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流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

本記事は、過去に投稿した記事を若干焼き直して再度投稿するものである。

 

 

GEOSという英会話学校に通っている頃、ある男と知り合った。20年以上も昔のことだ。彼と最後に会ったのが、東日本大震災の年、2011年くらいなので、かれこれ15年くらいになる。時の流れは速いものだ。

 

数年前、彼の消息を訪ねて、少し調べたことがあった。勤務していた証券会社や彼が通っていたビジネススクールにも連絡をとったが、個人情報の関係もあり、結局、消息をつかむことはできなかった。

 

 

以下、彼(以後、Yと呼ぶ)との思い出について、過去の記事を頼りに記載してみる。

 

 

2003年の秋に入った頃、ある生徒がGEOSの我々のクラスに入ってきた。重たそうなリュックを背負い、脚は裸足に革のデッキシューズ(石田純一か!?)靴も着ている服の上下もブランドは全て Polo Ralph Lauren  だった。

 

私とYが交わした最初の英会話が以下のものである。

 

私: What do you do?

 

Y: I’m working for a financial institution.

 

私: Which financial institution, banks or securities?

 

Y: Securities.

 

Yは最大手の野村証券に勤務する証券マンだった。年齢は私より5~6歳下に見えたが、その時私が感じたのは「今まで大変だったろうなぁ~」という同情に近いものだった。「野村証券で5年生き残れたら面白い仕事ができる!」という伝説があった。以来、Yとだんだん親しくなっていった。

 

神奈川県の県立高校出身で早稲田・政経卒。高校時代は柔道部だったらしい。彼の父親は京都府出身で京大・法学部卒、NHKに勤務していると聞いた。父親とはあまりコミュニケーションがうまくいっていないように思われた。

 

野村証券の北九州支店はGEOSがあるビルの1階にあった。通学には最適な環境だった。Yは英会話の他にも、仕事で必要なようでパソコン教室でEXCELやACCESSの分析を学んでいた。

 

 

暫くして、彼には「日本語で話すときと英語で話すときとで人格が全く異なる」という妙な特徴があることを知った。日本語モードの場合は、寡黙で硬派なジェントルマンの風情があったが、これが英語モードに入ると一転、先生はからかう、下品な冗談は飛ばす、他の生徒は批判する …… などなど、全く別の人格が現れた。

 

不思議な男だとも思ったが「これが彼特有のストレス解消法なのかも …… ?」と思えるようになった。

 

 

出会って1か月くらいのうちにYと差しで飲む機会があった。居酒屋である程度出来上がり、いつも通り2軒目はスナックでカラオケという流れになった。そこで彼が歌ったのが「軍歌」だった。それも1曲、2曲ではない。少なくとも10曲は歌った。「軍歌が好きなのか?」と尋ねると「軍歌しか知らない!」と真顔で答えた。昨今、実に稀有な男だった。

 

 

2004年の暮れが近づいた頃、彼は東京に異動になった。それから3年以上が経った2008年5月、私が㈱サン・フレア主催のTQEに合格してその説明会で上京したときに東京で飲んで旧交を温めた。このときYは野村証券関連の信託銀行に出向していた。以後、彼は何度か北九州に来てはともに軍歌を歌った。気がつけば私も軍歌ファンになっていた。

 

 

Yと最後に飲んだのが東日本大震災後の2011年の秋頃ではなかったか?彼は動脈瘤解離を患いその手術を経験した後、禁煙していた。私もその前年の2010年に健康上の理由で禁煙しており不思議な符合を感じた。

 

 

それから暫くして、Yから2冊の書籍が贈られてきた。何となく哲学的なものだった。お返しに5枚組の軍歌全集のCDをプレゼントした。彼はスマホにダウンロードして聴くと喜んでいた。

 

 

数年後Yは野村証券を退職してテンプル大学(Temple University)のビジネススクールの日本キャンパスで勉強を始めたが、それから暫くして音信が途絶えた。病み上がりかつ独身でもあり今も気がかりに思うことがある。

 

 

彼が私に紹介してくれたのが「嗚呼神風特別攻撃隊」という曲である。残念ながらカラオケになっていない。YouTubeに曲があったので以下に紹介する。哀しくも激烈なメロディが素晴らしい。

 

