流離の翻訳者 青春のノスタルジア -6ページ目

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

桜が舞い散る中、新学期が始まり、子どもたちの姿が街に戻ってきた。真新しい制服に身を包んだ新入生たちが、颯爽と街角を歩く姿は、実に清々しい。

 

今朝、ある薬局で薬を受け取ろうとしたら、応対してくれたのは新入社員だった。「実務研修中」と書かれた名札をつけている。薬の効能や服用方法を説明してくれたが、その隣ではベテランの薬剤師が彼の振る舞いを注意深く見守っていた。OJTが行われているようだ。

 

街のあちこちで、そんな現在進行中の春の一コマを見かけるようになった。

 

 

私が住んでいる地域は、西に貫山を、東には遠く足立山を望むあたりにある。この時期、それらの山の山肌は、白やピンクの丸い綿菓子のような花々でポツポツと彩られる。山桜である。

 

けれども、そんな山桜をいったい誰が眺めているのだろうか……。そんなことを考えていたら、ふと、ある和歌を思い出した。百人一首にある一首である。

 

 

「もろともに あはれと思へ 山桜 花より外に 知る人もなし」
(百人一首 第六十六番・前大僧正行尊)

 

(拙訳)
山桜よ。私が君を見てしみじみと風情を感じるように、君もまた私に、身に沁みて深く感動して欲しい。私の気持ちを理解できるのは、この山奥では君しかいないのだから。

 

 

この歌を詠んだ前大僧正行尊は、俗世を離れ、山中で孤独に修行を積んでいた僧侶である。そのような折、思いがけず山桜の花に出会ったときの感動を詠んだものらしい。

 

「花より外に知る人もなし」――
 

その一節に、自らの心を重ねた行尊の孤独が滲んでいる。何とも切なく、深い余韻を残す歌である。

 

 

雨になり桜の季節が足早に過ぎようとしている。妻が「毎年違う桜が見たい」というので志井川(小倉南区)へと足を伸ばした。和服を着たアイドル系の娘をカメラマンが撮影していた。彼女の黒っぽい和服が桜一色の風景にアクセントを添えていた。

 

昨今、桜の花を見るたび思うのは、来年の春もまた桜の花が見れるだろうかという漠然とした不安である。私の同級生の間でもポツポツと訃報を聞くようになった。そんな訃報も来年はもっと増えるだろう。まあ仕方がないことではあるが。

 

 

翻訳会社に勤務した頃、「翻訳ひとくちメモ」と題するメールマガジン(メルマガ)を配信した時期があった。配信先は登録翻訳者・通訳者および翻訳依頼先の顧客だった。配信期間は3年3か月にわたり配信先も300を超え、結局第77号まで配信した。

 

メルマガでは注意すべき文法事項などを取り上げて解説した。また冒頭部では、折に触れて英語に直接関係の無い話題を盛り込んだ。毎月、メルマガの原稿を真剣に考えていた頃を今も懐かしく思い出す。それなりに充実した時期だった。

 

 

そんなメルマガの第49号(2019.4.11発行)の冒頭部では、今は放映されているかどうかわからないが、NHKのローカル番組「ニュースブリッジ北九州」の『桜の思い出』を取り上げた。劉希夷の漢詩「代悲白頭翁」の一節引用している。以下に拙文を掲載する。

 

 

桜が咲き舞い散る中、新学期、新入学の季節が過ぎています。天孫降臨神話には木花開耶姫(このはなさくやひめ)という邇邇芸命(ににぎのみこと)が一目惚れした美しい姫君が居るそうで、桜の女神とされており、また美と儚さの象徴とも言われています。

 

NHKのローカル番組「ニュースブリッジ北九州」では、毎年この時期に『桜の思い出』と題する視聴者からの桜に纏わる思い出やエピソードを紹介していますが、桜の見頃が短いが故により一層思い出やエピソードも鮮明に記憶に残るのかも知れません。

 

 

古人無復洛城東                      古人復た洛城の東に無く

今人還對落花風                      今人還た落花の風に対す

年年歳歳花相似                      年年歳歳花相似たり

歳歳年年人不同                      歳歳年年人同じからず

 

