流離の翻訳者 青春のノスタルジア -4ページ目

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

結局、公務員試験は受験しなかった。一次試験の時期には、Jの件で心身ともにそれどころではなかった。もっとも、それは単なる言い訳かもしれない。

 

1981年7月中旬、私は北九州に帰省した。小学校以来の旧友や旧知の人々に、Jの件を報告した。中学の同窓会にも参加したが、Jのことを話しているうちに涙が止まらなくなってしまった。男女を問わず、優等生だったJのことを、皆がよく覚えていた。

 

夏の間に、大分にあるJの御父上の実家に墓参りにも行った。ただ、その詳細はよく覚えていない。そんなこんなで、慌ただしく夏が過ぎていった……。これまでのストーリーは、ここで終わっていた。

 

 

今回、上京の折に、大学E2クラスの同級生Aに会った。彼は経済学部から法学部への転学部組で、会うのは友人の結婚式以来、実に35年ぶりだった。ちなみにAは、例のS女子短大との合コンにも参加していた。

 

その二次会で、彼が私に打ち明けた話は驚くべきものだった。

「Jが亡くなった後、実はIさんとしばらく付き合ってたんだよ!」

 

Aは大学卒業後、大手鉄鋼メーカーに就職したが、卒業後もしばらくの間、東京と京都という遠距離ながらIさんとの交際は続いていたという。しかし、次第に会う機会が減り、自然消滅のような形で別れたらしい。

 

 

1980年12月に合コンがあり、Jが亡くなったのが1981年6月。Iさんは、1981年1月頃から5月頃まではJと付き合っていたはずだ。だとすれば、IさんはJとAの両方と密かに交際を続けていたのだろうか?女心というものは、本当にわからない。

 

 

JがIさんにプロポーズし、そして振られた直後に自ら命を絶ったのは紛れもない事実だ。Iさんは、どんな理由でJを振ったのか?まさか「実はAさんが好きなの」と言ったのだろうか?

 

そして、我々がずっと隠してきた「Jが自殺した」という事実を、Iさんは本当に知らなかったのだろうか?44年も昔のこととはいえ、謎は深まるばかりだった。

 

 

我々はこれまで、「Jは人生や進路に悩み、思い詰めて死を選んだ」と解釈してきた。だが、もしかすると、もっと単純な理由――「失恋」――が原因だったのかもしれない。優等生の心というのは、意外にも脆いものなのかもしれない。

 

 

そんな疑問が頭の中をグルグルと巡る中で、今回の上京を終えた。最後に、高校時代のJの思い出を綴ったブログを添えて、本稿を締めくくりたい。

 

自叙伝(その15)-北からの使者 | 流離の翻訳者 果てしなき旅路

 

 

1回生の頃、Jから教えてもらった曲がある。彼が東京・駿台で浪人していた頃、よくディスコで流れていて、そこで踊っていた曲らしい。

 

「ベイビー・シッター」(ソウル・イベリカ・バンド)と、「悲しき願い ――Don't Let Me Be Misunderstood」(サンタ・エスメラルダ)。今でも時々聴いている。

 

 

 

 

1981年4月、私は4回生になった。卒業年次である。3回生の後期試験で単位はほとんど取得済みで、これで留年の心配はなくなっていた。

 

しかし、5月に入っても公務員試験の勉強はまったく捗らなかった。一次試験は7月初旬に迫っており、ほとんど時間切れの状態だった。

 

 

「自分は何のために大学に入ったのだろう?」と自問し、葛藤することもあったが、一方で「民間企業なら希望さえすればどこでも入れるだろう」と高を括っていた。学歴の上に胡坐をかいていたのだ。

 

友人と飲みに行っても、ゼミに出ても、話題は就職のことばかりだった。友人たちの多くは、総合商社、都銀、損保などを志望していた。またゼミの同期の間では、開銀、輸銀、興銀、長銀、都銀といった名前が飛び交っていた。

 

 

そんな5月の終わり頃、Jが私の下宿にやって来た。勉強や就職のことで、お互い虫の居所が悪かったように思う。何がきっかけだったのかは覚えていないが、試験のこと、就職のこと、親のこと、そういった話題だったのだろう。つまらないことで口論になった。

 

