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流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

勝山公園の近くにボウリング場「勝山パークレーン」ができたのは、私が小学6年生くらいのときだった。当時、日本中がボウリング・ブームに沸いていて、大都会に限らず、私が住む地方都市でもボウリング場の新設が相次いでいた。

 

 

実際にボウリング場に通うようになったのは、中学1年の頃だった。箸と鉛筆は右利きなのだが、実はボウリングは左利き(サウスポー)だった。元々左利きで、箸と鉛筆だけを小学校にあがる前に親に矯正されたものだ。ボウリングは球を最初に持ったのが左手だったためサウスポーになった。因みに野球は右投げ右打ちである。

 

週休二日制などない時代で、日曜日の早朝に「早朝サービス」という料金が安い時間帯が設けられていた。家族や友人たちと早起きして、よく出かけたものだ。

 

ボウリングに行く前日の土曜日の夜は、ワクワクして眠れないこともあった。実際にあまり眠れないままボウリング場へ行ったことも何度かあった。それくらい楽しいスポーツだった。

 

テレビでもボウリングの試合が放送されていた。中山律子、並木恵美子、須田開代子、野村美枝子などの女子プロボウラーたちが、きら星のように並び、それぞれ人気を博していた。

 

中学2年のころ、マイボールとマイシューズを持っている友人がいて、ずいぶん羨ましく思ったものだ。彼は一人っ子で、小遣いをたくさん貰っていたようで、学校が終わると、夕方一人でボウリング場に通っていた。確かにボウリングも上手かった。彼は野村美枝子プロのファンだった。

 

 

当時、テレビ番組に「美しきチャレンジャー」というものがあった。放映は1971年4月から10月までなので、私が中学1年の頃の作品だ。主演(ヒロイン)は新藤恵美さんで、当時20歳前後のセクシーな女優だった。この人は後に日活ロマンポルノにも出演したらしい。

 

また、中村晃子さんが歌っていた主題歌も、結構好きだった。今でも時々口ずさむことがある。「巨人の星」「タイガーマスク」など、当時のスポ根ものの主題歌は、子どもにも歌いやすいものが多かった。

 

 

高校時代は、中間・期末などの試験が終わるたびに、友人たちと打ち上げと称してボウリングに行った。大学を卒業する頃まで、ボウリング人気は衰えなかったように思うが、実際には1980年代に入った頃から人気は下火になっていったらしい。原因は供給過剰によるものだという。

 

 

最後にボウリングをしたのは、翻訳会社に入社した年のレクリエーションだったから、2011年のことだ。いつもながら大したスコアは出せなかったが、あれから14年、ボールを投げていない。歳をとっても、ボウリングくらいはいつでも楽しめる体力を維持していたいものである。

 

 

 

小倉城に隣接する「勝山公園」は今では花見の会場として有名だが、かつて「ジェットコースター」が設置されていたことを知る人は少ないだろう。そのジェットコースターを背景に叔父夫婦と一緒に写った私の幼い頃の写真が残っている。

 

 

勝山公園から南に延びる道沿いは、今は「大手町」と呼ばれマンションなどが立ち並んでいるが、かつては「小倉陸軍造兵廠」(兵器製造所)が置かれていた所である。

 

母が高校時代、戦時下の学徒動員でこの造兵廠で働かされたと聞いた。生きていれば今年97歳、80年以上も昔の話である。

 

戦後、私が高校生くらいまで、造兵廠の跡地は廃工場のような形で残されていた。日中国交正常化(1972年)の前後、倉庫のような造兵廠跡地で、時々「中国展」(中国物産展)が開催されていた。中国展では、物珍しい雑貨・玩具や食品などが安価で売られていた。

 

 

 

勝山公園の近くには「小倉市民会館」があった。高校1年のとき、中学時代の友人と小倉市民会館の「イルカ」のコンサートを観にいった。ネットで調べると、彼女は私より8歳年上なので、当時24歳くらいだったことになる。

 

小倉市民会館の閉館が2003年なので、既に22年が経過したことになるが、跡地は「大芝生広場」と呼ばれるスペースになっている。

 

 

 

小倉市民会館の隣にあったのが「小倉市民プール」である。今思えばあんな街中に露天のプールがあったこと自体不思議な感じがする。市民プールには通算で5回くらい行ったことがあるが、そのうちの1回、弟と夏休みにプールに行った時のことを今も思い出す。

