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流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

昨日、ふと思い立って一人でドライブに出かけた。

 

そんなときによく行くのが山口県の日本海沿いの海岸線である。小倉から高速道路に乗り下関インターで降りて国道191号線に入った。GWも終わり道は混んでいなかった。

 

朝方は曇り空で風が強く、横風のため高速道路は速度規制されていた。車から見た海には白い波が立ち岩場に砕けしぶきを上げていた。やがて昼が近づくにつれて、天気も少しずつ回復していった。

 

 

途中、福徳稲荷神社の近くの湯玉の「稲荷茶屋」で昼食をとった。ここの「かつ丼セット」は素朴な味で量もちょうど良い。周りは地元の常連客が多いように思われた。

 

人心地ついて湯玉を越え右折して内陸部に入り菊川方面へ車を走らせた。これもいつものコースである。随分走り慣れたからか、山口県の北西部は何処に何があるか大体わかるようになった。まるでもう一つの故郷のような親しみを感じる。

 

 

豊浦町川棚に「虚無僧墓」「小野小町の墓」という史跡がある。いつも車で通り過ぎた後に看板に気付く程度の地味な存在で立ち寄ったことは無かった。今回もまた同じ轍を踏んでしまった。とはいえ、山口県には「楊貴妃の墓」もあるほどなので真贋のほどは定かではない。

 

 

車中で聴いたのはユーミンの「14番目の月」(1976年)「紅雀」(1978年)だった。いずれも名曲が散りばめられたアルバムで、リリース時期は私が高校から予備校時代のものである。

 

「14番目の月」「朝陽の中で微笑んでという曲がある。この曲にはある思い出があった。高校3年の秋も深まる頃、受験勉強の真っただ中、苦手科目が克服できずに悩んでいた。夜遅くまで起きてはいるが、勉強は進まず、ラジオの深夜放送ばかり聴いていた。ある日、とうとう空が白むまで眠ることなく朝を迎えた。

 

その時、ラジオ番組の最後に流れたのが「朝陽の中で微笑んで」だった。何処か哀しくて優しいメロディが徹夜で疲弊した体と心に響いた。

 

その日の授業で居眠りするのは目に見えていたが、何故か心は平静だった。いまでもこのメロディが流れると、勉強部屋の窓から見えた晩秋の白い朝の光景が脳裏に浮かぶ。

 

音楽は、ときに記憶よりも鮮明に、過去を蘇らせてくれるものらしい。

 

 

天候が大きく崩れることなく今年のGWが過ぎていった。青嵐が吹き燕が飛ぶ爽やかな季節である。もし普通のサラリーマンをやっていたら、今頃は社会復帰に齷齪(あくせく)していることだろう。そんな生活も今は昔となった。

 

 

草花の栽培は妻の趣味の一つだ。今日は朝から駐車場のわきの沈丁花の植え替えに付き合わせられた。昨夜、小雨が降ったので土が柔らかくなっており、今日は植え替えに絶好のタイミングだという。

 

元来非力だが、成り行きで手伝うことになった。でも、たまに土に触れるのは大切かも知れない。まあ、いずれは土に帰る身でもあることだし。

 

妻はまずツバキの剪定をして沈丁花の植え替えスペースを確保した。沈丁花を引き抜く段になって私に「ちょっと来て!」と助けを求めてきた。この「ちょっと来て!」に大抵ろくなことは無い。大きなスコップを持たされ沈丁花の周りを掘って根を切り何とか移植することができた。結構腰に来た。

 

Green thumb「緑の親指」だが、have a green thumb「園芸の才がある」の意味になる。

 

My wife has a green thumb.(米)

= My wife has green fingers.(英)

= My wife is good at gardening.

「私の妻は園芸の才がある」

 

 

朝から力を使ったら腹が減った。最近、よく行くのがお隣りの京都郡苅田町のうどん店「喜(のぶ)」である。ここのうどん、讃岐系の手打ちでもちもちとして実に美味い。出汁も塩辛くなくて絶品である。

 

セルフ形式だが昼時は店の外まで行列ができている。工場勤務なのか制服を着て食べに来てる人が多い。最近は時節柄「冷やしぶっかけ」にハマっている。天ぷらもとても美味しくていつもかき揚げと半熟卵の天ぷらをトッピングしている。おにぎりも美味しい。家族経営の店で開店して4年くらいだそうだが、常連客はかなり多いようだ。

 

妻はこの店の若い店主によく声を掛けていて顔見知りになったようだ。私も帰りがけに「ごちそうさまでした!」と店員に声を掛けるようになった。

 

