2012-12-11 21:08:36

第228回_ 伝説の商社マン

テーマ:商社

「みんなが見捨てた場所に宝がある」

種村季弘(たねむらすえひろ)ドイツ文学者


もう埃が被って誰も読まないような書物を古本屋で探すことが私の楽しみの一つであるのだが、こういう書物にこそ、今や知る人は少ないが、ダイヤモンドのようにキラリと光る人物や言葉が書かれていることがよくある。そういう人物や言葉に出会いたくてついつい仕事の合間をぬって古本屋に立ち寄ることが習慣となっている。


そうした中、出会った人物に高畑誠一(たかはた・せいいち)という実業家(伝説の商社マン)がいる。私の最も好きな実業家の一人なのだが、その名を今、知っている人は少ないだろう。しかし今、高畑のような人物が各々の業界に幾人かでもいれば日本の経済が活気づくことは疑わない。では高畑とはどのような人物だったのか簡単に紹介してみたい。


明治34年(1901年)2月、ロンドンにいた夏目漱石が友人あてに送った手紙に「倫敦(ロンドン)は烟(けむり)と霧と馬糞(ばふん)で塡(うま)つて居る」という一節が書かれている。当時のロンドンの交通手段は馬車が主流、そのため街中が馬糞に溢れていたのだろう。この漱石の手紙から決して当時のロンドンの街が衛生的にも景観的にも過ごしやすいものではなかったことを伺い知ることが出来る。


しかし、当時のロンドンは世界の政治、経済、金融、商業の中心地であったことは紛れもない事実である。


鈴木商店という神戸の中堅商社に勤めていた高畑誠一が極東の小国、日本から世界の中心地にある鈴木商店のロンドン支店に赴任してきたのは、この漱石に遅れること10年後のことであり、今から100年程前のことである。


社内一の英語力を買われてロンドン行きとなったのだが、高畑は若干25歳。入社してまだ数年の若者であった。普通であれば言葉も文化も何もかも違う異国の地にいきなり行かされて、「どうやって結果を残せというのか」と不安や不満の一言もいいたくなるところだろう。


しかし高畑は違った。ロンドン支店のオフィスは古ぼけた小さなビルの中にあった。前任者からの事務の引き継ぎが済み一人だけ薄暗いオフィスに取り残された時に心の中でこのように叫んだという


「これからはおれが一国一城の主なんだ。世界を相手に暴れまわってやるぞと心の中で叫んだものだ」

(私の履歴書)



この言葉の通り高畑は世界を相手に超人的な活躍をする。金融、産業などの経済問題はもちろん、国際政治の動き、天候にいたるまで情報収集を活字だけではなく、得意の英語力を活かし、各国大使館の大公使、軍人、モルガン、ロスチャイルド、グレンフェル、その他多くのマーチャントバンカー筋に直接会い第一級の情報を仕入れていく。そしてこの情報収集の成果は第一次世界大戦が勃発した時に発揮された。


大正3年、第一次世界大戦前夜、英国人のほとんどは「欧州で戦争が始まっても、永続きしない」とみていた。しかし高畑は欧州の世論、社会情勢のほか、情報収集を十分にした結果そうはならず戦争は長期化するとみた。開戦になったら欧州での経済、とりわけ各国の物資の調達はどうなるかといった点も考えて戦争で値上りが予想される食糧や鋼材などの物資を一早く猛烈に買い付けた。買い占めた物資は予想通り暴騰した。そしてその物資をヨーロッパ列強に売り付けたのだ。大英帝国に売込んだ小麦粉は500万袋、満州小麦50万トンというケタ外れの取引を次々に成立させていった。  


この活躍が認められ高畑は29歳の若さでロンドン支店の支店長に就任する。そしてその時、ほとんど無名に近かった鈴木商店は三井物産を抜き売上げ日本一の商社になった。


この高畑が後に大手総合商社、双日(旧・日商岩井)の創業者となる男である。


相変らず、日本の経済は低迷している。会社の経営、仕事が厳しいという人は多いだろう。ついつい周りの人や、環境のせいにしたくなるところだが、それをしていても現状は何一つ変わらない。今こそ高畑のようなバイタリティをもって挑んでいきたいものである。


