2011-04-15 06:27:20

第176回_惨状を肥やしに(大災害から立ち上がった男達⑦)

テーマ:自動車

「人間の心というものは、孫悟空(そんごくう)の如意棒(にょいぼう)のように、まことに伸縮自在である。その自在な心で、困難なときにこそ、かえってみずからの夢を開拓するという力強い道を歩みたい」松下幸之助





東日本大震災は無情にも多くの尊い人命を奪った。命が助かった人も住む家を失い、社屋、工場などの働き場所も失い、これからどう生活していけばいいか途方に暮れている人も多いであろう。見渡す限り瓦礫の山の風景では仕事をしようにも遣りようがないと思うであろう。しかし現実問題、歩みをとめるわけにはいかない。国の仮払金や、支援金などは手元に届くまでに時間がかかるし限界がある。であるならば自力で立ち上がるしかない。特に若者はこういう時にこそ、夢と創意工夫を持って立ち上がっていただきたい。きっと将来、あの時の経験があったからこそ今があると言えるときが来るであろう。





1922年(大正11年)、高等学校を卒業した15歳の青年が上京し、好きな自動車をいじれると思い東京の文京区本郷にあるアート商会という自動車の修理屋に見習工として就職した。自動車の修理の仕事が出来ると思ったが、赤ん坊のお守りと雑巾がけしかさせてもらえない。現実は丁稚奉公でしかなかった。赤ん坊のお守をしていると一日何度も小便で背中が濡れる。その度に「畜生」と思う。この青年は失望のあまり何度も「荷物をまとめて郷里に帰ろう」と思うが、送りだしてくれた父親の「暖簾(のれん)をわけてもらうまでは辛抱しろ」という言葉が頭をよぎり思いとどまる。とにかく耐えることにした。



そして半年すると、突然の大雪で故障車が続出し修理工の手が足りなくなりこの青年も狩りだされることになる。喜んで修理の仕事をすると元々手先が器用だったこの青年は期待以上の成果をあげ主人に認められる。以後子守や雑用から解放された。



好きなこともあり修理の仕事をみるみる覚えていったが、翌年の9月1日の昼前、とつぜん遠い地鳴りが聞こえたかと思うと、立っていることもできないほど、大地がグラグラ揺れた。関東大震災である。アート商会の建物が大きく軋んだ。あちらこちらから火の手があがる。アート商会にもその火が近づいてきた。修理工場だから自動車を預かっている。預かった自動車を焼いたら弁償しなければならない。主人が「自動車を安全なところへ運転して運べ」と号令をかける。今まで修理はさせてもらっても運転はさせてもらえなかったので、人生で初めて自動車の運転をすることができ、惨状の中この青年は密かに感激した。


アート商会の類焼は免れることは出来ず、主人の家族と神田駅近くのガード下に移転することになった。一面焼け野原の惨状を見て15 人あまりいた修理工はみないなくなってしまった。残ったのはこの青年と兄弟子とあわせて2人だけであった。しかしこの焼け野原となった惨状の中この青年は勇敢に行動する。そしてこの時に培った頑張りがその後の人生に大きくプラスに働くことになった。



隣が食料品屋の倉庫だったので、焼け残りの缶詰を探しだしそれを食糧にして、一家とともに飢えをしのいだ。次に仕事を再開しなければならないが一面焼け野原で仕事などない。そこで神田川に落ちていたオートバイを拾いあげ修理をして焼け野原をかけまわる。避難民は、田舎に帰りたいが交通機関は麻痺して動けない。そこでこの青年は運搬するアルバイトを始めた。金があっても買うものがないので人々は気前よく10円、20円と運び賃を払ってくれた。帰りにはその金で農家から米を買ってきて主人一家の食糧にあてた。