口論の途中、Jが「お前、なんでそんなに怒るんだっ!」と私に言った。私は「お前こそ、何カッカしてるんだっ!」と返し、「もう帰れ!俺は勉強する!」と捨て台詞を吐いた。

 

Jが私の下宿に来たのは、それが最後だった。後味の悪い別れとなった。それから約一か月後、Jは自ら命を絶った。

 

 

以下に、その経緯を再度記す。

 

英語の散歩道(その13)-六月の冷たい雨① | 流離の翻訳者 果てしなき旅路
英語の散歩道(その14)-六月の冷たい雨② | 流離の翻訳者 果てしなき旅路

英語の散歩道(その15)-六月の冷たい雨③ | 流離の翻訳者 果てしなき旅路

 

 

 

S女子短大との合コンは、リーダー格のⅠさん以外は、これといって目立つ子はいなかった。我々男たちは、陰で彼女たちを動物に喩えて呼び合っていた。「ウサギ」「タヌキ」「ウマ」「ブタ」など――ひどい話である。ちなみにⅠさんは「ウサギ」だった。

 

とはいえ、合コン自体はそれなりに盛り上がった。喫茶店で2時間ほど談笑したあとに居酒屋へ、さらに三次会は三条のパブへと移っていった。二次会の居酒屋が終わったところで、私は「タヌキ」を阪急四条河原町駅まで送っていったが、後日「タヌキ」に連絡を取ることはなかった。「面倒くさい」が先に立った。

 

 

気がつけば時は流れ、年が明けて1981年に入っていた。いよいよ就職を決めなければならない年である。相変わらず公務員試験の勉強は進まず、正直、進路については悪戦苦闘していた。

 

年が明けてしばらくして、農学部のJと会った。彼は、「実はⅠさんと付き合い始めたんだよ!」と言う。しかし、私は以前から、Jには農学部に彼女がいることを知っていた。「農学部の彼女はどうするんや?」と尋ねると、Jは「彼女とは、そんなに深い付き合いじゃないんだ!」と答えた。「そうか!まあ、頑張れよ!」と返したように思う。

 

 

2月に入り、後期試験が始まった。私は2回生のときにあまり単位が取れておらず、3回生の後期試験はまさに背水の陣だった。友人たちと共同戦線を張り、一夜漬けを繰り返しながら、なんとか必要単位のほとんどをかき集めることができた。真面目に勉強したのは、金融論と経営学くらいだった。

 

経済学部の最後の試験が終わった日、教室を出ると外には雪が舞っていた。試験からの解放を、天が祝ってくれているかのように思えた。

 

 

春が近づき、ⅠさんとJの交際は順調に続いているようだった。この時期に、楽しそうな二人に何度か会った思い出がある。

 

 

春休みに入り、親元の北九州に帰省した。帰省中は地元の「北九州市立図書館」で勉強することが多かった。図書館で、E2の同級生に会った。彼も北九州・門司の出身だった。

 

「就職どうする?!」と聞く彼に、「とりあえず、公務員を目指している!」と答えた記憶が残っている。その頃は、これから自分があんな悲しい経験をすることになるなどとは、想像だにしていなかった。

 

 

上京を終えていつもの暮らしが戻ってきた。妻が帰省中のこともあって、どこか祭りの後のような一抹の寂しさを感じる。中島みゆきの「祭りばやし」という曲があるが、まさにそんな気分である。

 

 

私の手許に一冊の黒革の手帳がある。スマホの3分の2程度の大きさで、表紙には当時の校章——三枚の樟の葉に「京大」の文字が刻印されている。1981年のCampus Diaryである。

 

弟が結婚を機に実家の自室を整理していて見つけたもので「これ、兄ちゃんのやろ!」と手渡してくれたものだ。それからもう30年余りになる。何となく捨てられず、机の引きだしの片隅でずっと眠っていた。今日久しぶりに開いてみた。

 

中には大した記録は残っていなかった。もともと日記をつける習慣はない。手帳の終わりの方の「時間割表」には当時受講予定だった講義が記されている。たとえば、火曜日1コマ目「経済変動論/嶋津/五」、金曜日2コマ目「経済原論各論/瀬地山/五」など。「五」法経第五教室のことだか、正直、講義にでた記憶はあまりない。

 

