考えられていた。そこで「消費する分よりも多くの燃料を生み出す増殖炉」を研究者がこぞって探求したのだった。

航空機原子力推進(ANP)計画は1961年3月、ケネデイ大統領が、有人宇宙飛行船を月に着陸させるアポロ計画を発表する2か月前に、同大統領により取りやめとなった。

 

しかし、ANP計画を実現に向けて科学技術者たちが様々な試み、アイデアを実験し、材料や技術を開発した。ANP計画自体は取りやめとなったが、開発途上で試された技術、とりわけ液体燃料炉、高温と腐食に耐える金属材料の開発、ハステロイ-Nやフッ化物溶融塩がそれである。

オークリッジ国立研究所所長のワインバーグは、レイ・ブライアントという化学技術者で応用数学者という優秀な科学者を任命しANP計画の先頭に立たせた。ブライアントはすぐに液体燃料炉を提案した。金属の配管に触れても摂氏800℃の高温で安定を保つ液体。溶媒の可能性のひとつに溶融した水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)があげられた。しかし腐食に関する問題は水酸化ナトリウムでは解決できない。

オークリッジ研究所の化学者ふたりがもう一つの選択肢を提案した。リチウムやナトリウム、カリウムといったアルカリ金属類をフッ化物溶融塩にするという案。アルカリ金属は電気陽性度が高く、 フッ素などのハロゲンは電気陰性度が高いため、フッ化物溶融塩であれば、きわめて安定した化合物の一種となるだろう。酸素が原子炉系に入るのを防ぐことができたら、高温状態であっても フッ化物類が合金鋼をダメにすることなく、腐食に関して抱えている問題を解決できる。

検出器、バルブ、そして炉の燃焼の化学的状態をどうやって計測するか…などの難題がある。だが、オークリッジ研究所の研究グループはそのような問題を解決するには類をみないほど適していた。そして、ここからオークリッジ国立研究所はワインバーグの溶融塩液体燃料炉への確信のもと、フッ化物溶融塩炉の開発と実験炉の建設、そして3年にわたる無事故運転と言う稀有の成功を達成したのだ。この計画に携わった研究者は皆、溶融塩炉の実用化への道を政財界、国家がもろ手を挙げて支援してくれるものと確信していた。ところが……である。

ハイマン・リッコーヴァーという軍人が1954年に原子力潜水艦ノーチラス号の進水を成功させ軍事・政治的に勝利を収め、溶融塩液体燃料炉の前に立ちはだかり、1969年にこの計画は 取りやめとなり、オークリッジ研究所への予算は削減されていったのだった。

 

(つづく)