躑躅(ツツジ)の花が咲く中、初夏が訪れた。
昨日、弟夫婦を呼んでホーム・パーティーを催した。妻がカルパッチョ、アヒージョ、パエリア、キノコのマリネなどイタリア・スペイン風の料理に腕を振るった。料理を肴にビール、日本酒、白ワインと酒も進んだ。
歓談が進む中、弟が「今年は八方塞がりの年だ」と言った。易学に詳しくはないが、年齢差を考えれば3~4年前に私も「八方塞がり」だったことになる。思い返せば、当時は技能実習生の監理団体で働いていた。確かに「八方塞がり」の状況だった。案外当たっているものだ。
話は、私が高校2年(弟が中学2年)時の父との大山登山へと移った。私はそのときのことを以下のブログ記事に残していた。弟に見せると「文章上手いね!」と褒められた。何故か不思議な気持ちになった。
自叙伝(その37)-(補遺)夏の強行軍-神話の国へ | 流離の翻訳者 果てしなき旅路
父は旧・日本電信電話公社(現・NTT)に定年まで勤務したが、肩叩きもあり53歳くらいで退職した。私が東京の会社に就職した後だった。その翌年の1983年3月、父母が東北旅行の帰りに私の会社の独身寮を訪ねて来た。芭蕉の足跡を巡った旅だった。父母ともに寮の素晴らしさに感激していた。
父は退職後、若い頃に苦学した日本領台湾・台北にあった逓信講習所の同窓会を立ち上げた。同窓会は「淡水会」と名付けられ、その総会の開催などが唯一の楽しみだったようである。我々が今、大学のクラスのグループLINEを立ち上げてワイワイやっているのと同じようなものだ。
父はこの「淡水会」に幾つかの文書を寄せている。若い頃から嗜んだ俳句を随所に挟みながら、戦時下の自分たちの境遇を「青春の挽歌」と形容していた。実に静謐で品の良い文章だった。とくに印象に残っているのが、真夜中の学寮を詠んだ一句である。夜中に目覚めた父は何を考えたのか。故郷の母や弟たちのことだったのか。
「月天心 眠る北寮 南寮」