流離の翻訳者 青春のノスタルジア -6ページ目

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

大学入学共通テスト⇐センター試験⇐共通一次よりも前の旧制度の私のような旧人類からみると、大学入試の二次試験の英語問題は3倍は難しくなったと思う。私の時代はリスニングも無かったリスニングを課していたのは東京外大大阪外大上智大(外国語学部)くらいだった。

 

客観問題と記述問題が総合された形式の問題だったので、英文解釈や英作文のボリュームは現在の半分以下だった。今は、東大や阪大のように、二次試験でもリスニングを課すところがある。今の受験生の負荷は大変なものだ。

 

 

今年の東大の英作文は、やや哲学的で社会的な内容をテーマとしたものだった。(B)については、日本語をしっかり読んで主語を把握することが必要である。

 

2.

(A)「意見を言わないということは同意することを意味する」という主張について,あなたはどう考えるか,理由を添えて,60〜80語の英語で述べよ。

 

(拙・解答例)

Just because someone is silent does not always mean they agree. There are various reasons for their silence, such as avoiding conflict, lack of interest in the issue, or uncertainty due to lack of knowledge. Furthermore, silence may also indicate hesitation or the need for deeper thoughts. It is too simplistic to regard silence as agreement. To reach true agreement, active engagement with the silent person is necessary. Misinterpretation of silence can lead to unfair judgments and misunderstandings. (78 words)

 

(日本語訳(参考))

誰かが沈黙しているからといって,それが必ずしも同意を意味するわけではない。彼らが沈黙する理由は,対立を避けるため,問題に興味がない,あるいは知識不足による不確実性など様々ある。さらに,沈黙がためらいや深い考えを必要とすることを示す場合もある。沈黙を同意とみなすのはあまりに単純すぎる。真の同意に到達するためには,沈黙者に対する積極的な関与が必要である。沈黙を誤って解釈すると不公平な判断や誤解を招く恐れがある。

 

(B)以下の下線部を英訳せよ。

この世は,土地を持っている人間と,持っていない人間に分かれており,土地を持っていない人間は,馬鹿高い金額を払って土地を手に入れ,ブラックボックスと化し,商品の値段など分からなくなってしまっている家という商品を購入しない限りは,自分のための家を手に入れることはできないのである。だから大抵の人は家を所有者から借りることになるのだが,家賃を払うお金すらない人は,路上生活者になるしか道はない。

これはどう考えても憲法違反のような気がするのであるが,お金という権力を持っている人間だけが支配している現状について,誰も疑問に思っていないようだ。たとえ疑問に思っていたとしても,権力を持つ者が動かしている政治を変えることは難しいと捉えており,だからこそ,土地や家を持っていない人々は,がむしゃらに働き,支払いに何十年とかかっても手にしようと試みる。

僕はこの家の在り方をおかしいと思う。

(坂口恭平『モバイルハウス 三万円で家をつくる』を一部改変)

 

(拙・英語訳)

In this world, people are divided into those who own land and those who do not. Those don’t own land must pay extremely high prices to obtain it, and unless they purchase a house, whose price becomes unclear in a black box, they cannot secure a home for themselves. Therefore, most people end up renting houses from owners, but those who can't even afford to rent houses have no choice but to become homeless.

I feel that this must be a violation of the constitution in every respect, however, nobody seems to feel suspicious about the current situation where only those who have the power of money control everything. Even though people do have such suspicions, they think that it is difficult to change the politics controlled by the rich. For that reason, those who don’t own land or houses work so frantically that they could obtain them, despite the fact that it may take decades to pay off.

I think this way of ownership of houses is ridiculous.

 

(2025年 東京大学)

 

今週に入って少し春らしくなったが、花粉の飛散も激しいようで家内を含めて花粉症の人は辛いようである。先日、近くの「農事センター」に梅の花を見にいった。早春の梅の香が清々しかった。「今年もまた春が来たんだ」と実感させられた。

 

 

この時期、今年の国公立・私立大学の入試問題がネット上で公開されている。英語、特に英作文についてはどんな問題が出題されたのか、いつも何となく確認している。

 

京大は、以前は「日本語指定型」が2問出題されていたが、数年前から「日本語指定型」が1問、「自由英作文」が1問という形になった。

 

Ⅲ.次の文章を英訳しなさい。

人間の心と顔の表情の関係は,一般的なイメージ以上に込み入っている。顔は心を映す鏡だと言われるが,「ポーカーフェイス」という言葉もあるように,いつもそうであるとは限らない。実際,顔の表情を変えることが心を動かすこともあると示唆する研究もある。もしそうならば,口角を少し上げるだけで,前向きな気持ちになれるかもしれない。

 

(拙・英語訳)

The relationship between human emotions and facial expressions is more complicated than generally imagined. It is said that the face is the mirror of the mind; however, on the other hand, there is the term “poker face,” which reminds us that the face does not always reflect the mind. In fact, some studies suggest that changing one’s facial expression can affect one’s mind. If that is true, just lifting the corners of your mouth a little might give you a more positive mood.