土に触れて汗をかき、腹が減ってうどんをすする、そんな一日も悪くない。

 

 

 

 

朝起きて新聞を取りに表に出たら、隣のお婆ちゃんを見かけたので「おはようございます!」と声を掛けた。すると「おはようございます。」と答え「一輪挿しにどうぞ。奥さんお花が好きでしょ。」と黄色い薔薇をくれた。何か良いことがありそうな一日の始まりである。

 

 

自宅近くの国道10号線は2車線で中央部に街路樹が植えられていたが、先日から伐採が進められている。ただ、今が盛りのツツジの植込みまできれいに除去されていたのには少し悲しい気持ちになった。

 

一方で、反対側車線の見通しが良くなり景観が随分変わった。また、植込みへのゴミの投棄なども減少するだろうし、街の美化にはプラスと思われる。いずれは車線も拡張され渋滞も解消されるだろう。

 

未来を生きる人のために街はその姿を変えながらどんどん進化してゆく一方で、人はその姿を衰えさせながらどんどん老いてゆく。それが自然の摂理というものだろう。

 

 

「生け花とは死にゆく花の美しさを愛でる芸術だ」という言葉をどこかで聞いたことがある。生け花に何かしら儚さを感じたり、満開の桜にいずれは散りゆく悲しい運命を想ったりするのも、そんな「花の短い命」に由来するものだろう。

 

 

五月晴れのGWの初日、一輪挿しを観ながらそんなことを考えた。

 

 

躑躅(ツツジ)の花が咲く中、初夏が訪れた。

 

昨日、弟夫婦を呼んでホーム・パーティーを催した。妻がカルパッチョ、アヒージョ、パエリア、キノコのマリネなどイタリア・スペイン風の料理に腕を振るった。料理を肴にビール、日本酒、白ワインと酒も進んだ。

 

歓談が進む中、弟が「今年は八方塞がりの年だ」と言った。易学に詳しくはないが、年齢差を考えれば3~4年前に私も「八方塞がり」だったことになる。思い返せば、当時は技能実習生の監理団体で働いていた。確かに「八方塞がり」の状況だった。案外当たっているものだ。

 

 

話は、私が高校2年(弟が中学2年)時の父との大山登山へと移った。私はそのときのことを以下のブログ記事に残していた。弟に見せると「文章上手いね!」と褒められた。何故か不思議な気持ちになった。

 

自叙伝(その37)-(補遺)夏の強行軍-神話の国へ | 流離の翻訳者 果てしなき旅路

 

 

父は旧・日本電信電話公社(現・NTT)に定年まで勤務したが、肩叩きもあり53歳くらいで退職した。私が東京の会社に就職した後だった。その翌年の1983年3月、父母が東北旅行の帰りに私の会社の独身寮を訪ねて来た。芭蕉の足跡を巡った旅だった。父母ともに寮の素晴らしさに感激していた。

 

父は退職後、若い頃に苦学した日本領台湾・台北にあった逓信講習所の同窓会を立ち上げた。同窓会は「淡水会」と名付けられ、その総会の開催などが唯一の楽しみだったようである。我々が今、大学のクラスのグループLINEを立ち上げてワイワイやっているのと同じようなものだ。

 

父はこの「淡水会」に幾つかの文書を寄せている。若い頃から嗜んだ俳句を随所に挟みながら、戦時下の自分たちの境遇を「青春の挽歌」と形容していた。実に静謐で品の良い文章だった。とくに印象に残っているのが、真夜中の学寮を詠んだ一句である。夜中に目覚めた父は何を考えたのか。故郷の母や弟たちのことだったのか。

 

「月天心 眠る北寮 南寮」

 

 

英会話のテキストにこんな英文が出てきた。

 

A: What will you be doing after you retire?

B: I picture myself sitting on a beach, somewhere like Tahiti, writing my memoirs and drinking cocktails.

A: Memoirs? You’ve never done anything interesting.

B: Not yet, I haven’t.