 

 

私が小学4年で弟が小学1年の頃の話である。夏休みのある日、自宅で昼食を食べた後、祖母からプール代、往復のバス代とおやつ代分のお金をもらって弟と二人でバス停に向かった。バスに乗り午後1時過ぎにはプールに着いた。暑い日だった。

 

1時間余りプールで遊んだらアイスキャンディが食べたくなった。貰ったお金でアイスキャンディを買い弟と二人で食べた。それからまたプールに戻って遊んだ。

 

夕方4時くらいになって、そろそろ帰りの時間が近づいていた。「ジュースが飲みたい!」と思ったが、お金は帰りのバス代分しか残っていなかった。

 

弟に「ジュース飲みたいか?」と尋ねると「うん!」と答えた。「とりあえずジュースを飲むか!歩いて帰ればいいことだし!」と安易に思いジュースを買って二人で飲んだ。これで一文無しになった。

 

 

小倉の街中から自宅へ帰る道は何となく知っていた。ただ、それは路線バスが通る道だった。平和通⇒三萩野⇒木町⇒山田と主要系列のバスが通る道である。これは、市民プール⇒勝山公園⇒造兵廠跡地(大手町)⇒木町⇒山田という最短のルートと比べると2.5倍くらい長いものだった。だが私はこの最短ルートを知らなかったのである。

 

夕日が傾く中、弟と二人自宅に向かって歩き出したのは4時半くらいだった。バスだと20分くらいのルートだが、子どもの足で歩くと遥かな道のりだった。弟は黙って私についてきた。最後は、弟の手を引き、辺りに宵闇が迫る中、自宅に着いたのは7時くらいだった。

 

祖母はもちろんのこと、仕事から帰った父母も心配していたが「ただいま!」と帰ると皆が温かく出迎えてくれた。不思議と叱られることは無かった。たぶん父母とも、私がそれなりの責任を果たしたことを認めてくれていたのかも知れない。

 

 

以前、弟夫婦と飲んだときに、弟が今でもウォーキングが好きで、1日3時間(15キロ)歩くこともあるという話を聞いたが、彼のウォーキング好きはこの行軍のときに始まったのかも知れない。

 

 

買ってきたフライパンIH対応じゃなかったので、お隣のお婆ちゃんにあげたら、お返しに500mlのビール6本と手縫いと巾着をいただいた。却って気を遣わせてしまったようで申し訳なく思う。

 

父の日に、娘が小さなショルダー・バッグを贈ってきたので、娘の誕生日にネットで地元産の米10キロを贈った。孫が3人いるので消費量も半端ないだろう。娘から「ありがとう」のLINEが来た。

 

この歳になると、そんな小さなやり取りが何となく楽しい。

 

 

私が小学校低学年の頃は、夏休みが近づいた今の時期、小学校では短縮授業が行われていた。今思えば、学校から早く帰れて楽しい時期でもあった。そんな時期にある悲しい思い出が残っている。

 

 

小学校3年の頃、N君という仲良くなった友達がいた。たぶん転校生ではなかったか。彼はなんでも知っていたし、なんでもできた。勉強もスポーツも。

 

いわゆる東京弁を話していたので親は転勤族だったのだろう。何処か垢ぬけた(頭脳が)スマートな男の子だった。

 

 

夏休みが近づいた短縮授業の7月のある日、N君と一緒に帰途についた。その帰り道、大きな池のそばの外国人墓地にさしかかった。N君が「ちょっと寄り道していこうか?」と言った。私は「うん!」と答えた。

 

外国人墓地の周囲には有刺鉄線が張りめぐらされており普通は入れなかったが、何か所か鉄線が破られており、子どもたちにとっては格好の遊び場になっていた。真夏の白昼、木陰の芝生の上に寝転がっていると眠くなった。

 

 

うつらうつらしているとある物音で目が覚めた。ふと見るとN君が墓の朽ちた十字架の1本を引き抜こうとしていた。私は「N!そんなことやめろ!罰があたるぞ!」と制止したが、彼は十字架を引き抜くと池の中に投げ込んだ。

 

そのあとどうなったのか記憶が無い。だが私はこのことを誰にも話さなかった。止められなかった自分も同罪のような気がしていた。

 