 

 

Ⅳ.「人間の想像力は人工知能の普及によって豊かになる」あるいは「人間の想像力は人工知能の普及によって乏しくなる」のどちらかの主張を選択し,その主張を論証する英文を書きなさい。なお,解答に際しては,以下の1~3の条件をまもること。

 

1.英文には,選択した主張を提示する文,理由や例などを述べて主張の妥当性を論証する文,それまでの主張と論証を統括する文を必ず含めること。

2.語数は80語以上100語以内とすること。

3.解答欄の各下線部分の上に単語1語を記入すること。カンマ(,)等の記号は,その直前の語と同じ下線に含めることとし,1語と数えない。短縮形(例:don’t)は1語と数える。

 

(拙・解答例)

I support the opinion that “the spread of artificial intelligence will impoverish human imagination.” This is because AI can instantly provide final answers to us by bypassing the intermediate thinking process, which deprives human beings of the opportunity to think about the basics by themselves and to learn through trial and error. Human imagination is considered to be inspired by the accumulation of fundamental knowledge and continuous efforts. If AI thinks on behalf of human beings, people will lose the opportunity to cultivate their own imagination and become prone to neglect effort, and, consequently, human imagination will be impoverished. (99 words)

 

(日本語訳(参考))

私は「人間の想像力は人工知能の普及によって乏しくなる」という意見に賛成する。これは、AIが中間の思考プロセスを省略して最終的な答えを即座に提供できるため、人間が自分で基礎的なことを考え、試行錯誤して学ぶ機会を損なうからである。人間の想像力は、基本的な知識の蓄積と継続的な努力によって引き出されると思われる。もしAIが人間の代わりに思考するならば、人は自分の想像力を培う機会を失い、努力を怠る傾向に陥る。その結果として、人間の想像力は貧困になるものと考えられる。

 

(2025年 京都大学)

 

3月に入って悪天候が続いていたが昨日の午後くらいから晴れ間が見えるようになった。この時期に珍しく濃い霧の日が2日続いた。100メートル先の信号や車も見えにくいほどだった。「霧が丘」という地名もあるくらい足立山麓の霧は以前から有名である。

 

祖母のエピソードを書いたブログ記事について、予想以上に多くのアクセスがあった。やはり、もう会えない人のことは、記憶が新しいうちに何処かに記録して、時々思い出してあげることが供養になるのではないかと思う。

 

人の記憶とは不思議なもので、一つ思い出すと芋づる式に様々な記憶が蘇ってくるものだ。もう少し祖母との思い出について綴ってみたい。

 

 

「祖母と学んだ漢字」

私の自宅からバス停までは大人の足で5~6分ほどだった。私は、幼稚園に入る前の物心ついた頃からバスや電車などの乗り物を見るのが大好きだった。祖母は時々、私をバス停まで連れて行きバスを見せてくれた。祖母とバス停のベンチに腰掛け、たまに来るバスを待っていた。祖母は私にバスの行く先(漢字)の読み方を教え始めた。祖母と病院へ行ったり街に出たりすると、普段とは違う行く先のバスを見かけた。「ばあちゃん!あれなんて読むん?」と、私もその都度祖母に聞くようになった。いつの間にかバスの行く先の漢字が全部読めるようになった。「町上津役(まちこうじゃく)」「戸畑渡場(とばたわたしば)」など難しい読み方の漢字も読めた。私が幼稚園に入ったくらいから、祖母は私に漢字の書き方を教え始めた。今思えば、これらが私の国語の勉強の基礎になっている。

 

 

「明治100年の財布」

私が小学4年の1968年の10月、「明治100年記念式典」という祝典が開催された。明治改元(1868年)100年を記念したもので、地元では小倉城を中心に「お城祭り」が開催され屋台や出店で街中が賑わった。このお祭りのときに私は祖母にあるお願いをした。「ばあちゃん!一緒にお祭りに行って財布を買ってくれん!」とねだった。なぜ自分の財布が欲しかったのか今となってはわからないが、少しは小遣いがたまっていたのかも知れない。祖母は「まあ、よかばい」と承諾してくれた。私は財布のことを夢に見るほど心待ちにしていた。祭りには祖母と二人で出かけたように思う。祖母は小倉城近くの「玉屋デパート」で財布を買ってくれた。チャックが付いた茶色い革の財布だった。以後、その財布は私の宝物になり肌身離さず持っていたが、いつの間にやら何処へ行ったのかわからなくなった。子供の興味・関心とは結局、それほどのものだったのかも知れない。