3回生までに卒業に必要な単位の殆どを取得しており、4回生は就職活動とゼミが中心だった。そのゼミですら、あまり真面目に出席していなかった。

 

 

そんな手帳の6月21日(日)の欄に「農学部のJが自殺した」と書かれていた。国家公務員試験(一次)の2週間前のことだった。

 

 

この話は3回生時(1980年)の「11月祭」に遡る。

 

学園祭で合コン情報を提供・販売する出店が出ていた。学園祭も終わりに近づき京女・同女・ダム女などの情報は売り切れ、「3件500円でいいよ!」など叩き売りが始まっていた。これを法学部のHがさらに値切って買った。

 

中には女子高生の連絡先もあった。合こんしましょ!」と書かれているのを見て「彼女たち、意味わっかとるんかな?!」と思えるものもあったらしい。Hは、その中のS女子短大の学生に連絡をとり合コンの段取りをつけた。

 

Hから合コンの話を聞いたのは11月の終わりごろ。私はE2の友人2名と農学部のJに声を掛けた。Hは同じゼミのAを誘ったようで、こうしてS女子短大との5対5の合コンが、12月初旬に行われることになった。待合わせ場所は四条河原町の喫茶店だった。

 

 

妻が、先日親元の中国・広州に一時帰国した。母親の具合が悪く面倒を看るためである。幸い、広州で良い病院(医師)を紹介されたそうで、母親の健康状態はかなり改善したようである。

 

そんなわけで、先週以来、独身生活をエンジョイしている。とは言え、炊事、洗濯、庭の草花への水やり、掃除(あまりやらないが)、ゴミ捨てなどなかなか大変だ。仕事に行く日は自分で弁当も作る。初体験だがまあ何とかなっている。

 

 

妻が中国に滞在中、2泊3日で上京した。「鬼の居ぬ間の○○」ではないが、大学と安田火災勤務時の旧友たちに会うためである。中には40年ぶりくらいの友もいた。

 

今更ながら東京は多国籍な街である。京都がスーツケースを抱えた外国人観光客で溢れているのに対して、東京には観光客だけでなく当たり前に外国人がいる。

 

外国人だけではない。日本人にも様々な人種がいた。ホテルをとったのは秋葉原、街角のあちこちに可愛いメイドさんが立っていた。まるでアニメのキャラクターである。尾崎豊の「十七歳の地図」の歌詞、「♪街角では少女が自分を売りながらあぶく銭のために何でもやってるけど……♪」を彷彿とさせる。

 

その一方で、ホテルの近くのAKB48劇場には、平日にもかかわらず朝から長蛇の列ができていた。若者からオヤジ連中まで人は何かを「推し」て生きているようだ。やはり東京は面白い。

 

 

大学時代の友人との飲み会の2次会である事実を知った。私は大学4年のときに、小学校以来の友人を自殺で失っている。この件は以下のブログ記事に記載している。

 

英語の散歩道(その13)-六月の冷たい雨①

英語の散歩道(その14)-六月の冷たい雨②

英語の散歩道(その15)-六月の冷たい雨③

 

 

だが、この件には実は続編があった。それが2次会の席で明かされた。友人の死から44年、これも何かの巡り合わせかも知れない。本件はまた何処かで記載することにしたい。

 

 

以前、妻の姪っ子にショルダーバッグを買ってあげたことがある。それから随分経って再び会ったときにその娘がそのショルダーバッグを大切そうに使っていた。何とも嬉しい気持ちになった。人に贈り物をする楽しみとはそんなものである。だからまた贈りたくなるものだ。

 

 

令和の米騒動は大臣の交替により解決へ一段と前進したように思われる。確かに今の米価は高すぎる。小泉大臣には、ぜひ頑張ってもらいたいところだ。

 

 

1993年の冷夏に起因する平成の米騒動(1993-1994)では、全国的な米不足が発生し、日本人の口に合わないタイ米なども食べさせられた記憶がある。後に母から聞いた話だが、そんな米騒動の最中のある日、父がこんな行動をとったらしい。

 

「何処のスーパーに行っても米が置いてないんよ!」との苦言を何度も母から聞き、怒り心頭に達した父は、食糧庁の米穀供給を担当する部署に電話を掛けた。担当者が出るとまず「お前の仕事は何だ!」と尋ねた。相手は「私の職務は国民の皆様の食糧を確保することでございます。」と神妙に答えた。

