貧困、学力、就職、地域などの格差の問題、さらには虐待、いじめ、育児放棄、介護の問題、はたまた災害や自殺や民俗紛争やパンデミックの被害などを論じるとき、「これは自分の問題ではなく、自分とは関係のない誰かの問題だ」と思う人は多い。

すべては他人事である。

なぜなら、彼らは貧困を、虐待を、差別を、感染を、紛争を知らないから。そして、知ろうとすらしてこなかったから。

さらにその根本原因を言い表わすとすれば、「それらの問題が、彼らの『関心領域』になかったから」と言うことができる。

同じ理由から、アウシュヴィッツの壁の隣で、収容所長ヘスとその一家は、富裕で安全で楽しい、満ち足りた生活を送ることができたのだ。

 

この国でも、戦中戦後生まれのうち、高度成長期に経済的に安定した家庭を築き、教養と学識ある親となった者たちこそが、我が子に「人のことは気にしないでいいから、自分のことだけを考えなさい」と教え、育ててきたのではないか。

だから、そのような既得権益を持つ、家柄の良い富裕な親たちによる利己的な教えで育ち、自分のことだけにかまけて、一生懸命に勉強して、大人になった次世代の為政者や役人や学識者たちにとっても、貧困も格差もいじめも死も、ますます自分たちの問題ではないのだ。これは負のスパイラルである。

彼らは、弱者を自分とは別世界の哀れな遠い存在と見做しながら、ごく自然に無意識に賤しみ軽んじ侮蔑している。

だから、世の中は何も変わらない。綺麗事は言っても、本心では変えようという気がないからだ。

たとえ隣人が餓死しかけていても、「私の問題ではない」と彼らは無視できるのだ。

 

しかし、本当に、そうだろうか。

本当に無視していいことなのか?

 

アメリカの文豪マーク・トウェインは『王子と乞食』の最後で、若い頃、ひょんなことから、こじきの子トム・カンティと入れ替わって貧乏の辛酸を舐めたエドワード王が民に善政を行ったと記した。大臣らが「陛下、さすがにそれはやりすぎでは」と異議を申し立てると、悲しそうな目を向けて、「貧困について其方たちに何がわかる」「わかっているのは民と私だけだ」と述べたと。

このエドワード王の言葉は、若い頃に苦労したマーク・トウェイン自身の言葉だと思う。

わからない(知らない)ということは、例えようもない悲劇であり、罪でさえある。

「知らないから何も感じないし興味もない」で済ませられては困るのだ。

マーク・トウェインの言いたいことは、そういうことだ。

 

イギリスの詩人ジョン・ダンは、やはり、若い頃、カトリックに対する宗教的迫害を受けて、とても経済的に困窮し、裕福な友人たちの援助に頼っていた時期があった。後年、国教会に改宗し司祭となって、セント・ポール大聖堂の主席司祭に出世した。

しかし、若い頃の苦労があったからこそ、『誰がために鐘は鳴ると問うなかれ』の詩が書けたのだと思う。

波に砂がさらわれてゆく。それによって大陸が欠けていくように、その砂(失われた命)は見知らぬ誰か(の命)ではない。欠けていくのはあなた自身なのだ。

死を弔う鐘は、あなたの知らない誰かのために鳴っているのではない。鐘はあなたのために鳴っているのだ。

ジョン・ダンはそう書き遺した。

 

この世のあらゆる問題の原因は、自分とは関係ない誰か他の人たちにあるのではない。

問題の原因は、私自身にあり、あなた自身にある。

そこから目を逸らせてはならない。

この世に「あなたに関係のない問題などない」のだから。

マーク・トウェインやジョン・ダンの言いたいことは、そういうことだ。