このブログを立ち上げたのは地元の翻訳会社に社員として入社した2011年3月、東日本大震災の直前だった。もう14年余りになる。最近LINEを通じて、本ブログを匿名のまま友人・知人に公開した。
ブログ開設の当初は、翻訳の実務の中で気が付いた重要事項等を備忘録的に綴っていた。また好きな漢詩、日本の詩歌、俳句などの自作の英訳を公開していた。これが2017年5月くらいまで続いた。
プライベートな理由からブログの更新を4年近く休止した。ふとしたきっかけでブログを再開したのが2021年2月のことだった。
2021年6月以降、中学3年(15歳)くらいからの「自叙伝」を時系列で綴るようになった。自分の記憶が確かなうちにそれらを文字に残しておきたいと考えたことが掲載の理由である。その構成は以下の通りである。
中学3年の後半から小倉西高校に入学し、卒業後北九州予備校での1年の浪人生活を経て、京都大学経済学部に合格するまでのエピソード・思い出を時系列に綴っている。時期は1973年10月頃から1978年3月までの内容である。
Ⅱ「英語の散歩道(その1)」~「英語の散歩道(その36)」
小学校時代に遡り自分とアルファベット(ローマ字)、また中学以降は英語との関わりについて時系列で思い出を綴っている。後半は大学時代のエピソードや友人たちのこと、また大阪・淀屋橋での就職戦線についても記載している。時期は1969年頃から大学を卒業する1982年3月までの長期にわたる内容となった。
Ⅲ「安田保険学校(その1)」~「安田保険学校(その6)」
1982年4月、安田火災海上保険㈱に入社し配属された内務部での新入社員研修の1年間の思い出やエピソードを綴っている。時期は1982年4月から1983年3月まで。楽しい思い出もあれば失敗談も甚だ多い。
Ⅳ「効率化の牙城にて(その1)」~「効率化の牙城にて(その34)」
内務部での新人研修終了後に配属された総合システム部・電算オンライン課勤務時の楽しくも苦労した思い出やエピソードを綴っている。時期は1983年4月から1989年9月までの内容となっており、ほろ苦い恋バナ、同期の「いいとも会」のメンバーたちのこと、また三多摩地区のグルメに関する話題も記載している。
Ⅴ「福岡・博多慕情(その1)」~「福岡・博多慕情(その23)」
1989年9月、地方銀行(関連会社・銀行本体)に転職して博多で勤務した頃の思い出を綴っている。銀行の関連会社で勤務した頃の様々な出来事や、銀行の資金証券部・本店営業部勤務時の辛くもあり楽しくもあった思い出やエピソードを記載している。時期は1989年9月から銀行を退職する阪神淡路大震災直後の1995年1月までの内容となっている。
Ⅵ「続・英語の散歩道(その1)」~「続・英語の散歩道(その114)」
NOVAでの英語(英会話)の再勉強を決意した1999年3月に始まり、2006年に一念発起してフリーランス翻訳者を目指し、それを実現して地元の翻訳会社に入社し翻訳者、翻訳・通訳コーディネーター、また営業担当者として苦労した時代を含めた2020年12月までを綴っている。途中「古書への旅」や好きな音楽などに脱線したところもある。
匿名のまま、自分のこれまでの人生のほぼ3分の2をブログに書いてきた。思いがけず、「記憶力が凄い」、「文章が上手い」とか「本気で小説を書いてみたら?」など好意的な感想も結構いただいた。少し照れ臭く感じている。
これまでの記事を再度時系列に並べかえて、推敲、加除訂正を加えて一つのストーリー(自叙伝)にしてみたいという気持ちはあるが、膨大な時間がかかるだろうし、欠落している部分もあり、そう簡単にはいかないように思われる。
振り返れば後悔と反省ばかりの「こんなはずじゃなかった」人生だった。「大学でもっと勉強しておけば」など何度後悔したか数えきれない。
例えば、単に大学1回生時の第2外国語の選択をドイツ語ではなくフランス語にしていたら、それだけで友人関係はガラリと変わっていただろうし、ゼミ(専攻)の選択や就職先も変わっていたと思われる。人生の岐路は思いがけないところに転がっているものだ。また、人の人生とは図らずも周囲の環境に左右されながら決定されている、ということである。
もっと軽やかに、スマートに生きて行きたがった今となっては如何ともし難い。せめて残りの人生は妻と穏やかに暮らしてゆきたい。今はそんなことを願う。