 

 

「美少女の肖像」

祖母が私によく見せてくれた写真があった。高等女学校(高瀬高等女学校=現・玉名高校)時代のものである。清楚な制服姿の祖母はまさに美少女だった。「これがうち(私)!」といつも自慢げに披露していた。その当時、高等女学校まで進学できる女子は裕福な家庭に限られており、祖母はある意味インテリだった。高等女学校在学中に祖父から見初められたそうで、結婚は親同志が決めたものだったらしい。祝言の日まで相手の顔を見ることもなかった。当日、新郎を初めて見て「こん人がうちの主人になる人たいね?」と思ったそうだ。祖父は教員だったが30代で早逝した。その後、祖母は5人の息子を抱えて随分苦労したらしい。1992年頃、祖母は小倉を離れ、父方の叔父が暮らす長崎へと移った。以後、叔父叔母が最後まで面倒をみた。2001年に亡くなるまでの間、米寿の祝いなどで何度か長崎に行ったが、そのたびに、祖母の高等女学校時代の写真を見ることになった。楽しそうに写真を見せていた祖母の姿が今も目に浮かぶ。

 

 

母が亡くなって今年で6年目、七回忌の年である。母が亡くなったのは令和改元の直後、新型コロナウィルス流行の前だった。10連休などで日本中が浮かれていた頃で、時期的にはある意味幸せだったように思われる。

 

最近よく思うのが、祖母や父母からもっと色々なことを聞いておくべきだった、ということである。それは祖先や親族のことから、漬物の漬け方や料理のレシピにまで及ぶ。あの漬物やあの料理をいくら今食べたいと思ってももう食べることはできない。

 

 

前回、祖母のことを書いてから、他にもいくつか思い出したことがあった。今回は続編としてそれらをブログに記載しておきたい。

 

 

「特製ラーメン」

高校1年の2学期くらいに、初めて親友と呼べる友人ができた。彼については、以下の記事に記載している。

 

自叙伝(その5)-オリオン座ベータ星リゲル | 流離の翻訳者 果てしなき旅路

 

彼とはもう50年以上の付き合いになるが、若い頃、彼から「〇〇のおばあちゃんのラーメンがとても美味しかった」という話を聞いた。たぶん、高校一年の秋、学校帰りに彼を一度自宅に連れて来たことがあった。その時に祖母が「ラーメンでも食べんかい?」と作ってくれたラーメンのことだ。祖母のラーメンはインスタントではあるが特製だった。マルタイの「屋台ラーメン」に具として野菜炒めが入っていた。玉ねぎ、キャベツ、豚肉などでさっと作った野菜炒めをラーメン・スープで少し煮込んだチャンポンみたいなものだった。これが実に美味かった。その時に彼と二人で「特製ラーメン」をおかずにご飯まで食べた映像が何となく脳裏に浮かぶ。5時くらいにラーメン・ライスを食べて、7時には普通に夕食を食べるのだから、当時、我々がいかに腹を空かしていたかが想像できる。

 

 

「祖母に話す日本史」

大学受験の最後の追い込み時期だった1978年1月から3月、父は入院中、母は会社、弟は高校で日中は祖母と二人きりということがほとんどだった。当時、私は日本史に苦戦していた。特に明治以降の近・現代史が苦手だった。「何とかならないか」と悩んでいたところ、あることに思い当たった。「祖母は実際にその時代を生きてきた人だ」ということである。以来、明治の後半から大正、昭和の大戦までの時代について、教科書で覚えた内容を祖母に話すようにした。「ばあちゃん、この時の総理覚えとる?この後に起きた騒動知っとる?」などと質問したりした。祖母は「そぎゃん人も居ったたいね!それは知らん!それはあん人たい!(すべて肥後弁)」などと反応した。これがどの程度勉強に役立ったかはわからないが、苦手な時代の歴史が少し身近に思えるようになった。

 

 

