2011-05-05 07:51:16

第179回_二宮金次郎に学ぶ(大災害から立ち上がった男達⑩)

テーマ:銀行

江戸時代に生まれた二宮金次郎が次々と農村や藩を復興させ、多くの人を貧困から救ったことは知られているが、この金次郎の復興の仕手(しほう)をそのまま真似して誕生した銀行がある。それは実はこのシリーズの第一回目に紹介したスルガ銀行がそうである。





スルガ銀行は静岡県と神奈川県を地盤とする地方銀行(本社沼津市)であるが、そのルーツは災害と大きくかかわりがある。




1884年(明治17年)9月に駿河地方を未曾有の暴風雨が襲い。鷹根村(現静岡県沼津市)は甚大な損害をうけ水田はまるで海水を被ったように枯れてしまい、農村はたちまち飢饉地獄に追い込まれた。見渡す限り田畑にネズミ一匹いない惨状でいつ餓死者が出てもおかしくない状況であった。




この窮乏とした村を復興しようと一早く立ち上がったのが若干20歳の岡野喜太郎(おかのきたろう、1865年~1965年)という青年で現スルガ銀行の創設者である。災害当時は師範学校に在籍していたが村の惨状を目の当たりにし、学校を辞めて復興の先頭に立ち上がることを決意した。



復興を手掛けるにあたり、まず岡野の頭に浮かんだのが、小田原の出身で、幕末に関東、東海など600余町村の財政を立て直した二宮金次郎(17871856年)であった。



金次郎は、天保の大飢饉に際して、静岡県の駿州御厨村(すんしゅうみくりやむら)(現静岡県御殿場市)と藤曲村(ふじまがりむら)(現静岡県駿東郡小山町)を見事に立ち直らせた実績があった。その仕法は一村の全農民に、縄一房(なわひとふさ)の代金5文を、毎日毎日欠かさずに積み立てさせて、個人を含めて村全体の財政再建をさせる「小を積んで大を致(いた)す」方法であった。金次郎の代名詞ともいえる積小為大(せきしょういだい)の実践である。



岡野は鷹根村もかつて金次郎が指導して見事に復興させた村も同じ駿東郡内の村なのだから金次郎の「小を積んで大を致す」方法でやってみようと思ったのだ。



岡野は皆の先頭に立ち農業に励む一方、天災は前触れなくやってくるのでその時に困らないようにするため金次郎の仕法をお手本に、日頃から少しずつ積み立てて蓄えておくことを実行した。それを自分一人で積み立てるのではなく村全体で積み立てた。村人たちに働きかけ一人月掛10銭(現在の3千円位)の貯蓄組合組織を作った。これがスルガ銀行の母体となり、1895年(明治28年)、岡野の手により現在の静岡県沼津市の片田舎の農村に資本金一万円の日本で一番小さな銀行が誕生した。設立目的が「天災と民禍の克服」「貧しく荒んだ郷土の救済」であり、創業の精神が「小を積んで大を致す=勤倹貯蓄」であった。岡野31歳の時であるが豪商でも事業家でもない一農村の青年が銀行を設立したのは異色であった。




岡野は93歳で長男に頭取の座を譲り渡して会長に退くまで銀行頭取在位62年間の大レコード記録をつくり1965年(昭和40年)老衰のため101歳で永眠したが、その間、創業の精神である「小を積んで大を致す=勤倹貯蓄」を行内だけでなく世間にもずっと推進してきた。このことが評価され(1959年)昭和34年、内閣総理大臣より国民貯蓄運動の功績抜群として表彰される。




