およそ700万年前、最も近縁の類人類であるチンパンジーと分岐した時に、ドーパミンやエンドルフィンなどの神経伝達物質の放出量が減り、不安を強く感じる変化をもたらす遺伝子の変異が人類に生じた。この変異は、人類が、猿人、原人、旧人、そして現生人類(ホモ・サピエンス)などに分化する前に生じたものと考えられている。実際、ネアンデルタール人やデニソワ人など、4万年前まで生息していた現生人類と近縁の種(旧人)のゲノムを調べたところ、どの人種においても、この変異は共有されていた。
因みに「不安」とは異なり、「恐怖」は、あらゆる脊椎動物が、危機において、たとえば天敵(捕食者)と遭遇した時などに側頭葉の扁桃体が分泌するストレスホルモンによって感じるものである。
また、チンパンジーを含めて類人猿は、孤独に放置された状態においても、激しい孤独の苦痛を感じ、それが長期に渡った場合には、脳にも物理的な傷(トラウマ)が残ることがある。
だが、それらの恐怖や孤独は不安ではない。恐怖や孤独は直接的で体感的なものだが、不安は目に見えないもの、未知なるものに対するこわさであって、性質の異なるものである。
この「不安」の遺伝子は、気候変動による環境の変化によって、アフリカ中部の密林が小さくなり、否応なく草原に出ざるを得なかったサルたちの中で、最も遠くまで旅した種族(ヒト)が、360度、身を隠すところのない草原で生きていく上で、警戒心を維持するために獲得されたと考えられる。
ヒトは、この「不安」を感じる能力を発達させることで、危険な環境で生きていくことが可能になった。その意味で、ヒトは、最も勇敢に旅を続けたサルの一種族であると言える。言い換えると、「不安」は、サルがヒトへと進化する必要条件の一つだったのである。
このように、私たちは「不安」を肯定的に捉えることもできる。しかし、その一方で、「不安」には否定的な側面もある。不安が強いと、人は過度に失敗を恐れて、過去の成功体験にしがみつき、なるべく安全策を取ろうとする。「不安」は人を保守的にする。それは新しい試みをためらわせ、創造性の発揮を阻害し、多様な選択肢を吟味する機会や学習の機会を失わせる。「不安」は、側頭葉(扁桃体)のストレス・ホルモンの分泌を誘発し、その一方で、前頭葉の活動を鈍らせ、結果として脳の進化を遅らせる。
およそ10万年前、ホモ・サピエンスにおいて、今度は、ドーパミンなど幸せホルモン系の神経伝達物質の放出量を増やし、不安を感じにくくする遺伝子の変異が生じた。この変異は、ホモ・サピエンスの「出アフリカ」の時期と重なる。
また、現代人のゲノム配列の調査では、アフリカ大陸内には、この変異を持つ人がほとんどいないことがわかっている。さらにネアンデルタール人やデニソワ人にも、この変異は生じていない。「出アフリカ」したユーラシア大陸の現生人類においてのみ、地域差はあるが、およそ30%に、この変異が生じている。
ユーラシア大陸のホモ・サピエンスは、不安を強く感じる遺伝変異のみ有する人たちと、不安を感じにくい変異も有する人たちが、10万年にわたって共存してきた。このうち、不安を感じにくい遺伝変異を有する人たちは、前頭葉が活性化しやすく、多様な創造性の発露によって人類社会の変革に貢献してきたと考えられる。そして、この「不安遺伝子」と「不安緩和遺伝子」の取り合わせが、人類社会の維持と進化に、共に必要であったことが推測される。
例えば、不安遺伝子しか持たないネアンデルタール人やデニソワ人は、ホモ・サピエンスに比べて、脳の容積自体は大きく、記憶を司る側頭葉(海馬)はホモ・サピエンス以上に発達していたが、予測や応用を司る前頭葉は未発達であった。彼らは、一度記憶したことは、決して忘れなかったが、その一度覚えたやり方を、状況に応じて臨機応変に改良して用いる柔軟性や創造性に欠けていた。
不安は、知識(データ)を記憶し、忘れないようにしようという意識につながる。その意味では「知りたい」という欲求はある。だが、その欲求は、知らないことへの不安から生じたものだ。だから、不安の強い人は、知識(データ)を溜め込みがちになる。しかし、データを積み上げ、保存したことで安心してしまい、それ以上、情報の分析や理解・把握に努め、知識を深める意欲には繋がらない。そこには発展がない。
一方で、不安がない人は、好奇心から「知りたい」と思う。そこには新たな発見への意欲があり、未知のものへの憧れがある。彼らは、分からなかったことが、少しづつ分かってくる過程そのものに快感を感じる。だから、「出アフリカ」した人々は、ユーラシア大陸の果て、オーストラリアやアメリカ大陸までも旅を続けたのだ。
不安は、私たちの前頭葉を硬直させ、私たちの感情も磨滅させる。その状態が続くと、喜びは失われ、虚無と絶望に取り憑かれるようになる。
だから、子供を優秀にしたければ、子供を不安な状態に放置しないことだ。安心を与えること、それは、特に、幼い子ほど大切なことだ。そうすれば、子供たちの自然な好奇心が開花するだろう。
それから、ある種の「覗き見趣味」と好奇心の違いについても述べておこう。覗き見趣味は、疑心暗鬼や不信感や対抗意識から、「お前の秘密を見抜いてやる、暴いてやる」という意識の現れであることが多い。あるいは、「他の人が誰も知らないこと、隠しておきたいことを知っている」という密かな優越感を抱きたいがための衝動とも言える。
しかし、その「知りたい」という衝動は〝好奇心〟ではない。
また、自分の病理診断を知りたがるのも、不安から生じる欲求であって、それは好奇心ではない。理科の試験に備えて「虹はなぜ生じるのか?」と先生に訊くのも好奇心からではない。
好奇心は、不安や自意識や競争心や優越感やテストの準備とはまったく関係がない。好奇心は、内発的動機に基づく完全に個人的で没頭的なもので、腰を据えた持続的集中力を生み出す原動力である。不安とストレスのない状態で、はじめてヒトは好奇心のままに創造性を発揮する。