 

NHKの朝の連ドラ「あんぱん」を毎日観ている。戦後80年にあやかったものか、軍隊や戦闘、空襲のシーンが多いように思われる。

 

 

先日、銀行時代の同僚・友人たちと博多で旧交を温めた。場所は筑紫口の「信長本家」、思い出が残る居酒屋である。当時の写真を見ながら昔話に花が咲いた。

 

 

一人の友人はいわゆる「軍事オタク」である。彼の御父上が日本海軍の潜水艦に搭乗されていたことから、海軍ファンのようだ。その彼から不思議な話を聞いた。

 

「映画などで、特攻機が開聞岳を仰ぐシーンがあるが、あの戦闘機は知覧から飛び立った陸軍のものではなく、鹿屋から飛び立った海軍のものである」という新説である。

 

 

知覧には日本陸軍の特攻隊の飛行場があり、鹿屋には日本海軍の特攻隊の飛行場があった。彼によれば、沖縄戦線に向かって知覧から飛び立つ特攻機の航路では、開聞岳は見えないはずだ、と言う。従って、あの特攻機は海軍の戦闘機だというのである。

 

 

少し調べてみた。

 

「俺は、君のためにこそ死ににいく」(2007年)という映画がある。知覧を舞台にしたものでDVDを持っている。この映画の中で、特攻機が開聞岳を仰ぐシーンがある。特攻機の中の特攻隊員は明らかに顔を右(西)に向けて開聞岳を仰いでいた。すなわち、特攻機は開聞岳の左側(東側)を通過していることになる。

 

 

地図を確認してみた。知覧から沖縄に向かって南に飛ぶ航路であれば、開聞岳を見ないことも可能だが、見ようとするならば、開聞岳は左側(東側)に見えるはずだ。従って、特攻機は開聞岳の右側(西側)を通過していなければならない

 

一方、鹿屋から飛び立った特攻機であれば、開聞岳の東側を通過して沖縄に向かうと考えるのが普通で、彼の説もまんざら的外れではない、ということだろうか。

 

 

まあ、映画のシーン自体の誤りかも知れないし、特攻機の実際の航路を確認してみなければ何とも言えない。ただ、「特攻隊を見送った山」開聞岳は円錐状の形でどの方向から見ても同じように見えて目標物が見当たらない。

 

やはり、実際に知覧に行ってみなければ、答えは見つからないかもしれない。

 

 

昨日、母の七回忌の法要を終えた。父方の菩提寺は熊本県の玉名郡菊水町(現・玉名郡和水町)というところにある。近くに江田船山古墳がある。

 

母は花が好きな人だったが、旅立ったのは紫陽花が盛りの時期だった。あれから丸6年、この間、随分と生活環境が変わったからか、結構長い期間に感じられる。

 

 

本ブログのタイトルを「流離の翻訳者 青春のノスタルジア」に変更した。私の記事のほとんどが、自分が若い頃の回顧録だからである。

 

「過去を懐かしむことなど意味がない!」と思う方も多いだろうが、私は過去を振り返ることが好きだ。果たして「過去を懐かしむこと(ノスタルジア)に意味(効用)はあるのだろうか?」少しネットを調べてみた。

 

 

以下は「美しい過去の記憶:ノスタルジアの適応的機能」(美しい過去の記憶:ノスタルジアの適応的機能 | ビジネスリサーチラボに掲載されていた記事を要約したものである。

 

 

ノスタルジアとは、個人にとって意味深い過去の経験を懐かしむ感情である。青春や故郷、大切な人との記憶などが呼び起こされることで、甘美な憧れとともに失われたものへの喪失感が生じる。この複雑な感情は、かつては病気や精神疾患とされ、否定的に捉えられていたが、20世紀後半以降、その見方は大きく変わった。

 

近年の心理学研究では、ノスタルジアが私たちのウェルビーイング(幸福や健康)に良い影響を与えることが示されている。まず、ノスタルジアは自己の連続性を強め、自分の人生に意味や一貫性をもたらす。家族や友人との思い出は、愛され支えられているという感覚を呼び起こし、孤独感を和らげる。また、ノスタルジアは人生の目的を再認識させ、重要な目標の追求を後押しする動機づけにもつながる

 

