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今年も相も変わらず著名人の訃報=鬼籍が相次ぐ最中、
先日も日本を代表する偉大なる俳優が、
突然この世を去ってしまった。
映画、ドラマ、司会と数々の役をこなし、
東北の心を持ち続け、テレビ画面を賑わし続けて来た、
俳優・西田敏行さん が逝って仕舞った。
読者の皆様にとってもこの訃報は、
各年齢層全世代にとっても、
大きな衝撃と成って日本列島を駆け巡ってしまった。
(各世代を問わず、飾り気のない人柄で、
お茶の間の人気者だった西田敏行さん。
突然の訃報は国内に大きな悲しみを伴って、
列島中を駆け抜けた。)
西田さんは、昭和23(1947)年11月に、
福島県郡山市で生まれた。
郡山貯金局に勤める実父と実母の間に生まれ、
名前である 『敏行』 の名は、
「何事にも動じず、素早く行動して欲しい」 との、
意味合いから父から名付けられたと云う。
父方の祖先は、
和泉乃國・伯太藩(現大阪府和泉市伯太町)の、
家老職を務めた今井家と言う名家である。
(幼少期の西田さん。しかし幼くして実父は亡くなり、
実母の手で育てられるものの、職場の男性と再婚。
その後、実母の姉に中る伯母に養子として、
迎え入れられる事になる。)
しかし幼くして実父が亡くなり、
実母は美容師として働いて敏行さんを育てるが、
5歳の時に母は同じ美容師の男性と再婚したため、
実母の姉に中る伯母の申し出で、西田家に引き取られた。
養父の祖は、薩摩藩(現鹿児島県)の藩士として、
島津家に仕えていた。
養父は明治40(1907)年生まれの陸軍軍人で、
第二次世界大戦中には、
北方領土・択捉(えとろふ)島に勤務していた。
終戦後はシベリアに拘留されていたが、
戦後は地元に帰還し、
郡山市役所に定年まで勤めていた。
だが生活は厳しく家族は、
神社の社務所に住んでいたと云う。
少年時代は養父に連れられて映画館へ通い、
当時流行していたチャンバラ映画に熱中していた。
しかし当時少年だった敏行さんの心の中には、
「観る側より映画のスクリーンに映る自分の姿を、
ぼんやり夢想していた」 と云う。
市立小原田小学校を卒業後、市立第三中学校へ入学、
その後小原田中学校の創設に伴い、
1年次に小原田中学校へ転校した。
中学時代は国語と英語が得意で漠然と、
“俳優に成りたい” と考え、演劇に興味を持つものの、
当時の演劇部は女性部員ばかりで、
当時の男子生徒の部活動と言えば、
スポーツが一般的だった風潮もあり、
悶々とした3年間を過ごしていたと云う。
(役者への道に憧れ、意を決して福島から上京し、
定時制の夜間高校に入学した当時の西田さん。)
しかし映画で 『東京弁』 に触れる度に、
「俺、このままずっとこの多感な時期に、
こっちで暮らしていると、福島弁が染み付いちゃって、
もしかしたら標準語を、
喋れなくなっちゃうんじゃないか」 との危機感を感じ始め、
演劇が好きでも福島弁でしか演じられない現状に自問し、
標準語を習得したいと思い始め、両親を説得の上、
中学卒業と共に上京し、
俳優になった出身者が多いと雑誌で読んだ、
明治大学付属中野高等学校へ進学 をした。
高校に進学するとバレーボール部に入部した。
偶々、男子部員が居なくて困っていた、
演劇部の女子部員から、
男役として部に協力して欲しい と請われ、
顧問の様な形で演劇部に参加した。
1年生の頃は、訛りが直らずに、
高校場慣れをして上野動物園に通い、
一日中ゴリラを見ていたため、
同動物園の飼育課長に、
「あんなにゴリラの好きな人って生まれて初めて見ました」 と、
評されたと云う。
昭和41(1966)年、明治大学農学部に入学と同時に、
日本演技アカデミー夜間部に入った西田さん。
しかし日本演技アカデミーと掛け持ちしているうちに、
そちらへ熱が入り、僅か1年で大学を中退して、
アカデミーの昼間部に通い。翌年に卒業した。
