以前、別の記事で、日本で少子化が進んでいるのは、結婚率が低下し、晩婚化しているからで、その原因は、家庭も子どもも恋人も欲しがらない若者たちが増えているためだということを記した。
しかも、それは経済的な理由からではなく、彼らは、そもそも結婚に興味がなく、異性とつきあうこと自体〝面倒くさい〟と感じているからだと指摘した。
今回は、その続きを論じてみたい。
「現代の若者は、なぜ家庭をつくることや異性とつきあうことに興味を持てず、面倒に感じるのか?」
人間は誰しも幸せになりたいと思っている。なのに結婚したくないのは、結婚に夢を持てないからだ。異性とつきあう気になれないのは、恋愛で幸せになれると思えないからだ。彼らにとっては、他者と深く関係を結ぶことが喜びではないのだ。
ある意味、人間不信の極みである。自分自身についても、人と愛情を育むことができる人間だとは信じていないということでもある。
しかし、自分が家族から愛されなかったなら、かえってなおさら強く愛を求めるようになるのではないだろうか?
せめて自分は愛情に満ちた家庭を築こうと思うのではないだろうか?
なぜ、そうならず、陰々滅々の方向へ振り切れてしまうのだろうか?
それは、おそらく彼らが生まれた時から、嘘しか言わない家庭で育ったからではないかと私は思う。その家庭に愛があるかどうかはわからない。ただ、もし彼らが家庭で互いに本心本音を言い合ったら、ほとんどの家庭が崩壊していただろう。
そして、日本の離婚率はフランスを飛び越えて振り切れることだろう。
しかし、現状、そうはならず、この国の家庭の多くは、嘘と沈黙、策略と不干渉によって、かろうじて維持されている。
互いに本音を口にすることなく、なんとなく〝かたち〟だけは維持されている、そのような家庭で育った子どもたちは、親の言葉に何一つ〝本当のことがない〟ことを、本能的に見抜いている。そして、家族の言葉が信じられず、家族の愛情も実感としてわからないまま成長し、自分自身、嘘しか言えない大人になる。
泉谷しげるの「春夏秋冬(※)」ではないが…。
「夢のない家を出て愛のない人に会う。」というわけだ。
彼らは人と心で繋がるすべを知らない。そして、誰かを愛することもない。
彼らが関心を持つのは、自分のことだけである。
だから、異性とつきあうのも、家庭をつくるのも、彼らには何がそんなに良いのかわからない。
彼ら自身にはそういう欲求がまったくないからだ。
そのように彼らを不自然な生き物に育てたのは、見栄っ張りで嘘つきの親たちだ。
とは言え、もうすでに大人なのだから、それは彼らの自己責任でもある。
本当に幸せになりたいなら、「人は独りでは幸せになれない」ということに、彼らは青年期に気づくべきだった。
そして、親の生き方や価値観と決別し、自らの生きる道を自分で選んで歩み始めるべきだったのだ。
アーシュラ・K・ル・グィンが短編小説で描いた「オメラスから歩み去る人々(※※)」が生まれ育った都を後にするように。
そして、あなた達は、親の価値観を捨て去ろうと引き継ごうと、いずれにせよ、遅かれ早かれ、上記のような事実を、つまり、「嘘がどれほど人間精神を蝕んでいくか」を、年を経るごとに身に沁みて感じるようになるだろう。
古代ギリシャのサモス島の賢人にして〝自然哲学の父〟ターレスが次のように言うのはまったく真実である。
「一番賢いものは時である。というのも最も秘められた物事を暴くからである。」
また、同時期のアテネの立法者にして放浪の賢人ソロンの言葉にも同様のものがある。
「生涯の終わりに達していない人の幸せについて、人は判断を下すことができない。人が幸福であると言い切るためには、結末を見ることが何より大切である。神様に幸福を垣間見させてもらった末、一転して奈落に突き落とされた人はいくらでもいる。」
これもまた、まったく真実である。
嘘しかない人生の最後は、必ず惨めなものとなるだろう。
※春夏秋冬⇨本人の作詞作曲による泉谷しげるの代表曲で1972年に発表された。歌詞に「季節のない街に生まれ、風のない丘に育ち、夢のない家を出て、愛のない人に会う」とある。
※※オメラスから歩み去る人々⇨アメリカの作家アーシュラ・K・ル・グィンが1975年に発表した短編小説で、処女短編集「風の十二方位」に収録されている。架空の幸せの都オメラスでは、不幸せな見捨てられた状態で監禁されている子どもがいる。そのたった一人の子どもの犠牲を代償にオメラスの幸せは成り立っている。その子どもに手を差し伸べ解放したならば、オメラスの繁栄は終わりを迎えて、この都は滅んでしまうのだ。だから、この街のすべての人は、自分たちの幸福が、この子供の不幸の上に成り立っていることを知っている。子供たちは、適当な年齢になると、親など大人に連れられて、この牢獄の中の子どもを見せられる。幸せに育っている子どもたちは、この不幸な子どもを見て、驚き、嘆き悲しみ、後ろめたい気持ちに苦しむ。しかし、やがて、そのショックを克服し、何の犠牲もない幸福などないのだと自らに言い聞かせ、その分、かえってこの都の幸福を大切に思うようになる。
ところが、この幸せの都から、去っていく者たちもいるのだ。彼らは、大抵、誰にも相談することも、別れを告げることもなく、ある日、1人きりでこの都を後にする。少年や少女もいれば、大人の場合もある。不思議なことに、彼らは皆、自分の行先を知っているようなのだ。彼らはためらうことも、惑うこともなく、しっかりとした足取りでオメラスから歩み去る。