「祖母と博多へ」

博多で銀行に勤務していたころ、祖母を博多に連れて行ったことがあった。たまに小倉の自宅に帰省すると、祖母があまりに世話を焼きたがるので、ちゃんと独り暮らしをしているところを見せたかったからである。1990年頃なので私が30歳を超えたくらい、祖母は80歳代だったと思われる。当時の祖母は、以前ほど元気ではなく外出も少なく、暇があれば庭の草取りをしているような状況だった。その日、連休だったのか在来線、新幹線、地下鉄すべてが混雑していた。だが、祖母を連れて乗り込むと周りの人が席を譲ってくれたり、気を遣ってくれたりした。人の親切が心に沁みた。地下鉄を唐人町駅で降りて自宅のマンションに着いた。「こんな風に暮らしとるんよ!」と自宅の1DKの部屋を見せた。「狭かねぇ~」と祖母は呟いた。確かにさほど広くは無かった。色々な話をしているうちに腹が減ってきたが、何処かに食べに行くのも面倒だった。「そうだ!出前がある!」と思いついた。自宅近くにある「當仁うどん」は出前ができることを知っていた。祖母はうどん、私は丼物を頼んだ。配達に来たうどん屋の大将が「おばあちゃんですか?!」と声を掛けてくれたのを何となく覚えている。夕方にはマンションを出て、地下鉄、新幹線、在来線を使って再び小倉に戻った。これが、祖母と私との最後のデートとなった。

 

 

私は典型的な「おばあちゃん子」である。父母が共働きだったため、小学校から帰るといつも父方の祖母が作ったおやつを食べていた。夕食も主菜は祖母が作ることが多かった。

 

祖母は名前を藤子といった。4月の終わり、藤の花が咲く頃に生れたので、それに因んで名付けられたらしい。明治の終わり頃の申年生まれで私と年齢が50歳違った。今の私の年齢(66歳)で高校1年の私(16歳)の面倒をみていたことになるが、今の自分と比べると随分元気(健康)だったように思われる。

 

祖母には大学に入学するくらいまで随分お世話になった。大学在学中も帰省すると、食事のときに惣菜を皿にとってくれたり、それに醤油をかけてくれたりと細々と面倒をみたがったが、それにはさすがに閉口した。父も「〇〇ももう大人なんやけ、あんまり世話をやきなさんな!」と言うこともあった。

 

1978年3月の終わり、京都で私の下宿を探すときに祖母は私と母について京都まで来た。これが祖母との最後の旅となった。祖母のお出かけ着は大抵和服だった。下宿が決まり、大学の生協で当面必要な物を揃えた後、祖母と母が小倉に帰る最後の日、三人で観光バスに乗った。そのとき清水寺の舞台から見た早春の京の夕暮れの美しさが今も脳裏に蘇る。

 

 

祖母に関して、今も記憶に残っているエピソードがいくつかある。

 

「変わった味のアイスコーヒー」

私は小さい頃からコーヒー、特にアイスコーヒーが大好きだった。「ばあちゃん!アイスコーヒー作って!」と祖母によく頼んでいた。夏休みが近づいたある日、バス(小学校はバス通学だった)を降りるとまっしぐらに自宅へと走った。とても喉が渇いていて早くアイスコーヒーが飲みたかったからだ。生憎、祖母は買いものに出かけて留守だった。とりあえず冷蔵庫を開けてみると、そこにはコカ・コーラのグラスに入ったアイスコーヒーが置かれていた。「ばあちゃんが作っておいてくれたんだ!」と確信し、グラスを取り出し一気に飲み干した。だが、飲む途中「味がちょっと違う」と気付いたが、結局飲み干した。それはアイスコーヒーならぬソーメンの出汁だった。当時の出汁は自家製で濃縮タイプではなかったので大事には至らなかったが。

 

 

「バス停からの帰り道にて」

次は私が高校1年くらいの話である。バス停から自宅へ帰る途中、買い物から帰る祖母を見かけた。声を掛けようとしたが何となく恥ずかしかった(照れ臭かった)。私と同じくらいの年齢の高校生たちが周りを歩いており見覚えのある顔もあった。祖母と二人で歩いて帰ることが子供っぽく見られると思ったからだ。結局、祖母と目を合わせながらも追い抜いて先に自宅に戻った。祖母は私に何故一緒に帰らなかったのか尋ねた。私は「だって恥ずかしいやん!」と答えた。祖母はそれに傷ついたようで父に報告した。その夜、私は父に「いつも世話になっているくせに恥ずかしいとは何だ!」と説教された。確かに、買い物かごを持ってあげるなどすべきだった。思えば、その方がよっぽどかっこよく見えたはずだ。

 

 

「大切なチェックのハンカチ」

最後は、私が大学に入ってからの話だ。私には大好きなハンカチがあった。赤と黒のチェック柄の大きいサイズのものだった。中学生のときに買ったもので、高校時代は弁当をそのハンカチに包んで持って行っていた時期もあった。大学時代、夏休みが終わり京都に帰る日、父母が朝出勤した後、持ち帰る荷物などをチェックしていた。祖母はそばにいて「忘れもんは無かね(肥後弁)」と私に何度も聞いていた。私は「大丈夫!」と何度も答えて自宅を出た。もう少しでバス停というところで、遠くから「○○ちゃーん!○○ちゃーん!」と私を呼ぶ声が聞こえてきた。振り返ると祖母である。祖母が息を切らして走っていた。「どうしたんね?」と尋ねると、「これ大切なもんなんじゃろ?!」と例の赤と黒のチェックのハンカチを私に渡した。「こんな古いもの何処で見つけ出したんだろう」と思ったが、とりあえず「ありがとう」と受け取った。そのハンカチが私にとって大切なものと知っていたようである。特に京都で使うわけではないのだが。