アカデミーを出た後、昭和42(1967)年に、
アカデミー時代の友人と 劇団 『シアター67』 を結成するものの、
1年後には解散。
この頃していたアルバイトの時給は、当時95円だった。
丁度その頃に、
同年に 『渥美清の泣いてたまるか』 (TBS系列) で、
テレビ俳優としてデビュー を果たした。
昭和43(1968)年に、青年座の俳優養成所に入り、
同45(1970)年に同養成所を卒業して、
青年座座員と成った後、
同年の青年座07月公演『情痴』(作 ;西島大)で、
初舞台を踏んだ。
この時、西田さんは少年A役を演じ 「テアトロ」 に、
「西田敏行という俳優が面白い」 と書かれていた。
西田さんは、この切り抜きをずっと大切に持っていて、
その記事を読んだ師匠の中台祥浩氏(1928-1980)は、
西田さんに対して 「今後共、面白い役者と云う事を、
お前の命題にしてやっていけ」 と云われたと言う。
そのため西田さんは、
「今でも上手い役者に成りたいとは、思わない」 と、
語っていたと言う。
(当時、青年座の劇団員として、
活躍していた西田さん。)
昭和46(1971)年10月公演の『写楽考』(作;矢代静一)では、
主役に抜擢され大器の片鱗を見せた。
その後、役者として一時期、不遇の日々を送るもの、
同51(1976)年にレギュラー出演した 『いごごち満点』 、
『三男三女婿一匹』 (共にTBS系列) で注目を一躍集め、
主演である森繁久彌(もりしげひさや)さん(故人)との、
軽妙なアドリブにも堂々と渡り合う硬軟自在で、
個性的な演技と、愛嬌のある顔立ちや体型で、
一気に知名度を上げ人気を獲得した。
同52(1977)年には 『特捜最前線』 (テレビ朝日系列) 、
同53(1978)年には初代 『西遊記』 (日本テレビ系列) に、
レギュラー出演をし、重要な役である “猪八戒” の役
を演じ大ブレイクをした。
(お馴染み、初代 『西遊記』 で、
猪八戒役を演じた西田さん。)
更に同55(1980)年には、
代表作として名高い 『池中玄太80キロ』 (日本テレビ系列) と、
『サンキュー先生』 (テレビ朝日) では主演を務め、
翌56(1981)年には、NHK大河ドラマ 『おんな太閤記』 では、
準主役を務める等、連続ドラマに相次いで出演し、
役者としての知名度を不動のものに仕立て上げた。
西田さんは、俳優だけに留まらず、
歌手活動も精力的に行ない、
同56(1981年04月に発売した『もしもピアノが弾けたなら』 、
~『池中玄太80キロ』 第2シリーズ主題歌~ は、
大ヒットと成った。
この頃の西田さんの体重は、81kgだったと言う。
(土曜日の夜、ゴールデンタイム、
『池中玄太80キロ』 で主演を務めた西田さん。
ここで知名度を不動のものにした。)
因みに 『NHK紅白歌合戦』 に於いて、
基本の4パターンである司会、歌手、審査員、
応援 (ナレーションを含めると5パターン) 全ての部門で、
出演経験があるのは西田さんだけ である。
西田さん自身の素朴で飾り気の無いキャラクターやトーク、
アドリブの巧さ、コメディアン・エンターテイナーぶりは、
バラエティ番組やコント番組でも注目され、
『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』
(NET〔現テレビ朝日〕系列) を始め、
数多くの番組に出演する他、司会等も務め、
演劇活動以外でもマルチタレントな才能を発揮させた。
同61(1986)年、映画 『植村直己物語』 の主演を務めた、
西田さん自身にとっては明大農学部の先輩で、
映画公開の2年前の昭和59(1984)年02月に、
マッキンリーで消息を絶った冒険家・植村直己役を演じた。
この作品では、モンブラン(フランス)、
エベレスト(ネパール&中国)、マッキンリー、北極等、
植村の足跡を追う5大陸ロケを敢行した。
話題となったが、約7ヶ月に及ぶ長期ロケは、
