“ Ackee ” の ブログ !! (b^-゜)

“ Ackee ” の ブログ !! (b^-゜)

『 鳴子峡 渓谷散策めぐり 』 !!

【 Blog Site BGM 】
< Song > “ Lazy Silhouettes ”
< Artist > “ Johnny Pearson Orchestra ”

【 Profire Header 】
“ 鳴子峡 ( なるこきょう ) ”
( 宮城県大崎市 )

野球野球野球野球野球野球野球野球野球野球

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楽天イーグルスの実況中継は、

『TBC POWERFULL BASEBALL』
で、お楽しみ下さい。野球

http://www.tbc-sendai.co.jp/rakuten/index.html#pp_radio

http://www.tbc-sendai.co.jp/

テレビ D1(19)ch  ラジオ。 1260kHz / 93.5MHz

【東北楽天 ゴールデンイーグルス】

https://www.rakuteneagles.jp/野球球団速報は、こちらへ !!野球

https://www.rakuteneagles.jp/radio/#header


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『2018 プロ野球 ドラフト会議』 !!野球

【開催】 10月25日 (木) 17:00~くじ

開催まで、あと『5』日 !!

【(一社) 日本野球機構 [ドラフト]】

http://npb.jp/draft/2018/

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『第36回 全日本大学女子駅伝』 !!走る人

【開催】10月28日 (日) 12:10 スタート !!スターター

※…NTV系列で、実況生放送 !!

開催まで、あと『8』日 !!


【杜の都女子駅伝】

http://www.morino-miyako.com/

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【Expedition Service(移動運用)】トランシーバー

【運用日】 10月21日(日)

【運用地】 山形県尾花沢市

JCC;#0512[尾花沢市]、LOC;QM08GO

■■■■行 !!■■■■

https://6900.teacup.com/inuwashi_10/bbs/31 [10/20 更新]

https://twitter.com/inuwashi_10/status/1053318439635275776


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『鳴子峡 渓谷散策めぐり』 !!もみじ

【配信期間】10月14日~11月24日

https://9221.teacup.com/inuwashi_10/bbs

上記外部サイトにて、配信中 !!(・∀・)

【 1 / 6 】 10月14日~10月20日

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テーマ:

こちらは先日亡くなられた、

女優・樹木 希林さんを偲んでの、

ピクチャー及び動画編になります。(^-^)/

デビュー当時の 『悠木千帆』 の芸名から

これまでの 『樹木希林』 の芸名に至るまで  、

テレビドラマ、CMと共に、お茶の間に愛され

数少ない女優の中でバイプレイヤーぶりを発揮し、

世代を超えて多くの人達に親しまれてきた、

希林さんの生前の功績を偲び、

駆け出し時代から、生前まで活躍された

懐かしい一コマになります。ヾ(@^▽^@)ノ

お時間の許す限りお楽しみ下さい。(b^-゜)


女優 『樹 木 希 林』さん 逝く !!

【動画&ピクチャー編】

(文学座付属演劇研究所時代 『悠木千帆(ゆうき・ちほ)』

の芸名で活躍。この時代を良く知っている、

直撃世代の諸氏にとっては既にお馴染み(^-^)/)




(TBS系のホームドラマ、 『時間ですよ』 に出演。

※船越 英二<故人>、森 光子<故人>他、

松原 智恵子、堺 正章等、豪華オールスターキャストで、

ゴールデンタイムの花形だった。o(^▽^)o)

※船越 英二氏<故人>のご子息は、

サスペンスドラマ等でお馴染みの船越 英一郎氏。




(ドラマでの出演が縁で、

共演者の岸田 森(きしだ しん)氏<故人>と結婚するが、

長続きはしなかった。(-"-;A)




(現在のご主人となる、

ロック歌手の内田 裕也さんと再婚。

記者を前に喜びを隠せない、

悠木 千帆(樹木 希林)さん。)




(希林さんの唯一の歌手活動と言うべく、

ドラマでの挿入曲で、郷 ひろみさんとのデュエットで、

『林檎殺人』 が大ヒットした。ヾ(@^▽^@)ノ)




(岸本加世子さんと出演した、富士フィルムのCM。

「美しいヒトはより美しく、そうでないヒトは、それなりに」

のキャッチフレーズで一躍脚光を浴びた。(*^▽^*))


( 「ピップエレキバン」 のCM。

実在する旧国鉄・<現 JR北海道> 比布駅で撮影を敢行。

当時の社長だった、横矢 勲<故人>氏が直接出演し、

掛け合い漫才的なCMで、人気を集めた。

このCMがキッカケで、その後同駅を訪れるファンが激増し、

比布駅の名を全国に広める事となった。ヾ(@^▽^@)ノ)




(愛娘にあたる。内田也哉子さん<右端>と結婚した、

本木雅弘さん<後中>。愛娘・也哉子さんと結婚する際、

希林さんは、 『内田家を絶やさないで欲しい』 と、

本木さんに婿養子をお願いした。(。-人-。)

本木さんの実家は代々農家だったが

本木さんはこれを快諾してくれた。(゚ーÅ))



(テレビ出演の際にMCからの取材を受け、

快く笑顔で応える、樹木希林さん。

しかしこの時点で既に病は、

全身に転移して末期に至る状態の中、

『ファンに心配を掛けてはならない』 と。

心の中に誓い続け、

今日まで表舞台に立ち続けて来た。 (ノ_-。) )


【動画関連】

『時間ですよ』

悠木千帆の芸名時代に出演されていた、

『時間ですよ』での一コマシーンです。

https://www.youtube.com/watch?v=y6BUvYx2hyM

『寺内貫太郎一家』

樹木希林さんが、ドラマの中で、

「ジュリー(沢田研二さん)」と叫ぶ、

名シーンの一コマです。

https://www.youtube.com/watch?v=seDqghATb5I

『林檎殺人事件』

当時の人気ドラマの中の挿入歌で、

郷 ひろみさんとデュエットを組み

『林檎殺人事件』 を歌った時の映像で、

フルヴァージョンです。

https://www.youtube.com/watch?v=2lhAZkPJZF4

『富士フィルム CM』

昭和57(1982)年に岸本加世子さんと共演し、

話題となったCMです。

「美しいヒトはより美しく、

そうでないヒトは、それなりに」

当時の流行語にもなりました。

https://www.youtube.com/watch?v=GChoLC8bhpk

『ピップエレキバン CM』

昭和59(1984)年に放映された、

ヒップエレキバンのCM。

当時の社長だった横矢 勲氏<故人>との、

掛け合い漫才的なやり取りで、

大きな知名度を上げたと共に、

比布町の地名を全国に、

知らしめた作品CMです。(^▽^;)

https://www.youtube.com/watch?v=0qc-GvRdUbY

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

【樹木希林プロフィール】

本名 内田 啓子(うちだ けいこ) (旧姓) 中谷

昭和18(1943)年01月15日

東京府東京市神田区(現・東京都千代田区)出身。

夫はロック歌手・内田裕也。間に娘・内田也哉子

(エッセイスト、本木雅弘夫人)がいる。

昭和36(1961)年に文学座付属演劇研究所に入り、

『悠木千帆(ゆうき・ちほ)』 名義で、

女優活動をスタート。

「芸能界では“勇気”が必要」 として父親が考案。

(当初は、勇気凜々という言葉から、

『悠木凜子(ゆうき・りんこ)』 という名を提案、

千帆は版画家の 前川千帆 から採られた。)

昭和39(1964)年に森繁久彌主演のテレビドラマ、

『七人の孫』 にレギュラー出演し、

一躍人気を獲得した。

その後 『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』 他、

多数のテレビドラマに出演。

昭和52(1977)年、

芸名を現在の 『樹木希林』 に改名。

以降、テレビCMを始めテレビ、

舞台等多彩に渡って活動を展開。

平成14(2002)年には消費者の好感度が最も高い、

女性CMタレント第1位に輝く。

平成20(2008)年、 『紫綬褒章』

平成26(2014)年、 『旭日小綬章』 、それぞれ受賞。

他、日本アカデミー賞・最優秀女優賞及び、

最優秀助演女優賞を獲得。

平成30(2018)年09月15日02時45分、

東京都渋谷区の自宅で家族に看取られ、逝去。

享年75歳。

初めて自ら企画も手がけ、

来年(2019年)公開予定の、

映画 『エリカ38』 が遺作となった。

戒名は 『希鏡啓心大姉(ききょうけいしんたいし)』


【追記】

謹んで、樹木希林さんのご冥福をお祈り致します。

合掌。(/_;)/~~


JG7MER / Ackee


テーマ:

いつも当 Blog Siteへお越しを頂きまして、

ありがとうございます。(^-^)/

昨日を持ちまして、 『2018 プロ野球 Version』

終了させて頂きました。

期間中に於ける、ご訪問大変ありがとうございました。

本日より、来春まで Off Version に移行 させて頂きます。

期間中のBGMは、

ジョニーピアソン・オーケストラ『渚のシルエット』 を、

採用させて頂きます。(^-^)/

そして本日から恒例の 『ピクチャー集』 を開始致します。

期間は、下記の通りとなります。

また 今年からサーバーサイト側による、

一連の SSL化 に伴いまして

表示の仕方がかなり変わっております ので、

ご注意の上、宜しくお願い致します。(^-^)/


【Off Version ピクチャー集

■■■■■■■■(前期)】

『鳴子峡 渓谷散歩めぐり』

[所在地] 宮城県大崎市


【アップロード期間】
10月14日(日)~11月24日(金)

7日毎×6回更新=42日間


【配信楽曲】

『渚のシルエット』

ジョニー・ピアソン・オーケストラ

(プロ野球 Off Versionの前期は、当Blog 初登場。

ジョニー・ピアソンのピアノ楽曲で、

お楽しみ下さい。:*:・( ̄∀ ̄)・:*:)




(ピクチャー画像は、宮城県北部の渓谷、

鳴子峡の景色でお楽しみ下さい。ヾ( ´ー`))

<プロフィールサイトの画像ヘッダー及びSSL化に伴い、

新たに、フルサイズ画像に対応出来る様に、

外部リンクを設置致しました。

下記の 『閲覧上の注意点』 をよくお読み下さい。(b^-゜)>


『閲覧上の注意点』 !! (。-人-。)

Ameba Blog Site及びその関連に於いて、

諸般の事情により、サーバーサイトに於ける、

仕様変更が発生して折ります。


■…Ameba Blog Profire Siteの、

今年4月からのSSL化に伴い、

プロフィールサイトが画像ヘッダーのみ

となりました。

このためSSL化実施前の、

背景画像表示再現のため、

今回より新たに外部リンクサイトへ、

ピクチャー画像専用サイトを設置させて頂きました。

嘗てのAmeba Blog Profire Siteの画像容量で、

フルサイズ画像となります。(^-^)/

外部リンクサイトのURLは、下記の通りです。

(ブログ側掲示板にも掲載して折ります。)

https://9221.teacup.com/inuwashi_10/bbs


■…ピクチャー集実施の際は、

あくまでも仮置き場として、

配置させて頂きますが、

Blog Site側へピクチャー集として、

正式アップロードが確認された後、

仮置き場に展示されている画像は、

全て削除とさせて頂きます。(。-人-。)


■…今年04月より、

Blog側にBGMとして流して折ります。

BGM設定に際し、一部変更がございます。

これまでのGoogle Chomeでの、

当Blog Siteへのアクセスは仕様変更により、

BGMの自動再生が出来なくなって折ります。

このため 当Blog Siteへアクセスの際は、

Google Chomeのデフォルト設定の解除、

が必要となり、IE(Internet Explure)仕様での、

アクセスでしか、BGMが自動再生されません。

その旨ご理解頂きます様、お願い申し上げます。


■…Ameba Siteのみならず、

他サーバーのBlog Site及び、

関連ツールサイトもセキュリティー強化、

の一環としてSSL化を推進して折りますので、

ご不便をお掛け致しますが、

ご理解とご協力の旨、今後共、当Blog Siteを、

どうぞ宜しくお願い申し上げます。m(_ _)m


JG7MER / Ackee


テーマ:

今月最後のBlog更新と参ろう。(^-^)/

平成最後の秋であるにも関わらず自然災害にプラスして、

各界著名人の方達の訃報が目立つ年である。(´_`。)

そして今回もまた昭和から平成の時代に掛けて活躍された、

ひとりの女優さんが、静かにこの世を去ってしまった。

テレビドラマや映画、CM等の個性的な演技で、

高い評価を集めた女優の

『樹木希林(きき・きりん)』 さんが、

先般09月15日に亡くなられてしまった。。(´д`lll)


(味のある名演技で、

老若男女を問わず人気のあった、

樹木希林さん。(^-^)/)




(文学座付属演劇研究所時代の樹木希林さん。

当時の芸名は、 『悠木千帆(ゆうき・ちほ)』

この時代当時を知っている直撃世代の方々にとっては、

こちらの芸名に馴染みのある方も多い筈。(^-^)/)


独特のオーラを持ちながら、味のある演技でドラマやCM、

映画で活躍した演技派で、

晩年は全身をガンに侵されながらも、

最後まで仕事に打ち込み、

時には歯に衣(きぬ)着せぬ物言いは、

誰からも愛された女優さんだった。

樹木希林さんは、昭和18(1943)年に、

東京府東京市神田区(現 東京都千代田区)の出身。

父は、薩摩琵琶奏者・錦心流の中谷襄水(辰治)氏。

母は神田神保町で カフェ 『東宝』 を経営していた。

東京・市ヶ谷にある千代田女学園に入学後、

当時演劇部に在籍し、その傍ら薬剤師を目指していたが、

大学受験直前にスキーで足を怪我したため、

大学進学を断念した。 o(_ _*)o


(昭和45<1970>年から始まったTBS系列の

ゴールデンタイム・ホームドラマ 『時間ですよ』 に出演。)

<悠木千帆の芸名で、

銭湯の従業員役として出演(前列左)。>



(悠木千帆の芸名で、 『時間ですよ』 に出演。

この当時は、出演者として浅田美代子<左>、

堺 正章<中>等、蒼々たるメンバーが、

ドラマに出演していた。ヘ(゚∀゚*)ノ)


昭和36(1961)年に文学座付属演劇研究所に入り、

「悠木千帆(ゆうき・ちほ)」 名義で、

女優活動をスタートした。(^-^)/

当時は後年のイメージからは想像し辛い、

若者ファッションで街を闊歩していたと言う。(=◇=;)

昭和39(1964)年に森繁久彌(故人)主演の、

テレビドラマ 『七人の孫』 にレギュラー出演し、

一躍人気を獲得した。

昭和40(1965)年に文学座の正座員となるものの、

翌昭和41(1966)年に文学座を退団。

退団した後も、個性派女優として多くのテレビドラマ、

映画、舞台等に出演し、着々と基盤を作って行った。

20代の頃から老人の役を演じ、

出演するドラマ、映画等では、老け役が当たり役だった。


(昭和49<1974>年から始まった、

寺内貫太郎一家にも出演した。(^-^)/)



(ドラマの中で話題となった、

ジュリー<沢田研二>のポスターを見て、

身悶えするシーン。(/ω\)

当時のお茶の間で何かと話題となった。)


昭和45(1970)年に始まった、

TBS系ホームドラマ 『時間ですよ』 で、

銭湯 『松の湯』 に努める従業員役としても出演。

その後の昭和49(1974)年にTBS系で放送された、

ドラマ 『寺内貫太郎一家』 では、

小林亜星が演じた主役の貫太郎の実母を演じた。


(昭和54(1979)年、当時ドラマに出演していた挿入曲で、

郷 ひろみさんとデュエットで組んだ 「林檎殺人事件」 が、

シングルチャートで大ヒットした。ヘ(゚∀゚*)ノ)


実年齢は小林より10歳以上若く、

頭髪を脱色し 「老けメイク」 を施し、

当時30代前半のまだまだ若い手との不自然さを隠すため、

劇中は指ぬき手袋を外さなかったと言う。

本作品の劇中において、

寺内家の母屋でドタバタ騒ぎが始まると、

自分の住む離れに駆け込み、仏壇の横に貼られた、

沢田研二のポスターを眺めて 「ジュリーィィィ!!」 と、

腰を振りながら悶えるシーンが、

お茶の間の話題となった。(///∇//)

昭和52(1977)年04月01日に当時のNETテレビから、

テレビ朝日へ名称変更を記念して放送された、

特別番組の中でのオークションコーナーで、

「売る物がない」 との理由で、

自身の芸名 『悠木千帆』 を競売にかけた。

名前は2万200円で世田谷の飲食店店主に売却され、

自らは 『樹木希林』 に改名し、売却された旧名(悠木千帆)は、

飲食店店主から無償で平成16(2004)年に、

女優の山田和葉に譲渡された。

昭和52(1977年から昭和54(1979)年まで、放映された

TBS系ドラマ 『ムー』『ムー一族』 で共演した、

郷ひろみとのデュエットで 『お化けのロック』

『林檎殺人事件』 をリリースし、

歌謡番組にも出演する等大ヒットした。ヘ(゚∀゚*)ノ


(CMでも大活躍した。樹木希林さん。

当時、岸本加世子さんと出演した、

富士フィルムのCMで流行った、

「美しいヒトはより美しく、そうでないヒトは、それなりに」

のキャッチフレーズで一躍脚光を浴びた。(*^▽^*))


