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流離の翻訳者 日日是好日

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

今年は出会いが多い年のようだ。春先から旧友・旧知との再会が相次いでいる。自分から声を掛けたものも多いが、考えてみれば、これも人生の棚卸しのようなものかもしれない。

 

彼らに会って感じるのが、皆それなりに体型を維持しているということである。ここ数年で肥大化した自分を「何とかしなきゃ」といつも反省する。

 

 

そんな思いから、今日少しだけ近所を散歩してみた。いつもの散歩道を行くと何軒かの家が新築・改築されていた。いつの間にか町は変わっていた。そこでは新しい人々がそれぞれの暮らしを営み始めているのだろう。世間は動いているんだ、と改めて気がついた。

 

 

妻が「久しぶりにハンバーガーが食べたい」と言うので近くのマクドナルドに車を走らせた。数年ぶりのことである。先方のメニューのラインアップも変わっていたが、LINEのクーポンを使い、PayPayで支払うこちらのやり方も変わっていた。

 

 

ハンバーガーで思い出すのが、昔、東京で働いていた時によく立ち寄ったドムドムバーガーである。当時はJR武蔵境駅の南口にあった。会社の独身寮の近くだったので土日に行くことが多かった。

 

ある夏の日の朝、会社で先輩に「そろそろ夏休みが取りたいです。」と告げると、先輩は「そうか、いいぞ!何なら今日の午後から休めよ!」と答えた。

 

タイミングが良かったようである。「えっ?!はい!」と答えながら心はウキウキしていた。午前中に引継ぎを終え「さて、どうしたものか?」と昼食がてら立ち寄ったのが武蔵境のドムドムバーガーだった。

 

アイスコーヒーを飲み、ハンバーガーをパクつきながら出した結論が「やっぱり親元に帰省しよう!」だった。突然に休暇が取れても何処に行く宛ても無いものだ。先輩の回答も、それを想定したものだった。

 

 

今なら、それなりに計画を立てて事前に休暇願いを出すところだが、入社3年目くらいの当時、夢と現実の間をふわふわと漂っていた。そんな夏の日のドムドムバーガーの想い出である。

 

 

6月に父の郷里の寺で母の七回忌の法要を行うことになった。母が亡くなったのは令和元年の6月、日本中が10連休や令和改元で浮かれていた時期だった。ある意味幸せだったのかも知れない。

 

 

先日、弟夫婦と飲んだとき、松尾芭蕉の「奥の細道」の話になった。「月日は百代の過客にして……」で始まる紀行文である。研ぎ澄まされた名文である。

 

文中に「漂泊の思ひ」という言葉が出てくる。「漂泊」を辞書で引くと①流れただようこと②一定の住居または生業がなく、さまよい歩くこと、流離(さすらい)、とあった。

 

たまに一人でドライブに出かけ見知らぬ風景を見たり、見知らぬ店に入って食事をして、店員とわずかな言葉を交わしたりするが、これらはまさに芭蕉の「漂泊の思ひ」に通じるものだろう、という結論になった。

 

 

以来、「奥の細道」に関する書籍を読んだり、朗読CDを購入して車内で聴いたりするようになった。流離のドライブも少しだけ風流になるだろう。

 

 

(原文)

月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。

予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂白の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、股引の破れをづづり、笠の緒付けかへて、三里に灸すゆるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別所に移るに、

 

草の戸も住み替はる代ぞ雛の家

 

表八句を庵の柱に掛け置く。

 

 

(現代語訳)

月日は永遠に終わることのない旅人のようなものであって、来ては去り、去っては新しくやってくる年もまた旅人である。船頭として船の上で生涯を過ごす人や、馬引として年をとっていく人にとっては毎日が旅であって旅を住処としているのだ。昔の人も、多くの人が旅をしながら亡くなっている。

私もいつの頃からか、ちぎれ雲が風に誘われて行くように流浪の旅をしたいという気持ちがおさまらずに、最近は海辺をさすらってはいた。去年の秋に川のほとりの古びた家に戻って、蜘蛛の巣をはらい腰を落ち着けた。年もだんだんとくれてきて春になったが、霞だちたる空を見ると、「今度は白河の関を超えたい」と、そぞろの神が私の心に取り憑いてそわそわさせ、しかも道祖神が私を招いているような気がした。股引の破れているのを繕って、笠の緒を付け替えて、三里にお灸をしたところ、松島の月はどのようになっているのだろうとまず気になったので、住んでいた家は人に譲って、杉風の別荘にうつると、次のような句を詠んだ。