さらに、ノスタルジアには前向きな行動を促す力がある自尊心や社会的つながりを高め、新しい挑戦への意欲や創造性を高める効果も報告されている。他者への共感を促し、利他的な行動や異なる集団への理解も深まる

 

加えて、ノスタルジアは自己概念を強化し、ストレスや否定的なフィードバックから自己を守る心理的資源となる。職場においても、レジャーの思い出が仕事のモチベーションやエンゲージメント、成果、幸福感を高めることが実証されている。

 

その他にも、ノスタルジアは活力や若さの感覚を呼び起こし、リスクテイキングや自己成長を促進し、身体的健康にも良い影響を与えることが知られている。かつて否定的に捉えられていたノスタルジアは、今や前向きな変化を支える重要な心理的資源として再評価されている。

 

過去の思い出を大切にすることは、現在を豊かにし、未来への力ともなる。ノスタルジアの肯定的な力を活用することが、心の健康と人生の質を高める鍵となるだろう。

 

 

以上、ノスタルジアの効用について記載してみた。

 

 

東大路通りと北大路通りが交差する場所が「高野」である。学生時代、私はこの高野周辺でよく遊んだ。従って、高野には多くの思い出が残っている。

 

 

当時、高野には「京都スターレーン」というボウリング場があった。1回生の5月、初めての合ハイがこの京都スターレーンだった。予備校時代のクラスメートで、同志社大学の英文科に進学した女子がおり、そのコネで実現したものだった。

 

法学部のHが段取りをつけてくれたが、当時、私は女性と話すことに不慣れで、ほとんど会話ができなかった。ただ、同級生が連れてきた女性が福岡市出身で、かなりきれいだったことだけは、ぼんやりと覚えている。なお、その同級生が後にCAになったことを風の噂で聞いた。

 

 

京都スターレーンにはその後もよく通った。教養部の授業で出席を取らないものは、しばしばサボって朝からボウリングに行った。生協でチケットを売っていて、1ゲーム100円だった。他に娯楽がなかったからか、1日に16ゲームも投げたこともある。そんな京都スターレーンも、2002年に廃業したらしい。

 

 

冬季の体育実技ではスケートを選択した。京都スターレーンの近くに「高野アリーナ」というアイススケート場があり、授業はそこで行われた。3回ほど通ったが、転んでばかりで、結局最後まで滑れるようにはならなかった。

 

同じクラスに、やや腰をかがめて、手と足を交互に出しながら、まるで相撲取りのような姿勢で氷上を進む友人がいた。その様子を見て笑っていた私自身が、バランスを崩して滑りこけた。まさに、踏んだり蹴ったりならぬ、滑ったり転んだりの授業だった。
 

高野アリーナも2000年代半ばに閉鎖され、跡地は現在「洛北阪急スクエア」というショッピングモールになっている。

 

 

2回生になってからは、友人の誘いで高野のパブ「ユレイカ」に通うようになった。「ユレイカ(Eureka)」とは、ギリシャ語で「我、発見せり」という意味らしい。店には、当時40代後半のママと、京都芸術短期大学や京都工芸繊維大学の女子学生たちがアルバイトしており、男子学生にはなかなか楽しい空間だった。

 

カラオケを初めて歌ったのもこの店で、曲は「そして神戸」だった。ちょうどカラオケが流行り始めた時期だった。パブは2階にあり、1階には喫茶「更紗(サラサ)」があった。ここでも何度か食事をした。味もなかなか良かった。「ユレイカ」「更紗」も、今はもう存在していない。

 

 

北大路にあるラーメン屋「天天有」に通うようになったのも2回生の頃だ。この店のラーメンは「天下一品」と比べるとあっさりしており、特にスープが美味しかった。記憶では北大路通り沿いにあったように思うが、調べてみると実際にはもう少し北東の一乗寺寄りだったらしい。

 

それにしても、下宿から自転車で30分近くもかけて、よく通ったものだ。

 

 

入社3年目の1984年5月、私は京都を一人旅した。新幹線で京都まで行き、レンタカーを借りて市内を巡った。このとき泊まったのが「ホリデイ・イン京都」だった。

 

ボウリング場やスケートリンクと隣接する総合施設として、かつては賑わっていたようだが、宿泊したのはこれが最初で最後だった。ホリデイ・イン京都はその後「ホテル・アバンシェル京都」と名前を変え、2013年には廃業したという。