希林さんは、CM部門でも類稀な才能を発揮。

昭和54(1979)年から昭和59(1984)年に、

ピップエレキバンの広告での、

横矢 勲ピップフジモト会長(当時)との、

掛け合いは人気を集めた。

また、フジカラーのCMに出演では、

昭和55(1980)年頃に放映されたCMでは、

お見合い写真を現像しに来た客役の樹木と、

写真屋の店員役の岸本加世子との、 「美しい人はより美しく、

そうでない方は『そうでない場合は?』

それなりに映ります」 という、やり取りが当時の話題となった。

このCMが当った事で、希林さんは以後、

『綾小路さゆり』 の役名で、25年以上出演し続け、

平成14(2002)年には、消費者の好感度が最も高い、

女性CMタレント部門の第1位に輝いた。


(更に樹木希林さんの名を一段高めたのが、

「ピップエレキバン」 のCM。

当時社長だった、横矢 勲<故人>氏が直接出演し、

掛け合い漫才的なCMで、人気を集めた。)

<撮影地となった、ぴっぷ(比布)駅は、実在の駅で、

現在のJR北海道 宗谷本線にある駅。>


以後、テレビドラマ、映画、CM等に渡って多彩に活躍し、

世代を超えて親しまれてきた。

しかし平成15(2003)年01月に、

網膜剥離で左目を失明した事を、

翌平成16(2004)年01月に発売した長嶋茂雄氏との

対談本 『人生の知恵袋』 で明かした。

平成16(2004)年に乳がんが発覚し、

翌平成17(2005)年には右乳房を全摘出手術したものの、

この時点で既に皮膚などに転移していた状態だった。

平成25(2013)年03月08日の 『第36回日本アカデミー賞』 で、

最優秀主演女優賞を受賞。その一方スピーチに於いて、

既に全身がんである事を公に告白したが、

翌・平成26(2014)年01月16日に、

1年半ぶりのガン治療が終了した事を会見で公表していた。

しかし年齢から来る老いには勝てなかったのか、

今年08月13日、大腿骨を骨折したため、

同月15日に緊急手術。

翌16日に予定していた生放送の出演は見送りとなり、

電話出演にて状況を報告した。

しかし容体が急変、09月15日02時45分、

東京都渋谷区の自宅で家族に看取られ、

帰らぬ人となってしまった。

希林さんが亡くなった後の09月17日。

出棺の際、娘婿である本木雅弘(52)さんは、

集まった報道陣に深々と頭を下げたという。

希林さんが亡くなる直前、イベントに登壇した本木さんは、

希林さんについて 「気管支の弱さやガンの影響から、

一時危篤状態にあった」 と家族を代表して明かしていた。

またある芸能関係者の話によると、

「本木さんと希林さんの信頼関係は揺るぎないもの。

本木さんが内田家内縁の今の奥様と結婚する際に、

希林さんは、 『内田家を絶やさないで欲しい』 と、

本木さんに婿養子をお願いしました。

本木さんのご実家は代々農家でしたが、本木さんは快諾。

以来、希林さんは本木さんに、

絶大なる信頼を置いていました。

希林さんは、 『自宅で最期を迎えたい』 という願いも、

本木さんに託していました。

更に乳がんを宣告された当初から、

“死に支度”を整えていた希林さんは、

遺書や遺影も用意していました。

そんな希林さんの願いを本木さんは、

『出来る事があれば』 と最大限支え続けていたのです。」

と、この様に語っていたと言う。

希林さんの訃報に、ドラマ 「寺内貫太郎一家」 で共演した、

作曲家・小林亜星さんは、

「長い間、体調を悪くされて居られたそうで、

心配して折りましたが、このような結果となり、

大変残念な思いです。 『寺内貫太郎一家』 のメンバーも、

殆ど亡くなられて寂しい限りです。(w_-;

心よりご冥福をお祈り致します。」

 と言葉を詰まらせた。(_ _。)

またテレビCMなどで共演した、

女優の岸本加世子(57)さんは、

所属事務所を通じてコメントを発表し、

「私が15歳の時、デビュー作からご一緒させて頂き、

女中コンビという設定でしたので、

ズブの素人だった私は毎日希林さんにくっついて、

演技を学ばせて頂きました。

その時の希林さんの役名だった 『カネタさん』 と、

いまだに呼ばせて頂いておりました」 と振り返った。

「長年に渡りフジカラーのCMでの溢れる程の思い出も、

ワールドカップの決勝戦を一緒に見に行った事も、

何かあった時にはいつも親代わりの様に心配して下さったり、

時には突然自宅に来られる事もありました。

感謝しかありません」 と共に、

W杯決勝を観戦したエピソードを明かし、

敢えて出会った頃から変わらぬ呼び名で、

「心からご冥福をお祈り致します。

カネタさん、ありがとうございました」 と悼んだ。(ノ_-。)

大学進学を目指して将来薬剤師を志していたものの

進学直前のスキーでのケガと、

高校時代に所属していた演劇部での経験が、

大きな人生の大路を歩む転機となり、

文学座の演劇研究所の研究生を経て、

今日に至るまで、日本を代表するバイプレイヤー女優として、

芸能界に君臨してきた 『樹木希林』 さん。

駆け出し時代の芸名である、

『悠木千帆』 時代を知る、筆者勿論。

テレビドラマ、映画、CMで味のある演技を見せ、

老若男女を問わず幅広い世代に親しまれてきた。

平成最後の年。自然災害と著名人の訃報が相次ぐ最中、

昭和から平成を正に駆け抜けてお茶の間を楽しませ、

芸能史にその名を深く残した、

名女優が静かにこの世を去った。

謹んでご冥福をお祈り申し上げたい…。合掌。(_ _。)


【お知らせ】

次回は樹木希林さんの生前を偲び、

動画及びピクチャー集をお届け致します。

更新は凡そ2週間前後となります。

次回の更新まで、暫くお待ち下さい。


JG7MER / Ackee


テーマ:

前回に引き続き 『ご当地【街角めぐり】』 関連の、

Blog更新と参ろう。(^-^)/

今回ご紹介するのは、仙台駅東口至近にある

『初恋(はつこい)通り』 をご紹介する事にする。(^-^)/

JR仙台駅東口駅前広場に北接するBiVi仙台駅東口及び、

仙台駅東口交番(宮城県警・仙台東警察署管轄)の間にある、

島崎藤村の 『若菜集』 の代表作 『初恋』 に因んで、

命名された歩行者専用道路 である。(°∀°)b

(歩行者専用道路の街路灯に取り付けられている、

『初恋通り』 のネームプレート。:*:・( ̄∀ ̄)・:*:)



(近辺を通っていたJR仙石線の地下化に伴って

土地区画整理事業施行に伴い、

現代的な街並みに大きく変貌した。w川・o・川w

通り沿いには飲食関係の店が多く立ち並び、

老若男女を問わず訪れる人が多い。o(^▽^)o)


嘗ては、 戦災で空襲に遭わなかった地域のため、

古い建物や細い路地の通りだったが、平成12(2000)年03月に

JR仙石線の立体交差(地下)化が完成したのを契機に、

急速に都市化が進み再開発を経て、

今日の街並みの形成 に至っている。(=◇=;)

さて気になるこの通りの名前の由来であるが、

時は遡る事、 明治29(1896)年09月08日。

明治から昭和初期に掛けて活躍した文豪・島崎藤村が、

私学 『東北学院』 へ英語教師として、

ここ仙台へ赴任してきた時 から始まっている。(=◇=;)


( 初恋通り周辺の町名は、名掛丁(なかけちょう)。

明治の文豪である島崎藤村は、

この近くの 「下宿・三浦屋」 に下宿し、執筆活動を始めた。)


赴任した年の同年10月25日に母の死に直面し、

当時住んでいた広瀬川を見下ろす崖上の、

支倉町(現 青葉区支倉町)の住居で詩作を始め、

1年後に英語教師の職を辞した後に、

ここ仙台駅近くの 「下宿・三浦屋」 に移って、

第一詩集 『若菜集』 を執筆、これを発表して文壇に登場した。

この詩集の中に代表する詩が 「初恋」 であり、

通りの命名もここから由来している。:*:・( ̄∀ ̄)・:*:



(島崎藤村が、現在の私学東北学院に、

英語教師として仙台へ赴任したが、

約1年後に職を辞して、ここ 「下宿・三浦屋」 に籠り、

執筆活動を始め 詩集 『若菜集』 を書き上げた<下>。

現在は土地区画整理に伴い、嘗ての場所の一部は、

公園広場に摂って替わり、

市民の憩いの場となった(<上><中>。(・∀・))


『一葉舟』 『夏草』 『落梅集』 の詩集で、

明治浪漫(ろまん)主義義の開花の先端となり、

土井晩翠(仙台(現 宮城)県仙台出身) と共に、

「藤晩時代」 または「晩藤時代」 と並び称された。

生前中に詩集を出したのは、上記の4冊だけである。

島崎藤村が当時下宿していたとされている三浦屋があったのは、

今の藤村広場の箇所とされている。(^-^)/

(仙台に英語教師として赴任していた、

当時の島崎藤村。w川・o・川w)



( 『初恋通り』 の氏神様 である、

塩竈神社<左前>と、三吉神社<中奥>。

右端は、両神社を管理する社務所。)


再開発前のJR仙石線・仙台駅が地下化される前の、

地上駅があった時代の丁度北側に位置する処に、

住んでいたとされているのだ。

現在は、ご覧の通り区画整理の対象地域となり、

当時の面影を知る事は出来ないが、

藤村広場に配置されている、

記念碑及び置き石等が当時を知る手掛り、

となっている次第である。(^-^)/

現在の 『初恋通り』 は、飲食街を形成しつつ、

通り沿いには塩竈(しおがま)神社、

三吉(みよし)神社の社殿が祀られ、

歩行者専用道路のコミュニティー道路 として形成され、

今日に至っている。(b^-゜)

(通り沿いのネームプレートを横にする、筆者。(/ω\))


【初恋通り アクセス】

JR 仙台駅東口から徒歩凡そ3分。

JR仙台駅東口広場⇒BiViビル⇒

⇒初恋通り(仙台東口交番とBiViビルの間)

https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E140.53.15.033N38.15.28.921/zoom/10/  

JG7MER / Ackee


テーマ:

久々の 『ご当地【街角めぐり】』 関連のBlog更新 と参ろう。

今回ご紹介するのは、仙台市中心部にある

『芭蕉の辻(ばしょうのつじ)』 をご紹介する事にしよう。(^-^)/

この 『芭蕉の辻』 は、仙台城下町の中心部に当たり、

仙台城大手門から広瀬川を 『大橋』 で渡り、

城下を東西に貫いた 『大町』 幹線道路(現在の中央通)に至る。

今現在、 『大橋』 は青葉通に繋がっているように見えるが、

青葉通は大町西公園の交番前の交差点で、

少し南に折れている。

大橋と直線で繋がっている道路は、

この 『大町』 現在の中央通 なのである。(^-^)/

(仙台市内の中心部、

明治安田生命仙台ビルの前にある

『芭蕉の辻』 の記念碑。(b^-゜))


因みに現在の青葉通自体は、

戦後の戦災復興都市計画によって作られた道である。

南北に城下町を通る奥州街道(現在の国分町通)

とが交差するこの場所には、 仙台藩の札所が置かれ、

『札の辻(ふだのつじ)』 と呼ばれていた。

(嘗ては、奥州街道・仙台城下の中心地でもあった。

因みに 『芭蕉の辻』 の由来は、伊達政宗公の命を受けた、

芭蕉という虚無僧が開府以前の仙台(千代)の情勢を監視し、

報告をする任務をし、仙台築城に大に貢献したため、

札の辻の四隅に建てた(挟間を備えた)城郭式楼櫓へ、

居住させたという説があるが、定かではない。)


因みに 『芭蕉の辻』 の名称の由来は、

嘗てここに芭蕉樹があったがためと言い、

また繁華な場所故の 『場所の辻』 の訛ったものだとし、

更に仙台藩祖・伊達政宗公が重く用いた芭蕉という虚無僧が、

一時居住していたためと云われているが、

定かには分からない。(^-^)/

しかし正式には 『札の辻』 であって、

この辻の西にあたる大町三丁目の道路の中央に、

幕府の指令による忠孝、切支丹、

絵馬等の制札が掲げられていたのに因る。

(芭蕉の辻にあたる、国分町通りと大町通りの交差点。

交差点の手前は道路幅が広いが、

その奥は明らかに道幅が狭い事が分かる。

嘗て戦前まではこの交差点手前まで、

路面電車が通っていた名残である。)




(戦前の 『芭蕉の辻』

写真下手前に、この地に 路面電車 が走っていた。)


この位置から察せられる様に町割りの基点となり、

諸方の里標の基準ともなった。

『芭蕉の辻』 は、仙台城の大手から東西に延びる、

大町通りと奥州街道とが交差する辻で、

ここに 「北 津軽三厩迄 四十五次 百七里二十二丁 奥道中」

「南 江戸日本橋迄 六十九次 九十三里 奥州街道」

と刻まれた道標(里程標)が建立し、

その脇には、 『芭蕉の辻』 の由来が刻まれている

案内の石碑が建っている。

明治維新後、街並みの近代化と共に、

第二次大戦前のこの交差点の四隅には、

かつて藩が造営した建物があり、

その銃眼と矢挟間とを備えた城郭式楼櫓建築は、

仙台城下町のランドマークに相応しい威容を見せていた。

藩政期の隆盛は明治期、大正期、昭和初期に至るまで存続し、

仙台市の主要な卸売業、小売業、金融業等は、

この芭蕉の辻界隈に集積していた。(^-^)/

現在でも、七十七銀行旧本店(現在の芭蕉の辻支店)、

日本銀行仙台支店が辻に隣接して立地しており、

仙台に於ける伝統的な金融街を形成している地として、

今日に至って存在している。

そういった仙台市中心部の正に「中心」に、

路面電車(市電)が敷設されたのは、

必然に等しい状況であったと言える。

(仙台市電/芭蕉の辻線は、

昭和19(1944)年03月31日を以って廃止。)

(奥州道中歌。仙台城下から今の青森県竜飛崎のある

三厩(みんまや)までを歌った道中歌。)




(江戸時代に詠まれた、奥州道中歌の一部。)


戦後、 『芭蕉の辻』 に大きな転機が訪れる。

高度経済成長期を迎え、

仙台が東北地方の中心都市として、

高い成長を誇るようになるに連れて、

流通の便の事を考慮すると、

街中の卸売業の立地は次第に手狭になってしまった。

昭和40(1965)年、

仙台バイパスの全通をその翌年に控えていた、

現在の若林区卸町に、

大規模な卸売・流通業の拠点 『卸商センター が完成し、

市中心部、取り分け 『芭蕉の辻』 界隈に多く立地した、

卸売業関連の業者は挙って、

交通の至便なこの新拠点に移転して行った。(^-^)/

更に、戦後の都市計画によって、

市内の主要道路の大幅な拡幅と新設が進み、

青葉通、広瀬通、定禅寺通の東西の幹線と、

晩翠通、東二番丁通の南北の幹線が整備され、

また東一番丁通りが 『一番町通り』 として、

アーケード化されて近代化される中で、

嘗ての城下町のメインストリートは、

次第にその影に隠れる様になって行った。


(戦後、流通の拠点は郊外に移転し、

現在の 『芭蕉の辻』 界隈は、

典型的なオフィス街へと衣替えした。

この辻の東向かい側には、

日本銀行仙台支店が所在している。)


南町通り、西公園通り、北四番丁(現 県道31号線)、

定禅寺通の東二番丁より東、駅前通などは市電通りとして、

戦前から拡幅された道路として栄えていった。

現在の、 『芭蕉の辻』 付近は、

北に 東北有数の歓楽街  『国分町』 を控え、

すぐ東に人通りの絶えない一番町、中央通に接しながらも、

何処かその喧騒からは外れた、

落ち着きのあるビジネス街の場所に摂って替わっている。

そこにひっそりと建つ 『芭蕉の辻』 の石碑が、

嘗てのこの地域の隆盛を、静かに伝え続けている。(b^-゜)

(記念碑を脇にして立つ、ブログ管理者。(/ω\))