 

このわびしい芭蕉庵(江上の破屋)も住人が変わることになって、雛人形が飾られる家になることであろうよ。

 

この句を芭蕉庵の柱に掛けておいた。

 

 

気象庁が「竜巻注意情報」の発表を始めたのは2008年3月のことらしい。偶然にも私が翻訳者として独立した時期と符合する。

 

県内でも時々「竜巻注意情報」が発表されることがあり、そんな時いつも思い出すのが高校3年のある朝のことである。もう50年近く昔の話である。

 

 

高校3年(1976年)の9月のある日のことである。その日は朝5時ごろ、ただならぬ物音で眠りから覚めた。「台風かな?!」と思った。

 

布団から這い出して窓を開けるとベージュ色の空が見えた。だが、それは空ではなく砂嵐のようだった。何かが高速で渦巻きながらで飛んでいた。隣家の屋根すら見えなかった。とにかく家族を起こそうと階下に降りた。そこには箒を片手に戦闘態勢を取った父が仁王立ちしていた。

 

父は「米軍がまた妙な兵器を作ったのかも知れん?!とにかく家から出るな!」と言った。さすがは戦中派である。発想が違う。

 

 

暫くすると家族みなが目を覚ました。いつの間にか砂嵐は治まっていた。テレビのスイッチを入れたが砂嵐に関するニュースは何も報道されていなかった。

 

7時半が過ぎて登校の時間になった。玄関から恐る恐る外に出た。いつも通り日は昇っていた。バス停まで路傍のあちこちに見慣れないものが飛来していた。また、樹木の木の葉は吹き散らされて路面にベッタリと貼り付いていた。

 

木の葉は何か見えない力で路面に押し付けられたように見えた。小雨に濡れた木の葉が朝の光にキラキラと照り映えていた。ただ、この木の葉以外は何も無かったかのようにいつもの一日が始まっていた。

 

 

わりと近くの場所で、未明に竜巻が発生したことを知ったのは、その日の夕方のことだった。

 

 

昨日、ふと思い立って一人でドライブに出かけた。

 

そんなときによく行くのが山口県の日本海沿いの海岸線である。小倉から高速道路に乗り下関インターで降りて国道191号線に入った。GWも終わり道は混んでいなかった。

 

朝方は曇り空で風が強く、横風のため高速道路は速度規制されていた。車から見た海には白い波が立ち岩場に砕けしぶきを上げていた。やがて昼が近づくにつれて、天気も少しずつ回復していった。

 

 

途中、福徳稲荷神社の近くの湯玉の「稲荷茶屋」で昼食をとった。ここの「かつ丼セット」は素朴な味で量もちょうど良い。周りは地元の常連客が多いように思われた。

 

人心地ついて湯玉を越え右折して内陸部に入り菊川方面へ車を走らせた。これもいつものコースである。随分走り慣れたからか、山口県の北西部は何処に何があるか大体わかるようになった。まるでもう一つの故郷のような親しみを感じる。

 

 

豊浦町川棚に「虚無僧墓」「小野小町の墓」という史跡がある。いつも車で通り過ぎた後に看板に気付く程度の地味な存在で立ち寄ったことは無かった。今回もまた同じ轍を踏んでしまった。とはいえ、山口県には「楊貴妃の墓」もあるほどなので真贋のほどは定かではない。

 

 

車中で聴いたのはユーミンの「14番目の月」(1976年)「紅雀」(1978年)だった。いずれも名曲が散りばめられたアルバムで、リリース時期は私が高校から予備校時代のものである。

 

「14番目の月」「朝陽の中で微笑んでという曲がある。この曲にはある思い出があった。高校3年の秋も深まる頃、受験勉強の真っただ中、苦手科目が克服できずに悩んでいた。夜遅くまで起きてはいるが、勉強は進まず、ラジオの深夜放送ばかり聴いていた。ある日、とうとう空が白むまで眠ることなく朝を迎えた。