 

A:「リタイヤしたら何やるつもり?」

B:「タヒチあたりのビーチで、カクテルでも飲みながら回顧録を書いている姿が目に浮かぶなぁ~」

A:「えっ!回顧録?でも君、面白いことなんて何もやってないじゃん!」

B:「まぁ、今のところはね!」

 

このmemoirという名詞、もしかしたら英文で見たのは初めてかもしれない。「思い出の記、回顧録、自叙伝」という意味である。中森明菜のアルバム「BEST AKINAメモワール」(1983年)を思い出す。

 

 

本ブログはまさに私の「メモワール」(思い出の記)そのものである。今までは匿名で不特定多数に向けて「思い出の記」を発信してきた。私を知らない人はピンと来なかっただろう。

 

先月半ば、大学のクラスや以前勤務した会社の同期のグループLINEに参加して以来、それまで年賀状のみ付き合いだった友人・知人の多くとLINEを交換してコミュニケーションが活発になった。

 

それで、今回本ブログを匿名のまま友人・知人に本格的に公開することにした。まあ誤った記述や思い違いもあるだろうが、それらは彼らの反応を待つことにしたい。修正すれば済むことである。

 

 

桜が舞い散る中、新学期が始まり、子どもたちの姿が街に戻ってきた。真新しい制服に身を包んだ新入生たちが、颯爽と街角を歩く姿は、実に清々しい。

 

今朝、ある薬局で薬を受け取ろうとしたら、応対してくれたのは新入社員だった。「実務研修中」と書かれた名札をつけている。薬の効能や服用方法を説明してくれたが、その隣ではベテランの薬剤師が彼の振る舞いを注意深く見守っていた。OJTが行われているようだ。

 

街のあちこちで、そんな現在進行中の春の一コマを見かけるようになった。

 

 

私が住んでいる地域は、西に貫山を、東には遠く足立山を望むあたりにある。この時期、それらの山の山肌は、白やピンクの丸い綿菓子のような花々でポツポツと彩られる。山桜である。

 

けれども、そんな山桜をいったい誰が眺めているのだろうか……。そんなことを考えていたら、ふと、ある和歌を思い出した。百人一首にある一首である。

 

 

「もろともに あはれと思へ 山桜 花より外に 知る人もなし」
(百人一首 第六十六番・前大僧正行尊)

 

(拙訳)
山桜よ。私が君を見てしみじみと風情を感じるように、君もまた私に、身に沁みて深く感動して欲しい。私の気持ちを理解できるのは、この山奥では君しかいないのだから。

 

 

この歌を詠んだ前大僧正行尊は、俗世を離れ、山中で孤独に修行を積んでいた僧侶である。そのような折、思いがけず山桜の花に出会ったときの感動を詠んだものらしい。

 

「花より外に知る人もなし」――
 

その一節に、自らの心を重ねた行尊の孤独が滲んでいる。何とも切なく、深い余韻を残す歌である。

 

 

雨になり桜の季節が足早に過ぎようとしている。妻が「毎年違う桜が見たい」というので志井川(小倉南区)へと足を伸ばした。和服を着たアイドル系の娘をカメラマンが撮影していた。彼女の黒っぽい和服が桜一色の風景にアクセントを添えていた。

 

昨今、桜の花を見るたび思うのは、来年の春もまた桜の花が見れるだろうかという漠然とした不安である。私の同級生の間でもポツポツと訃報を聞くようになった。そんな訃報も来年はもっと増えるだろう。まあ仕方がないことではあるが。

 

 

翻訳会社に勤務した頃、「翻訳ひとくちメモ」と題するメールマガジン(メルマガ)を配信した時期があった。配信先は登録翻訳者・通訳者および翻訳依頼先の顧客だった。配信期間は3年3か月にわたり配信先も300を超え、結局第77号まで配信した。

 

メルマガでは注意すべき文法事項などを取り上げて解説した。また冒頭部では、折に触れて英語に直接関係の無い話題を盛り込んだ。毎月、メルマガの原稿を真剣に考えていた頃を今も懐かしく思い出す。それなりに充実した時期だった。

 

 

そんなメルマガの第49号(2019.4.11発行)の冒頭部では、今は放映されているかどうかわからないが、NHKのローカル番組「ニュースブリッジ北九州」の『桜の思い出』を取り上げた。劉希夷の漢詩「代悲白頭翁」の一節引用している。以下に拙文を掲載する。

 

 

桜が咲き舞い散る中、新学期、新入学の季節が過ぎています。天孫降臨神話には木花開耶姫(このはなさくやひめ)という邇邇芸命(ににぎのみこと)が一目惚れした美しい姫君が居るそうで、桜の女神とされており、また美と儚さの象徴とも言われています。

 

NHKのローカル番組「ニュースブリッジ北九州」では、毎年この時期に『桜の思い出』と題する視聴者からの桜に纏わる思い出やエピソードを紹介していますが、桜の見頃が短いが故により一層思い出やエピソードも鮮明に記憶に残るのかも知れません。

 

 

古人無復洛城東                      古人復た洛城の東に無く

今人還對落花風                      今人還た落花の風に対す

年年歳歳花相似                      年年歳歳花相似たり

歳歳年年人不同                      歳歳年年人同じからず

 