 

父は「そうか!そうなら、俺は○○○に住んでいる。俺の食糧を確保するために近くで米がある場所を今すぐ教えろ!」と言い放った。相手は「えっ?!それは………」と言葉に詰まった。父は「役人ならもっとしっかり仕事をしろ!!」と怒鳴って電話を切った。

 

 

また、こんなことを思い出した。もう随分昔、初めて3%の消費税が導入された1989年より前の中曽根総理の時代の話である。消費税の導入について、ある民放で「何が消費税の対象になり、何が消費税の対象にならないか」について中曽根総理の生出演の下で議論が行われていた。

 

父は黙ってそれを聞いていた。その中で教科書には消費税がかからず学校指定の副教材には消費税がかかるという点に「何だと!」と思ったらしい。また食料品の消費税についても合点がいかないことが多く、担当者の説明もあやふやで埒が明かなかった。

 

怒り心頭に達した父は、民放の放送局に電話を掛けた。担当者が出ると「今すぐ、お前の局が放送している番組を中止しろ!」と言い放った。相手は「えっ?!何を放送しておりますでしょうか?!」と答えた。父は「馬鹿もん!お前は自分の放送局が何を放送しているかも知らんのかっ?!」と怒鳴り「もっと真面目に仕事しろ!!」と電話を切った。

 

 

定年まで電話局に勤務していたこともあって、父は電話を掛けることが好きだったらしい。母は「『お父さん、もういい加減にせんねっ!』って、いつも言いよるんやけどね」、と笑っていた。

 

 

このブログを立ち上げたのは地元の翻訳会社に社員として入社した2011年3月、東日本大震災の直前だった。もう14年余りになる。最近LINEを通じて、本ブログを匿名のまま友人・知人に公開した。

 

ブログ開設の当初は、翻訳の実務の中で気が付いた重要事項等を備忘録的に綴っていた。また好きな漢詩、日本の詩歌、俳句などの自作の英訳を公開していた。これが2017年5月くらいまで続いた。

 

プライベートな理由からブログの更新を4年近く休止した。ふとしたきっかけでブログを再開したのが2021年2月のことだった。

 

2021年6月以降、中学3年(15歳)くらいからの「自叙伝」を時系列で綴るようになった。自分の記憶が確かなうちにそれらを文字に残しておきたいと考えたことが掲載の理由である。その構成は以下の通りである。

 

 

Ⅰ「自叙伝(その1)」~「自叙伝(その41)

 

中学3年の後半から小倉西高校に入学し、卒業後北九州予備校での1年の浪人生活を経て、京都大学経済学部に合格するまでのエピソード・思い出を時系列に綴っている。時期は1973年10月頃から1978年3月までの内容である。

 

 

 

 

 

Ⅱ「英語の散歩道(その1)」~「英語の散歩道(その36)

 

小学校時代に遡り自分とアルファベット(ローマ字)、また中学以降は英語との関わりについて時系列で思い出を綴っている。後半は大学時代のエピソードや友人たちのこと、また大阪・淀屋橋での就職戦線についても記載している。時期は1969年頃から大学を卒業する1982年3月までの長期にわたる内容となった。

 

 

 

 

 

Ⅲ「安田保険学校(その1)」~「安田保険学校(その6)

 

1982年4月、安田火災海上保険㈱に入社し配属された内務部での新入社員研修の1年間の思い出やエピソードを綴っている。時期は1982年4月から1983年3月まで。楽しい思い出もあれば失敗談も甚だ多い。

 

 

 

 

Ⅳ「効率化の牙城にて(その1)」~「効率化の牙城にて(その34)

 

内務部での新人研修終了後に配属された総合システム部・電算オンライン課勤務時の楽しくも苦労した思い出やエピソードを綴っている。時期は1983年4月から1989年9月までの内容となっており、ほろ苦い恋バナ、同期の「いいとも会」のメンバーたちのこと、また三多摩地区のグルメに関する話題も記載している。

 

 

 

 

 

Ⅴ「福岡・博多慕情(その1)」~「福岡・博多慕情(その23)

 