 

その時、ラジオ番組の最後に流れたのが「朝陽の中で微笑んで」だった。何処か哀しくて優しいメロディが徹夜で疲弊した体と心に響いた。

 

その日の授業で居眠りするのは目に見えていたが、何故か心は平静だった。いまでもこのメロディが流れると、勉強部屋の窓から見えた晩秋の白い朝の光景が脳裏に浮かぶ。

 

音楽は、ときに記憶よりも鮮明に、過去を蘇らせてくれるものらしい。

 

 

天候が大きく崩れることなく今年のGWが過ぎていった。青嵐が吹き燕が飛ぶ爽やかな季節である。もし普通のサラリーマンをやっていたら、今頃は社会復帰に齷齪(あくせく)していることだろう。そんな生活も今は昔となった。

 

 

草花の栽培は妻の趣味の一つだ。今日は朝から駐車場のわきの沈丁花の植え替えに付き合わせられた。昨夜、小雨が降ったので土が柔らかくなっており、今日は植え替えに絶好のタイミングだという。

 

元来非力だが、成り行きで手伝うことになった。でも、たまに土に触れるのは大切かも知れない。まあ、いずれは土に帰る身でもあることだし。

 

妻はまずツバキの剪定をして沈丁花の植え替えスペースを確保した。沈丁花を引き抜く段になって私に「ちょっと来て!」と助けを求めてきた。この「ちょっと来て!」に大抵ろくなことは無い。大きなスコップを持たされ沈丁花の周りを掘って根を切り何とか移植することができた。結構腰に来た。

 

Green thumb「緑の親指」だが、have a green thumb「園芸の才がある」の意味になる。

 

My wife has a green thumb.(米)

= My wife has green fingers.(英)

= My wife is good at gardening.

「私の妻は園芸の才がある」

 

 

朝から力を使ったら腹が減った。最近、よく行くのがお隣りの京都郡苅田町のうどん店「喜(のぶ)」である。ここのうどん、讃岐系の手打ちでもちもちとして実に美味い。出汁も塩辛くなくて絶品である。

 

セルフ形式だが昼時は店の外まで行列ができている。工場勤務なのか制服を着て食べに来てる人が多い。最近は時節柄「冷やしぶっかけ」にハマっている。天ぷらもとても美味しくていつもかき揚げと半熟卵の天ぷらをトッピングしている。おにぎりも美味しい。家族経営の店で開店して4年くらいだそうだが、常連客はかなり多いようだ。

 

妻はこの店の若い店主によく声を掛けていて顔見知りになったようだ。私も帰りがけに「ごちそうさまでした!」と店員に声を掛けるようになった。

 

土に触れて汗をかき、腹が減ってうどんをすする、そんな一日も悪くない。

 

 

 

 

朝起きて新聞を取りに表に出たら、隣のお婆ちゃんを見かけたので「おはようございます!」と声を掛けた。すると「おはようございます。」と答え「一輪挿しにどうぞ。奥さんお花が好きでしょ。」と黄色い薔薇をくれた。何か良いことがありそうな一日の始まりである。

 

 

自宅近くの国道10号線は2車線で中央部に街路樹が植えられていたが、先日から伐採が進められている。ただ、今が盛りのツツジの植込みまできれいに除去されていたのには少し悲しい気持ちになった。

 

一方で、反対側車線の見通しが良くなり景観が随分変わった。また、植込みへのゴミの投棄なども減少するだろうし、街の美化にはプラスと思われる。いずれは車線も拡張され渋滞も解消されるだろう。

 

未来を生きる人のために街はその姿を変えながらどんどん進化してゆく一方で、人はその姿を衰えさせながらどんどん老いてゆく。それが自然の摂理というものだろう。

 

 

「生け花とは死にゆく花の美しさを愛でる芸術だ」という言葉をどこかで聞いたことがある。生け花に何かしら儚さを感じたり、満開の桜にいずれは散りゆく悲しい運命を想ったりするのも、そんな「花の短い命」に由来するものだろう。

 

 

五月晴れのGWの初日、一輪挿しを観ながらそんなことを考えた。

 

