【松下幸之助、創業者、名経営者、政治家に学ぶ】           -123ページ目

第30回_武田國男_創業家の精神

神戸の御影というところは古くからの住宅街で、大阪、神戸の実業家の御屋敷がずらりと並んでいます。夜ともなればどこも石垣に囲まれていてシーンと静まりかえる。その閑静な御影の住宅街に一風変わった英国風の伝統建築様式であるチューダー様式の洋館がそびえ立ています。外観は洋館ですが、中は和室や茶室があるそうです。この英国風の洋館で生まれ幼少期育った人が、後に武田薬品の社長になり大改革を断行する武田國男という人です。つまりこの洋館の主が父親である武田長兵衛で、27歳(昭和7年)の時、祖父が大枚をはたいて建てたそうです。


三男である國男は大学を卒業して武田薬品に入社しますが、後継ぎは長男である彰郎と決まっており長男には早くから帝王学を施し、副社長にまでなっていました。國男は社長の出来の悪い三男ということでどこも押しつけられたくないので、傍流の事業部に預けられ部屋住みのように扱われていました。


しかし、運命とは分からないもので、翌年創業200周年を機に社長に昇格し、7代目武田長兵衛を襲名するはずであった長男の彰郎が46歳で急逝し、間もなく父親も長男の後を追うように亡くなってしまいます。当時國男は一介の課長でしかなくその13年後に社長のお鉢が回ってくるとは夢にも思わなかったそうです。


國男が社長に就任したのは19936月ですが社内外から「あんな何も知らないアホボンで大丈夫なのか?」と言われ、「武田はこれで終わりだ」とマスコミにも書きたてられました。ところが周囲の予想に反し、東洋の小島の一ローカル企業にとまるのではなく、世界競走を勝ち抜ける「グローバルな研究開発型製薬企業」を目指すを合言葉に、本業でない、ビタミン剤、化学、食品、農薬、畜産などの事業は次々に撤収し、本業である医薬品事業に全てを集中させ、次々と改革を断行していきます。


早期退職制度の導入、不要な研究所、不採算な内外の工場の閉鎖、欧米型の実力主義の導入。社内カンパニー制の導入、経営幹部の目標管理制度の導入、社長就任時、「うちの会社は何があっても大丈夫」「武田だけは絶対に潰れない」と従業員が皆思っており、危機感が全くない、いわゆる大企業病が蔓延し業績も停滞していましたが、ものの見事に戦う集団に改革しました。


社長在籍10年の間に製薬業界初の売上高1兆円を達成し累積利益は9057億円。株価は1350円から4430円まで上がりました。


何故、窓際扱いされアホボンと言われた國男がこれだけの成果を上げられたのか要因は色々あるでしょうが、私は一つ國男にとって幸運だったのが、武田家に先祖代々から受継いでいる「クスリの哲学」があったことではないかと思います。多角化経営から本業である医薬に回帰するプロセスも「クスリの哲学の再認識」にあったといいます。

5代武田長兵衛が定めた5ヶ条の社是が「クスリの哲学」と言われるものです。


一 公にひ国に奉ずるを第一義とすること

一 相和らぎ力を協せ互いにさからはざること

一 深く研鑽につとめその業に倦まざること

一 質実を尚び虚飾を慎むこと

一 礼節を守り謙譲を持すること


今の言葉でいえば、「くすりを通じての社会貢献」「切磋琢磨」「本業に徹する」それから「質実」や「礼節・謙譲」ということになります。そして父親や祖父が「運根鈍」「行不由」「陰徳陽報」という言葉を良く書いていたようで、いずれも要約すると、蔭日なくコツコツと努力すれば必ず報われるという意味になりますが、こういう言葉は若い従業員や海外の従業員にはピンとこない。そこでいろいろ考えた結果一番わかり易い言葉が「誠実」という言葉に至ります。


武田が絶対に守り続けなければいけないクスリの哲学は「誠実さ」だ、武田が200年以上存在できたのも「世の中の人々のためになるより良いくすり、画期的な新製品を世界に送り出すこと」に誠実に取り組んだことにあると確信します。


この揺るがない背骨となる精神的な哲学があったからこそ大企業病に侵されていた武田薬品を精神的柱である「誠実さ」をトップダウンで社内外に浸透させることで大改革が断行できたのではないかと思います。


文責 田宮 卓

 











第29回_中内功_苦しい時こそ相手を思いやる気持ちを

時は1944年フィリピンの戦場で雨水を飲み、ミミズやトカゲを食べ飢えを凌ぐ日々が続いた。食糧を持っていると仲間に襲われる恐れがあり夜も寝れない日が続く。仲間が自分を殺すのではないか、疲れ果てて眠っているうちに殺されるかもしれないという恐怖感に襲われる。眠ったまま殺されるか、眠らずに発狂するかの選択肢しかない。そのどちらも避けるには、仲間を信頼して眠るしかない。殺されても食われてもいい。「人は一人では生きていけない。どんな状況でも生きるには人を信頼していくより方法がない」



この戦時体験で得た教訓を経営信条の柱に戦後流通革命を起こし日本一の小売王と言われたのがダイエーの創業者中内功です。「儲ける」という字は信じる者と書きますが、商売の基本は信頼にあるのかもしれません。



逆に人を信用せず、自分だけが生き残ることを考えていたら、フィリピンの戦場で死んでいたかもしれないし戦後のダイエーも存在しなかったかもしれません。



100年に一度の不景気と言われ、企業も人も自分が生き残ることだけを考えがちですが、苦しい時こそ、相手を思いやり共に助合っていくことが大切で、それが出来る企業や人だけが生き残っていけるのではないでしょうか。



文責 田宮 卓

 







第28回_豊田佐吉_中長期的な経済政策

明治18年4月18日付けの官報に、専売特許条例を制定し7月1日より施工すると太政大臣公爵三条実美、大蔵卿伯爵松方正義の連名による条例布告が行われました。専売特許条例は欧米と同じ発明の理念を日本にも普及させようというので制定したもので、発明者の権利と利益を守る制度です。



ある大工の子倅の青年がこのことを知り、この制度があれば門閥も学歴も関係なく発明によって世中に貢献が出来ると確信し発明によって身を立てようと志します。



この青年が、後に動力織機を発明し発明王となる豊田佐吉で、世界のトヨタの源流をつくった男です。専売特許条例が豊田佐吉の発明を志すきっかけとなりました。



豊田佐吉が愛読していたというスマイルズの「西国立志編」に特許制度が発明家の権利を保護し、これが産業革命の原動力になったことが記されていますが、今こそ政府は定額給付金やセイフティネット等、目先の経済対策にばかりに目を向けていないで、同時並行で特許制度のように新しい産業が生まれる土壌をつくり出す政策を打ち出すできです。大量規格生産に適した人材に無から有をつくり出すことはできません。豊田佐吉のように独創性のある人材がどうすれば活躍出来るかまずは国会で大いに議論をして欲しいものです。




文責 田宮 卓