【芭蕉の辻 所在地データ】

宮城県仙台市青葉区大町一丁目4-1

(明治安田生命仙台ビル前)


[アクセス 1]

JR 仙台駅前から、約1km。徒歩約30分

[JR 仙台駅前⇒ぺデストリアンデッキ⇒

ハピナ名掛丁⇒クリスロード商店街⇒

おおまち商店街⇒日本銀行仙台支店前⇒

芭蕉の辻]


[アクセス 2]

仙台市地下鉄・東西線/青葉通一番町(T-06)駅下車。

北1番出口から、約100m 。徒歩3~5分


※…今回ご紹介しました、

『芭蕉の辻』 へのアクセスは、

下記のURLの地図をご参照下さい。

https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E140.52.26.421N38.15.26.490/zoom/8/

JG7MER / Ackee


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こちらは先日亡くなられた、

落語家・桂 歌丸さんを偲んでの、

ピクチャー及び動画編になります。(^-^)/

歌丸さんの落語と共に、落語ファンは元より、

世代を超えて多くの人達に親しまれてきた、

歌丸さんの生前の功績を偲び、

駆け出し時代から、生前まで活躍された

懐かしい一コマになります。ヾ(@^▽^@)ノ

お時間の許す限りお楽しみ下さい。(b^-゜)


落語界の巨匠

桂   歌 丸』さん、逝く !!

【ピクチャー&動画編】

(若かりし頃の、桂 歌丸さん。(・∀・))

<マルベル堂のブロマイド より>




(昭和36(1961)年、兄弟子・4代目・桂 米丸師匠の

門下へ移籍。(^-^)/)




(歌丸さんは、高座に上がると、

常に古典落語をライフワークとして、終始拘り続け、

老若男女を問わず、

根強い固定ファン層を持った。(*´σー`))




(昭和44(1969)年04月06日から始まった、

『笑点』 の前身番組である

『金曜寄席』 には第1回から出演し、

その後に今の 『笑点』 に衣替えし、

レギュラー陣として、大活躍。(‐^▽^‐)

当時の大喜利の司会者で、

てんぷくトリオのリーダーだった、

三波伸介氏(故人)<左>が、

司会を務め始めたのを契機に、

徐々に頭角を現す様になった。(*^-^)b))




( 『笑点』 の番組内では、

番組を盛り上げるため、三遊亭小圓遊と不仲を演じた。

実際番組を離れての二人は、1歳年上の歌丸さんから、

小圓遊さんが古典落語の稽古を付けて貰うなどしており、

歌丸さんによれば  「アイツとは打ち合わせをしなくても、

アドリブでポンポン出てくるんです」  と、

阿吽の呼吸の仲でもあった。

しかし番組を見ていたお茶の間の視聴者から、

「仲悪いはずなのに」 と指摘された事で、

表立った動きでは離れて、

行動せざるを得なくなってしまった。(・・;))




(平成28(2016)年05月31日、

古典落語の継承に取り組み、

卓越した話芸で落語界に長年貢献してきた事が評価され、

馳 浩文科相から表彰された。ヘ(゚∀゚*)ノ)

<文部科学大臣控室>


(表彰式の後、馳 浩文科相と共に、

報道取材陣からの写真取材応じる、

桂 歌丸さん。(°∀°)b )


(晩年は、 『笑点』 の司会として務め、

後輩落語家達の指導的役割を果たした。)


(平成16(2016)年04月30日、同年05月に  『笑点』  が、

放送開始50周年を迎える事を機に、

05月22日の放送を以て司会者を勇退 することを発表し、

後に番組初の終身名誉司会に就任した。)





【動画関連】

【訃報のニュース】

※…当日日本テレビ系のニュースで、

報道された訃報のニュースです。

https://www.youtube.com/watch?v=imcdsnAviAE

【落語】お化け長屋 平成元(1989)年。

※…<東京上野・末広亭>

https://www.youtube.com/watch?v=dvY7w07cGcQ

【落語】質屋庫

https://www.youtube.com/watch?v=QEUHH2UCijs&t=37s

【笑点】

※…平成18(2016)年08月20日付けの放送分です。

https://www.youtube.com/watch?v=LbcE65-hQT0

※…生前、桂歌丸さんと、三遊亭小圓遊さん(故人)が、

出演していた時の映像です。

画像が劣化及び音質が低いため、

お見苦しい点、

お聞き苦しい点があります事、

予めご了承下さい。m(_ _ )m

https://www.youtube.com/watch?v=PFVosEzqso8

【他】

※…大喜利でレギュラーとして、

活躍された一コマ映像です。

(1) https://www.youtube.com/watch?v=JLWoGPnG980

(2) https://www.youtube.com/watch?v=VuIdPZHHw4w

(3) https://www.youtube.com/watch?v=yiH7ciwoq30

(4) https://www.youtube.com/watch?v=AyZ0-5k4nyU

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

【桂 歌丸プロフィール】

(本名) 椎名 巌(しいな いわお)

昭和11(1936)年08月14日生まれ。

神奈川県横浜市中区真金町(現 南区真金町)出身。

桂歌丸の定紋は、

『丸に横木瓜(まるによこもっこう)』

横浜市立横浜商業高等学校定時制中退。

出囃子は 『大漁節』

公益社団法人・落語芸術協会会長(5代目)。

当初は新作落語中心だったが、

晩年は、廃れた演目の発掘や、

三遊亭圓朝作品など、

古典落語に重点を置いて活動。

生前に於いては、

地元・横浜の横浜にぎわい座館長(2代目)、

横浜橋通商店街・名誉顧問も務めていた。

演芸番組 『笑点』 (日本テレビ)の放送開始から、

大喜利メンバーとして活躍し、

平成18(2006)年05月21日から

平成28(2016)年05月22日まで、

同番組の5代目司会者を務め、

同日付で終身名誉司会者に。

最後のテレビ出演は、

平成30(2018)年07月01日放送

(同年04月07日収録)の 『もう笑点』

翌日07月02日11時43分、

慢性閉塞性肺疾患のため、

横浜市内の病院で死去。享年81歳。

戒名は、

『眞藝院釋歌丸(しんげいいんしゃくかがん)』

昭和39(1964)年から親しまれてきた芸名に、

長年に渡って芸事に真摯に向き合い続けた事と、

横浜市内の真金町で生まれ育った事から、

『藝』『眞』 の文字が戒名に入った。

日本国政府から歿日付で、

『従五位(位階勲等従五位旭日小綬章)』 に叙した。


【追記】

謹んで、桂 歌丸さんのご冥福をお祈り致します。

合掌。(/_;)/~~

JG7MER / Ackee


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今月最後のBlog更新と参ろう。

平成最後の夏と言う事もあり、何かと話題も事欠かないが、

今年はホントに著名人の方々の訃報が多いのが目立つ。

今回もまた昭和の時代を飾り、また世代を問わず親しまれた、

落語界の巨匠 である、

『桂 歌丸』 さん が逝ってしまった。。(´д`lll)

15歳で古今亭今輔師匠の門下に入門し、

後に桂 米丸さんの門下を経て、

昭和41(1966)年に始まった 『笑点』 で、

大喜利 のレギュラー を務め、

昭和42(1968)年に真打ちに昇進。

埋もれていた古典落語を高座にかけた。

軽妙な語り口で老若男女を問わず、

世代を超えて親しまれてきた。(ノ_-。)

(若かりし頃の、桂 歌丸さん。)

<マルベル堂のブロマイド より>


歌丸さんは、昭和11(1936)年08月14日、横浜市の出身。

生家は横浜・真金町の妓楼 『富士楼』 であり、

間近で遊女達を見て育ったためか、

女の化粧風景を描写した、

「化粧術」 の珍芸 を持つ事が多かった。(^-^)/

戦後、横浜空襲で生家は焼失し、

戦後すぐに祖母はバラックを建て、

『富士楼』 の経営を再開した。

貧しい時代にあっても食料に困る事もなく、

当時高価だったラジオも持っていた。ヽ(゚◇゚ )ノ

このラジオでよく聴いていた落語に影響された事が、

後の落語家になる大きなキッカケとなった。(^-^)/

祖母に連れられてよく行った当時、

伊勢佐木町にあった大衆劇場で、

芝居の幕間で観た漫才にも夢中になって、

漫才師になる事も考えたが、

「ワガママな自分にとって二人で演芸をするのは無理かな」

と思った事も落語家のキッカケの一つだったと言う。(^-^)/

小学校4年生の頃には、

将来落語家になると既に心にに決めていた。(=◇=;)