1989年9月、地方銀行(関連会社・銀行本体)に転職して博多で勤務した頃の思い出を綴っている。銀行の関連会社で勤務した頃の様々な出来事や、銀行の資金証券部・本店営業部勤務時の辛くもあり楽しくもあった思い出やエピソードを記載している。時期は1989年9月から銀行を退職する阪神淡路大震災直後の1995年1月までの内容となっている。

 

 

 

 

Ⅵ「続・英語の散歩道(その1)」~「続・英語の散歩道(その114)

 

NOVAでの英語(英会話)の再勉強を決意した1999年3月に始まり、2006年に一念発起してフリーランス翻訳者を目指し、それを実現して地元の翻訳会社に入社し翻訳者、翻訳・通訳コーディネーター、また営業担当者として苦労した時代を含めた2020年12月までを綴っている。途中「古書への旅」や好きな音楽などに脱線したところもある。

 

 

 

 

匿名のまま、自分のこれまでの人生のほぼ3分の2をブログに書いてきた。思いがけず、「記憶力が凄い」、「文章が上手い」とか「本気で小説を書いてみたら?」など好意的な感想も結構いただいた。少し照れ臭く感じている。

 

これまでの記事を再度時系列に並べかえて、推敲、加除訂正を加えて一つのストーリー(自叙伝)にしてみたいという気持ちはあるが、膨大な時間がかかるだろうし、欠落している部分もあり、そう簡単にはいかないように思われる。

 

振り返れば後悔と反省ばかりの「こんなはずじゃなかった」人生だった。「大学でもっと勉強しておけば」など何度後悔したか数えきれない。

 

例えば、単に大学1回生時の第2外国語の選択をドイツ語ではなくフランス語にしていたら、それだけで友人関係はガラリと変わっていただろうし、ゼミ(専攻)の選択や就職先も変わっていたと思われる。人生の岐路は思いがけないところに転がっているものだ。また、人の人生とは図らずも周囲の環境に左右されながら決定されている、ということである。

 

もっと軽やかに、スマートに生きて行きたがった今となっては如何ともし難い。せめて残りの人生は妻と穏やかに暮らしてゆきたい。今はそんなことを願う。

 

今年は出会いが多い年のようだ。春先から旧友・旧知との再会が相次いでいる。自分から声を掛けたものも多いが、考えてみれば、これも人生の棚卸しのようなものかもしれない。

 

彼らに会って感じるのが、皆それなりに体型を維持しているということである。ここ数年で肥大化した自分を「何とかしなきゃ」といつも反省する。

 

 

そんな思いから、今日少しだけ近所を散歩してみた。いつもの散歩道を行くと何軒かの家が新築・改築されていた。いつの間にか町は変わっていた。そこでは新しい人々がそれぞれの暮らしを営み始めているのだろう。世間は動いているんだ、と改めて気がついた。

 

 

妻が「久しぶりにハンバーガーが食べたい」と言うので近くのマクドナルドに車を走らせた。数年ぶりのことである。先方のメニューのラインアップも変わっていたが、LINEのクーポンを使い、PayPayで支払うこちらのやり方も変わっていた。

 

 

ハンバーガーで思い出すのが、昔、東京で働いていた時によく立ち寄ったドムドムバーガーである。当時はJR武蔵境駅の南口にあった。会社の独身寮の近くだったので土日に行くことが多かった。

 

ある夏の日の朝、会社で先輩に「そろそろ夏休みが取りたいです。」と告げると、先輩は「そうか、いいぞ!何なら今日の午後から休めよ!」と答えた。

 

タイミングが良かったようである。「えっ?!はい!」と答えながら心はウキウキしていた。午前中に引継ぎを終え「さて、どうしたものか?」と昼食がてら立ち寄ったのが武蔵境のドムドムバーガーだった。

 

アイスコーヒーを飲み、ハンバーガーをパクつきながら出した結論が「やっぱり親元に帰省しよう!」だった。突然に休暇が取れても何処に行く宛ても無いものだ。先輩の回答も、それを想定したものだった。

 

 

今なら、それなりに計画を立てて事前に休暇願いを出すところだが、入社3年目くらいの当時、夢と現実の間をふわふわと漂っていた。そんな夏の日のドムドムバーガーの想い出である。

 

 

6月に父の郷里の寺で母の七回忌の法要を行うことになった。母が亡くなったのは令和元年の6月、日本中が10連休や令和改元で浮かれていた時期だった。ある意味幸せだったのかも知れない。

