「日本は法治国家ではない」という言葉をときどき聞くことがあります。去年の12月に翁長沖縄県知事も、TVのインタビューに答えてそう言いました。
そのバリエーションとして、
「こんな日本は法治国家とは言えない、人治国家だ!」
「沖縄辺野古や高江での人権弾圧を見れば、日本は法治国家とは言えない。」
「今の日本では、中国や北朝鮮を、法治国家でないなどと非難できないのではないか?」
などといった言い方が、なされることもあります。
しかし、「日本が法治国家ではない」などと言われると、かなり唐突に感じますし、どうしてそのような言動が出てくるのか、不思議に思う向きもあるでしょう。
「日本の警察は、市民を取り締まる上で、本当に日常的に法を破っている、と考えているのか?」
「日本政府は、この国を非合法なやり方で統治している、という主張なのか?」
「いったいどういう見地から、『日本は法治国家でない』と断言しているのか、見当もつかない。」
と疑問に思う人も、多いのではないでしょうか。
非常にシンプルで素朴な疑問ですが、上記のような「日本は法治国家ではない」発言の発言者や賛同者は、日本のどういう点が法治国家ではないと主張しているのか、あるいは、どういう観点に立てば、「日本は法治国家ではない」と言えるのか、そのことを考えてみたいと思います。

まず、大前提として、ある国を「法治国家である」と言う場合、「民主主義(デモクラシー)に基づく法治国家である」という意味で話されている場合が多いようです。もちろん、これは当然のことで、どんなに厳しく法が守られていたとしても、その法が独裁者によって制定されているのであれば、とても法治国家とは言えません。「法を定める仕組みは、あくまでも民主的なプロセスを経るものでなければならない」ということです。また、「たとえ法的手続き重視の『法治主義』に則っていたとしても、慣習法・自然法を重視する『法の支配』に反しているような状態ではダメ!」ということでもあります。法の中身が大切ということです。
そして、民主主義(デモクラシー)の根幹は、「多数決の原理」に従って政治(立法・行政)が行われるシステムにあります。現在、日本の政治システムは、この「多数決の原理」によって、厳正に運営されており、この意味では、日本が民主主義国家であることは疑いようもなく、したがって「日本は、明白に法治国家である」と断言できます。
この観点に立てば、共産党一党独裁の中国や、金一族の王朝国家である北朝鮮と、日本を比べるのはまったくナンセンスであり、「日本は、中国や北朝鮮を人権問題で非難できない」などということは絶対にありません。民主主義に基づく法治国家である日本は、堂々と人治国家である中国・北朝鮮を非難できます。
また、辺野古・高江などの実情を考えても、政府による人権弾圧の度合いを、中国・北朝鮮と比べるのは、バカバカしい限りであると言えます。警察は法に則って反対派に対応しています。
加えて、基地問題について言えば、最高裁の判例にもあるように「国防は、国会と内閣の権限で行われる仕事(統治行為)」であり、それに対して地方行政が「自己決定権」を主張し、地域的な問題として対処しようとするのは無理があります。
「自衛隊、日米同盟など、9条違憲の状態だから法治国家ではない」などと言うのも、屁理屈に過ぎません。この違憲状態を良しとしない国民が多数派であれば、国民は政府を簡単にすげ替えることができます。たとえそれが亡国の道であるとしても、それを食い止めることは誰にもできないのです。安倍首相にもできません。
その意味では、「日本は法治国家ではない」という言説は、極めて不適切で、受け入れがたい発言だと言えるでしょう。