最後にアメリカの女流作家エラ・ウィルコックスの言葉を紹介して終わりたい。


「吹いている風がまったく同じでも、ある船は西へ行き、ある船は東へ行く。それは風のせいではなく、帆の張りかたが行く先を決めている。同じように私達の人生の航海でその行く末を決めるのは、周りの環境ではなく、私達の心の持ち方である」



関連サイト

創業者(日本)語録集 http://bit.ly/OcUwdW

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2010-12-25 07:59:07

第150回_高畑誠一_苦境の時にも志を失わないのが本物の経営者

テーマ:商社

「資源のない日本が世界に伍していくためには、工業と貿易の興隆が不可欠。それは日本にとっても海外諸国にとってもメリットがある」―「貿易立国日本」貿易が国を栄えさせるという揺るぎない志、信念を失意のどん底でも持ち続けた商社マンがかつて日本にいた。私は彼ほどかっこいい日本の実業家を知らない。


1909年(明治42年)神戸高商(現神戸大学)を首席で卒業した高畑誠一(たかはたせいいち)は得意の英語を活用出来る貿易商、中でも一流の三井物産への就職を希望したがこの年不景気で三井物産は採用を行っていなかった。結局、神戸高商の水島校長の勧めがあり神戸の新興ベンチャー鈴木商店に就職することになった。水島校長が鈴木商店の大番頭金子直吉と親しかったことがあり鈴木商店への就職を勧めたのであろう。


入社してから高畑は猛烈に働き、得意な英語をさらに磨いて鈴木商店では一番の英語力を身につけるまでになり一目置かれるようになった。25歳の頃、英語力を買われ当時世界の政治、経済、金融、商業の中心地であった英国のロンドン支店に配属される。ここで高畑はメキメキと頭角を現す。


金融、産業などの経済問題はもちろん、国際政治の動き、天候にいたるまで情報収集を活字だけではなく、得意の英語力を活かし、各国大使館の大公使、軍人、モルガン、ロスチャイルド、グレンフェル、その他多くのマーチャントバンカー筋に直接会い第一級の情報を仕入れていく。この実行力は凄い。この情報収集の成果は第一次世界大戦が勃発した時に発揮された。


1914年(大正3年)第一次世界大戦前夜、英国人のほとんどは「欧州で戦争が始まっても、永続きしない」とみていた。しかし高畑は欧州の世論、社会情勢のほか、情報収集を十分にした結果そうはならないとみた。開戦になったら欧州での経済、とりわけ各国の物資の調達はどうなるかといった点も考えて戦争で値上りが予想される食糧や鋼材などの物資を一早く猛烈に買い付けた。買い占めた物資は予想通り暴騰した。その物資をヨーロッパ列強に売り付けたのだ。大英帝国に売込んだ小麦粉は500万袋、満州小麦50万トンというケタ外れの取引を次々に成立させていった。  


この活躍が認められ高畑は29歳の若さでロンドン支店の支店長に就任する。その時にはほとんど無名に近かった鈴木商店は三井物産を抜き売上げ日本一の商社になっていた。


極東の小国である日本の20代の若い商社マンが世界の経済・金融の中心地のロンドンでヨーロッパ列強を相手に大型取引をどんどん成功させていったのだから驚きである。また高畑は本国を介さない三国間貿易を日本人として最初に始めた商社マンとしても知られている。


しかしいいことばかりは続かない。その後、一時は三井、三菱に並ぶほどの勢いのあった鈴木商店であったが1927年(昭和2年)の昭和恐慌の時に投機的経営が仇となり倒産してしまう。高畑40歳の時であった。当時海外の駐在員も含めて本社にざっと一千人ぐらいいたが、そのほとんどの人が、本社の斡旋で鈴木系列の神戸製鋼所、帝国人造絹糸(現帝人)などに移っていった。しかし数十人が再就職をせずに再起を期して頑張っていた。日本国内だけでなく、英国のロンドン、インドのボンベイなどの海外支店にも、これら「再起組」が何人かとどまり、残務処理を進めるかたわらで、取引先に事情を説明して、何らかの形で将来商売が再開できるよう頼みこむなど再出発の時に備えていた。この再起を目指す仲間を代表する形で高畑は新会社の設立の準備にとりかかることになる。