また、創設者のDNAは今もスルガ銀行に脈々と受け継がれている。嫡男で第2代頭取の岡野豪夫は、篤実な人柄で、創設者の喜太郎が提唱した「勤倹貯蓄」と「社会貢献」の創業の精神にしたがって銀行の発展に尽くした。嫡孫で、文化人であった第3代頭取の岡野喜一郎は、1975年(昭和50年)創立80周年を記念して、創業の精神に基づく5つの「駿河精神」を制定したが、第一番目が「奉仕の心をもち、無駄を省いて、有用なものに財を使う(勤倹貯蓄の精神)であった。そして嫡曹孫で、現社長の岡野光喜は創業の精神を実現し、常に地元のお客様のお役に立てるコンシェルジュバンクを目指して、21世紀を進んでいる。


 

二宮金次郎の教えを実践することで誕生した銀行が150年に渡り静岡県と神奈川県の経済を支えているのだから、偉人から学ぶことが、いかに価値があり大事なことであるかを教えてくれているといえよう。




文責 田宮 卓 




参考文献


村橋勝子 「カイシャ意外史」 日本経済新聞社

日本経済新聞社 「私の履歴書 経済人2」日本経済新聞社

谷沢永一 「危機を好機にかえた名経営者の言葉」 PHP

日本経済新聞社 「経済人の名言・上」 堺屋太一 監修

三戸岡道夫「二宮金次郎から学んだ情熱の経営」栄光出版社

童門冬二 「小説二宮金次郎」 人物文庫 学陽書房

船井幸雄 監修「歴史二学ぶ勝つためのセオリー」三笠書房





































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2011-03-20 11:44:30

第170回_ スルガ銀行_朝の来ない夜はない(大災害から立ち上がった男達①)

テーマ:銀行

今、敗戦以来の国難である。311日の東日本大震災は多くの人命を奪い、押し寄せた津波は一瞬のうちに東北の海岸沿いの街を幾つも呑み込んだ。文明の心臓部分ともいえる福島の原子炉も打撃を受け電力の供給も止まった。まさに千年に一度ともいえる大災害であった。しかし阪神淡路大震災、関東大震災、それ他の大災害の時もそうであったが、大災害に遭遇し暗黒の底から這い上がって来た人達は過去、沢山いた。


ツイッターでとても頼もしい呟きがあった。避難所のお爺さんが「これからどうなるんだろう」と漏らした時、横にいた高校生ぐらいの男の子が「大丈夫、大人になったら僕らが絶対元にもどします」と背中をさすって言ったという。私はこの呟きを見た時、今回の大災害も必ずや人材が出てくると確信した。夜明け前が一番暗い。そして朝の来ない夜などないのである。

 



1884年(明治17年)915日、駿河地方を未曾有の暴風雨が襲った。鷹根村(現沼津市)は甚大な損害をうけ水田はまるで海水を被ったようになりたちまち枯れてしまった。収穫は皆無、折からの全国的な経済不況もあって、ただでさえ貧しい農村は飢饉地獄に追い込まれた。見渡す限り田畑にネズミ一匹いない惨状であった。いつ餓死してもおかしくない状況に村人達は絶望した。


しかしこの窮乏とした村を復興しようと一早く立ち上がった男がいた。それも若干20歳の青年であった。この青年の名は岡野喜太郎(おかのきたろう、元治元年~昭和40年)といい、後に現スルガ銀行(本社静岡県沼津市)を創業する男である。スルガ銀行の生い立ちは異色である。設立目的が「天災と民禍の克服」「貧しく荒んだ郷土の救済」であり郷土復興が目的であった。



被災当時師範学校に在籍していた岡野であったが村の惨状を目の当たりにし、学校を辞めて復興の先頭に立ち上がることを決意する。



その時の決意を岡野は「私の履歴書」でこう語っている「私はもう安閑として机にかじりついている気がしなかった。自ら乞うて学校を退き家事を手伝って、わが家の危機をのりこえるとともに、村の窮乏を救うために努力したいと決意した」



それから岡野は皆の先頭に立ち農業に励む、そして災害のときにも困らないためには勤労、節約、貯蓄を習慣づけることが大事だと思いたち、村人たちに働きかけ一人月掛10銭の貯蓄組合組織を作ったが、これがスルガ銀行の母体となる。つまりスルガ銀行は村人たちの貯蓄であり「助け合い」の精神が土台に創業されたのだ。