 

当時、私が21歳くらいなので、祖母は70歳を超えたくらいの話である。

 

「NHK放送開始100年」に因んだ番組だろうか、先日テレビで「第20回紅白歌合戦(1969年)」が放送されていた。白黒で3時間余りあったが実に豪華な出場者だった。当時私は小学5年生。何となく当時の世相や年の瀬の雰囲気が蘇った。

 

 

京都から戻って以来、思考が過去に向かっているようで、予備校や大学時代のことをよく思い出す。友人たちとの会話やメールで、当時の入試問題に関する話題が結構出てきたことも理由のひとつである。

 

私が通った「北九州予備校」で英語を習った先生は4人いた。リーダー(英文解釈)が担当の年配の先生と若い先生、英文法が担当の大学教授みたいな先生、そして英作文を担当された脚が不自由な先生の4人である。

 

その中で最も印象に残っているのが英作文の先生である。お名前が思い出せないのが残念だが当時40代半ばくらいの方だった。この先生の講義は今でも覚えている。

 

テキストは「新大学英作文(BRUSH UP YOUR ENGLISH COMPOSITION)」(増田鋼著/成美堂)というもので、授業の形は数学と同じく、当日学ぶ問題の英訳を休み時間中に生徒が黒板に書き、それを先生が添削するという形式だった。

 

 

この先生は我々に、まるで口癖のように「英文の膿を出しなさい」と語りかけていた。この意味は、言いかえれば「難易度の高い単語や表現を使うのではなく、シンプルな構文や平易な単語を使って素直な英文を作りなさい」ということだったように思われる。

 

先生に言わせれば「使いきれてない難易度の高い単語や表現こそが膿」だったようだ。確かに「試験に出る英単語・英熟語」やその他の参考書で覚えたての単語や表現を英作文で使ってみたくなるのが受験生の人情だった。先生の言葉はこれを戒めたものだった。

 

それよりは、関係代名詞/関係副詞が正しく使えるか、分詞構文が正しく書けるか、接続詞が正しく選択できるかとか、基本的な動詞について、自動詞で使うのか他動詞で使うのか、不定詞をとるのか動名詞をとるのか、またthat節が続けられるのかなど、文の骨組みに関わる部分を重視された。

 

結局のところ、英作文についても文法書をしっかり読んだり辞書をきちんと引くことが大切なのである。

 

当時の生徒が黒板に書いた英文で先生が厳しく批判されたものをいくつか思い出す。例えば、「困り果てた母と子は…」という日本語を、ある生徒が英語でperplexed mother and childと書いた。Perplex「試験に出る英単語」「当惑させる」という意味の動詞で出てきたが、その生徒はその単語が使いたかったようだ。当時の私でも何となくbig word(大げさな言葉)な印象を受けた。mother and child who were in troubleくらいで処理すれば良かったのではないか。

 

先生に一度だけ指名されたことがある。「路面電車って何て言う?」という質問だった。わからず小さな声でtrainと答えた。先生はよく聞き取れなかったのか「そうだね!tramcarだね!」と仰った。以来、tramcarという単語は私の脳裏に深く刻み込まれることになった。

 

 

思えば、これほど印象に残る英語の授業を受けたことは、大学に入学した以降も生涯を通じて一度も無かった。

父は昔気質の人だった。9歳の時に父親(私の祖父)を亡くし、長男として母親(私の祖母)や幼い弟たちのために随分苦労したらしい。

 

まだ私が中学生くらいの頃、家族で正月を迎える準備をしていた。何処か滑稽に思えて「こんな日本式の正月っていつまで続くんやろうね?」と父に聞いたことがある。「お父さんのような大人が生きている限りずっと続く」と父は答えた。

 

父が家事を手伝うのを見たことはなかった。いつも居間に座って煙草を吸いながら新聞を読んでいた。家事は母と祖母の女二人に任せっきりだった。

 

そんな父がたまに台所に入ることがあった。ステーキを焼くときである。「お前たちにやらせたらステーキがセッタ(雪駄)になる」などと冗談を言っていた。

 

60代に入った頃から父は少しずつ家事を手伝うようになった。と言っても、縁側の雨戸の開け閉め程度である。母が膝を痛めたことも理由のひとつだった。

 