過酷なもので西田さんは、死を覚悟して臨んだと言う。
「実際に大自然と対峙し、
つくづく抗えない事があるんだと痛感させられました。
同時に、大自然の中に身を置いて芝居をするという経験が、
僕に言葉にはならない、
色んなものを与えてくれたと云ういう意味で、
エポックメーキングに成った作品だと思います」 と、
自身にとっての大きな転機と成った作品だと、
この様に語っている。
(主演ドラマの挿入曲として歌っていた、
『もしもピアノが弾けたなら』 が大ヒット。
この年、NHKの紅白歌合戦に出場した、
西田さん。)
2年後の1988年6月公開の 映画 『敦煌(トンコウ)』 でも、
長期の現地ロケに参加した。
一時は 『極地俳優』 の異名をも取った。
そして同63(1988)年から、ミリオンセラーと成った、
映画 『釣りバカ日誌』 シリーズに出演し、相方である、
三國連太郎さんとのコンビでは、
“ハマちゃん”“スーさん” の掛け合い で、
人気作品のひとつと成り、
最終の第20作(特別編2本を入れると22作)まで、
約22年に及ぶ長期シリーズとなり、
まさに西田さん自身の代表作の1つとなった。
因みに西田さんの映画初出演作品は、
三國さん主演の 『褸襤の旗』 (監督 吉村公三郎、
足尾銅山鉱毒事件を題材にした作品、
昭和49(1974)年)反体制派農民の一人、
多々良治平という役であった。
そして、平成13(2001)年(平成13年)には、
『探偵ナイトスクープ』 (朝日放送系列) の、
2代目局長に起用され、01月26日放送分から、
令和元(2019)年11月22日の放送分まで、
約19年間に渡ってレギュラー出演をした。
当時、初代局長であった上岡龍太郎さん(故人)が、
平成12(2000)年03月末で芸能界引退のため、
降板した(番組では04月放送分まで)ため、
西田さんは番組関係者から、
熱心な打診を受け内諾をしていたものの、
NHK大河ドラマ 『葵徳川三代』 の収録が完了するや、
アコンカグア登山のスケジュールに、
当時追われていたため、
その収録を終えなければ出演出来ない状況だったと言う。
そのため番組内では、
新しい局長が登場まで西田さんの名前を伏せ、
局長席に 『鋭意交渉中』 の札を掛け続けて、
探偵、顧問が週替わりで繋ぎとして進行役を務めていた。
局長としての初出演は、日本への帰国直後、
そのままABCホールに直行しての収録となり、
ニットシャツにジーンズ、顔中に無精髭を蓄えた、
ワイルドな出で立ちでの登場となった。
同番組内では、関西弁交じりで話し、
非常に涙脆い一面 が伺え、
大阪で移動にタクシーを利用すると、
運転手に 「なんであれで泣くの?」 と、
聞かれる事があると言う位に、
番組のカラーを変えたとされている。
特に 依頼内容に少しでも感動的な要素があると、
ほぼ漏れなく涙を流している 事について、
番組の担当プロデューサーは、
「涙をウリにするのは桂小金治さん(故人)以来。
小金治さんは噺家で泣かせるが、西田さんは名優。
涙の値段が違う。」 と、こう高く評していた。
体力の限界を理由に西田さんが番組を降板し、
局長を退任してからも、
番組のメンバーとは食事会や、
グループLINE等での交流が晩年まで続いていたと言う。
並行して平成13(2001)年04月からNHK-R1の、
ラジオドラマ番組 『新日曜名作座』 に、
女優・竹下景子さんと共に起用される。
前任者である森繁久彌さんと、
加藤道子さん(故人)のコンビで50年に渡り、
放送された 『日曜名作座』 の番組スタイルを、
継承する事と成った。
平成23(2011)年03月11日、東日本大震災が発生。
福島県も未曾有たる被害を被った。
同年04月02日、西田さんは故郷、
福島県郡山市のスーパーを訪問し、
県産の野菜やイチゴ、キュウリなどを試食して、
安全性のアピールにひと役買った。
この時涙に目を潤ませながら、
「美しい福島を汚したのは誰だ!
