なぜ人はカルト・宗教・陰謀論にハマるのか?


それについて考える上で、まずは「カルト・宗教・陰謀論とは何か?」について考えてみたい。

「人間の幸福とは何か?」

「人生の成功とは何か?」

「神とは何か?」

「魂とは何か?」

「人はなぜ不幸になるのか?」

「人は死んだらどうなるのか?」

「人間に魂はあるのか?」

「死後の世界はあるのか?」

「神はいるのか?」

「どうすれば苦難から逃れられるのか?」

「どうすれば死の恐怖を克服できるのか?」

「どうすれば幸福になれるのか?」

「どうすれば成功できるのか?」

「人類社会が幸せになるのを邪魔するものは何か?」

「どうすれば人類は破滅に向かうことなく、現在の困難な課題を乗り越えられるのか?」

そうした切実な課題に対して、カルト・宗教・陰謀論は、わかりやすい答えを用意している。


しかし、彼らが用意している答えは、事実や理性に基づく科学的なものではなく、偏った価値観やゆがんだ世界観や誇大妄想が混ざった歪なファンタジーである

そうしたカルトの代表として、幸福の科学、GLA、旧統一教会、顕彰会、アーレフ(旧オウム真理教)、ラエリアン・ムーブメント、一貫道(天道)、モルモン教、エホバの証人、キリスト教原理主義、イスラム教原理主義、シオニズムなどがある。

例えば、幸福の科学の創始者である大川隆法氏は、自らギリシャ神話の商業神ヘルメスと仏陀の生まれ変わりで、地球神(エル・カンターレ)の中核(本体意識)と称する。また、大川氏の先妻のきょう子氏は、アフロディーテや文殊菩薩の生まれ変わりとされていたが、離婚した途端、ユダの生まれ変わりとされ、代わりに後妻の紫央氏は坂本龍馬の生まれ変わりとされている。まるで、昨今のライトノベルの定番である異世界転生のアイディアを利用した神さま詐欺のようにしか思えない。

また、旧統一教会の創始者文鮮明は、15歳の時にイエスの霊から「自分の果たせなかったメシアとしての使命を果たしてほしい」と頼まれ、このイエスの頼みを受諾したと述べている。つまり、イエスに代わって救世主(メシア)として世界を救うことを引き受けたというのだ。

しかしながら、私としては、地球神(ブッダ?)と救世主(キリスト?)が、同時代・同一地域に二人も揃っていたにも関わらず、彼らが生きていた間に人類が救われたとは到底思えない。


ラエリアン、アーレフなど一部のカルトは、自分たちの教えは科学であると主張しているが、事実はそうではないので、彼らの教えを疑似科学・ニセ科学と批判することもできるだろう。

例えば、ラエリアン・ムーブメントは、人類含めてすべての地球生命は、地球外生命体エロヒムの遺伝子操作によって創造され、進化させられたと主張する。創始者であるフランス人ラエルは、UFOからのエロヒムのメッセージを受け取った20番目にして最後の預言者で、その与えられた使命は、クローンと記憶データ転送技術の開発による不老不死の実現である。ラエリアンは、魂など存在しないと考えており、適切な方法でクローンの脳に記憶を転写できれば、人の不老不死が実現すると信じている。ラエリアンの洗礼を受けた者は、洗礼を受けた時に遺伝情報がUFOに送られており、死後、今度は記憶情報がUFOに送られて、エロヒムによってUFO内でクローンが作られ、記憶が転写されて、無事、宇宙で復活することができるという。まるで、萩尾望都のSF作品『A-A’』の内容そのものである。

また、ラエルは、信者の減ったフランスから世界一信者の多い日本(千葉の本部)に移り住んでいたのだが、3.11での放射能の被害を恐れて、千葉から沖縄県南城市に移住した。

人類よりはるかに進んだ知的生命体エロヒムと交信しているラエル(「UFOに選ばれた男?」)が、なぜ福島の原発事故如きの微細な放射能の害を恐れて、わざわざ千葉の総本部から沖縄に移住しなければならなかったのか、意味不明である。エロヒムの放射能除去装置はどうした?