しかし、ある国を法治国家と言う場合に、民主主義国家であることに加えて「自由民主主義(リベラル・デモクラシー)に基づく法治国家である」と言う意味で話されていることもあります。
では、民主主義(デモクラシー)と自由民主主義(リベラル・デモクラシー)とは、どう違うのでしょうか。
自由民主主義は、「単に多数決の原理に従うだけでなく、少数派(マイノリティー)の意見に耳を傾け、その意見も丁寧に吸い上げるべきだ」とする考え方で、その趣旨は日本国憲法の中に明記はされていませんが、憲法の内容から汲み取られるべきものとされています。また、今日の先進諸国においては、こうした自由民主主義(リベラル・デモクラシー)に基づく法治国家を目指すことは、一般に当然のことと考えられています。
ミャンマーのスーチーさんのように民主的に選挙で政権をとったとしても、少数民族ロヒンギャへの軍部の弾圧を見て見ぬ振りしているようでは、自由民主主義に基づく法治国家とは言えません。また、ヒトラーのように、民主主義的手続きに則って独裁者となったとしても、少数民族ユダヤ人の虐殺をするようでは、当然認められません。
日本には、古来、「一寸の虫にも五分の魂」という諺にもあるように、または小林一茶の俳句にも見られるように、小さき者の魂の声に耳を傾けることを大切にする文化的伝統もあります。フーテンの寅さんのファンが多く、「家なき子」「フランダースの犬」を愛読する人が多いのも、そうした日本人の性向を表しています。
ところが、最近の日本社会では、「勝ち組、負け組」といった言葉にも見られるように、敗者や弱者への共感や思いやりが、ないがしろにされるようになってきているのは確かです。政治の世界でも状況は一緒で、国民に対する共感力の欠如した政治家が、あまりにも目立つようになりました。
その意味では、「現在の日本の政治は、少数派(マイノリティー)の意見が尊重されず、多数派(マジョリティー)による専横の風潮があるのではないか」という懸念を表明する人もいます。つまり、「何でも数の横暴で押し切ろうとするのは間違っている!」という抗議の意味を込めて、「これでも日本は法治国家と言えるのか!」と警鐘を鳴らしているのです。多くのマス・メディアが、伝統的に、この「自由民主主義(リベラル・デモクラシー)擁護」の立場をとります。
そうした観点から考えると、「現代日本の政治状況は、法治国家とは言いがたい」という言説も、「憲法の精神を逸脱しているのではないか?」と疑問を提示するという意味において、まったく成り立たないわけではない、ということになります。
そもそも、自由民主党(リベラル・デモクラティック・パーティー)という党名自体、自由民主主義(リベラル・デモクラシー)を標榜しているのですからね。

ただし、日本では、ロシアやインドや韓国よりは、はるかに少数派保護が徹底されており、リベラル・デモクラシーが相当程度実現していることは確かです。
また、現実の政治においては、多数派の利益と少数派の声は、対立することも多いわけで、その両者の間で、どうバランスをとるのが適切か、為政者は常に難しい判断を迫られることになります。典型的な例は、現在、EUが直面している移民・難民の支援や受け入れの問題です。
その上、近年、もう一つの懸念が生じています。それは、多くの先進国において、「メディアや社会活動家や政治家の自由民主主義(リベラル・デモクラシー)の理念への極端な傾倒が、少数派(マイノリティー)による横暴を社会的に許している面もあるのではないか」というものです。
アメリカの「黒人と警官の問題」で憎悪を煽り武装闘争を唱えるブラック・パンサー党や、韓国の「慰安婦問題」における過激理不尽反日団体「挺対協」などが、典型的な例と言えます。シー・シェパードやグリーン・ピースなどの急進的な環境保護団体による独善的な「エコ・テロリズムの問題」もそうですね。
「少数派(マイノリティー)が、社会的支持によって強者に転換し、やがて横暴を振るうようになる」というのも皮肉な話ですが、そこに人間の弱さが現れているというか、前回論じたルサンチマンの問題に通じるものがあるのではないでしょうか。
そして、今度は逆に、こうした現状への反動として、多数派の不満が、政治を大きく変えていく面も無視できないと思うのです。アメリカのトランプ政権成立、イギリスのEU離脱、ドイツやフランスにおけるナショナリズム政党の躍進などがそうです。
少数派の横暴、多数派の横暴、いずれにおいても共感力の不足・欠如が、問題解決を困難にしています。