誰が福島をこんなにしたんだ!本当に本当に腹が立つ。
福島はどんなことがあっても負けねぇぞ!」 と絶叫した。
同月04日には早朝からTBS系、
『みのもんたの朝ズバッ!』 に生出演し、
福島第1原発事故の影響で、
福島県産の牛肉について不安を煽る様な、
不確定な発表が行われ、撤回・修正された。
これには 「呆れて物が言えないですよ。
風評被害というのは、一度立っちゃうと、
払拭するまで物凄い時間が掛っちゃう」 と、
怒りを露わにした。
同じ日の朝日新聞朝刊では、
「我慢強い人が多い福島ですけど、今度だけは、ね。
東京電力や原発を進めてきた政治家達に、
怒りの声を張り上げたい」 と心境を寄せたと言う。
また、令和元(2019)年には、
当時 『探偵!ナイトスクープ』 で共演していた、
カンニング竹山さん著書である、
『福島のことなんて、誰もしらねぇじゃねえかよ!』 の、
第9章に登場して対談を行って折り、
その中でも福島県産の農作物等の、
不買運動を始めとした風評被害に対する悔しさを滲ませ、
東京の飲食店で酒を飲んでいた際に、
「福島の女は嫁に貰えない」 等と、
隣の席に座っていた男性数人が、
大声で発言していたのを目撃し、
西田がその場でこの不適切な発言をした彼らに対して、
激怒 したというエピソードを明かしていて、
これを知ったカンニング竹山さんは、
「えーっ、あの温厚な局長が、ですか?」 と、
驚いていたと言う。
同年06月14日には、東京都内で行われた、
東日本大震災被災者支援発表会見に出席した。
『NPOふるさと回帰支援センター』 の主催で、
岩手、宮城、福島3県の被災者に向けた、
他県への移住支援を発表した。
その際 福島県出身の西田さんは、
「原発の反対は現実的でないと言われてきたが、
脆くも事故を引き起こした」 と憤慨した。
宮城県出身の菅原文太さん(故人)も、
「原発の是非を問う国民投票をすべき。
総理大臣も最後に大きな仕事になる。
ドイツもイタリアも脱原発を決めた。
良い意味の三国同盟を作って欲しい」 と訴え、
2人とも 『原発はNO!』 とハッキリと言い切った。
(後日、東日本大震災・原子力災害伝承館
〔令和02(2020)年開館〕の解説映像で、
ナレーションを務める。)
デビューから今日に至るまで、
様々な苦労を重ねてきた西田さんであったが、
やがて陽の目が当たる事と成った。
平成20(2008)年11月には、
長年に渡る 演劇界での業績が認められ、
紫紺褒章を受章 し、同年7月30日には、
出身地である福島県からは、
県民栄誉賞を贈る事を発表。
同年09月17日には、
出身地である郡山市で 西田さんは、
県民栄誉賞の称号 が贈られた。
平成21(2009)年には、
俳優・里見浩太朗さんの後を受けて、
西田さんは、日本俳優連合・第5代目の理事長に就任し、
亡くなる直前までの16年間、
俳優の資質や地位の向上・権利問題等に、
真摯に取り組み。
時には矢面に立って、
国の迅速な支援対応を求める等、
精力的に活動されていた。
しかし長年の頑張りに渡る疲労の蓄積から、
壮年から晩年期に掛けての西田さんは、
しばしば病に襲われる様に成っていた。
『探偵ナイトスクープ』 の2代目局長に就任した、
その年の11月07日、首の骨が変形し、
頸椎の神経が圧迫され、
手足が痺れる 「頸椎性脊髄症」 を患い入院し、
同月15日には神経圧迫部位を除去する手術を行ない、
翌月には退院・復帰していた。しかしその2年後に中る、
平成15(2003)年03月03日の夜、自宅で突然、
心筋梗塞に襲われて緊急入院をした。
しかし幸にも治療に於ける経過処置が早く、
症状も安定していたため同月28日には、
退院するに至った。
しかしこの入院が原因で、西田さんが当時、
紀伊國屋ホールで主演予定だった、
青年座 『乳房』 (作:市川森一) 舞台を降板せざるを得なく、
西田さん出演の役舞台は、代役を立てて上演された。
症状を発する以前に西田さんの食生活が、
肉食中心の生活でしかもヘビースモーカーだった事が、