(拙・現代語訳)

昔洛陽城の東で桜の花を楽しんだ人々は既に亡くなり、今を生きる人々がその花を散らす風に吹かれている。桜の花は毎年同じように咲くが、その花を楽しむ人は毎年同じではない。

(劉希夷「代悲白頭翁」の一節から引用)

 

 

なお、劉希夷「代悲白頭翁」は私が大好きな漢詩の一つで、以前のブログで以下のような英訳を試みている。

 

「代悲白頭翁」 劉希夷 -自作英訳第二版- | 流離の翻訳者 果てしなき旅路

 

 

桜は開花したが、昨日から最高気温が10℃程度と寒くなった。いわゆる「花冷え」である。これが最後の寒さだろう。

 

今から2年前のちょうどこの時期、3泊4日で東京を独り旅した。大学時代の友人や安田火災の同期、システム部の先輩方と旧交を温めた。「井の頭公園」で見た桜を思い出すが、その日もこんな花冷えのする日だった。

 

3日連続の飲み会では昔話に花が咲いた。武蔵野市関前にあった安田火災の独身寮の跡地や、当時通った喫茶店を訪ねた。1年ほど住んだ国立駅の北口(国分寺市光町)の旧居にも行ってみた。そのアパートは35年の歳月を経てもなお健在だった。

 

国立駅南口の喫茶「ロージナ茶房」は若干改築されていたが、相変わらず繁盛していた。時代が昭和から平成に変わる中、東京暮らしに疲弊して寮を出た最後の1年、一橋大学の構内を散策しては自分の将来について考えた。

 

もしタイムマシンでその頃に飛んで行けるなら、当時の自分に

The future will take care of itself.(未来はそれなりに何とかなるものだ)

とアドバイスしてやりたい。

 

 

そうは書いたものの、想像を超える未来が待ち受けていることもある。2年間(実質1年半)勤務した外国人技能実習生の監理団体では、思わぬ経験をした――

 

エンジニアリング会社の翻訳部門を廃止し、ある技能実習生の監理団体に転職したのが2021年1月、新型コロナウイルスのパンデミックの真っ最中だった。理事長のもと、事務局長という立場で理事会の開催や従業員の管理を担当した。理事長という校長のもとでの教頭のような仕事である。

 

しかし、その団体にはパワハラという問題が内在していた。パワハラは、入管(出入国在留管理庁)のOBである外部監査人から外国人従業員に対するものだった。この外部監査人と何度か話をしたが、外国人(特にベトナム人や中国人)に対する偏見(蔑視)が強い男だった。典型的なゼノフォビア(xenophobia)である。

 

パワハラが原因で女性従業員が泣くこともあった。顧問弁護士に相談し、従業員へのヒアリングを実施した。その結果、明らかに当該外部監査人によるパワハラが発生していることが確認された。弁護士を通じて外部監査人に報告書を通知した。

 

しかし、先方はパワハラの存在を否認し、弁護士を立てて抗議してきた。結局、弁護士間の協議により示談が成立し、当団体が示談金を支払い外部監査人との契約を解除した。また、以前からこの外部監査人と緊密な関係にあった理事長も退任した。これに関連した調整や手続きに追われ、精神的に疲れる日々が続いた。

 

2021年7月、新しい理事長が就任した。そのもとで、ボロボロだった就業規則を働き方改革に合致した形へ改訂し、家族手当や通勤手当、出張手当の改訂、給与規程の新設などの業務に取り組んだ。こうした作業が2022年5月頃まで続いた。

 

新型コロナウイルス禍による入国制限が緩和される中、外国人技能実習生の新規入国が少しずつ再開された。入国後研修期間中の技能実習生のための宿舎を確保するなど、雑務も増えてきた。精神的なストレスがピークに達し、「もう一度翻訳がやりたいなぁ~」と思うようになった。

 

 

心療内科を受診したのが2022年6月。「社交不安障害(SAD)」と診断された。とりあえず2022年6月末から半年間休職したが、定年が間近に迫っていたこともあり、2022年12月末で外国人技能実習生の監理団体を退職した。