加えて、上記のカルト・宗教は、陰謀論との親和性も高い。陰謀論者たちにおいては「イルミナティやQアノンなど世界征服を企む悪魔的秘密結社が今も活発に活動している」と信じられている。ビル・ゲイツは、秘密結社の手先であり、トランプは結社と戦う戦士なのだそうだ。

また、極左の中核派や革マル派や赤軍派などの組織集団も、政治的なカルトである。彼らにとっては、アメリカの核は悪い核で、北朝鮮の核は善い核である。いずれにしても、ひどく偏っている。

そして、彼らカルトは「自分たちは、外の社会の悪意から、不当な抑圧や攻撃を受けている」と信じている

その反面、大学生などに、「サークル勧誘」を装ったりして、監禁・脅迫まがいの過激な勧誘を繰り返し、多くの逮捕者を出しながらも、逮捕された信者を機関紙で英雄としてたたえるという、なりふり構わぬ折伏至上主義の顕正会に代表されるような、しつこい勧誘のために法的なトラブルが常態化している戦闘集団的カルトもある。

また、カルト集団のほとんどは、多かれ少なかれ現世利益的であり、組織が効率的な集金システム装置として機能するように、彼らの教えを最大限に利用している。

厳格な「10分の1律法」で信者の収入の10分の1を集めるモルモン教以外にも、出家者に全財産を寄進させるオウム真理教や、極端な資産の寄進をさせる旧統一教会などに見られるように、カルトには、大規模な集団詐欺組織のように見えるものさえある。



それでは、なぜ人はカルト・宗教・陰謀論に引っかかるのだろうか?


◯最大の理由としては、彼らが、「自分が求める幸福とは何か?」「どうすれば不安や虚しさから解放されるか?」「自分が幸福になるために、何を追求すべきか?」といった哲学的問題にじっくり時間をかけて向き合うのが苦手ということがある。そのため、彼らは、常日頃から、問題の手っ取り早い解決法を探している

今日、多くの人が、健康で、お金があって、面倒な雑事が減れば、それで自分は幸せになれると、呆れるほど素朴に単純に考えている。

実利的で効率重視の現代人には、このタイプが多いようだ。

見方を変えれば、体調の変化や経済的負担や仕事上のストレスなど、物理的な目に見える、あるいは五感ではっきりと知覚できる問題には敏感だが、目に見えない内面的な問題には鈍感であったり、取り扱いが不慣れであったり、何かと無視しがちな人が増えているということでもある。

ストレスに関しても、疲れやすいとかだるいとか眠れないとか下痢をするとか頭痛がするとか、身体に苦痛として現れている状態だけを問題視して、根幹の内面的問題は見つめようとしない。

しかし、そういう人が、放置してきた内面の問題が積もり積もった状態で、精神の危機に見舞われた場合、あるいは人生の破綻に直面した時、彼らはどうしたらよいのか、まったくわからなくなる。八方塞がりのお手あげ状態となり、打つ手なしで降参するしかなくなるのである。

だから、切羽詰まって、「南無阿弥陀仏を唱えれば救われる」とか、「バプテスマを受ければよい」「入信すればよい」とか、「布教して信者をたくさん入信させればよい」「折伏すればよい」とか、「お布施をたくさんすればよい」「寄進すればよい」とか、他人が用意してくれる安易なわかりやすい答えに飛びついてしまう