ある日、実家に行くと、父が「○○、この雨戸何とかならんか!?全然動かんのじゃ!」と言う。「ちょっと見せて!」と見ると、確かに雨戸の一枚が戸袋の中に引っ掛かっているようでビクともしない。10分くらい悪戦苦闘した結果、「ガタッ」という音がして雨戸が動いた。「よくやっつけてくれたな!ありがとう!」と父は言った。

 

「やっつけた」という言葉が可笑しくて覚えているが、父から「ありがとう!」という言葉を聞いたのは何十年ぶりだっただろうか。そんな縁側の雨戸の開け閉めも今は私の仕事だが、時々そんなことを思い出す。

 

 

 

久しぶりに英文法の話を書いてみる。昨日、英会話のレッスンを受けたが、テキストに「Attributive Ditransitive Verb(二重目的動詞)」という品詞が出てきた。何となく難しそうだが、テキストの文法的な説明は以下の通り。

 

Attributive ditransitive verbs such as make and call can be followed by two objects: a direct object and an object component. In passive constructions, the object usually remains at the end of the sentence.

 

Makeやcallなどの二重目的動詞は、直接目的語と目的語成分の二つの目的語を取ることができる。受動態の構文では、目的語は通常文の最後に置かれる。

 

これは単に、第4文型(SVOO=Subject+Verb+Indirect Object+Direct Object)をとる動詞のことを言っており、それが受動態になった場合は、(直接)目的語が文末に置かれることを説明したものである。決して難しいものではない。

 

「二重目的動詞」に他にどんなものがあるかAIに尋ねると、makecall以外に以下のものがあるらしい。いずれも何処かで習ったものばかりである。

 

1) Appoint

The personnel department appointed her manager.

受動態⇒ She was appointed manager by the personnel department.

 

2) Name

The parents named their baby Oliver.

受動態⇒ Their baby was named Oliver by the parents.

 

3) Elect

The committee elected him chairman.

受動態⇒ He was elected chairman by the committee.

 

4) Consider

The class considered him a genius.

受動態⇒ He was considered a genius by the class.

 

5) Choose

The coach chose her the team captain.

受動態⇒ She was chosen the team captain by coach.

 

6) Designate

The company designated him the spokesperson.

受動態⇒ He was designated the spokesperson by the company.

 

英会話のレッスンではあまり文法にこだわらないが、家に帰ってテキストを復習していると結構疑問に感じる点も多い。因みに以下の文の違いはわかるだろうか?

 

① He was considered a genius by the class.

② He was considered to be a genius by the class.

③ He was considered as a genius by the class.

 

AIの回答は以下の通りである。①は彼がクラス全体によって天才として認識されていたことをシンプルに伝えている。②は彼がクラスによって天才として評価されるプロセスや状態を強調している。to beが加わることで彼の天才性が認識されるというニュアンスが強調されている。③のconsidered asは文法的には正しいが、①②と比べるとやや冗長な表現である。

厳寒の京都から帰り、翌日は英会話のレッスンを受講した。また2日間の休肝日を設け、2日間働いて何とか社会復帰した。バレンタインの昨日は家内と自宅近くの中華料理屋に行った。JR下曽根駅近くの「富貴楼」は手頃な値段でなかなか美味しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

旅行から帰って感じるのは「やはりいちばん寛げるのは自宅である」ということである。また、友人たちに会って思うのは「自分ももっと頑張らねば」ということである。とにかく春に向かって少しでも体を動かそう。やはり、健康こそが一番大切なのである。

 

 

旅行をしていつも思うのが「車窓から眺める景色こそ旅の醍醐味」ということである。目的地に着いてあちこち観て歩くのももちろん楽しいが、車窓を流れる受動的な景色に色んなことを感じる。これも旅の楽しみの一つである。

 

今はあまり見ないが、小さい子どもがバスや電車の座席に靴を脱いで窓に向かって座り、移り変る景色を楽しんでいる姿、それこそこの感覚である。私の精神年齢はその頃からあまり発達していないのかも知れない。

 

 

2022年の京都大学の英作文の入試問題に以下のものがあった。私の心情にピッタリのものである。英訳は以前本ブログに掲載したものを再度掲載した。

 

Ⅲ.次の文章を英訳しなさい。

数ある旅の楽しみの中で、車窓からの眺めというのもまた捨てがたい。そこに美しい自然が広がっていれば、ただただ目の保養になる。でも、ありふれた田舎や町並みを眺めているのも悪くない。そこに見かける、此の先出会うこともなさそうな人々は、みなそれぞれにその人なりの喜びや悲しみとともに暮らしている。そう思うと、自分の悩み事もどこか遠くに感じられて、心がふっと軽くなる気がするのだ。

(2022年 京都大学)

 

(流離の翻訳者・拙訳)

Among a lot of pleasures of traveling, I think, scenery from train window is attractive in its own way. Beautiful nature spread in the scenery, if any, itself can serve as a feast for the eyes. Nevertheless, it is not bad to simply look at commonplace countryside or town streets. Those who are found in these places, and who are not likely to meet again in the future, are respectively living their own lives with their own joys and sorrows. Such casual facts seem to keep my own agonies somehow away from my mind, and also to lighten my troubled heart a little in a moment.