(拙・現代語訳)

昔洛陽城の東で桜の花を楽しんだ人々は既に亡くなり、今を生きる人々がその花を散らす風に吹かれている。桜の花は毎年同じように咲くが、その花を楽しむ人は毎年同じではない。

(劉希夷「代悲白頭翁」の一節から引用)

 

 

なお、劉希夷「代悲白頭翁」は私が大好きな漢詩の一つで、以前のブログで以下のような英訳を試みている。

 

「代悲白頭翁」 劉希夷 -自作英訳第二版- | 流離の翻訳者 果てしなき旅路

 

 

桜は開花したが、昨日から最高気温が10℃程度と寒くなった。いわゆる「花冷え」である。これが最後の寒さだろう。

 

今から2年前のちょうどこの時期、3泊4日で東京を独り旅した。大学時代の友人や安田火災の同期、システム部の先輩方と旧交を温めた。「井の頭公園」で見た桜を思い出すが、その日もこんな花冷えのする日だった。

 

3日連続の飲み会では昔話に花が咲いた。武蔵野市関前にあった安田火災の独身寮の跡地や、当時通った喫茶店を訪ねた。1年ほど住んだ国立駅の北口(国分寺市光町)の旧居にも行ってみた。そのアパートは35年の歳月を経てもなお健在だった。

 

国立駅南口の喫茶「ロージナ茶房」は若干改築されていたが、相変わらず繁盛していた。時代が昭和から平成に変わる中、東京暮らしに疲弊して寮を出た最後の1年、一橋大学の構内を散策しては自分の将来について考えた。

 

もしタイムマシンでその頃に飛んで行けるなら、当時の自分に

The future will take care of itself.(未来はそれなりに何とかなるものだ)

とアドバイスしてやりたい。

 

 

そうは書いたものの、想像を超える未来が待ち受けていることもある。2年間(実質1年半)勤務した外国人技能実習生の監理団体では、思わぬ経験をした――

 

エンジニアリング会社の翻訳部門を廃止し、ある技能実習生の監理団体に転職したのが2021年1月、新型コロナウイルスのパンデミックの真っ最中だった。理事長のもと、事務局長という立場で理事会の開催や従業員の管理を担当した。理事長という校長のもとでの教頭のような仕事である。

 

しかし、その団体にはパワハラという問題が内在していた。パワハラは、入管(出入国在留管理庁)のOBである外部監査人から外国人従業員に対するものだった。この外部監査人と何度か話をしたが、外国人(特にベトナム人や中国人)に対する偏見(蔑視)が強い男だった。典型的なゼノフォビア(xenophobia)である。

 

パワハラが原因で女性従業員が泣くこともあった。顧問弁護士に相談し、従業員へのヒアリングを実施した。その結果、明らかに当該外部監査人によるパワハラが発生していることが確認された。弁護士を通じて外部監査人に報告書を通知した。

 

しかし、先方はパワハラの存在を否認し、弁護士を立てて抗議してきた。結局、弁護士間の協議により示談が成立し、当団体が示談金を支払い外部監査人との契約を解除した。また、以前からこの外部監査人と緊密な関係にあった理事長も退任した。これに関連した調整や手続きに追われ、精神的に疲れる日々が続いた。

 

2021年7月、新しい理事長が就任した。そのもとで、ボロボロだった就業規則を働き方改革に合致した形へ改訂し、家族手当や通勤手当、出張手当の改訂、給与規程の新設などの業務に取り組んだ。こうした作業が2022年5月頃まで続いた。

 

新型コロナウイルス禍による入国制限が緩和される中、外国人技能実習生の新規入国が少しずつ再開された。入国後研修期間中の技能実習生のための宿舎を確保するなど、雑務も増えてきた。精神的なストレスがピークに達し、「もう一度翻訳がやりたいなぁ~」と思うようになった。

 

 

心療内科を受診したのが2022年6月。「社交不安障害(SAD)」と診断された。とりあえず2022年6月末から半年間休職したが、定年が間近に迫っていたこともあり、2022年12月末で外国人技能実習生の監理団体を退職した。

 

2022年7月から2024年1月までの1年半は「傷病手当金」を受給した。その後、「失業手当」を受けながらハローワークで見つけたのが現在の翻訳業務である。今は、やはり英語関係の業務に戻れて良かったと思っている。

 

 

やはり、今思えば

The future will take care of itself.(未来はそれなりに何とかなるものだ)

は正解だったのかもしれない。

 

  

今月半ば、大学1回生のときのクラスのグループLINE構築の知らせを受けて加入した。以来、友人に情報を拡散したりLINEにメッセージを送信したりと、60代半ばにしてLINEにハマってしまった。まるで高校生みたいだ。

 

また、新入社員のときの配属課のグループLINEにも参加し、同期たちとのコミュニケーションが一気に盛んになった。そんな中、ある友人の訃報を知り、また予備校以来の友人と40年ぶりくらいに話をした。

 

それにしてもLINEのメッセージを送信した時の「シュポッ」という音は何とも心地よい。ビールの栓を抜く音とテニスボールを打った時の音が混ざった感じである。誰が思いついたんだろう?