 

2022年7月から2024年1月までの1年半は「傷病手当金」を受給した。その後、「失業手当」を受けながらハローワークで見つけたのが現在の翻訳業務である。今は、やはり英語関係の業務に戻れて良かったと思っている。

 

 

やはり、今思えば

The future will take care of itself.(未来はそれなりに何とかなるものだ)

は正解だったのかもしれない。

 

  

今月半ば、大学1回生のときのクラスのグループLINE構築の知らせを受けて加入した。以来、友人に情報を拡散したりLINEにメッセージを送信したりと、60代半ばにしてLINEにハマってしまった。まるで高校生みたいだ。

 

また、新入社員のときの配属課のグループLINEにも参加し、同期たちとのコミュニケーションが一気に盛んになった。そんな中、ある友人の訃報を知り、また予備校以来の友人と40年ぶりくらいに話をした。

 

それにしてもLINEのメッセージを送信した時の「シュポッ」という音は何とも心地よい。ビールの栓を抜く音とテニスボールを打った時の音が混ざった感じである。誰が思いついたんだろう?

 

 

但し、気をつけないといけないのは、グループLINEは個人同士のLINEとは異なり使い方にマナーがあるということだ。LINE自体、殆ど経験が無かった私は、かなりやらかしたようである。「グループLINE使用時のマナー」についてAIに聞いてみた。以下の回答が返ってきた。今後は送信時に注意しよう。

 

 

🌸基本的なマナー🌸

1️⃣挨拶やお礼を忘れずに
・何か質問したときや、相手が返信してくれたときには「ありがとう」など感謝の気持ちを伝えましょう。

2️⃣通知に気をつける
・深夜や早朝のメッセージは避け、急ぎでない内容は時間を選んで送りましょう。

3️⃣連投やスタンプの多用は控えめに
・連続でたくさんのメッセージを送ると、ほかの人が読みづらくなってしまうことも。必要な情報はできるだけまとめて送るのがベスト!

 

🌼相手への気遣い🌼

4️⃣話題はみんなが楽しめるものを
・グループ全体に関係ない話題は、個別メッセージのほうが良いことも。

5️⃣返信を強要しない
・「なんで返事くれないの?」と急かすのはNG!みんなそれぞれ忙しいので、ゆっくり待つ気持ちが大事です。

6️⃣ 既読スルーを気にしすぎない
・既読になっていても、タイミングが悪くて返信できないこともあるので、気にしすぎないようにしましょう。

 

🌻トラブルを防ぐために🌻

7️⃣誤解を生まないように丁寧な言葉を
・文字だけのやりとりは、意図が伝わりにくいことも。「これってこういう意味でいい?」と確認するのも大切!

8️⃣ネガティブな発言は控えめに
・みんなが気持ちよく過ごせるように、悪口や批判はグループでは言わないようにしましょう。

9️⃣退会するときは一言添える
・「お世話になりました!」と一言あると、お互いに気持ちよく終われますよ。

 

💡みんなが気持ちよく使えるように、ちょっとした気遣いを忘れずに!😊

 

季節が冬に逆戻りし、再びダウンが必要になった。昨日春の高校野球が開幕したが、高校野球開催中の雪の記憶は、私が小学校の頃にまで遡る。その時は決勝戦であった。

 

 

最近、AIを業務で使用することが当たり前になった。主に日本語⇔英語の翻訳に利用しているが、日本語文の作成や校正にも利用している。もはやAI無しには仕事が回らない感がある。翻訳精度も70%~80%程度であり、チェック能力さえあれば一から翻訳する必要は無くなった。ここ5年ほどの間に時代は大きく変わった。

 

 

先日の日経新聞に「東大入試数学、AIが合格基準」という記事が出ていた。

 

人工知能(AI)は東大の数学の入試問題を「合格レベル」で解けるようになったそうだ。これまでは他の科目に比べて数学は苦手だったが、2024年9月以降、米オープンAIの「o1」など「推論モデル」と呼ばれるAIモデルが相次いで登場し状況が変わったらしい。