 

2月9日(日)午後

駅員に聞くと彦根へは京都駅0番線から琵琶湖線だという。とにかくわからなければ人に聞く。最近はいつもこんなスタンスだ。沿線の何処かで機械的な事故があり列車は少し遅れていた。

 

この先の雪の状況などについてホームで我々と同年配ぐらいのご夫婦と話をした。彼らは奈良へ帰るらしい。電車を待っている僅かの間、色んな話をした。

 

話しているうちに「やっぱり学生時代の友人と飲む酒が一番楽しい」という結論になった。「今まで頑張らはったんやから、これからは精々旧交を温めはったらいい!」と言われたので「大して頑張ってないんですが」と言うと「今こうしておられるのが頑張らはった証拠や」と言われてほっとした気持ちになった。

 

琵琶湖線の野洲あたりから雪景色が見えるようになった。この辺りは川を1本隔てただけで随分気候が変わるらしい。1時間ほどで彦根に着いたが積雪と降雪で歩くのも大変な状況だった。とりあえずホテルに荷物を預けて街に出た。

 

 

駅前の商業モールで「彦根チャンポン」を食べた。九州のものとは全く異なり野菜と醤油出汁のあっさりしたものだった。彦根城へは雪のため行けそうもなかった。ホテルに戻りチェックインすると娘家族との待ち合わせの時間が近づいて来た。ホテルを出て約束の居酒屋へと向かった。娘と旦那、孫娘3人連れである。三女はまだ生後3カ月でこれが初顔合わせとなった。

 

長女・次女がはしゃぐ中、娘夫婦とは色んな話ができた。21:00くらいに店を出た。雪のためタクシーがなかなか拾えなかったが、娘たちが無事タクシーに乗り込むまで見送って駅の反対側のホテルへと向かった。少し飲み足りない気がしてホテルの1階の居酒屋に入った。なんと九州料理の居酒屋だった。

 

 

 

2月10日(月)

朝食をとり10:00前にはホテルをチェックアウトした。彦根の雪はそのまま、琵琶湖線で京都に戻ったのは11:00過ぎだった。

 

駅のロッカーに荷物を預けようとしたがカード専用で使い方がわからない。隣にいた若いカップルに「使い方を教えてくれませんか」と声を掛けた。彼らも荷物を預けようとしていたところだったので「ちょっと待ってくださいね」と言われたが、すぐに丁寧に教えてくれた。私が持っている交通系カードでも大丈夫だった。実に爽やかなカップルだった。

 

京都市街地の雪は消えており天気は快晴だった。「さてどうするか」と考えたが「とりあえず叡電に乗ってみよう」と思い、地下鉄とバスで出町柳まで来た。叡電のホームには「鞍馬」行きが停車していた。とりあえず乗り込んだ。

 

大学の3・4年は叡電の「一乗寺」から徒歩10分ぐらいのアパートに住んでいた。一乗寺燈籠本町という場所である。吉田二本松町からここに引っ越した頃から大学にあまり行かなくなった。少し心を病んでいたようである。そんなことを考えていると電車は「修学院」を過ぎていた。「比叡山」「鞍馬」かで迷ったが、このまま「鞍馬」まで乗ることにした。

 

「岩倉」くらいからちらほら雪景色が見え始めた。過去「鞍馬寺」に来たことはあったのだろうか。記憶がはっきりしない。大学1年の時、父母が上洛した時に大原や貴船神社に行ったのは確かだが…。「出町柳」から40分くらいで終点「鞍馬」に着いた。

 

「鞍馬寺」には雪が残っていた。また階段が多い。今の体力で果たして上まで登れるか。ケーブルカーもあるから何とかなるか。そんなことを考えながら階段を登っていった。途中ケーブルカーに乗り、息を切らしフーフー・ハーハー言いながらどうにか本殿まで辿り着いた。「やはり此処に来たことは無かった」と実感した。

 

本殿に参詣してお神籤を引いた。「第八番半吉」「急がずと時のいたるを待つならばやがて花さく春の来るなり」とのこと。今の季節そのものだ。とりあえず信じてみよう。

 

 

 

 

 

叡電の「鞍馬」に戻ったのが14:00過ぎ。「出町柳」から京阪電車⇒地下鉄東西線⇒地下鉄烏丸線と乗り継いで京都に戻ったのは15:30過ぎだった。

 