 

それからしばらく経って夏休みが始まった。当時、夏休み中には何日か登校日があった。8月のある登校日、教室にN君の姿がなかった。先生が教室に入ってきた。

 

先生は教壇に立つと「悲しいことですが、N君が交通事故で亡くなりました」と告げた。

 

N君の母親はいわゆる「教育ママ」で、N君は夏休みも毎日朝から猛勉強させられていた。ただ午後3時になると、母親はご褒美として小遣いをN君に与えた。

 

N君にとって、小遣いをもって大通りを渡った正面の駄菓子屋に行くのが唯一の楽しみだった。大通りに飛び出した瞬間、N君はトラックにはねられた。

 

 

今は池も埋め立てられてなくなり外国人墓地も何処かへ移設された。当時の面影を偲ぶものは何も残っていない。それでも、あの夏の白い光と池に浮かぶ苔の緑だけは、今も心の奥に残っている。

 

 

こちらでは、史上最短の梅雨が史上最速で明けた後、容赦のない暑さとなっている。まだ地表がさほど熱くないため、朝方は何とか涼しいが、猛暑になるのも時間の問題だろう。

 

 

暑さと同時に「冷たい麺」の季節になった。私は昔から冷たい麺には眼がない。ソーメン、冷やし麦、ぶっかけうどん、冷麺などなど。今年もここのところよく食べるようになった。

 

小学5年の夏休みに喉の手術をした。手術後、喉の痛みがひどく、普通の食べ物を呑み込めなくなった。医者の指示もあり、3週間くらいソーメンしか食べられなかった。朝・昼・晩とも祖母が作るソーメンだけという生活だった。

 

不思議なもので、それ以来ソーメンが大好物になった。麵つゆで食べるだけではなく、味噌汁にも入れることがある。小葱を刻んだものを振りかけると実に美味い。

 

ただ、ソーメン生活が開けて、最初に食べた普通のおかずの美味しさは今でも忘れることができない。

 

 

 

 

 

昨日、久しぶりに独りドライブを楽しんだ。九州道を福岡方面に走り「宮田スマートIC」で降りて県道21号線に入った。昔よく走った道だったが、道路も沿線の景色も随分変わっていた。

 

宮若市のラーメン店「来々軒」は改装されて立派になっていた。珍しく、透き通ったスープの豚骨ラーメンが食べられる店である。

 

また、宮若市には以前野菜などの直売所があったが、これが「みやわかの郷」として生まれ変わっていた。産地産直のレストランも併設されており、地元の新鮮な食材が味わえるようである。この辺りは3年ぶりくらいだったが、随分と開発が進んだものだ。

 

 

 

 

閉店する店があれば、新規に開店する店もある。街の進化とはそんなものである。

 

福岡市や北九州市のベッドタウンとして魅力ある住宅都市づくりを進め、人口定住が進んできた隣接する宗像市に水をあけられた形で、宮若市の人口は減少傾向にあるらしい。

 

他にも、中心市街地の衰退、自動車主体の生活による人口の拡散、また、それらに起因して農地の減少が進むなど、宮若市も様々な問題を抱えているようである。

 

 

車内で1970~80年代のポップスを聴きながら、そんなことを考えた。

 

なお、下の写真は宮若市のマスコット、災いを追い出し幸福を招く、表裏一体型の招き猫の「追い出し猫」である。今の宮若市にも、そして私自身にも、そんな猫の力を少し借りる必要があるかもしれない。

 

 

以前から気になっていた映画「月光の夏」を、昨日YouTubeで観ることができた。戦後50年に因んで1993年に製作された映画で、涙が溢れてくるような映画である。

 

 

あらすじは以下の通り。

 

太平洋戦争末期の夏、九州・鳥栖国民学校(現・鳥栖市立鳥栖小学校)に二人の陸軍特攻隊員が立ち寄った。理由は、その国民学校にあるピアノが弾きたかったからである。

 

特攻隊員の一人は上野の音楽学校でピアノを学んだ学生で、翌日知覧へ向かう前に、学校のグランドピアノでベートーヴェンの「月光」を演奏した。もう一人、熊本師範出身の特攻隊員は別れ際に「海ゆかば」を心を込めて演奏した。

 