病の引き金の要因と指摘されていた。
入院中に、吉永小百合さんから手紙を貰い、
そこに書かれて手紙の文面の中に、
「タバコだけはやめてね、西やん」 と書かれていたと言う。
この言葉に、西田さんは一念発起し、
禁煙宣言をした。また体重も82kgまで減量した。
復帰後のインタビューの中で西田さんは、
「ここで死んだら遺作(のタイトル)が、
『ゲロッパ!』に成るが、それだけは避けたかった」 と、
この時の出演映画の告知と、
ユーモアを交えたコメントを述べ、
全快をアピールしていた。
だが、平成28(2016)年02月01日、
自宅ベッドから転落して首を痛め、
「頸椎亜脱臼」 と診察した医師から診断され、
この時出演中の ドラマ 『家族ノカタチ』 の撮影には、
参加を続けていたものの、
同月12日に大阪の朝日放送で予定されていた、
冠番組の収録は、
大事を取って欠席(03月04日&03月11日放送分)をしたが、
同月26日の収録には復帰をしていた。
04月19日に、
02月01日に自宅のベッドから転落して首を痛めた、
頸椎の一部を、頸椎に移植する手術を受けた。
しかし追い打ちを掛けるかの様に、
頚椎の手術後に、
今度は胆嚢炎を発症する羽目になり、
05月06日に予定されていた冠番組の収録を取り止め、
同月12日には胆嚢の摘出手術を受けた。
まさに西田さんに取っては、
自宅のベッドから転落して首を痛めた事が災いし、
次から次へと病の連続で、番組収録を休む様に成った。
しかし肉体的な限界を感じた西田さん。
令和元(2019)年11月22日分の放送を持って、
冠番組を降板した。
西田さんが番組を降板してからも、
番組のメンバーとは食事会やグループLINE等での、
交流が晩年まで続いていたと言う。
しかし、突然の悲しみが訪れた。
今年10月17日、都内の自宅のベッドで、
西田さんの全身が冷たく成っている処を、
付き人に因り発見され、
既に帰らぬ人と成ってしまっていた。
亡くなる9日前の同月08日の、
映画 『劇場版ドクターX』 の完成報告会見に、
西田さんは出席していて、
亡くなった当日も仕事の予定を入れていたと言う。
西田さんの遺体は即日警察に回送され検案の結果、
死因は「虚血性心疾患」である事が明らかにされた。
遡る事平成15(2003)年03月03日の夜、
自宅で突然、心筋梗塞に襲われて、
緊急入院していた経緯もあり、
その心臓系の病魔が再び西田さんを襲い、
遂には帰らぬ人と成ってしまった。
亡くなってから6日目に中る10月22日の通夜の席には、
生前西田さんと50年来の親交があり、
『五人会』 を結成していた歌手の松崎しげる(74)さん、
俳優の柴俊夫(77)、田中健(73)らが参列して、
故人と最後の一夜を過ごし、
翌初七日に中る23日の午前11時に始まった告別式には、
西田さんの親族関係者の他、親交が深かった、
俳優の大泉洋(51)さん、岸部一徳(77)さん、
歌手の大友康平(68)さん等、関係者ら約50人が参列し、
都内の寺院で締めやかに行なわれた。
12時20分の出棺の儀の際には、
白い棺が霊柩車の中へ運び込まれた後、
家族が位牌を持って助手席へ。
クラクションの出発の合図と共に、
旅立つ故人に参列者全員が合掌する中、
車は静かに斎場を後にし、
西田さんは静かに黄泉の国へ旅立って逝ってしまった。
昭和、平成、令和の3時代を駆け抜け、
テレビドラマや司会等で多彩な活躍で、
お茶の間を賑わせた、西田敏行さん。
戦後間もない混乱期に実父を幼くして亡くし、
実母の姉に中る伯母の申し出で、
他家へ引き取られると言う不遇な幼少期を送った。
しかし少年時代に養父が連れ行ってくれた、
映画館で観たチャンバラ映画との出会いが、
その後の西田さんの心の変化を促す、
ひとつの切っ掛けと成った。
「観る側より映画のスクリーンに映る自分の姿を、
ぼんやり夢想していた」 と云う、
心の奥底に芸能関係への憧れが始まっていたのだろう。
しかし中学校に入学した当時の演劇部は、
女性部員ばかりで、
当時の男子生徒の部活動と言えば、