 

 

こうして思い出を辿ってみても、かつて親しんだ施設や店の多くは、今では姿を消してしまっている。せめて、今なお残っているものだけでも、大切にしていきたいと思う。

 

 

 

 

「貴重な歳月が手の指の間からこぼれつつあった。人生へのやみがたい渇望を残したまま。」

 

大学本学構内の何処かのトイレにあった落書きである。

 

 

私が入学した当時の総長は、岡本道雄(1913-2012)という人だった。ある日の授業の間、トイレをひたすら我慢していた私は、授業終了と同時に時計台のトイレに急いだ。トイレ入り口付近で正面衝突しそうになったのが岡本総長だった。

 

入学式のご挨拶からお顔は覚えていた。「あっ!すみません!」と謝罪してから個室に滑り込んだ。相手の反応を見る余裕は無かった。そんなことを思いだした。

 

 

先月以来、旧交を温める活動が続いているからか、当時の頃の夢をよく見るようになった。夢の中で、忘れていた当時のエピソードが蘇ることもある。不思議なものだ。

 

 

夢を覚えるのにはコツがある。朝起きたら、そのとき覚えている夢の一部をどこかに書き留めておく。あまり時間が経っていなければ、その一部から夢の全体を思い出すことができる。これを「夢のしっぽを捕まえる」というらしい。昔々読んだ本にそんなことが書いてあった。

 

 

1976年に「夢で逢えたらという曲がある。大瀧詠一の作詞・作曲によるもので、吉田美奈子が歌った曲である。東京で勤務していた頃、友人からこんな話を聞いた。

 

「この曲がもし大ヒットしていたなら、日本の音楽の歴史は変わっていたかもしれない。」という話である。確かにシャンソンの香りがする曲である。

 

 

徒然なるままに、心に移りゆくよしなしごとを書き綴ってみた。

 

 

梅雨に入ると同時に、一昨日から大雨が続いている。今年はどうやら「陽性の梅雨」のようだ。なお、「陽性の梅雨」とは、雨の降り方と梅雨の晴れ間がはっきりしており、湿度が全体的に低い梅雨を指す。

 

 

前回の記事を書き終えたあと、Pのことでいくつか思い出したことがある。たいした内容ではないが、それらを「補遺」という形で以下に記しておきたい。

 

 

白川通りの銀閣寺を少し北に上がったところに、「白扇」というスナックがあった。40代半ばくらいのママさんと、「純ちゃん」という髪が長くてきれいな女の子がいた。ママさんは、たしか福岡出身だった。

 

法学部のHに誘われて、3回生の終わり頃からたまに顔を出すようになった。私にとっては決して安い店ではなかったが、「純ちゃん」目当てに通いつめる客も多かった。

 

そんなある夜、「白扇」でPに出くわした。「炬燵担ぎ」事件以来、彼とはなんとなく疎遠になっていた。彼はどうやってこの店を知ったのか。法学部のHが教えたのだろうか。Pも「純ちゃん」目当てのようで、金にものを言わせて常連になっていた。

 

「よう、お久しぶり!」と声をかけたが、それ以上は話さず、さっさとHの隣の席に戻った。彼と長く話す気にはなれなかった。

 

 

店内では、Pは相変わらずの饒舌ぶりを発揮していた。まさか、また例の戦国武将の話ではないだろうが、非常識なわりには妙に一般常識に詳しかった。

 

その一方で、ママさんには自分の恋愛について相談していたらしい。ママさんから聞いた「誠心誠意を尽くせば女は必ず落ちる!」という言葉を、呪文のように繰り返していたが、結局Pが「純ちゃん」を落とすことはなかった。

 

 

4回生になってからは、友人の自殺や就職活動などもあり、「白扇」に行くこともなくなった。Pとはますます疎遠になり、麻雀はもちろん、その後は一言も言葉を交わすことはなかった。風の噂で、Pが関西の大手電力会社に内定したと聞いた。

 

 

最後に、「純ちゃん」がどうなったかについて少し触れておきたい。

 

法学部のHは、卒業後、ある政府系の特殊法人に就職した。実は、この就職先をHに勧めたのが「白扇」で、偶然隣り合わせた大学教授然とした初老の紳士だったらしい。

 