◯第二に、彼らは幼少期から読書によって、例えば「ピノキオ」「ピーターパン」「不思議の国のアリス」「ニルスのふしぎな旅」「北風のうしろの国」「夢を追う子」「オズの魔法使い」「風の妖精たち」「はるかな国の兄弟」「忘れ川をこえた子どもたち」「誰も知らない小さな国」「時の旅人」「ジェニーの肖像」「思い出のマーニー」「クラバート」「ナルニア国物語」「ゲド戦記」「指輪物語」「西遊記」「千夜一夜物語」「ギルガメシュ物語」「北欧神話」「ギリシャ神話」「旧約聖書」などの壮大なファンタジーの世界観に親しむことなく、「ノーストリリア」「星を継ぐ者」「冷たい方程式」「所有せざる人々」「地球の長い午後」「いまひとたびの生」「都市と星」「ハイライズ」「大宇宙の少年」「アンドロイド」「火星年代記」「神様はつらい」「星からの帰還」「アルジャーノンに花束を」「残像」「ライアへの賛歌」「中性子星」「都市」「エンパイア・スター」「人間以上」「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」「高い城の男」「1984年」「たった一つの冴えたやり方」などの絢爛たるSFの奇異な宇宙観に触れることもなく、「トルストイの民話」「石の花」「王子とこじき」「モンテ・クリスト伯」「レ・ミゼラブル」「大いなる遺産」「復讐には天使の優しさを」「大地」「人間の絆」「フラニーとゾーイー」「青銅の弓」「剣と絵筆」「王のしるし」「ともしびをかかげて」「風のような物語」「星の王子さま」「蜘蛛の糸」「ペスト」「七つの人形の恋物語」「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」「ドン・キホーテ」「蝿の王」「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」などの古典的作品を読むことで経験できる深い倫理的思索を楽しむこともなかった。要するに文学的素養に欠けている。同時に、読書による精神形成の機会もなく、自らの貧困なる精神を自覚して耕す努力もせず、人間的に成熟することなく生きてきたのである。

だから、カルトの提示する出来の悪いファンタジーの薄っぺらい世界観や価値観にも、疑問や反発を感じずに素直に丸呑みできてしまうのだ

それもこれも、彼らが文化的芸術的素養に乏しく、性質としてナイーブ(未熟・知識不足・判断力に欠ける)であるからだ。


◯第三に、彼らは、幼少期の家庭において、信頼できる人との持続的・安定的な人間関係を築いていく経験を欠いていた

原因は親との死別や離別、家庭崩壊や仮面家族状態など、さまざまな要因がある。そして、青年期においても、自力で信頼できる人間関係を築くことに失敗し、内面では精神の危機が進行していく。彼らは、家族や友人や隣人などとの安定的で親密な関係がつくれないまま、不安と孤独とストレスに苛まれて生きている。

問題の一部は、親子モデル、夫婦モデル、友人モデルの欠如から、人間的成熟が阻害されていることである。そして、もう一つ、重大な問題は、人間不信から、日常的に虚無感に襲われやすいことだ。

そのため、カルトの擬似家族的関係に惹かれやすく、いったんハマってしまうと、カルトへの依存から逃れるのが難しくなる

同時に、リアルの家族との関係は、ますます希薄になり、夫婦の別離や親子の断絶は決定的となり、それがまた、信者たちのカルトへの依存を強める。

一般社会から切り離されることで、ますますカルトへの依存が強まるという負のスパイラルである。

昔ながらの地域共同体(コミュニティー)が崩壊し、人間関係が希薄になりがちな現代社会においては、以前よりもカルトにハマりやすい環境が醸成されているといえる。


◯第四の要因は、親自身が、カルト的な精神の呪縛に囚われていており、子どもも親の呪縛的価値観に影響されて、親の望み通りに支配されてしまい、自由に考えることができなくなってしまうことから生じる強迫観念である。

ここで言う「親自身が囚われているカルト的な精神の呪縛」とは、必ずしも既成のカルト教団の教えを意味するわけではない。

カルト教団の教えとは関係のない、一般的な呪縛に囚われる親子の例として、典型的な関係は、例えば「お受験」にも見られる。多くの場合、「受験のために勉強することは絶対善である」という親の呪縛的価値観が、子どもの自由と好奇心と創造性を阻害し、ストレスに弱く依存的な性質を育てるのだ。そして、「答える時、間違えてはいけない」「勉強していないと負け組になる」という根拠のない強迫観念を生む。いわゆる〝優等生気質〟をつくりあげる。

ここで言う強迫観念とは、間違えることへの不安、そして、自分はきちんと努力していないのではないかという不安である。こうした呪縛的な不安は、幼い頃に、周囲の文化的環境によって植え付けられたもので、根が深く、矯正が困難である。また、信者の不安を煽ることで、信者を教団に依存させるのは、カルトの常套手段である。このため、大人になって、たとえ支配的な親から離れることができたとしても、似たような呪縛的価値観を持つ支配的なカルトに容易に囚われてしまうという負の連鎖が止められない。