 

o1は2025年2月の東大2次試験の理系数学だけでなく、過去の難問とされる問題もほぼ解けるそうで「東大の合格ラインを単に超えたというより、上位合格者のレベルになった」と関係者は言う。

 

o1や後続モデル「o3-mini」は今年の入試で出題された理系数学の大問6つのうち、4~5問程度を解けるようだ。ちなみに、今年の東大理系の数学の問題は以下の通りである。

 

tokyo_zenki_sugaku_ri_mondai.pdf

 

 

AIは英語よりは数学の方が得意だと思っていたが、そうではないらしい。この記事は意外な感じがした。また大学入試問題のレベルが相当に高いことがわかった。

 

以前「英語の二次試験のレベルは我々の時代に比べて3倍は難しくなった」と書いたが、数学もそれに似たところがある。既出問題は予備校などに研究し尽くされてまた新しい問題が考え出される。そんなイタチごっこを繰り返しながら問題はどんどん難化していく

 

数学においても、今の受験生は大変なのである。

 

大学入学共通テスト⇐センター試験⇐共通一次よりも前の旧制度の私のような旧人類からみると、大学入試の二次試験の英語問題は3倍は難しくなったと思う。私の時代はリスニングも無かったリスニングを課していたのは東京外大大阪外大上智大(外国語学部)くらいだった。

 

客観問題と記述問題が総合された形式の問題だったので、英文解釈や英作文のボリュームは現在の半分以下だった。今は、東大や阪大のように、二次試験でもリスニングを課すところがある。今の受験生の負荷は大変なものだ。

 

 

今年の東大の英作文は、やや哲学的で社会的な内容をテーマとしたものだった。(B)については、日本語をしっかり読んで主語を把握することが必要である。

 

2.

(A)「意見を言わないということは同意することを意味する」という主張について,あなたはどう考えるか,理由を添えて,60〜80語の英語で述べよ。

 

(拙・解答例)

Just because someone is silent does not always mean they agree. There are various reasons for their silence, such as avoiding conflict, lack of interest in the issue, or uncertainty due to lack of knowledge. Furthermore, silence may also indicate hesitation or the need for deeper thoughts. It is too simplistic to regard silence as agreement. To reach true agreement, active engagement with the silent person is necessary. Misinterpretation of silence can lead to unfair judgments and misunderstandings. (78 words)

 

(日本語訳(参考))

誰かが沈黙しているからといって,それが必ずしも同意を意味するわけではない。彼らが沈黙する理由は,対立を避けるため,問題に興味がない,あるいは知識不足による不確実性など様々ある。さらに,沈黙がためらいや深い考えを必要とすることを示す場合もある。沈黙を同意とみなすのはあまりに単純すぎる。真の同意に到達するためには,沈黙者に対する積極的な関与が必要である。沈黙を誤って解釈すると不公平な判断や誤解を招く恐れがある。

 

(B)以下の下線部を英訳せよ。

この世は,土地を持っている人間と,持っていない人間に分かれており,土地を持っていない人間は,馬鹿高い金額を払って土地を手に入れ,ブラックボックスと化し,商品の値段など分からなくなってしまっている家という商品を購入しない限りは,自分のための家を手に入れることはできないのである。だから大抵の人は家を所有者から借りることになるのだが,家賃を払うお金すらない人は,路上生活者になるしか道はない。

これはどう考えても憲法違反のような気がするのであるが,お金という権力を持っている人間だけが支配している現状について,誰も疑問に思っていないようだ。たとえ疑問に思っていたとしても,権力を持つ者が動かしている政治を変えることは難しいと捉えており,だからこそ,土地や家を持っていない人々は,がむしゃらに働き,支払いに何十年とかかっても手にしようと試みる。

僕はこの家の在り方をおかしいと思う。

(坂口恭平『モバイルハウス 三万円で家をつくる』を一部改変)

 

(拙・英語訳)

In this world, people are divided into those who own land and those who do not. Those don’t own land must pay extremely high prices to obtain it, and unless they purchase a house, whose price becomes unclear in a black box, they cannot secure a home for themselves. Therefore, most people end up renting houses from owners, but those who can't even afford to rent houses have no choice but to become homeless.