Hが新人か2年目くらいの頃、東京・新宿で「純ちゃん」と再会したという話を聞いた。Hは彼女と本気で付き合おうとしていたが、「どこか危ういものを感じた」らしく、二の足を踏んだという。

 

 

この件の詳細は、いずれHと再会した折に確認してみたいが、なにせ40数年も昔のこと。彼も覚えているかどうかわからない。真相は、遥か時空の彼方である。

 

 

秋の星空は夏や冬に比べて寂しい。夏の大三角(ベガ/アルタイル/デネブ)や冬の大三角(シリウス/プロキオン/ベテルギウス)のような明るい一等星がほとんど無いからである。

 

アンドロメダ、カシオペア、ペガサス、ペルセウスなど、秋にはロマンチックな星座が多いが、これらには一等星がない。秋の星座で一等星と言えば、みなみのうお座のフォーマルハウトだけである。この黄色く輝く一等星は、別名「みなみのひとつ星」とも呼ばれる。

 

 

そんな「みなみのひとつ星」が遠くに輝く星空の下、ある四角いもの(炬燵である)を神輿のように担いで運ぶ3人の男たちの姿があった。

 

PのマンションからZの下宿まで、片道10分ほどだった。とにかく、麻雀するためには炬燵をPのマンションまで運ぶしかなかった。

 

その日、麻雀が始まったのは午後9時を過ぎていた。だが、麻雀をしてわかったのは、Pが麻雀のルールすらちゃんと知らなかったことである。どうも「いつも自分が親だ!」と勘違いしているようだった。当然にして、東・南・西・北の場風もよく間違えた。

 

「何やねんこいつ!ほんまに高校時代雀荘を渡り歩いたんかいな?!」それが真実なら、Pの一家は一財産失っていただろう。我々の間で、Pに対する呆れと苛立たしさが、次第に怒りへと変わっていった。Pのチョンボが多発する中、無意味な夜は更けていった。

 

 

Pの部屋には大型の冷凍冷蔵庫があった。中にはビールやワイン、また生ハムや瓶詰めのアスパラガスなど、我々貧乏学生には見慣れない食材が詰まっていた。Pは麻雀しながらそれらを飲み食いしていたが、我々も「これもらうで!」と勝手にいただくことにした。

 

Pが手づかみで食材を食べるので、新品の麻雀牌が油でベトベトになった。この男、行儀も全くなってなかった。それがまた我々の乾いた笑いを誘った。

 

 

午前5時くらいに、ついにPが「もうやめよう!」とギブアップした。再三のチョンボとドボン、また我々の口撃にも疲弊しきっていた。一人負けのうえに、冷蔵庫も文字通り空っぽになっていた。

 

だが、我々にはなすべき仕事が一つ残っていた。炬燵運びである。通勤・通学が始まる前に運び終えなければ、神輿のように炬燵を担ぐ姿が、子どもたちの記憶にまで刻まれることになる。

 

 

麻雀を終えた帰り道、東の空が白み始める中、西に傾くオリオン座が、神輿を担いで帰る我々を、ただ静かに見つめていた。

 

 

5月末、E2の同級生からLINEが来た。地元の神社のお祭りの手伝いをするらしい。「明日はお神輿(みこし)を出せそうです!」と楽しそうだった。

 

田植え前のこの時期の祭りは「御田植祭」と呼ばれ、豊作を祈願するものが多い。「神輿」とは、お祭りの時に神様が地域内を回る為に乗る「輿(乗り物)」のことを言う。「神輿」は英語でportable shrineと言う。

 

因みに、「山車(だし)」は、神様を迎えたり、神様が通る道を清めたりする役割を担っている。神輿が神様の乗り物とされるのに対し、山車はその神輿を先導する存在とされる場合もあるらしい。こちらは英語ではfestival floatという。

 

祭りで、人が神輿を担いだり山車を引いたりするのは、神社に鎮座している神様を「動かす」ことで、地域を清め、加護を得るためで、信仰心に基づくある種の奉納行為である。だが、人は時に、全く意にそぐわない物を担がさせられることがあるようだ。

 

 