この演奏を聴いた教師・吉岡公子は長年その出来事を胸に秘めていたが、老朽化したピアノの廃棄を知り、旧い思い出を語り始めた。この話はメディアで報道され吉岡に注目が集まり、ピアノは修復されることになった。

 

吉岡は二人の陸軍特攻隊員の名前を知らなかったが、マスコミの力もあって、特攻隊員の生き残りで「海ゆかば」を演奏したとされる風間森介少尉が見つかった。だが風間は、何故か「月光」の件に関しては沈黙を貫いていた。

 

ドキュメンタリー作家らの取材に同伴して、吉岡も知覧に行くことになった。そして、知覧特攻平和会館で「月光」を弾いた海野光彦少尉を見つけた。

 

また、大牟田の元隊員の証言で、特攻の帰還兵を秘密裏に幽閉していた「振武寮」の存在が明らかになった。当時、特攻の帰還兵は特攻隊員の士気を低下させる都合の悪いものと考えられたからである。

 

風間は、特攻機のエンジンの不調で出撃を中止して引き返し、生き延びた負い目があり、「振武寮」について長年語らずにいたが、取材を通じて次第に心を開くようになった。

 

風間は「海野は戦死しました。私は生き残っております」と語るが、吉岡は「よう生きとって下さいました」と涙ながらに返答した。そして半世紀の沈黙を経て、風間は思い出のピアノと再会して、再び「月光」を演奏することになった。

 

 

本記事は、過去に投稿した記事を若干焼き直して再度投稿するものである。

 

 

GEOSという英会話学校に通っている頃、ある男と知り合った。20年以上も昔のことだ。彼と最後に会ったのが、東日本大震災の年、2011年くらいなので、かれこれ15年くらいになる。時の流れは速いものだ。

 

数年前、彼の消息を訪ねて、少し調べたことがあった。勤務していた証券会社や彼が通っていたビジネススクールにも連絡をとったが、個人情報の関係もあり、結局、消息をつかむことはできなかった。

 

 

以下、彼(以後、Yと呼ぶ)との思い出について、過去の記事を頼りに記載してみる。

 

 

2003年の秋に入った頃、ある生徒がGEOSの我々のクラスに入ってきた。重たそうなリュックを背負い、脚は裸足に革のデッキシューズ(石田純一か!?)靴も着ている服の上下もブランドは全て Polo Ralph Lauren  だった。

 

私とYが交わした最初の英会話が以下のものである。

 

私: What do you do?

 

Y: I’m working for a financial institution.

 

私: Which financial institution, banks or securities?

 

Y: Securities.

 

Yは最大手の野村証券に勤務する証券マンだった。年齢は私より5~6歳下に見えたが、その時私が感じたのは「今まで大変だったろうなぁ~」という同情に近いものだった。「野村証券で5年生き残れたら面白い仕事ができる!」という伝説があった。以来、Yとだんだん親しくなっていった。

 

神奈川県の県立高校出身で早稲田・政経卒。高校時代は柔道部だったらしい。彼の父親は京都府出身で京大・法学部卒、NHKに勤務していると聞いた。父親とはあまりコミュニケーションがうまくいっていないように思われた。

 

野村証券の北九州支店はGEOSがあるビルの1階にあった。通学には最適な環境だった。Yは英会話の他にも、仕事で必要なようでパソコン教室でEXCELやACCESSの分析を学んでいた。

 

 

暫くして、彼には「日本語で話すときと英語で話すときとで人格が全く異なる」という妙な特徴があることを知った。日本語モードの場合は、寡黙で硬派なジェントルマンの風情があったが、これが英語モードに入ると一転、先生はからかう、下品な冗談は飛ばす、他の生徒は批判する …… などなど、全く別の人格が現れた。

 

不思議な男だとも思ったが「これが彼特有のストレス解消法なのかも …… ?」と思えるようになった。

 

 

出会って1か月くらいのうちにYと差しで飲む機会があった。居酒屋である程度出来上がり、いつも通り2軒目はスナックでカラオケという流れになった。そこで彼が歌ったのが「軍歌」だった。それも1曲、2曲ではない。少なくとも10曲は歌った。「軍歌が好きなのか?」と尋ねると「軍歌しか知らない!」と真顔で答えた。昨今、実に稀有な男だった。

 

 