I feel that this must be a violation of the constitution in every respect, however, nobody seems to feel suspicious about the current situation where only those who have the power of money control everything. Even though people do have such suspicions, they think that it is difficult to change the politics controlled by the rich. For that reason, those who don’t own land or houses work so frantically that they could obtain them, despite the fact that it may take decades to pay off.

I think this way of ownership of houses is ridiculous.

 

(2025年 東京大学)

 

今週に入って少し春らしくなったが、花粉の飛散も激しいようで家内を含めて花粉症の人は辛いようである。先日、近くの「農事センター」に梅の花を見にいった。早春の梅の香が清々しかった。「今年もまた春が来たんだ」と実感させられた。

 

 

この時期、今年の国公立・私立大学の入試問題がネット上で公開されている。英語、特に英作文についてはどんな問題が出題されたのか、いつも何となく確認している。

 

京大は、以前は「日本語指定型」が2問出題されていたが、数年前から「日本語指定型」が1問、「自由英作文」が1問という形になった。

 

Ⅲ.次の文章を英訳しなさい。

人間の心と顔の表情の関係は,一般的なイメージ以上に込み入っている。顔は心を映す鏡だと言われるが,「ポーカーフェイス」という言葉もあるように,いつもそうであるとは限らない。実際,顔の表情を変えることが心を動かすこともあると示唆する研究もある。もしそうならば,口角を少し上げるだけで,前向きな気持ちになれるかもしれない。

 

(拙・英語訳)

The relationship between human emotions and facial expressions is more complicated than generally imagined. It is said that the face is the mirror of the mind; however, on the other hand, there is the term “poker face,” which reminds us that the face does not always reflect the mind. In fact, some studies suggest that changing one’s facial expression can affect one’s mind. If that is true, just lifting the corners of your mouth a little might give you a more positive mood.

 

 

Ⅳ.「人間の想像力は人工知能の普及によって豊かになる」あるいは「人間の想像力は人工知能の普及によって乏しくなる」のどちらかの主張を選択し,その主張を論証する英文を書きなさい。なお,解答に際しては,以下の1~3の条件をまもること。

 

1.英文には,選択した主張を提示する文,理由や例などを述べて主張の妥当性を論証する文,それまでの主張と論証を統括する文を必ず含めること。

2.語数は80語以上100語以内とすること。

3.解答欄の各下線部分の上に単語1語を記入すること。カンマ(,)等の記号は,その直前の語と同じ下線に含めることとし,1語と数えない。短縮形(例:don’t)は1語と数える。

 

(拙・解答例)

I support the opinion that “the spread of artificial intelligence will impoverish human imagination.” This is because AI can instantly provide final answers to us by bypassing the intermediate thinking process, which deprives human beings of the opportunity to think about the basics by themselves and to learn through trial and error. Human imagination is considered to be inspired by the accumulation of fundamental knowledge and continuous efforts. If AI thinks on behalf of human beings, people will lose the opportunity to cultivate their own imagination and become prone to neglect effort, and, consequently, human imagination will be impoverished. (99 words)

 

(日本語訳(参考))

私は「人間の想像力は人工知能の普及によって乏しくなる」という意見に賛成する。これは、AIが中間の思考プロセスを省略して最終的な答えを即座に提供できるため、人間が自分で基礎的なことを考え、試行錯誤して学ぶ機会を損なうからである。人間の想像力は、基本的な知識の蓄積と継続的な努力によって引き出されると思われる。もしAIが人間の代わりに思考するならば、人は自分の想像力を培う機会を失い、努力を怠る傾向に陥る。その結果として、人間の想像力は貧困になるものと考えられる。

 

(2025年 京都大学)

 

3月に入って悪天候が続いていたが昨日の午後くらいから晴れ間が見えるようになった。この時期に珍しく濃い霧の日が2日続いた。100メートル先の信号や車も見えにくいほどだった。「霧が丘」という地名もあるくらい足立山麓の霧は以前から有名である。