地下街ポルタ生八つ橋やお香を家内へのお土産として買った。新幹線は指定の時間には間に合わず自由席となったが窓際E席に座れた。時間的には夕焼けを追いかけながら西に向かうことになった。日が暮れたのは岡山を過ぎたあたりだった。

 

新大阪から30代くらいの女性が隣に座った。なんとこの女性、カツサンドやサーモンのマリネなどを肴にしながら広島までにワインの小瓶2本を空にした。相当な酒豪らしい。

 

小倉には19:00前に到着、自宅に帰り着いたのは20:00くらいだった。夕食は酒を飲みながら今回の旅行について家内との話に花が咲いた。

兼ねて計画していた大学のプチ同窓会(雀友会)滋賀県彦根に住む娘の家族に会うために、この極寒の中、京都・彦根へ2泊3日の旅行を挙行した。

 

2月8日(土)

前日からの雪が気になっていたが、当日の朝は雪も無く在来線(日豊本線)は通常運転新幹線は小倉を定刻通りに発車した。だが山口県に入ると車窓から見えるのは雪景色へと変わった。広島までの区間は若干の徐行運転を行うらしい。

 

結局、京都には30分遅れで到着、ホテルに荷物を預け地下鉄烏丸線で今出川へ。烏丸今出川から203系統のバス京大農学部前で降り、待合わせ場所の喫茶「進々堂」には13:45くらいに到着した。私が一番乗りだった。

 

一人また一人とメンバーが集まってきた。麻雀の面子が集まるような感じである。「進々堂」には15:00くらいまで居ただろうか。それから5人で農学部キャンパスへ。農学部/理学部のキャンパスは学生時代最も縁遠かった場所である。とりあえず農学部グラウンドまで行って農学部キャンパスを後にした。

 

 

本学構内には北東の通用門から入った。工学部各棟の側を通って法経済学部本館へ。法経済学部本館を巡って時計台に出た。本学を抜けて教養部(現・総合人間学部)構内へ。それにしても政治的な立て看板(タテカン)は全く無い。随分変わったものである。

 

教養部の建物も見覚えのないものばかりだった。構内を北から南に縦断して吉田寮まで来た。当時の風情のままである。今もまだ立ち退き問題でもめているようだが、当時吉田寮に住んでいたクラスメートの話では、寮食は飯30円、味噌汁10円で食べ放題・飲み放題だった。昼食を寮で食べていた学生もいたらしい。

 

 

 

 

 

南西の通用門から教養部を出て東大路通百万遍に向かって北上した。居酒屋は百万遍出町柳の間にあった。「隠れ家琢磨」という店である。第一勧銀/百万遍支店は無くなりみずほ銀行のATMだけが残っていた。よく行った(負けた)パチンコ屋「モナコ」は無くなり2階が「サイゼリア」になっていた。

 

居酒屋では美味しい料理を肴に思い出話に花が咲いた。学生時代の様々な思い出が蘇った。麻雀の話や数少ない恋の話(恋バナ)「勉強した」といった話はほとんど出てこなかった。結局大学受験の話に行きついた。ボーダーライン等を細かく分析していた友人もいた。でもやはり一番勉強したのは入学より前だ

 

店を出て出町柳から京阪電車で三条へ。ここで1名が帰宅、残る4人で先斗町まで歩きあるバーへ入った。そこで場違いの日本酒を飲みながら話の続きとなった。

 

 

2月9日(日)午前

友人からの携帯電話で目が覚めた。8:30頃だった。「今から南禅寺まで行って哲学の道を歩くぞ!ホテルまで迎えに行くから準備しろ!」と言う。眠さと二日酔いの中、シャワーを浴びてそれなりに人心地が着いた。

 

南禅寺へはタクシーで。少し雪が残る山門を抜けて境内を散策した。南禅寺から銀閣寺へ向かう哲学の道をひたすら北へと進んだ。薄く積もった雪を踏みしめながら歩いた。永観堂に立ち寄ったり、また友人たちの当時の下宿の跡地を確認しながらの行軍となった。昔あったお洒落な喫茶「若王子」は無くなり、いくつかの新しいカフェがオープンしていた。

 

 

 

途中、鹿ケ谷通りに入り、喫茶「バンビ」で休憩・軽食をとった。「バンビ」は徹マン明けによくモーニングを食べた喫茶店だった。当時はジューク・ボックスがあったがリクエストした記憶はない。レイアウトも随分変わっていた。銀閣寺道で2名と別れた。彼らは出町柳まで歩くらしい。私ともう1名でタクシーで京都駅に向かった。

 

 

京都駅で友人と別れまたひとりになった。これから雪深い彦根へと向かわなければならない。まだまだ前途多難である。

 

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