2004年の暮れが近づいた頃、彼は東京に異動になった。それから3年以上が経った2008年5月、私が㈱サン・フレア主催のTQEに合格してその説明会で上京したときに東京で飲んで旧交を温めた。このときYは野村証券関連の信託銀行に出向していた。以後、彼は何度か北九州に来てはともに軍歌を歌った。気がつけば私も軍歌ファンになっていた。

 

 

Yと最後に飲んだのが東日本大震災後の2011年の秋頃ではなかったか?彼は動脈瘤解離を患いその手術を経験した後、禁煙していた。私もその前年の2010年に健康上の理由で禁煙しており不思議な符合を感じた。

 

 

それから暫くして、Yから2冊の書籍が贈られてきた。何となく哲学的なものだった。お返しに5枚組の軍歌全集のCDをプレゼントした。彼はスマホにダウンロードして聴くと喜んでいた。

 

 

数年後Yは野村証券を退職してテンプル大学(Temple University)のビジネススクールの日本キャンパスで勉強を始めたが、それから暫くして音信が途絶えた。病み上がりかつ独身でもあり今も気がかりに思うことがある。

 

 

彼が私に紹介してくれたのが「嗚呼神風特別攻撃隊」という曲である。残念ながらカラオケになっていない。YouTubeに曲があったので以下に紹介する。哀しくも激烈なメロディが素晴らしい。

 

 

NHKの朝の連ドラ「あんぱん」を毎日観ている。戦後80年にあやかったものか、軍隊や戦闘、空襲のシーンが多いように思われる。

 

 

先日、銀行時代の同僚・友人たちと博多で旧交を温めた。場所は筑紫口の「信長本家」、思い出が残る居酒屋である。当時の写真を見ながら昔話に花が咲いた。

 

 

一人の友人はいわゆる「軍事オタク」である。彼の御父上が日本海軍の潜水艦に搭乗されていたことから、海軍ファンのようだ。その彼から不思議な話を聞いた。

 

「映画などで、特攻機が開聞岳を仰ぐシーンがあるが、あの戦闘機は知覧から飛び立った陸軍のものではなく、鹿屋から飛び立った海軍のものである」という新説である。

 

 

知覧には日本陸軍の特攻隊の飛行場があり、鹿屋には日本海軍の特攻隊の飛行場があった。彼によれば、沖縄戦線に向かって知覧から飛び立つ特攻機の航路では、開聞岳は見えないはずだ、と言う。従って、あの特攻機は海軍の戦闘機だというのである。

 

 

少し調べてみた。

 

「俺は、君のためにこそ死ににいく」(2007年)という映画がある。知覧を舞台にしたものでDVDを持っている。この映画の中で、特攻機が開聞岳を仰ぐシーンがある。特攻機の中の特攻隊員は明らかに顔を右(西)に向けて開聞岳を仰いでいた。すなわち、特攻機は開聞岳の左側(東側)を通過していることになる。

 

 

地図を確認してみた。知覧から沖縄に向かって南に飛ぶ航路であれば、開聞岳を見ないことも可能だが、見ようとするならば、開聞岳は左側(東側)に見えるはずだ。従って、特攻機は開聞岳の右側(西側)を通過していなければならない

 

一方、鹿屋から飛び立った特攻機であれば、開聞岳の東側を通過して沖縄に向かうと考えるのが普通で、彼の説もまんざら的外れではない、ということだろうか。

 

 

まあ、映画のシーン自体の誤りかも知れないし、特攻機の実際の航路を確認してみなければ何とも言えない。ただ、「特攻隊を見送った山」開聞岳は円錐状の形でどの方向から見ても同じように見えて目標物が見当たらない。

 

やはり、実際に知覧に行ってみなければ、答えは見つからないかもしれない。

 

 

昨日、母の七回忌の法要を終えた。父方の菩提寺は熊本県の玉名郡菊水町(現・玉名郡和水町)というところにある。近くに江田船山古墳がある。

 

母は花が好きな人だったが、旅立ったのは紫陽花が盛りの時期だった。あれから丸6年、この間、随分と生活環境が変わったからか、結構長い期間に感じられる。

 

 

本ブログのタイトルを「流離の翻訳者 青春のノスタルジア」に変更した。私の記事のほとんどが、自分が若い頃の回顧録だからである。

 