 

祖母のエピソードを書いたブログ記事について、予想以上に多くのアクセスがあった。やはり、もう会えない人のことは、記憶が新しいうちに何処かに記録して、時々思い出してあげることが供養になるのではないかと思う。

 

人の記憶とは不思議なもので、一つ思い出すと芋づる式に様々な記憶が蘇ってくるものだ。もう少し祖母との思い出について綴ってみたい。

 

 

「祖母と学んだ漢字」

私の自宅からバス停までは大人の足で5~6分ほどだった。私は、幼稚園に入る前の物心ついた頃からバスや電車などの乗り物を見るのが大好きだった。祖母は時々、私をバス停まで連れて行きバスを見せてくれた。祖母とバス停のベンチに腰掛け、たまに来るバスを待っていた。祖母は私にバスの行く先(漢字)の読み方を教え始めた。祖母と病院へ行ったり街に出たりすると、普段とは違う行く先のバスを見かけた。「ばあちゃん!あれなんて読むん?」と、私もその都度祖母に聞くようになった。いつの間にかバスの行く先の漢字が全部読めるようになった。「町上津役(まちこうじゃく)」「戸畑渡場(とばたわたしば)」など難しい読み方の漢字も読めた。私が幼稚園に入ったくらいから、祖母は私に漢字の書き方を教え始めた。今思えば、これらが私の国語の勉強の基礎になっている。

 

 

「明治100年の財布」

私が小学4年の1968年の10月、「明治100年記念式典」という祝典が開催された。明治改元(1868年)100年を記念したもので、地元では小倉城を中心に「お城祭り」が開催され屋台や出店で街中が賑わった。このお祭りのときに私は祖母にあるお願いをした。「ばあちゃん!一緒にお祭りに行って財布を買ってくれん!」とねだった。なぜ自分の財布が欲しかったのか今となってはわからないが、少しは小遣いがたまっていたのかも知れない。祖母は「まあ、よかばい」と承諾してくれた。私は財布のことを夢に見るほど心待ちにしていた。祭りには祖母と二人で出かけたように思う。祖母は小倉城近くの「玉屋デパート」で財布を買ってくれた。チャックが付いた茶色い革の財布だった。以後、その財布は私の宝物になり肌身離さず持っていたが、いつの間にやら何処へ行ったのかわからなくなった。子供の興味・関心とは結局、それほどのものだったのかも知れない。

 

 

「美少女の肖像」

祖母が私によく見せてくれた写真があった。高等女学校(高瀬高等女学校=現・玉名高校)時代のものである。清楚な制服姿の祖母はまさに美少女だった。「これがうち(私)!」といつも自慢げに披露していた。その当時、高等女学校まで進学できる女子は裕福な家庭に限られており、祖母はある意味インテリだった。高等女学校在学中に祖父から見初められたそうで、結婚は親同志が決めたものだったらしい。祝言の日まで相手の顔を見ることもなかった。当日、新郎を初めて見て「こん人がうちの主人になる人たいね?」と思ったそうだ。祖父は教員だったが30代で早逝した。その後、祖母は5人の息子を抱えて随分苦労したらしい。1992年頃、祖母は小倉を離れ、父方の叔父が暮らす長崎へと移った。以後、叔父叔母が最後まで面倒をみた。2001年に亡くなるまでの間、米寿の祝いなどで何度か長崎に行ったが、そのたびに、祖母の高等女学校時代の写真を見ることになった。楽しそうに写真を見せていた祖母の姿が今も目に浮かぶ。

 

 

母が亡くなって今年で6年目、七回忌の年である。母が亡くなったのは令和改元の直後、新型コロナウィルス流行の前だった。10連休などで日本中が浮かれていた頃で、時期的にはある意味幸せだったように思われる。

 

最近よく思うのが、祖母や父母からもっと色々なことを聞いておくべきだった、ということである。それは祖先や親族のことから、漬物の漬け方や料理のレシピにまで及ぶ。あの漬物やあの料理をいくら今食べたいと思ってももう食べることはできない。