今度は芝浦で焼け出された多数の自動車の修理を一手に引き受けることにした。主人はそんな車、エンジンがかかるわけがないと反対であったが、この青年は「何とかやります」と主人を強引に口説いたのだ。不眠不休で焼けた車の修繕にとりかかる。ボディーはもちろん、車台も焼けているが、なかには被害の少ないものもあり、そんなのを選びバラバラに分解し、使えそうな部分をとって組み立てていく。焼けてガタのきたスプリングなども焼きを入れ直す。車の塗装をすませ、エンジンをかけてみると不思議だと思うほど動く。主人は「お前は天才だ」と感嘆した。この修理した車は震災後の物価騰貴もありなんとフォードの2倍の値段で売れた。すっかり主人の信頼を得たこの青年はそれからも仕事を自ら探しだし何でもこなしていった。



そしてアート商会に来て6年目、21歳の時に念願だった暖簾わけをしてもらえることになった。21歳での暖簾わけは後にも先にもこの青年一人だけであった。郷里に帰り彼はこうして故郷に錦を飾った。父親が息子の独立を喜んだのはいうまでもない。 




この青年は後に世界の自動車メーカー、本田技研工業を創業する本田宗一郎である。


 

本田宗一郎は当時のことを振り返りこう述べている「関東大震災に深く感謝した。なぜなら震災がなかったら、自動車の初運転、オートバイの内職、修理の技術などマスターできなかっただろうからである」 





                               以上




文責 田宮 卓



参考文献


PHP研究所【編】「本田宗一郎 一日一話」 PHP文庫

城山三郎 「本田宗一郎の100時間」 講談社文庫

梶山季之 「実力経営者伝」徳間書店

松下幸之助「道を開く」PHP













































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2010-12-14 21:28:03

第147回_奥田碩_左遷は飛躍のチャンス

テーマ:自動車

久原(くはら)鉱業を創業し鉱山王の異名をとり、政界にも進出し逓信大臣、立憲政友会の総裁を歴任した久原房之助(くはらふさのすけ)(明治2年~昭和40年)は波乱万丈な人生を振り返り「人間は、一度へこたれたら、それでもうおしまいだ。ただ、へこたれるということは自分の心が決めることで、他人の決めるところではない。人が何と言おうが、自分の心がへこたれなければ、へこたれたことにはならない」


どんな状況でもへこたれたと思わなければへこたれたことにはならない。ごもっともである。明治の人は何と逞しい精神力であろうか。


サラリーマンにとって左遷は生き地獄であるかもしれないが、久原のようにそう思わなければ地獄ではなくなり飛躍のチャンスとなる。全ては自分の心がけ次第ということであろう。



一橋大学を卒業し豊田自販(現在はトヨタ自動車工業と合併しトヨタ自動車)に入社して経理マンとなった奥田碩(おくだひろし)(トヨタ元社長、経団連元会長)は個性が強く約束は必ず守り仕事はきちんとするが、上司に臆せずはっきり物を言うのでうとまれる存在でもあった。


1972年(昭和47年)、奥田はマニラに赴任することになった。経理部での上司との折り合いが悪く、事実上マニラに島流しにされたのだ。普通であればここでサラリーマンの人生は終わりであろう。よほどの奇跡でもなければ、本社勤務に戻され、さらに昇進することは不可能だ。


しかし奥田は落ち込むのではなくこのピンチをチャンスに変えようと必死に仕事に取り組んだ。奥田の仕事は、当時トヨタ車組立工場を経営していた地元デルタ・モーター社の未回収になっている代金の回収で、これまで前任者が誰もが成功しなかった仕事である。デルタ・モーター社のオーナーは当時のマルコス政権にも通じるリカルド・C・ルベリオ。広大な農園を所有するフィリピンきっての政商としても知られていた。ルベリオはその影響力をバックになかなかトヨタ側の支払い要求に応じなかった。奥田は考えた。「それならルベリオのバックにいるマルコス大統領と仲良くなればいい」