スポーツが一般的だった風潮が、
当たり前だった世の中でもあり、
少年時代の西田さんに取っては、
悶々とした思春期の3年間を過ごしていた。
しかし演劇志向の夢が捨てきれずに、
中学卒業を期に福島から上京し、
都内の定時制高校に通いながら、
バレーボール部に所属していた当時、
演劇部の女子部員から男子部員が居なくて、
困っているので、
男役として部に協力して欲しいと請われ、
顧問の様な形で演劇部に参加したのが、
更に演劇への道への接近を因り促す切っ掛けに成った。
大学入学と同時に演劇スクールにも通い、
そのうちに演劇の魅力に取り付かれて、
大学を中退し演劇一筋の世界にのめり込んだ。
演劇スクール卒業後、友人と劇団を立ち上げて、
1年間活動した後に、
初のテレビ俳優としての役者デビューを飾った西田さん。
その後新たなる劇団に入部して、
役者としての演技力を磨きつつ、
次第にテレビ出演が増え始め頭角を現し始めた。
『いごごち満点』『三男三女婿一匹』『西遊記』
『池中玄太80キロ』『おんな太閤記』『釣りバカ日誌』 等、
西田さんらしい演技で次々とヒット作を生み出し、
老若男女問わずに親しまれる、
キャラクターにまで成長した。
(西田さんの代表作とも言える、 『釣りバカ日誌』 。
相方である三國連太郎さんとの掛け合い、
“ハマちゃん”、“すーさん” の言葉は、
一種の社会現象にも成った。)
その反面、西田さんは戦争に反対する思いは、
母親の影響が大きく、
「 『戦争は絶対してはいけない』 という思いは、
母から受け継いだ僕の信条。
子供の頃から、母はよく、
『日本が二度と戦争をしちゃ駄目よ、
あなたが兵隊に行く様な事があったら絶対嫌だ』 って、
ずっと目を潤ませていつも言ってたんだ。
戦争と言うものは勝者も敗者も、
何も得るものはないんだという、
母親の言葉は強く響いている」 と述べ、
大学在学中には学生運動にも当時参加していた、
筋金入りの護憲派の姿勢を強調していたと言う、
一面もあった。
時折 「団塊世代の役者としてケジメのつけ方がある」
「役者も政治的にならなければ」 等と、
自らの政治信条を度々述べる事もあった。
前述の通り、 護憲リベラル色が強い、
政治信条ではあったが、
長年の友人であった、海援隊のリーダー・武田鉄矢さん、
『探偵!ナイトスクープ』 の構成作家を務めていた、
百田尚樹氏(現 日本保守党代表)、
探偵のカンニング竹山さん、
顧問を務めた落語家の桂ざこば師匠(故人)等、
保守的姿勢の人物及び論客とも呼ばれている、
交流や共演も多く、
また人一倍の人情家で涙脆い一面 も見せてくれた。
団塊の世代を代表する西田さんではあったが、
ここ近年は持病と背中合わせに向き合う時間が多かった。
亡くなる直前まで、役者魂の火が消える事なく、
映画 『劇場版ドクターX』 の完成報告会見をも行ない、
その亡くなる当日も仕事の予定が入っていた。
しかし、自宅のベッドで、身体は冷たい状態で発見され、
既に静かに息を引き取っていた西田さん。
これから先、また新しい、
西田敏行ワールドの演技の世界を切り拓こうとしている、
矢先での突然の訃報でもあった。
お茶の間のテレビ画面を通して、
人懐っこい表情で世代を超えて親しまれてきた、
西田敏行さん。
同じ東北人として、
訃報の知らせは出身地の福島県だけではなく、
東北全体、日本を代表するエンターテイナーの訃報は、
大きな損出でもあり、
昭和を代表する俳優がまた一人、
静かにこの世を去ってしまった。
心よりご冥福をお祈りを申し上げたい。
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【お知らせ】
次回は、西田敏行さんの功績を偲び、
後編として、ピクチャー集及び、
動画関連集を特集致します。
更新は今月末辺りと成ります。
次回の更新まで暫くお待ち下さい。
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JG7MER / Ackee