高畑は鈴木商店の子会社であった日本商業を日商と改め最出発させる。鈴木商店の元従業員を中心にたった40名程でのスタートであった。「貿易が日本を栄えさせる」この志を高畑はこの逆境でも失うことはなかった。そして鈴木商店倒産の悲壮を強く味わっていたことから「スモール・スロウ・バット・ステディ」(ちっぽけで、歩みも遅くても仕方がない。堅実に行こう)をモットーに社員を奮い立たせる。元々仕事に対する情熱という点では世界のどこの商社マンにも引けをとらぬ兵(つわもの)ばかりであった彼らは一致団結し再建をはかり、会社は順調に発展していく。この日商が現代の大手総合商社、日商岩井「現双日(そうじつ)」である。


高畑誠一語録→ http://bit.ly/qMzDWZ


文責 田宮 卓


参考文献

日本経済新聞社 「私の履歴書 経済人15」日本経済新聞社


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2010-12-23 07:18:28

第149回_豊年製油創業者_苦境の時こそ誤魔化さない(士魂商才の実践)

テーマ:商社

「商売人は、ときとすると、駆け引きをし、嘘をつくことを商売の常道と考えがちであるがこれはとんでもないあやまちだ。世の中に立っていく以上は、士魂商才の精神を持って進まなくてはならない。」杉山金太郎 豊年製油(J-オイルミルズ)中興の祖


苦境になればなるほど企業は、都合の悪いことは隠し誤魔化そうとする傾向があるが これは大きな間違いである。目先、切り抜けても結局信用を勝ち得ることは出来ず逆効果であることを知るべきである。 




1924年(大正13年)、都内の三河台町の御屋敷で井上準之助(日銀総裁、大蔵大臣を歴任)は神戸の大商社となっていた鈴木商店の大番頭、金子直吉を杉山金太郎という男に引き合わせた。


関東大震災後の不況で業績不振となっていた鈴木商店の整理をすることを、メインバンクである台湾銀行副頭取の森広蔵と井上蔵相とが話合い決まっていた。

そこで鈴木商店の三大事業(他は帝国人絹・現帝人、神戸製鋼所)の一つである製油事業の会社の経営を杉山に任せることにしたのだ。杉山は紀州和歌山で百姓の子として生まれ主に貿易会社で働いていたが当時はまだ無名のビジネスマンであった。金子と会った杉山は直ぐに製油事業の会社の社長を引き受けることにした。


苦境に陥っていた会社を立て直すために杉山はまずは正金銀行に融資を頼むことにした。実情を一切隠さず、ずばり助けてもらいたいと語った。銀行側に担保となるものはあるかと聞かれたが、担保物件として提供出来るものは何もなかった。そこで杉山は「私の首を担保におくから面倒を見てほしい」と懇請した。


最初は融資を渋っていた銀行だが「杉山君の人格を信頼して融資をしてやろうじゃないか」という意見でまとまり融資に踏み切ることになった。


融資を受けることに成功した杉山は製油会社を見事に立ち直らせ大きく発展させていく。この会社が製油最大手の豊年製油(現J-オイルミルズ)である。杉山は豊年製油中興の祖であり近代的製油工業の先駆者として世の中に貢献した立志伝中の人物となる。杉山は若いころから「商売人は、ときとすると、駆け引きをし、嘘をつくことを商売の常道と考えがちであるがこれはとんでもないあやまちだ。世の中に立っていく以上は、士魂商才の精神を持って進まなくてはならない」と考えこれを信念として実行してきたという。


先行きの見えない不況で経営者は生残るためとはいえ、苦し紛れに嘘をついたり、誤魔化したりしたくなる気持が出てくるかもしれないが、これをしてしまっては全てが終わってしまうことを知るべきである。最後に杉山の言葉をもう一つ紹介しよう。「嘘をつかなければならないような経営は心から慎め――と、企業の大小の問題ではない。長い間には、たとえ一時逃れとわかっていても、嘘をついて、その場をおさめたいときもあるだろう。しかし、それは所詮、一時しのぎの手段でしかない。いや、そのために、あとあとになって、思いがけない故障を招くかも知れない。逆に正直でさえあれば、よけいな“つくろい”をしなくてすむだけでも、いいではないか」




文責 田宮 卓


参考文献


日本経済新聞社「私の履歴書 経済人2」日本経済新聞社

日本経済新聞社「経済人の名言・上」 堺屋太一 監修


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