こうして奥田は、正面からマルコス政権との人脈を築き上げ、デルタ・モーター社に圧力をかけ、同社に湧水のように経費が流れ込んでいた経理システムを撤廃することに成功。さらに当初の計画から大幅に遅れて完成したデルタ社製エンジンの契約に対し、奥田の交渉力によって、なんとフィリピン政府から巨額の賠償金を支払わせることにも成功したのである。


この話が日本にいる豊田章一郎(当時トヨタ自動車工業副社長)の耳に入った。豊田章一郎は当時、アジア開発銀行に出向してマニラに駐在していた藤本進・厚子という娘婿夫婦と初孫を訪ねて、しばしばマニラを訪ねていた。藤本夫妻から自宅に招かれていた奥田と初めて話をした豊田章一郎は、奥田のマルコス政権への人脈や仕事ぶりに驚かされる。「こんな逸材がマニラにくすぶっているのか。本社の人事は何をしているのか!」やがて奥田に帰国命令が届いた。6年半の左遷であったが本社勤務に復帰するだけでなく、豪亜部長への栄転であった。その豪亜部長を足がかりに、奥田はトヨタ社内で出世街道をひた走ることになった。

 


文責 田宮 卓


参考文献


水島愛一朗 「豊田家と松下家」 グラフ社

奥田碩/安藤忠雄共著「日本再生への道」NHK出版


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2010-09-22 07:27:06

第109回_本田宗一郎_トップの思いやり謙虚な心

テーマ:自動車

一流の経営コンサルタント会社、船井総研の創業者、船井幸雄の著者「船井幸雄の人間の研究」(PHP)のなかに船井幸雄は一部の例外はあるかもしれないが、大企業の社長や会長は、私の知る限り、本当に皆謙虚で、思いやりがあるといいます。人の悪口などいわないし、それに勉強好きで、素直で約束は守る。従って他人からは好かれる、だからトップに昇りつめることが出来るといいます。

確かに大企業の創業者や社長、会長になった人を調べていくと人間的にこの人は凄いと思わせるエピソードにはことかかない。




本田技研工業の創業者、本田宗一郎のパートナーであり副社長であった藤沢武夫は本田と出会ってつきあい始めたころ、本田の行動に「電気のようなショック」を受けたことがあるという。

あるとき本田が浜松の料亭に外人を招待して酒を飲んで騒いだことがあった。外人は酔いつぶれて一人で先に寝たまではいいが、夜中に胃の中のものを戻してしまった。それを女中さんが洗面器に受けて、便所へこぼした。

翌朝、その外人は自分の入れ歯がなくなったと大騒ぎを始めた。さあ、困った。昔の汲取り式の便所だから、誰かが便壺の中を探せば入れ歯はあるはずだ。が、場所が場所だけに誰もが顔を見合わせた、とその瞬間、本田が裸になって便壺の中に入り、そうっと探るとカチッと手に当たった入れ歯を探し出していた。

しかも本田は、その入れ歯をきれいに洗って消毒し、自分の口に当てながら、「大丈夫、もう臭わないよ」といい、再び消毒して外人に渡した。外人は無論のこと、藤沢などその場に居合わせた人達はみな眼をむいて驚いたという。




財界総理といわれた土光敏夫(どこうとしお)が経団連会長を引退する直前に鶴見のお宅に作家の城山三郎が伺った。質素なくらしぶりだが、古い家なので、庭だけは広い。その庭にあるすべての植木を、土光は自分で植え、自分で手入れをしている。ということであった。野菜畑も同様。また、芝生についても、すべて自分で世話をしている。「芝生の手入れは大変ですね。うちなんかも何度か他人にたのんで・・・」と城山が何気なくいうと、土光は眼を光らせ、「僕がきみの家の芝刈りに行くよ。会長やめれば暇ができるんだから。それに、僕だけで足りなかったら、友達もつれて行く」真剣な口調であったという。土光は冗談を言うような人ではない。城山はうろたえて辞退したという。





文責 田宮 卓






参考文献

城山三郎 「打たれ強く生きる」 新潮文庫

上之郷利昭 「本田宗一郎の3分間スピーチ」 光文社
















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