戦後はまだ青空教室だったため、

小学校の時に体育の時間になると、

自習なので落語を演じていた。\(゜□゜)/

これが非常に好評で、時には隣のクラスの先生から

「落語をやってくれないか」 と要請があった事も、

しばしばだったと言う。ヘ(゚∀゚*)ノ

中学2年の時に当時NHKの出版部にいた、

祖母の遠縁の親戚を通じて、

誰に弟子入りしたらよいかを相談し、

「一番面倒見の良い人だから」 という理由で、

中学3年だった昭和26(1951)年に、

5代目・古今亭今輔の門下生

として弟子入りする事になった。(=◇=;)

(高座では、常に古典落語に終始拘り続け、

根強い固定ファン層を持つ。(*´σー`))


入門して駆け出しの時代、兄弟子で後の師匠である、

米丸の初名 であった 『古今亭今児』 を名乗り、

その際、師匠・今輔から言われた事は、

「歌舞伎を見ろ」 だった。(b^-゜)

今輔によると歌舞伎を見る事は落語に活きるからだと言い、

実際自ら演じる際はそのエピソードをマクラで語っている。

昭和36(1961)年、今輔の門下から、

兄弟子・4代目・桂 米丸門下へ移籍。(^-^)/

当時芸術協会で勃発した香盤(序列)問題や、

師匠・今輔が新作派なのに対し、

高座で古典落語ばかり演じていた事に端を発している。

この一件で(今児)、破門状態となり、

一時大手化粧品会社のセールスマンへ転職するが、

三遊亭扇馬(後の3代目橘ノ圓)の肝入りで落語界に復帰。

しかし今輔が付けた付帯条件により、

兄弟子・米丸の門下生となった。(^-^)/

昭和44(1969)年04月06日から始まった、

『笑点』 の前身番組である

『金曜寄席』 には第1回から出演 し、

その後に今の 『笑点』 に衣替え

総合司会者が、

三波伸介(故人/てんぷくトリオ)に替わった頃から、

歌丸さん本来のオリジナルカラーが出来上がった。(=◇=;)

(笑点のレギュラー陣として、活躍。

当時の大喜利の司会者で、

てんぷくトリオのリーダーだった、

三波伸介氏(故人)<左>が司会を務め始めたのを契機に、

徐々に頭角を現す様になった。(*^-^)b)


当時、番組中でも人気を博したのが、

三遊亭小圓遊(故人) との掛け合いで、

小圓遊が歌丸を 「ハゲ!」 と罵倒すれば、

歌丸は 「お化け!」 とやり返し、

どんどんエスカレート するものであった。

しかし実際は、小圓遊との不仲は、

番組を盛り上げるための番組内での演出であり、

番組を離れての二人は1歳年上の歌丸から、

小圓遊が古典落語の稽古を付けて貰うなどしており、

歌丸さんによれば 「アイツとは打ち合わせをしなくても、

アドリブでポンポン出てくるんです」 と、

阿吽の呼吸の仲であった事を伺わせる発言をしている。

歌丸さん曰く 「本業の落語より稼がせて貰った」 と語る程、

小圓遊と仕事をする機会も非常に多かったが、

地方公演に行った際には、駅のホームで2人が、

一緒に立っているのを目撃した視聴者から、

「仲悪いはずなのに」 と言われた事で、

表立っては一緒にいるときは、

離れて行動する様になった という。(・_・;)

しかし本人曰く、小圓遊との掛け合いは物凄く受けたが、

その時 「あたしは落語を怠けている」 と痛感し、

落語をちゃんとやることにしたという。f^_^;

( 『笑点』 の番組内では、

番組を盛り上げるため不仲を演じた。

しかし番組を見ていたお茶の間の視聴者から、

「仲悪いはずなのに」 と指摘された事で、

表立った動きでは離れて行動せざるを得なくなった。(・・;))


歌丸さんは 『笑点』 を務める中で 「マンネリ」 との、

批判を受ける事があったが、

これに対して 「マンネリってことは、

長く続いているという事だからね。

それに、批判するってのは、それだけ見てるって事、

或いは気にしてくれているって事でしょ」 と、

寧ろ喜んでいた。(b^-゜)

司会者として立場が替わってからは、

「舞台に並んだら全員同格。上も下もない」 という意識を、

メンバーに徹底させ、

現在の大喜利のレギュラーメンバーである、

林家たい平、春風亭昇太がメンバーに入った時も、

ハッキリとその事を言った。

しかし昭和48(1973)年から以降は、

度重なる病を発する様になり、

噺家の現役時代はその都度、

手術や療養との闘いでもあった。

このため一時は、 『笑点』 大喜利メンバー に、

司会の代理進行を依頼 する事もあった。

平成16(2016)年04月30日、同年05月に 『笑点』 が、

放送開始50周年を迎える事を機に、

05月22日の放送を以て司会者を勇退 することを発表し、

番組初の終身名誉司会に就任した。

( 『笑点』 番組開始、50周年を境に司会者を勇退した。)


しかし度重なる病との闘い、

そして老いから来る年齢の波には勝てず、

07月02日午前11時43分、

慢性閉塞性肺疾患のため、

横浜市内の病院で息を引き取った。

歌丸さんが亡くなった翌03日午前、

会長を務めていた落語芸術協会は、

東京都内で会見を開き、

会長代行で 『笑点』 で長年共演した、

三遊亭小遊三さんらは 「もう口を聞かないと思うと、

本当に寂しい」 と、泣き笑いで記者の質問に答えた。

また同席した春風亭昇太さんは、大河ドラマ 『直虎』 に、

今川義元役で出演した際、

歌丸さんに 「昇太さん、出ていいな、オレも出てぇな」 と、

声を掛けられたと言う。(^-^)/

密かに時代劇に出演したがっていたといい、

『オレ、千利休なら上手く出来そうな気がする』 って、

役まで決めていたんですよ、

よっぽど出たかったんだろうな」

と会場を沸かせた。(^-^)/

戦後の混乱期、

裸一貫から国民が立ち上がろうとしていた時代、

可愛がってくれた祖母が当時持っていた、

高価なラジオから聞こえていた、落語の魅力に憑りつかれ、

中学時代にして噺家の道への門を叩き、

そしてテレビのお笑い番組 『笑点』 では、

レギュラー及び司会者として名を馳せ、

昭和・平成の時代に掛けて老若男女を問わず、

お茶の間を常に笑いを届け続けてきた桂 歌丸さん。

お笑い系が好きな筆者は勿論の事。

まもなく、平成の時代が終わるかの様に、

ひとつの時代を創り上げ、

日本の落語文化に大きな功績を遺した、

落語界の巨匠が静かにこの世を去った。(ノω・、)

謹んで、ご冥福をお祈り申し上げたい…。合掌。(_ _。)


【お知らせ】

次回は、桂 歌丸さんの生前を偲び、

画像及び動画集をお届け致します。

更新は、10日後及び二週間後になります。

次回の更新まで、暫くお待ち下さい。m(_ _ )m


JG7MER / Ackee


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今年02月の平昌(ピョンチャン)冬季五輪で、

66年ぶりの連覇を達成した、

フィギュアスケート男子の羽生結弦選手(23)。

先般07月02日に首相官邸に於いて、

国民栄誉賞が授与された。ヘ(゚∀゚*)ノ

23歳での受賞は個人としては最年少。

また本県出身者として、

スケート界では初めてのケースとなった。(・∀・)

(紋付き袴の正装で、首相官邸に現れた、羽生結弦選手。

着用した正装は、地元・仙台の伝統正装である、

『仙台(仙臺)平(せんだいひら)』 の井手達で、

国民栄誉賞の授与式に臨んだ。:*:・( ̄∀ ̄)・:*:)




(授与式伝達の間、

同席した橋本聖子日本スケート連盟会長と談笑する、

羽生選手。(^-^)/)


授与式に羽生選手は凛々しい紋付き袴姿で登場。

安倍晋三首相(63)から表彰状や盾を受け取った。

羽生選手は平成26(2014)年のソチ五輪で、

日本人男子初の金メダルを獲得し、

右足首のケガが完治しないまま臨んだ、

今年の平昌五輪で連覇を達成して、

平昌五輪での日本勢金メダリスト第1号になった。 (^-^)/

授与式での席で、羽生選手が着用していたのは、

仙台藩時代からの特産品で、

高級絹織物 『仙台(仙臺)平(せんだいひら)』 の袴。

国の重要無形文化財保持者(人間国宝)、

甲田綏郎(こうだ よしお)氏 が、

羽生選手体型のサイズに合わせ仕立てた特注品 だという。

嘗ては、川端康成(故人)がノーベル文学賞受賞の際に着用し、

歌舞伎・能役者が愛用する等、

一流の者にしか許されない袴を身に着け表彰式に臨み、

気持ちは因り引き締まった。ヘ(゚∀゚*)ノ


(安倍晋三首相から、表彰状を授与<上>。

引き続き、盾が羽生選手に贈られた。<下>)