 

 

前回、祖母のことを書いてから、他にもいくつか思い出したことがあった。今回は続編としてそれらをブログに記載しておきたい。

 

 

「特製ラーメン」

高校1年の2学期くらいに、初めて親友と呼べる友人ができた。彼については、以下の記事に記載している。

 

自叙伝(その5)-オリオン座ベータ星リゲル | 流離の翻訳者 果てしなき旅路

 

彼とはもう50年以上の付き合いになるが、若い頃、彼から「〇〇のおばあちゃんのラーメンがとても美味しかった」という話を聞いた。たぶん、高校一年の秋、学校帰りに彼を一度自宅に連れて来たことがあった。その時に祖母が「ラーメンでも食べんかい?」と作ってくれたラーメンのことだ。祖母のラーメンはインスタントではあるが特製だった。マルタイの「屋台ラーメン」に具として野菜炒めが入っていた。玉ねぎ、キャベツ、豚肉などでさっと作った野菜炒めをラーメン・スープで少し煮込んだチャンポンみたいなものだった。これが実に美味かった。その時に彼と二人で「特製ラーメン」をおかずにご飯まで食べた映像が何となく脳裏に浮かぶ。5時くらいにラーメン・ライスを食べて、7時には普通に夕食を食べるのだから、当時、我々がいかに腹を空かしていたかが想像できる。

 

 

「祖母に話す日本史」

大学受験の最後の追い込み時期だった1978年1月から3月、父は入院中、母は会社、弟は高校で日中は祖母と二人きりということがほとんどだった。当時、私は日本史に苦戦していた。特に明治以降の近・現代史が苦手だった。「何とかならないか」と悩んでいたところ、あることに思い当たった。「祖母は実際にその時代を生きてきた人だ」ということである。以来、明治の後半から大正、昭和の大戦までの時代について、教科書で覚えた内容を祖母に話すようにした。「ばあちゃん、この時の総理覚えとる?この後に起きた騒動知っとる?」などと質問したりした。祖母は「そぎゃん人も居ったたいね!それは知らん!それはあん人たい!(すべて肥後弁)」などと反応した。これがどの程度勉強に役立ったかはわからないが、苦手な時代の歴史が少し身近に思えるようになった。

 

 

「祖母と博多へ」

博多で銀行に勤務していたころ、祖母を博多に連れて行ったことがあった。たまに小倉の自宅に帰省すると、祖母があまりに世話を焼きたがるので、ちゃんと独り暮らしをしているところを見せたかったからである。1990年頃なので私が30歳を超えたくらい、祖母は80歳代だったと思われる。当時の祖母は、以前ほど元気ではなく外出も少なく、暇があれば庭の草取りをしているような状況だった。その日、連休だったのか在来線、新幹線、地下鉄すべてが混雑していた。だが、祖母を連れて乗り込むと周りの人が席を譲ってくれたり、気を遣ってくれたりした。人の親切が心に沁みた。地下鉄を唐人町駅で降りて自宅のマンションに着いた。「こんな風に暮らしとるんよ!」と自宅の1DKの部屋を見せた。「狭かねぇ~」と祖母は呟いた。確かにさほど広くは無かった。色々な話をしているうちに腹が減ってきたが、何処かに食べに行くのも面倒だった。「そうだ!出前がある!」と思いついた。自宅近くにある「當仁うどん」は出前ができることを知っていた。祖母はうどん、私は丼物を頼んだ。配達に来たうどん屋の大将が「おばあちゃんですか?!」と声を掛けてくれたのを何となく覚えている。夕方にはマンションを出て、地下鉄、新幹線、在来線を使って再び小倉に戻った。これが、祖母と私との最後のデートとなった。

 

 

私は典型的な「おばあちゃん子」である。父母が共働きだったため、小学校から帰るといつも父方の祖母が作ったおやつを食べていた。夕食も主菜は祖母が作ることが多かった。

 

祖母は名前を藤子といった。4月の終わり、藤の花が咲く頃に生れたので、それに因んで名付けられたらしい。明治の終わり頃の申年生まれで私と年齢が50歳違った。今の私の年齢(66歳)で高校1年の私(16歳)の面倒をみていたことになるが、今の自分と比べると随分元気(健康)だったように思われる。