Pとの麻雀の面子探しを始めたが、そんなときに限って中々見つからないものである。いつもの雀友たちはバイトや先約があるなどで捕まらなかった。携帯もメールもない当時、大学のキャンパスの中をひたすら探し回るしかなかった。

 

 

そんな中、やっとのことでひとりの面子が見つかった。たぶん北部生協辺りではなかったか。出席番号が隣り合っていたこともあって、以前から彼とは何かと縁があった。以後、Yと呼ぶことにする。

 

「今日、麻雀せえへん?!」と聞くと「ええでぇ!何処で何時からや?」と答えた。それに答える前に「あと一人おらへんかな?」と尋ねた。Yは「ちょっと待って!高校の同級生で工学部の奴がおるかも知れへんなぁ?」と答えて、彼に連絡をとって、どうにか面子が揃った。

 

それから、Pとの約束の夜8時まで、どう過ごしたのか記憶にない。夕食を食べた後、Yの下宿で時間を潰したのか。Yの下宿には学生時代に一度か二度行っている。Yが全30巻くらいの「徳川家康」を読んでいた記憶が残っている。

 

 

ともかくも、夜8時にPのマンションに全員が集合した。さすがはバス・トイレ付きの冷暖房完備のマンションである。我々の下宿とは大違いだった。Pは「生協で麻雀牌を買ってきたよ!40,000円くらいしたよ!」と自慢げに披露した。

 

「さて!麻雀を始めるか!」と室内を見渡したが、麻雀するのに絶対に必要な肝心なあるものが無かった。「炬燵」である。

 

 

Pに「炬燵は何処っ?!」と尋ねると、彼は平然と「今から買いに行こうかと思ってた!」と答えた。もちろん、「ドン・キホーテ」があるような現代の話ではない。

 

 

Pの非常識はさておき、とりあえず、残りの3人で善後策を検討した。「どないする?!」と協議した結果、Pのマンションから最も近いYの工学部の友人、Zの下宿から3人で炬燵を担いで持ってくることになった。

 

今思えば、何故「今日は止めにするか!」とか「雀荘でやるか!」という話に至らなかったのかが不思議である。若さゆえの結論ではあったが、このとき、既に祭りは始まっていたのである。

 

 

Pが「経営財務論」(浅沼ゼミ)を選択した理由は、同ゼミを選択した学生に結構真面目に勉強している者が多かったからのように思われる。「朱に交わって赤く」なりたかったらしい。それは私も同じようなものだが。

 

 

経済学部には法学部科目の3科目(12単位)の取得が必須とされた。そのため法学部の講義も受講するようになった。

 

「国際法」の講義は香西茂(教授)が担当していた。香西茂は「コウザイ・シゲル」と読むのだが、Pはこの苗字を「カニシ」と誤って覚えて、他の学生から何度誤りを指摘されても決して訂正することはなかった。無意味な頑なさを持っていたようである。

 

 

また、Pは浅沼ゼミでのプレゼンのレジメで「完全競争」「完全競走」と誤記した。偉そうなことを言うわりには経済学の基本を理解していなかった。E2から浅沼ゼミに2名が進んだが、そのうち、私の友人でもあるKを「K教授」と呼んでいた。Kがよく勉強していたのは知っていたが、それをKはひどく嫌っていた。教官が助教授であることを考えればKが嫌がるのも無理からぬことだった。

 

 

法学部のHが主催する合コンにPが参加したことがあった。詳細は知らないが、居酒屋での飲み会が終わり、みんなで夜の街を歩いていたときにPがポツリと言った。「月がきれいですねぇ~」。これが、女性陣の苦笑を招いたらしい。まるで「金色夜叉」を彷彿とさせるような滑稽な台詞である。

 

 

3回生の秋も深まったある日、大学のキャンパスでPと出くわした。Pは「○○君!僕、麻雀がやりたいんだけど、メンバーを集めてくれない?!」と言った。「いいけど、何時何処で?」と聞くと、「今晩8時、僕のマンションで!」と答えた。

 

「雀荘代もかからないし、飛んで火にいる夏の虫かも知れない!」と思い、引き受けることにした。

 

さらに「できれば強いメンバーがいいなぁ~!こう見えても高校時代は雀荘を渡り歩いたんだよ!」と言った。

 