 

 

先日、弟夫婦と飲んだとき、松尾芭蕉の「奥の細道」の話になった。「月日は百代の過客にして……」で始まる紀行文である。研ぎ澄まされた名文である。

 

文中に「漂泊の思ひ」という言葉が出てくる。「漂泊」を辞書で引くと①流れただようこと②一定の住居または生業がなく、さまよい歩くこと、流離(さすらい)、とあった。

 

たまに一人でドライブに出かけ見知らぬ風景を見たり、見知らぬ店に入って食事をして、店員とわずかな言葉を交わしたりするが、これらはまさに芭蕉の「漂泊の思ひ」に通じるものだろう、という結論になった。

 

 

以来、「奥の細道」に関する書籍を読んだり、朗読CDを購入して車内で聴いたりするようになった。流離のドライブも少しだけ風流になるだろう。

 

 

(原文)

月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。

予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂白の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、股引の破れをづづり、笠の緒付けかへて、三里に灸すゆるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別所に移るに、

 

草の戸も住み替はる代ぞ雛の家

 

表八句を庵の柱に掛け置く。

 

 

(現代語訳)

月日は永遠に終わることのない旅人のようなものであって、来ては去り、去っては新しくやってくる年もまた旅人である。船頭として船の上で生涯を過ごす人や、馬引として年をとっていく人にとっては毎日が旅であって旅を住処としているのだ。昔の人も、多くの人が旅をしながら亡くなっている。

私もいつの頃からか、ちぎれ雲が風に誘われて行くように流浪の旅をしたいという気持ちがおさまらずに、最近は海辺をさすらってはいた。去年の秋に川のほとりの古びた家に戻って、蜘蛛の巣をはらい腰を落ち着けた。年もだんだんとくれてきて春になったが、霞だちたる空を見ると、「今度は白河の関を超えたい」と、そぞろの神が私の心に取り憑いてそわそわさせ、しかも道祖神が私を招いているような気がした。股引の破れているのを繕って、笠の緒を付け替えて、三里にお灸をしたところ、松島の月はどのようになっているのだろうとまず気になったので、住んでいた家は人に譲って、杉風の別荘にうつると、次のような句を詠んだ。

 

このわびしい芭蕉庵(江上の破屋)も住人が変わることになって、雛人形が飾られる家になることであろうよ。

 

この句を芭蕉庵の柱に掛けておいた。

 

 

気象庁が「竜巻注意情報」の発表を始めたのは2008年3月のことらしい。偶然にも私が翻訳者として独立した時期と符合する。

 

県内でも時々「竜巻注意情報」が発表されることがあり、そんな時いつも思い出すのが高校3年のある朝のことである。もう50年近く昔の話である。

 

 

高校3年(1976年)の9月のある日のことである。その日は朝5時ごろ、ただならぬ物音で眠りから覚めた。「台風かな?!」と思った。

 

布団から這い出して窓を開けるとベージュ色の空が見えた。だが、それは空ではなく砂嵐のようだった。何かが高速で渦巻きながらで飛んでいた。隣家の屋根すら見えなかった。とにかく家族を起こそうと階下に降りた。そこには箒を片手に戦闘態勢を取った父が仁王立ちしていた。

 

父は「米軍がまた妙な兵器を作ったのかも知れん?!とにかく家から出るな!」と言った。さすがは戦中派である。発想が違う。

 

 

暫くすると家族みなが目を覚ました。いつの間にか砂嵐は治まっていた。テレビのスイッチを入れたが砂嵐に関するニュースは何も報道されていなかった。

 

7時半が過ぎて登校の時間になった。玄関から恐る恐る外に出た。いつも通り日は昇っていた。バス停まで路傍のあちこちに見慣れないものが飛来していた。また、樹木の木の葉は吹き散らされて路面にベッタリと貼り付いていた。

 

木の葉は何か見えない力で路面に押し付けられたように見えた。小雨に濡れた木の葉が朝の光にキラキラと照り映えていた。ただ、この木の葉以外は何も無かったかのようにいつもの一日が始まっていた。

 

 

わりと近くの場所で、未明に竜巻が発生したことを知ったのは、その日の夕方のことだった。