 

 

但し、気をつけないといけないのは、グループLINEは個人同士のLINEとは異なり使い方にマナーがあるということだ。LINE自体、殆ど経験が無かった私は、かなりやらかしたようである。「グループLINE使用時のマナー」についてAIに聞いてみた。以下の回答が返ってきた。今後は送信時に注意しよう。

 

 

🌸基本的なマナー🌸

1️⃣挨拶やお礼を忘れずに
・何か質問したときや、相手が返信してくれたときには「ありがとう」など感謝の気持ちを伝えましょう。

2️⃣通知に気をつける
・深夜や早朝のメッセージは避け、急ぎでない内容は時間を選んで送りましょう。

3️⃣連投やスタンプの多用は控えめに
・連続でたくさんのメッセージを送ると、ほかの人が読みづらくなってしまうことも。必要な情報はできるだけまとめて送るのがベスト!

 

🌼相手への気遣い🌼

4️⃣話題はみんなが楽しめるものを
・グループ全体に関係ない話題は、個別メッセージのほうが良いことも。

5️⃣返信を強要しない
・「なんで返事くれないの?」と急かすのはNG!みんなそれぞれ忙しいので、ゆっくり待つ気持ちが大事です。

6️⃣ 既読スルーを気にしすぎない
・既読になっていても、タイミングが悪くて返信できないこともあるので、気にしすぎないようにしましょう。

 

🌻トラブルを防ぐために🌻

7️⃣誤解を生まないように丁寧な言葉を
・文字だけのやりとりは、意図が伝わりにくいことも。「これってこういう意味でいい?」と確認するのも大切!

8️⃣ネガティブな発言は控えめに
・みんなが気持ちよく過ごせるように、悪口や批判はグループでは言わないようにしましょう。

9️⃣退会するときは一言添える
・「お世話になりました!」と一言あると、お互いに気持ちよく終われますよ。

 

💡みんなが気持ちよく使えるように、ちょっとした気遣いを忘れずに!😊

 

季節が冬に逆戻りし、再びダウンが必要になった。昨日春の高校野球が開幕したが、高校野球開催中の雪の記憶は、私が小学校の頃にまで遡る。その時は決勝戦であった。

 

 

最近、AIを業務で使用することが当たり前になった。主に日本語⇔英語の翻訳に利用しているが、日本語文の作成や校正にも利用している。もはやAI無しには仕事が回らない感がある。翻訳精度も70%~80%程度であり、チェック能力さえあれば一から翻訳する必要は無くなった。ここ5年ほどの間に時代は大きく変わった。

 

 

先日の日経新聞に「東大入試数学、AIが合格基準」という記事が出ていた。

 

人工知能(AI)は東大の数学の入試問題を「合格レベル」で解けるようになったそうだ。これまでは他の科目に比べて数学は苦手だったが、2024年9月以降、米オープンAIの「o1」など「推論モデル」と呼ばれるAIモデルが相次いで登場し状況が変わったらしい。

 

o1は2025年2月の東大2次試験の理系数学だけでなく、過去の難問とされる問題もほぼ解けるそうで「東大の合格ラインを単に超えたというより、上位合格者のレベルになった」と関係者は言う。

 

o1や後続モデル「o3-mini」は今年の入試で出題された理系数学の大問6つのうち、4~5問程度を解けるようだ。ちなみに、今年の東大理系の数学の問題は以下の通りである。

 

tokyo_zenki_sugaku_ri_mondai.pdf

 

 

AIは英語よりは数学の方が得意だと思っていたが、そうではないらしい。この記事は意外な感じがした。また大学入試問題のレベルが相当に高いことがわかった。

 

以前「英語の二次試験のレベルは我々の時代に比べて3倍は難しくなった」と書いたが、数学もそれに似たところがある。既出問題は予備校などに研究し尽くされてまた新しい問題が考え出される。そんなイタチごっこを繰り返しながら問題はどんどん難化していく

 

数学においても、今の受験生は大変なのである。