「はて?!北野のような名門校にもこんな風変わりな奴が居たんだ?!まあ、だから2浪もしたのか?」などの疑問が頭の中で渦巻いていたが、とにかく、残り2人の麻雀の面子集めに奔走することになった。

 

 

梅雨入り前の最後の初夏の好天が続いていたが、昨日から曇り始め雨になった。九州北部は今日梅雨入りしたようである。

 

 

博多は30代の8年間を過ごした街である。週末、博多に一泊して旧友たちとの二日連続の飲み会をこなしてきた。近頃こんなことばかり企画している。旧友たちと昔話は楽しい。酔うにつれて、心と身体が一瞬、その当時にタイムスリップする。

 

一日目、友人との飲み会を終えて、一人で居酒屋「一本槍」に入った。銀行の帰りによく寄ったところである。仕事のこと、プライベートなことなど色々なことを話しながら楽しんだ記憶が残っている。

 

二日目、西新で昔よく行ったスパゲティ屋「パスティーナ」に行った。店内は昔のままで、歳はとったが当時の女性シェフが調理されていた。味も相変わらず美味い。昔のように「カルボナーラ(大盛り)」を注文した。サラダとバケット、食後にアイスコーヒーがついて1,050円(普通盛り850円)。手頃な価格だから昼時はいつも満席だ。

 

暇と金があれば、こんな思い出の場所を辿る旅も良いものである。

 

 

 

 

 

学生時代にある知人がいた。彼は名門、大阪府立北野高校出身の二浪で、さらに教育学部から経済学部への転学部組という変わり種だった。以後、彼を「教育学部(Pedagogy)」の頭文字をとってPと呼ぶこととしたい。

 

Pは2回生の終わりくらいから、私のグループにやたらと話しかけてくるようになった。経済学部に知人が少なかったからだろうが「ミクロ経済学の良い参考書を知らない?」とか「3回生からのゼミはどこを選ぶ?」など。

 

 

Pの親は金持ちだったようで、銀閣寺のお洒落な学生マンションに住んでいた。バス・トイレ付き、冷暖房完備の瀟洒なものだった。私の安アパートとは雲泥の差があった。

 

また、Pはいつもブレザーを羽織りお洒落な服装を身に着けていた。「いいとこの坊ちゃん」然としていた。また、我々を「○○君」と君付けで呼んでいた。どこか、我々とは一線を引いていたようだ。

 

一乗寺の卓球場でPと何度か卓球したことがあった。Pは我々の隣で遊んでいた女子学生2人に「一緒にやりませんか?!」と声を掛けた。十人並みの娘たちだったが。

 

さらに、Pは「これからお茶でも飲みませんか?!」と2人を誘った。おごってもらえると思ったのか2人は付いてきた。仕方なく、私もPに従った。

 

当時、一乗寺に「リプトン」というティー・ハウスがあった。私のような貧乏学生は行ったこともなかったが、とりあえず「金はPが持っているだろう」と信じて店内に入った。

 

合コンのような形になったが、Pは彼らに、なんと、ある戦国武将の話を切々と語った。私も名前くらいしか知らないマイナーな武将だった。2人は不思議そうな顔でPの話を聞いていたが、興味なさそうな素振りが見え見えだった。

 

彼女たちの連絡先を聞くこともなく「リプトン」を出た。食事代はPが払った。Pは「楽しかったね!」と言ったが、私には無駄な出費に思えた。まあ、私は1円も払わなかったが。

 

Pが「卓球で汗をかいたので風呂に入りたい!」というので、近くの銭湯に連れて行った。番台でPは1万円札を出し「いくらですか?」とオバサンに尋ねた。「ここはトルコ風呂じゃない!こいつ、銭湯も知らんのか?!」とあきれ、仕方なく150円ほどを立て替えてやった。

 

さらにPは「バスタオル無いかなぁ?」という。「そんなもの無いよ!」と答えると、Pは番台に「バスタオル売ってませんか?」と尋ねていた。タオル1本あれば体を乾かすことができ、当時銭湯にバスタオルなど持ってくる者は居なかった。

 

 

2回生の終わり、Pは「経営財務論」浅沼ゼミ(浅沼萬里助教授)を選択した。3回生に入り、これからPが様々な珍事件を引き起こすことになる。