1895年(明治28年)10月、正式に株式会社根方銀行(ねかたぎんこう)(スルガ銀行の前身)を開業、岡野は31歳で頭取に就任した。銀行というと「晴れの日に傘を差出し、雨が降る日に傘を貸さない」といわれるが岡野は違った。若い実業家が失敗しスルガ銀行に救済を求めてくると「事業家は、一度や二度は失敗しないと大きくならない。あなたはまだ失敗が足りないかもしれぬ。失敗すると、世の中の本当のことが分かる。それで初めて立派な成功ができる。失敗は恥ずかしいことではない。失敗に意気が挫(くじ)けることが恥ずかしいことだ」と言って事業家の肩を叩き親身になって再起方法を考え資金的支援をした。窮乏の状態から這い上がってきた自身の体験がそうさせたのであろう。


そして岡野のこのどんな逆境でも挫けない精神は1923年(大正12年)91日に起きたあの関東大震災の際にも活きた。この震災でスルガ銀行は6店焼失、倒壊3店という大被害を受けた。それだけではない、岡野は妻と三女もこの震災で亡くした。公私両面で壊滅的な打撃で大きなショックを受けた。しかし岡野は毅然として頭取としての使命感からすぐに立ち上がり陣頭指揮をとる。震災直後、東京では全部の銀行が休業、政府は金融の混乱を避けるため被災地にモラトリアム(支払猶予令)を布いた。ところが「非常災害時にこそ、人々は最もお金が必要」と岡野は決断し、希望通り預金者の預金引き出しに全て応じた。するとスルガ銀行の信用が高まる結果となり、逆にこの災害時に現金を持っているのはかえって物騒だというので預けるものも出てきた。それだけではない、同時に打撃を受けた企業に対して復興融資を行い次々と救済していったのだ。東京の銀行が政府に保護されながら機能が停止していたのに、民の力だけで見事に銀行家の使命を果たしたのであるから驚きである。





岡野は93歳で長男に頭取の座を譲り渡して会長に退くまで銀行頭取在位62年間の大レコード記録をつくる。そして1965年(昭和40年)老衰のため101歳で静かに息を引き取った。 


つまり岡野は明治、大正、昭和に渡り駿河地方一帯の経済を支えたことになる。その間、関東大震災、戦争と何度も危機があったが見事に乗り越えた。



もし岡野が暴風雨による飢饉に遭遇していなければもしかしたらスルガ銀行は存在していなかったかもしれない。



そして最後に岡野の現代の私達に対する遺言ともいえる言葉を紹介しよう。この震災でお亡くなりになられた方はどうすることも出来ないが、今生きている人達は皆肝に銘じるべきだと思う。


「嵐は人々に災害をもたらすばかりとは限りません。時としては、その凄まじい猛威が逆に人々を目覚めさせ、暗い貧困の歴史から脱却する決意を促すこともある」





PS 敗戦以来の国難であるが敗戦の時と違うことが二つある。

それは「負けていない」「今回は世界が味方している」ことである。


世界からの感動のメッセージ→ http://www.youtube.com/watch?v=IxUsgXCaVtc




文責 田宮 卓(ペンネーム:七洋卓越(ななようたくえつ)) 