「1人の人間として、

後ろ指を指されない様な生き方をしていきたい。

自分の名に国民栄誉賞という、

素晴らしい名に恥じない様な、

スケートをして行く事が大事」 と覚悟を示した。(`・ω・´)ゞ

これまで国民栄誉賞を授与された過去の27例のうち、

23歳での受賞は個人では最も若い。

受賞の話を耳にした際には、

「大変恐縮な気持ちが多くあった」 と戸惑った。

だが、被災地の方々、ファン、仲間ら、

応援して支えてくれた多くの方にとって、

「明るいニュースが、光になって頂けていたら」

と受け入れた。(^-^)/

国民栄誉賞と共に送られる記念品は、

羽生選手自身の意向もあり、用意はされなかった。

辞退した思いを記者団から聞かれた羽生選手は、

「自分の中で皆様を代表して、という気持ちが凄くあり、

皆様と共に取れた賞という気持ちが凄くあったので、

僕個人の気持ちとかそう言うのは余り出したくないなと。

そういった意味で記念品は辞退させて頂きました」

と、この様に説明した。(b^-゜)



(国民栄誉賞受賞は、過去に27例程あるが、

個人では史上最年少の受賞。ヾ(@°▽°@)ノ

しかも東北、そして宮城県からは史上初の出来事となり、

地元では号外も出た。ヾ(@^▽^@)ノ)


晴れの舞台でも、地元や支えてくれた人達を大切にする、

羽生選手らしい姿勢を貫いた。

羽生選手の袴姿は、国民栄誉賞の名に相応しく、

安倍晋三首相も凛々しい姿を褒められ、

開口一番にこの話題に触れた。(^-^)/

「この袴は仙台(仙臺)平(せんだいひら)なんですね。」

 と尋ねると、 「人間国宝である甲田様が、

直々に作って送って下さいました。

本当はもっともっと伝統ある所作をしないと、

いけないかなとも思ったんですが、

自分はスケーターなので自分らしさも出せればと。

スケーターとして羽生結弦として、

ここに居られたらと思いました。」 と語った。

また着心地について尋ねられると、

「伊達藩の藩主の方々が使っていたという事もあって、

非常に素晴らしいものですし、

自分は袴に詳しくないんですけども、

身に付けていて本当に快適。

羽生家の家紋も付けさせて頂きました」 と、

笑顔を見せながら、羽生選手はこの様に述べた。(^-^)/



(復興庁に赴き、特別感謝状贈呈式に出席。

スーツ姿に衣替えし、吉野正芳復興相から、

特別感謝状が授与された<上、中、下>。)


国民栄誉賞が授与されたこの日、

羽生選手の出身地、

宮城県内や仙台市内は大いに沸き返った。ヾ(@^▽^@)ノ

村井嘉浩宮城県知事は定例会見で、

「ケガを乗り越えてオリンピックで、

2連覇という偉業を成し遂げた。

県民挙げて祝意を申し上げなければならない」 と述べ、

「まだお若いのであと4年後もチャンスがある。

更に高みを目指して頂ければと思う」 と期待を掛けた。

宮城県内全戸に07月01日に配布された、

『みやぎ県政だより』 07・08月号には、

04月に仙台市内で行われた祝賀パレードで、

手を振る羽生選手の写真が表紙で、

パレードの様子の記事にも1ページ分を割いた。

宮城県では反響を予想して先月の06月26日から、

宮城県ホームページ内に特設ページを開設し、

閲覧やダウンロードが可能な様にしたと言う。

また07月02日からは東京・東池袋にある、

アンテナショップ 『宮城ふるさとプラザ』 と、

宮城県大阪事務所で配布を始めたが、

それぞれ業務開始前に約60人、約100人が並んだと言い、

村井知事は 「非常に嬉しく思う」 とこの様に語った。

また、郡 和子仙台市長は 「羽生さんらしくて凄いと思った。

仙台をアピールして下さっている事には頭が下がり、

感謝したい、私達も仙台にある仙台(仙臺)平を更にPRして、

行かなければならないと強く思った」 とこの様に語った。

羽生選手はこの後、

復興庁で行われた特別感謝状贈呈式に出席。

同日に行われた国民栄誉賞授与式の凛々しい、

『仙台(仙臺)平』 の紋付き袴姿とは打って変わって、

今度はスーツ姿で登場した。:*:・( ̄∀ ̄)・:*:

出身地の仙台市のリンクで練習中に東日本大震災が発生し、

避難生活を送った経験があり、吉野正芳復興大臣から、

「被災地に夢と希望と元気と感動を与えてくれた。

復興の力となってくれた」 と感謝状を贈られると、

「大変恐縮な気持ちです。復興の力と言っていただけるのは、

僕を応援して下さる方々のお力があってこそだと思います」

と、笑顔を見せた。(‐^▽^‐)

あの平昌五輪感動の2連覇から、半年近くの時間が経過した。

次の4年後への冬季五輪への出場への明言は、

まだ正式には発してはいないが、先ずはケガを完璧に治して、

またチカラ強い演技を見せてくれる事になる事だろう。

この事は、羽生選手と同じ出身である筆者自身は勿論、

地元・仙台市民や宮城県民、そして東北地域全体。

はたまた日本国内、世界各国の羽生選手のファン、

共通の思いである事は確かな様である。(^-^)/

次なる4年後、未知の4回転ループを身に付けて、

颯爽と銀盤に登場する日が実現出来る事を、

ひたすら祈るばかりである。(b^-゜)


【動画関連】

※…動画配信元は、Abema Newsによる公式配信です。

『国民栄誉賞授与式』

https://www.youtube.com/watch?v=0ge-owIzlW0

『記者団による会見』

https://www.youtube.com/watch?v=LNHUxnFFoyI

【仙台(仙臺)平公式ウェブサイト】

https://sendaihira.jp/

※…国民栄誉賞授与式で、

羽生選手が着用されていた袴、

『仙台(仙臺)平』 のウェブサイトは、

こちらになります。

■…仙台観光PRポスターとして、

羽生選手がモデルを務めて折ります。

http://oshirase.sendaihira.jp/?eid=217

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今月最後のBlog更新と参ろう。

今年のプロ野球。

『セ・パ交流戦』 も終わり、

ペナントレースに再び突入した。

管理者の地元チームである楽天イーグルスだが、

今季は昨季と全く異なり開幕当初から、

ご多分に漏れずの状況に相成ってしまっている。

そんな最中の今月16日、

試合終了後に梨田昌孝監督が、

球団側に監督辞任申し入れた。( ̄□ ̄;)!!

(序盤からの成績不振で、

今季は開幕当初から厳しい表情が続いた。(-"-;A)


この日のホーム(楽天生命パーク 宮城)でのセ・パ交流戦、

対阪神2回戦での試合で、

1-2で敗れ 『借金20』 となってしまった。。(´д`lll)

試合後、梨田監督は、

立花陽三球団社長に辞意を申し入れ、了承された。(_ _。)

就任2年目の昨季は4年ぶりのAクラス入りを果たし、

更に上を目指した今季だったが、

開幕2戦目から5連敗を喫する等、厳しい戦いが続いた。

梨田監督の意思は固かった。

チームは平成18(2006)年以来となる、

06月時点での 『借金20』 となり試合後に辞意を申し入れた。

立花社長からは慰留されたが「交流戦前に借金12だった。

巻き返して何とか1桁と話していたが、

20が1つの自分が責任を取るライン」と心に決めていた。

体重は10kgも減り 「06月に借金20は酷い数字。

本拠地の仙台で7勝24敗と勝てないのは、

監督の責任」 とも語った。(-"-;A

(05月16日、セ・パ交流戦の対阪神戦で、

チームエース・則本投手で敗れて、

『借金20』 に膨れ上がり、監督として責任のケジメで、

シーズン途中で辞任を決意した。(・_・;))


試合前にベンチを訪れた三木谷浩史オーナーを始め、

試合後の選手、コーチにも辞意を伝えていない状態での、

電撃的な辞任表明となった。

昨年は序盤から首位を快走したものの、終盤に力尽きた。

今季は開幕から打線が低調な上、

守護神である松井裕樹投手が、

今季5敗と不振に陥った。。(´□`。)