 

祖母には大学に入学するくらいまで随分お世話になった。大学在学中も帰省すると、食事のときに惣菜を皿にとってくれたり、それに醤油をかけてくれたりと細々と面倒をみたがったが、それにはさすがに閉口した。父も「〇〇ももう大人なんやけ、あんまり世話をやきなさんな!」と言うこともあった。

 

1978年3月の終わり、京都で私の下宿を探すときに祖母は私と母について京都まで来た。これが祖母との最後の旅となった。祖母のお出かけ着は大抵和服だった。下宿が決まり、大学の生協で当面必要な物を揃えた後、祖母と母が小倉に帰る最後の日、三人で観光バスに乗った。そのとき清水寺の舞台から見た早春の京の夕暮れの美しさが今も脳裏に蘇る。

 

 

祖母に関して、今も記憶に残っているエピソードがいくつかある。

 

「変わった味のアイスコーヒー」

私は小さい頃からコーヒー、特にアイスコーヒーが大好きだった。「ばあちゃん!アイスコーヒー作って!」と祖母によく頼んでいた。夏休みが近づいたある日、バス(小学校はバス通学だった)を降りるとまっしぐらに自宅へと走った。とても喉が渇いていて早くアイスコーヒーが飲みたかったからだ。生憎、祖母は買いものに出かけて留守だった。とりあえず冷蔵庫を開けてみると、そこにはコカ・コーラのグラスに入ったアイスコーヒーが置かれていた。「ばあちゃんが作っておいてくれたんだ!」と確信し、グラスを取り出し一気に飲み干した。だが、飲む途中「味がちょっと違う」と気付いたが、結局飲み干した。それはアイスコーヒーならぬソーメンの出汁だった。当時の出汁は自家製で濃縮タイプではなかったので大事には至らなかったが。

 

 

「バス停からの帰り道にて」

次は私が高校1年くらいの話である。バス停から自宅へ帰る途中、買い物から帰る祖母を見かけた。声を掛けようとしたが何となく恥ずかしかった(照れ臭かった)。私と同じくらいの年齢の高校生たちが周りを歩いており見覚えのある顔もあった。祖母と二人で歩いて帰ることが子供っぽく見られると思ったからだ。結局、祖母と目を合わせながらも追い抜いて先に自宅に戻った。祖母は私に何故一緒に帰らなかったのか尋ねた。私は「だって恥ずかしいやん!」と答えた。祖母はそれに傷ついたようで父に報告した。その夜、私は父に「いつも世話になっているくせに恥ずかしいとは何だ!」と説教された。確かに、買い物かごを持ってあげるなどすべきだった。思えば、その方がよっぽどかっこよく見えたはずだ。

 

 

「大切なチェックのハンカチ」

最後は、私が大学に入ってからの話だ。私には大好きなハンカチがあった。赤と黒のチェック柄の大きいサイズのものだった。中学生のときに買ったもので、高校時代は弁当をそのハンカチに包んで持って行っていた時期もあった。大学時代、夏休みが終わり京都に帰る日、父母が朝出勤した後、持ち帰る荷物などをチェックしていた。祖母はそばにいて「忘れもんは無かね(肥後弁)」と私に何度も聞いていた。私は「大丈夫!」と何度も答えて自宅を出た。もう少しでバス停というところで、遠くから「○○ちゃーん!○○ちゃーん!」と私を呼ぶ声が聞こえてきた。振り返ると祖母である。祖母が息を切らして走っていた。「どうしたんね?」と尋ねると、「これ大切なもんなんじゃろ?!」と例の赤と黒のチェックのハンカチを私に渡した。「こんな古いもの何処で見つけ出したんだろう」と思ったが、とりあえず「ありがとう」と受け取った。そのハンカチが私にとって大切なものと知っていたようである。特に京都で使うわけではないのだが。

 

当時、私が21歳くらいなので、祖母は70歳を超えたくらいの話である。