参考文献


村橋勝子 「カイシャ意外史」 日本経済新聞社

日本経済新聞社 「私の履歴書 経済人2」日本経済新聞社

谷沢永一 「危機を好機にかえた名経営者の言葉」 PHP

日本経済新聞社 「経済人の名言・上」 堺屋太一 監修





















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2010-11-12 22:10:00

第135回_中上川彦次郎_政治家に媚びない明治の大物実業家

テーマ:銀行

ひと昔前の財界人は政治家に対してもよく物を申したものである。特に財界総理の異名をもつ歴代の経団連会長は第2代会長の石坂泰三(いしざかたいぞう)(第一生命、東芝社長)にしろ、第4代会長の土光敏夫(どこおとしお)(東芝社長)にしろ、相手が総理大臣であろうと、大臣であろうと筋の通らぬ話や、手抜きと思われる言動に対しては一喝することがよくあったという。当時、経済企画庁長官として土光会長と接触していた福田赳夫(ふくだたけお)(後に首相)にいたっては「私は土光さんに怒鳴られっ放しだった。土光さんではなくて怒号さんだ」と言ったほどである。なかなか昨今、政治家に対して一喝するくらいの気魄や度量をもった大物財界人はいないかもしれない。逆に協調性があるといえばそういう見方も出来なくはないかもしれない。どちらがいいかはさておき、さらに昔、官尊民非の風潮が今とは比べものにならないぐらい蔓延(まんえん)していた明治の時代、政治家や政府高官に媚びることで仕事を貰うのが当たりまえであった。そんな時代に政治家に対して媚びないどころか、一喝するなどそんなことは「ナマやさしい」と言わんばかりの型破りな態度をとった大物実業家がいた。その男は三井財閥の改革者、中上川彦次郎(なかみがわひこじろう)である。




1891年(明治24年)、当時日本最大であった三井組と三井銀行は保守退嬰(ほしゅたいえい)化し、経営破綻寸前の状態に追い込まれていた。政治家や政府高官らと癒着しすぎた結果、巨額の不良貸付を発生させ身動きがとれないでいたのだ。三井家の最高顧問であった井上馨(いのうえかおる)はなんとか事態を打開しようと三井の大改革をする人間を探してきた。その男が中上川彦次郎(なかみがわひこじろう)であった。中上川は当時37歳。福沢諭吉の甥で1854年(安政元年)生まれ。慶応義塾に学んだ後ロンドンに留学。帰国後、役人として活躍した後「時事新報」の社長兼編集長として名をあげ、さらに1887年(明治20年)山陽電鉄社長に転じ、近代的経営で経営再建に取り組むという経歴の持ち主であった。


中上川は剛毅そのものの性格で知られていた。井上の推挙の理由が「三井の如き大伽藍(だいがらん)の掃除を出来る男は、中上川をおいていない」というものであった。井上の推挙により三井銀行入りした中上川のその掃除の仕方は徹底していた。「三井の近代化は政府高官らと癒着を断ち切ることから始めねばならない」


まずは陸軍きっての実力者、桂太郎(かつらたろう)(後に首相)、さらに松方正義公爵(後に首相)の実兄などに貸金の返済を要求。回収不能とみるや、なんと邸宅を差し押さえて処分するという強硬策を断行する。また山高帽をかぶったお髭の紳士が三井銀行京都支店に「支店長はおるかね」とやってきた。時の内閣総理大臣伊藤博文の秘書官であった。秘書官は旅費がすこし不足したので5百円ほど用立ててほしいと言ってきた。「さては女好きの伊藤が、祇園(ぎおん)の女にでも使うのだな」と察した支店長は、中上川体制になってからは、こういう類の貸金は一切出来なくなっていたのでまずは担保を要求した。「なに担保だと・・・伊藤閣下の御用命だぞ」「でも規則でございますので」「何が規則だ。これまでそんなことを申した支店長は一人もおらんぞ」「新規則によりまして、このままでは残念ながらお貸しできません」「おのれ、なんたる無礼を」捨て台詞を残して秘書官は立ち去った。


こうして三井銀行の経営状態は持ち直していったが、さすがの井上も「たかだか5百円で総理に恥をかかすとは何事か」と怒ったという。 



文責 田宮 卓




参考文献

邦光史郎 「起業家列伝」 徳間文庫

邦光史郎 「豪商物語」 徳間文庫

青野豊作 「名言物語 人生の極意、経営の勘どころ」講談社








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