「昨年はあんなに良い戦いが出来ていた。

今年は開幕早々から状態が悪く、責任を取らないと…。

しかし途中で投げ出すのはあれだけど…。」 と、

複雑な胸の内を明かした。ヽ(;´Д`)ノ

(今世紀に入って、

シーズン途中での監督退任は10例程あるが、

不名誉ながら梨田氏も、

組み入られてしまう事になった。(´□`。))


しかも今年01月04日には、星野仙一副会長が逝去し、

何としても優勝で弔うつもりだったが

「逆に(選手には)プレッシャーになったのかな…。

金縛りの様にチャンスでガチガチ。

伸び伸びとさせてやれなかった。」 と悔いた。

(星野仙一氏(故人)から、指名を受けて監督に就任したが、

今年01月04日に星野氏が逝去した事で状況が一変。

逆にこの事がチームにとって思わぬ重圧となり、

開幕当初から大きく低迷する、

要因になってしまった。(*´Д`)=з)


辞任した梨田氏はこの日、球場を訪れて選手達へ

「途中で投げ出す形で申し訳ないが、

自分達の良い所を出せる様に、本拠地で勝てる様に、

俺の出来なかった事をしてくれ」 と言葉を残し、

別れを告げた。(/_;)/~~

辞任発表から一夜明けた翌17日には、

平石洋介監督代行が記者会見し、

「正直、まだ気持ちの整理は付いていないが、

全員で受け止めて行かないといけない。

立ち止まる訳にはいかないので、

一丸となって戦って行きたい。」 と、

巻き返しへの決意を語った。(-"-;A

「チームを優勝させるには、このオトコしかいない」 として

故・星野仙一氏から指名された梨田氏。

しかし結果とは逆に星野氏の逝去で環境が大きく替わり、

逆に首脳陣や選手達を含め、

大きな金縛り状態に陥ってしまったのは否めない。(><;)

(球団事務所に監督辞任の旨を伝え、

報道陣に手を上げて、球団を去る梨田氏。(・_・;))


プロのスポーツチームの監督は、

常に成績と向き合わなければならず、

現場での成績結果が最終的にはものを言う形になる。

チームの補強も当然重要である事は承知はしているが、

例え大型補強を行ったとはいえ、

そのチームが100%の絶対値で、

優勝が出来るとは限らない。(・_・;)

現状でのチーム戦力を維持しながら、

優勝を経験したチームもある。

従って、一刀両断出来ない側面もあり、

非常に難しい処である。(-"-;A

先ずは監督在任期間、心身共に大変だった事であった事、

心よりお察しを申し上げると共に、

これまでのご労苦に、

心より感謝を申し上げたいと思う。m(_ _ )m


※…梨田昌孝監督、

辞任に関する詳細は下記のURLから、

アクセス出来ます

【監督人事に関するお知らせ】

https://www.rakuteneagles.jp/news/detail/00001279.html

【お知らせ】

梨田昌孝監督の退任に伴い、

平石洋介ヘッドコーチ兼打撃コーチが、

監督代理に就任となりました。

https://www.rakuteneagles.jp/team/player/detail/2018_89.html


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こちらは先日亡くなられた、西城秀樹さんを偲んでの、

ピクチャー及び動画編になります。(^-^)/

若き日の青春時代を、西城さんに掛けていた世代にとっては、

懐かしい一コマになります。ヾ(@^▽^@)ノ

お時間の許す限りお楽しみ下さい。(b^-゜)


昭和後半世代のアイドル

『西 城 秀 樹 さん』逝く !!

【ピクチャー&動画編】

(デビュー当時の西城秀樹さん、

明治大学付属中野高等学校定時制4年生時代。(=◇=;))



(郷ひろみさん<左上>、野口五郎さん<左下>と共に、

『新御三家』 が誕生。

昭和後半の歌謡界を彩る事に。(‐^▽^‐))



(絶唱型歌謡曲の代表とされた 『傷だらけのローラ』

当時のヤングティーンは、この曲を聞いて興奮し、

失神する女の子が続出した。(≧▽≦))



(お馴染みの 『激しい恋』

右足を上げるアクションパフォーマンスは、

当時ヤングティーンの大流行となった。≧(´▽`)≦)



( 『YOUNG MAN<Y.M.C.A.>』 を歌う西城秀樹さん。

この曲の大ブレイクで、

世代を超えて親しまれる事に。о(ж>▽<)y ☆)



(代表格ドラマと来たら、 『寺内貫太郎一家』

貫太郎役の小林亜星さんとの親子喧嘩は、

当時、お茶の間の話題の的だった。o(^-^)o)



(西城さんの代表的CMと言えば、バーモントカレーのCM。

『ヒデキ 感激!!』 の生みの流行語は、当時大ブレイク。

今日に至るカレーライスを国民食の押し上げに貢献した。

他スポンサーであるハウス食品のポテトチップスの

CMにも出演する等、

お茶の間への影響は大きかった。(≧▽≦))



(病<脳梗塞>に倒れた後、懸命のリハビリをしながら、

同世代の郷ひろみさん<左>、野口五郎さん<右>と共に、

還暦を迎えた際、雑誌の対談での一コマ。

これが、3人揃っての対談となる、

生前の最後の姿となってしまった。(ノ_-。))


【動画関連】

『傷だらけのローラ』

https://www.youtube.com/watch?v=MtQCAdyFkNg

https://www.youtube.com/watch?v=9KJSyJkyU8c

『激しい恋』

https://www.youtube.com/watch?v=GpqeHW8yzmY

https://www.youtube.com/watch?v=Qlyvb1jfQ1o

『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』

https://www.youtube.com/watch?v=1faRWFZ9jUM

https://www.youtube.com/watch?v=61-Z3bBNF8g

『出演CM集』

■…昭和53(1978)年から、

昭和63(1988)年の間に出演された、

CMフィルムリレー集です

https://www.youtube.com/watch?v=AOAiF102f9E

『寺内貫太郎一家』

■…西城秀樹さんが出演されていた、

『寺内貫太郎一家』 での、

ドラマの中での一コマです。

(1) https://www.youtube.com/watch?v=GCACmIPLF1E

(2) https://www.youtube.com/watch?v=wdjpXqn17qY

【西城秀樹プロフィール】

(本名) 木本龍雄(きもと たつお)

昭和30(1955)年04月13日生まれ。

広島県広島市(現 東区)出身。

昭和47(1972)年03月25日に、

シングルSP 「恋する季節」 で歌手デビュー。

昭和48(1973)年06月25日、 「情熱の嵐」 が、

オリコン週間チャートで初のベストテン入りとなり、

一躍トップアイドルの仲間入りを果たし、

郷ひろみ、野口五郎と共に 『新御三家』 と呼ばれる。

「ちぎれた愛」「愛の十字架」 が連続して、

オリコン週間チャートの第1位を獲得。

絶唱型と言われる歌唱法を披露。

『第15回日本レコード大賞』 で初の歌唱賞を受賞。

『NHK紅白歌合戦』 は昭和49(1974)年から、

昭和59(1984)年まで11年連続出場。

『日本レコード大賞』 では昭和51(1976)年の、

「若き獅子たち」 が歌唱賞を受賞(通算3度目)。

金賞は昭和53(1978)年の、

「ブルースカイブルー」 から

昭和58(1983)年の 「ギャランドゥ」 まで6年連続受賞。

ヒット曲をランキング形式で紹介する音楽番組

『ザ・ベストテン』 には放送が開始した、

昭和53(1978)年の 「ブーツをぬいで朝食を」 から

昭和60(1985)年の 「腕の中へ」 まで、

22曲(154週)ランクイン。

昭和54(1979)年02月21日発売の

「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」

80.8万枚の大ヒット、オリコン5週連続1位を獲得。

この年の年間シングルチャート第7位を獲得。

他、ドラマ、CM、映画等多彩に渡って出演。

平成30(2018)年04月25日、

自宅で家族団欒の席で倒れて緊急入院。

一時心肺停止に陥り懸命の治療の結果、

倒れてから40分後に蘇生したが、

この日以降意識が回復する事はなく、

05月16日23時53分、

急性心不全のため横浜市内の病院で逝去。

享年63歳。

戒名は、

『修音院釋秀樹(しゅうおんいんしゃくひでき)』 。



【追記】

謹んで、西城秀樹さんのご冥福をお祈り致します。

合掌。(/_;)/~~


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