結局、公務員試験は受験しなかった。一次試験の時期には、Jの件で心身ともにそれどころではなかった。もっとも、それは単なる言い訳かもしれない。
1981年7月中旬、私は北九州に帰省した。小学校以来の旧友や旧知の人々に、Jの件を報告した。中学の同窓会にも参加したが、Jのことを話しているうちに涙が止まらなくなってしまった。男女を問わず、優等生だったJのことを、皆がよく覚えていた。
夏の間に、大分にあるJの御父上の実家に墓参りにも行った。ただ、その詳細はよく覚えていない。そんなこんなで、慌ただしく夏が過ぎていった……。これまでのストーリーは、ここで終わっていた。
今回、上京の折に、大学E2クラスの同級生Aに会った。彼は経済学部から法学部への転学部組で、会うのは友人の結婚式以来、実に35年ぶりだった。ちなみにAは、例のS女子短大との合コンにも参加していた。
その二次会で、彼が私に打ち明けた話は驚くべきものだった。
「Jが亡くなった後、実はIさんとしばらく付き合ってたんだよ!」
Aは大学卒業後、大手鉄鋼メーカーに就職したが、卒業後もしばらくの間、東京と京都という遠距離ながらIさんとの交際は続いていたという。しかし、次第に会う機会が減り、自然消滅のような形で別れたらしい。
1980年12月に合コンがあり、Jが亡くなったのが1981年6月。Iさんは、1981年1月頃から5月頃まではJと付き合っていたはずだ。だとすれば、IさんはJとAの両方と密かに交際を続けていたのだろうか?女心というものは、本当にわからない。
JがIさんにプロポーズし、そして振られた直後に自ら命を絶ったのは紛れもない事実だ。Iさんは、どんな理由でJを振ったのか?まさか「実はAさんが好きなの」と言ったのだろうか?
そして、我々がずっと隠してきた「Jが自殺した」という事実を、Iさんは本当に知らなかったのだろうか?44年も昔のこととはいえ、謎は深まるばかりだった。
我々はこれまで、「Jは人生や進路に悩み、思い詰めて死を選んだ」と解釈してきた。だが、もしかすると、もっと単純な理由――「失恋」――が原因だったのかもしれない。優等生の心というのは、意外にも脆いものなのかもしれない。
そんな疑問が頭の中をグルグルと巡る中で、今回の上京を終えた。最後に、高校時代のJの思い出を綴ったブログを添えて、本稿を締めくくりたい。
自叙伝(その15)-北からの使者 | 流離の翻訳者 果てしなき旅路