 

躑躅(ツツジ)の花が咲く中、初夏が訪れた。

 

昨日、弟夫婦を呼んでホーム・パーティーを催した。妻がカルパッチョ、アヒージョ、パエリア、キノコのマリネなどイタリア・スペイン風の料理に腕を振るった。料理を肴にビール、日本酒、白ワインと酒も進んだ。

 

歓談が進む中、弟が「今年は八方塞がりの年だ」と言った。易学に詳しくはないが、年齢差を考えれば3~4年前に私も「八方塞がり」だったことになる。思い返せば、当時は技能実習生の監理団体で働いていた。確かに「八方塞がり」の状況だった。案外当たっているものだ。

 

 

話は、私が高校2年(弟が中学2年)時の父との大山登山へと移った。私はそのときのことを以下のブログ記事に残していた。弟に見せると「文章上手いね!」と褒められた。何故か不思議な気持ちになった。

 

自叙伝(その37)-(補遺)夏の強行軍-神話の国へ | 流離の翻訳者 果てしなき旅路

 

 

父は旧・日本電信電話公社(現・NTT)に定年まで勤務したが、肩叩きもあり53歳くらいで退職した。私が東京の会社に就職した後だった。その翌年の1983年3月、父母が東北旅行の帰りに私の会社の独身寮を訪ねて来た。芭蕉の足跡を巡った旅だった。父母ともに寮の素晴らしさに感激していた。

 

父は退職後、若い頃に苦学した日本領台湾・台北にあった逓信講習所の同窓会を立ち上げた。同窓会は「淡水会」と名付けられ、その総会の開催などが唯一の楽しみだったようである。我々が今、大学のクラスのグループLINEを立ち上げてワイワイやっているのと同じようなものだ。

 

父はこの「淡水会」に幾つかの文書を寄せている。若い頃から嗜んだ俳句を随所に挟みながら、戦時下の自分たちの境遇を「青春の挽歌」と形容していた。実に静謐で品の良い文章だった。とくに印象に残っているのが、真夜中の学寮を詠んだ一句である。夜中に目覚めた父は何を考えたのか。故郷の母や弟たちのことだったのか。

 

「月天心 眠る北寮 南寮」

 

 

英会話のテキストにこんな英文が出てきた。

 

A: What will you be doing after you retire?

B: I picture myself sitting on a beach, somewhere like Tahiti, writing my memoirs and drinking cocktails.

A: Memoirs? You’ve never done anything interesting.

B: Not yet, I haven’t.

 

A:「リタイヤしたら何やるつもり?」

B:「タヒチあたりのビーチで、カクテルでも飲みながら回顧録を書いている姿が目に浮かぶなぁ~」

A:「えっ!回顧録?でも君、面白いことなんて何もやってないじゃん!」

B:「まぁ、今のところはね!」

 

このmemoirという名詞、もしかしたら英文で見たのは初めてかもしれない。「思い出の記、回顧録、自叙伝」という意味である。中森明菜のアルバム「BEST AKINAメモワール」(1983年)を思い出す。

 

 

本ブログはまさに私の「メモワール」(思い出の記)そのものである。今までは匿名で不特定多数に向けて「思い出の記」を発信してきた。私を知らない人はピンと来なかっただろう。

 

先月半ば、大学のクラスや以前勤務した会社の同期のグループLINEに参加して以来、それまで年賀状のみ付き合いだった友人・知人の多くとLINEを交換してコミュニケーションが活発になった。

 

それで、今回本ブログを匿名のまま友人・知人に本格的に公開することにした。まあ誤った記述や思い違いもあるだろうが、それらは彼らの反応を待つことにしたい。修正すれば済むことである。

 

 

桜が舞い散る中、新学期が始まり、子どもたちの姿が街に戻ってきた。真新しい制服に身を包んだ新入生たちが、颯爽と街角を歩く姿は、実に清々しい。

 

今朝、ある薬局で薬を受け取ろうとしたら、応対してくれたのは新入社員だった。「実務研修中」と書かれた名札をつけている。薬の効能や服用方法を説明してくれたが、その隣ではベテランの薬剤師が彼の振る舞いを注意深く見守っていた。OJTが行われているようだ。

