第24回_岩崎弥太郎_ほど遠い日本企業のグローバル人材活用
日本で働いている外国人は200万人でそのうちインテリ層といわれる人が5万人だそうです。先進国の中では極めて外国人の労働者数が少なく、本当に優秀な外国人は日本で働こうと思わないそうです。
世界はグローバル経済になっているのに、何故日本は人材のグローバル化が遅れているのか? 前回このことを問題定義しましたが、先日日本企業の人材グローバル化に先陣をきって推し進めていると言われる、大手総合商社のHRDセンターグローバル人材開発の室長と話をする機会があり問題の原因が明確になりました。
そもそも日本で人材のグローバル化が出来ている企業は皆無とのこと。海外展開をしている大企業でも人材のグローバル化の必要性は感じているが、グローバル化するためには何をどうすればいいのか全く見当もつかないというのが現状だそうです。
まず、日本に優秀な外国人が少ない理由が3つあり一つは、市場価値がない(働きに見合った報酬が貰えない)、一つが語学の壁(日本語が出来ないと活躍できない)、一つがトレーニング(日本人が外国人のマネージメントが出来ない)だと言います。
語学の壁は日本語を学習する機会を作ることや、英語でもコミュニケーションがとれるようにするといった双方の努力が必要だが、一方的に完璧な日本語を求めるところが問題だといいます。また仕事上必要なものは日本語から英語に翻訳する流れになりますが、本当にグローバル化しようと思えば英語から日本語にするぐらいのことをしていかないとだめで、実際自社でそれをしようとトライしている最中だと語ってくださいました。
また外国人のマネージメントに関しては、例えば人事評価等外国人になかなか理解されず辞められてしまうが、これは説明不足が原因で人事部の責任だと断言されます。基本的に外国人に対する偏見があり相手の考え方や性質を理解できないのが根本的な問題だといいます。
年功序列賃金、学歴至上主義が根付き金太郎飴のように似たような人材ばかりで成立っている日本の企業では外国人を受入れる土壌が全くなく、また優秀な外国人は日本ではばからしくて働く気もおきないでしょう。日本企業での人材のグローバル化は外国人に対する偏見をなくさない限り永久に無理で今後も期待はできそうにありません。
しかしそれであれば前回とりあげた三菱は何故明治のあの時代に人材のグローバル化をいち早く成功出来たのか謎であります。当時日本にとっての外国人といえば地球人と宇宙人ぐらいの文化と言葉の壁があったはずです。
にも拘わらず、三菱財閥の創業者岩崎弥太郎はトーマス・グラバー、フレデリック・クレブスはじめ多くの外国人を登用し彼らは三菱発展を支えました。何故このことが出来たのか室長に尋ねてみましたが、残念ながら納得いく答えは得られませんでした。このことは室長でもよくわからないようでした。
室長との会話から日本の経営史の大きな謎をまた一つ発掘してしまいましたがこの謎を解くことによりグローバル人材化のヒントが得られるかもしれません
文責 田宮 卓
第23回_三菱_国人労働力の活用
外国人を採用しないという企業があまりにも多い、飲食店や店舗スタッフで外国人の姿を最近よく見られますが、一般企業では日本語の微妙なニュアンスが分からない、日本の企業文化に馴染まないということで外国人を拒否しているようです。
しかし今後は少子化で日本の労働人口はどんどん減少していきますので、外国人を拒否していると人材確保がますます難しくなります。
21世紀は優秀な外国人の確保、様々な障壁はあるかもしれませんが、それを乗り越えて外国人労働者が活躍出来る職場環境を作れる企業が成長を続けることが出来るのではないかと思います。
明治時代に外国人を積極的に登用して成長した企業があります。あまり知られていませんがその代表企業が三菱になります。三菱財閥の創業者、岩崎弥太郎は、慶応義塾から荘田平五郎(三菱の大番頭)、山本達雄(三菱から日銀に転じて日銀総裁)、東京帝国大学(現東大)からは近藤廉平(日本郵船社長)末延道成(東京海上火災保険会長)と次々とリクルートし、優秀な人材を獲得していきますが、同時に外国人も登用していきました。明治15年には外国人社員が従業員2500人中400人を数え、各支社には日本人と外国人の支配人が1名ずついました。なかでも明治5年に入社したデンマーク人フレデリック・クレブスは社の鉱山技師で当初は炭坑の採掘指導にあたっていましたが、のちに本社に呼ばれ石川七財、川田小一郎に次ぐ管事にまで上りつめます。
そして、グラバー商会が倒産すると岩崎はまっさきにトーマス・グラバーを三菱のブレーンに向かいいれます。後に最初に麒麟ビールを立ち上げるのがこのグラバーです。発足当時はジャパン・ブルワリーと呼ばれましたが役員は外国人ばかりで日本人は渋沢栄一一人だけでした。
三菱の発展は外国人労働力を上手に活用することによってなし得たとも言えると思います。
これから少子化で日本人の人材確保が難しくなるのであれば人材を外国人に求めるしかありません。従いまして21世紀は外国人を活用出来る企業が成長していき、何時までも外国人を拒否している企業は衰退していくであろう。
文責 田宮 卓
第22回_前田勝之助_気概のある若者の出現を望む
2007年、2008年と団塊の世代の多くが定年退職されることによって、戦前の世界に誇る日本の「良き精神」が風化してしまったことに危惧の念を抱かずにはおりません。
団塊の世代とは1947年~1949年若しくは1951年までの間に生まれた世代のことをいいますが、この世代の特徴といえば「戦争を知らない最初の世代」ということになります。
物心をついた頃には深刻な食糧難や、物不足は解消しており、1960年末から1970年初めに社会人になりますが、この頃は日本の経済は既に復興を遂げております。
しかし団塊の世代は、直接戦争の体験をしておりませんが、諸先輩方から戦争の生々しい体験や、戦後アメリカから導入された民主主義と引換えに失った日本の戦前の「良き精神」も持った人達に接したり教えをこうたりする機会はありましたので、戦争や戦前の日本の「良き精神」の足音ははっきりと聞こえていたはずです。
2007年、2008年と労働市場から団塊の世代の方々がいなくなることにより、戦争や日本の戦前の「良き精神」の足音は一気に遠くなりました。
最近の新卒者は3年以内に3割の人が会社を辞めてしまいます。せっかく就職した会社なのに何故であろうか? 理由を聞くと、「やりたい仕事ではない」「上司と合わない」「仕事がきつい」等様々だが、昔の人達からみると考えられないことで、今の若者は物余り時代に育ったせいか辞めるのは唯単に「根性がない」「我儘」「考えが甘い」からとしか思わないだろう。
私は終戦時、瓦礫のなかで何もモノのない中、ある中学生が日記に記した一筋を思い出します。「姿なき鎧を着て、わが信ずる道をすすもうではないか」いわば、世の中がどう変化しようが「何かを為さなければ」という強い意志を表現しております。このある中学生は後に旧制五校に進学し「この国を復興するには、どうすればいいのか、国のために私が力を尽くせる道は何か?」を必死に考え、思索した結果「モノ作りで復興に少しでも役に立ちたいと」と決意し、現在の東レに入社します。
この人が後に円高不況で地番沈下寸前の東レの社長に就任し見事に再建をはたした前田勝之助という人で東レの中興の祖と言われる人です。前田勝之助は昭和6年生まれで、中学生時代に終戦を迎えますが、この世代が戦前、戦後を知っている最後の世代と言えます。
私は時空を超えて前田勝之助のように日本の戦前の「良き精神」、気概を持った若者が出てくることを願います。
文責 田宮 卓