 

街のあちこちで、そんな現在進行中の春の一コマを見かけるようになった。

 

 

私が住んでいる地域は、西に貫山を、東には遠く足立山を望むあたりにある。この時期、それらの山の山肌は、白やピンクの丸い綿菓子のような花々でポツポツと彩られる。山桜である。

 

けれども、そんな山桜をいったい誰が眺めているのだろうか……。そんなことを考えていたら、ふと、ある和歌を思い出した。百人一首にある一首である。

 

 

「もろともに あはれと思へ 山桜 花より外に 知る人もなし」
(百人一首 第六十六番・前大僧正行尊)

 

(拙訳)
山桜よ。私が君を見てしみじみと風情を感じるように、君もまた私に、身に沁みて深く感動して欲しい。私の気持ちを理解できるのは、この山奥では君しかいないのだから。

 

 

この歌を詠んだ前大僧正行尊は、俗世を離れ、山中で孤独に修行を積んでいた僧侶である。そのような折、思いがけず山桜の花に出会ったときの感動を詠んだものらしい。

 

「花より外に知る人もなし」――
 

その一節に、自らの心を重ねた行尊の孤独が滲んでいる。何とも切なく、深い余韻を残す歌である。

 

 

雨になり桜の季節が足早に過ぎようとしている。妻が「毎年違う桜が見たい」というので志井川(小倉南区)へと足を伸ばした。和服を着たアイドル系の娘をカメラマンが撮影していた。彼女の黒っぽい和服が桜一色の風景にアクセントを添えていた。

 

昨今、桜の花を見るたび思うのは、来年の春もまた桜の花が見れるだろうかという漠然とした不安である。私の同級生の間でもポツポツと訃報を聞くようになった。そんな訃報も来年はもっと増えるだろう。まあ仕方がないことではあるが。

 

 

翻訳会社に勤務した頃、「翻訳ひとくちメモ」と題するメールマガジン(メルマガ)を配信した時期があった。配信先は登録翻訳者・通訳者および翻訳依頼先の顧客だった。配信期間は3年3か月にわたり配信先も300を超え、結局第77号まで配信した。

 

メルマガでは注意すべき文法事項などを取り上げて解説した。また冒頭部では、折に触れて英語に直接関係の無い話題を盛り込んだ。毎月、メルマガの原稿を真剣に考えていた頃を今も懐かしく思い出す。それなりに充実した時期だった。

 

 

そんなメルマガの第49号(2019.4.11発行)の冒頭部では、今は放映されているかどうかわからないが、NHKのローカル番組「ニュースブリッジ北九州」の『桜の思い出』を取り上げた。劉希夷の漢詩「代悲白頭翁」の一節引用している。以下に拙文を掲載する。

 

 

桜が咲き舞い散る中、新学期、新入学の季節が過ぎています。天孫降臨神話には木花開耶姫(このはなさくやひめ)という邇邇芸命(ににぎのみこと)が一目惚れした美しい姫君が居るそうで、桜の女神とされており、また美と儚さの象徴とも言われています。

 

NHKのローカル番組「ニュースブリッジ北九州」では、毎年この時期に『桜の思い出』と題する視聴者からの桜に纏わる思い出やエピソードを紹介していますが、桜の見頃が短いが故により一層思い出やエピソードも鮮明に記憶に残るのかも知れません。

 

 

古人無復洛城東                      古人復た洛城の東に無く

今人還對落花風                      今人還た落花の風に対す

年年歳歳花相似                      年年歳歳花相似たり

歳歳年年人不同                      歳歳年年人同じからず

 

(拙・現代語訳)

昔洛陽城の東で桜の花を楽しんだ人々は既に亡くなり、今を生きる人々がその花を散らす風に吹かれている。桜の花は毎年同じように咲くが、その花を楽しむ人は毎年同じではない。

(劉希夷「代悲白頭翁」の一節から引用)

 

 

なお、劉希夷「代悲白頭翁」は私が大好きな漢詩の一つで、以前のブログで以下のような英訳を試みている。

 

「代悲白頭翁」 劉希夷 -自作英訳第二版- | 流離の翻訳者 果てしなき旅路