「過去を懐かしむことなど意味がない!」と思う方も多いだろうが、私は過去を振り返ることが好きだ。果たして「過去を懐かしむこと(ノスタルジア)に意味(効用)はあるのだろうか?」少しネットを調べてみた。

 

 

以下は「美しい過去の記憶:ノスタルジアの適応的機能」(美しい過去の記憶:ノスタルジアの適応的機能 | ビジネスリサーチラボに掲載されていた記事を要約したものである。

 

 

ノスタルジアとは、個人にとって意味深い過去の経験を懐かしむ感情である。青春や故郷、大切な人との記憶などが呼び起こされることで、甘美な憧れとともに失われたものへの喪失感が生じる。この複雑な感情は、かつては病気や精神疾患とされ、否定的に捉えられていたが、20世紀後半以降、その見方は大きく変わった。

 

近年の心理学研究では、ノスタルジアが私たちのウェルビーイング(幸福や健康)に良い影響を与えることが示されている。まず、ノスタルジアは自己の連続性を強め、自分の人生に意味や一貫性をもたらす。家族や友人との思い出は、愛され支えられているという感覚を呼び起こし、孤独感を和らげる。また、ノスタルジアは人生の目的を再認識させ、重要な目標の追求を後押しする動機づけにもつながる

 

さらに、ノスタルジアには前向きな行動を促す力がある自尊心や社会的つながりを高め、新しい挑戦への意欲や創造性を高める効果も報告されている。他者への共感を促し、利他的な行動や異なる集団への理解も深まる

 

加えて、ノスタルジアは自己概念を強化し、ストレスや否定的なフィードバックから自己を守る心理的資源となる。職場においても、レジャーの思い出が仕事のモチベーションやエンゲージメント、成果、幸福感を高めることが実証されている。

 

その他にも、ノスタルジアは活力や若さの感覚を呼び起こし、リスクテイキングや自己成長を促進し、身体的健康にも良い影響を与えることが知られている。かつて否定的に捉えられていたノスタルジアは、今や前向きな変化を支える重要な心理的資源として再評価されている。

 

過去の思い出を大切にすることは、現在を豊かにし、未来への力ともなる。ノスタルジアの肯定的な力を活用することが、心の健康と人生の質を高める鍵となるだろう。

 

 

以上、ノスタルジアの効用について記載してみた。

 

 

東大路通りと北大路通りが交差する場所が「高野」である。学生時代、私はこの高野周辺でよく遊んだ。従って、高野には多くの思い出が残っている。

 

 

当時、高野には「京都スターレーン」というボウリング場があった。1回生の5月、初めての合ハイがこの京都スターレーンだった。予備校時代のクラスメートで、同志社大学の英文科に進学した女子がおり、そのコネで実現したものだった。

 

法学部のHが段取りをつけてくれたが、当時、私は女性と話すことに不慣れで、ほとんど会話ができなかった。ただ、同級生が連れてきた女性が福岡市出身で、かなりきれいだったことだけは、ぼんやりと覚えている。なお、その同級生が後にCAになったことを風の噂で聞いた。

 

 

京都スターレーンにはその後もよく通った。教養部の授業で出席を取らないものは、しばしばサボって朝からボウリングに行った。生協でチケットを売っていて、1ゲーム100円だった。他に娯楽がなかったからか、1日に16ゲームも投げたこともある。そんな京都スターレーンも、2002年に廃業したらしい。

 

 

冬季の体育実技ではスケートを選択した。京都スターレーンの近くに「高野アリーナ」というアイススケート場があり、授業はそこで行われた。3回ほど通ったが、転んでばかりで、結局最後まで滑れるようにはならなかった。

 

同じクラスに、やや腰をかがめて、手と足を交互に出しながら、まるで相撲取りのような姿勢で氷上を進む友人がいた。その様子を見て笑っていた私自身が、バランスを崩して滑りこけた。まさに、踏んだり蹴ったりならぬ、滑ったり転んだりの授業だった。
 

高野アリーナも2000年代半ばに閉鎖され、跡地は現在「洛北阪急スクエア」というショッピングモールになっている。

 

 

2回生になってからは、友人の誘いで高野のパブ「ユレイカ」に通うようになった。「ユレイカ(Eureka)」とは、ギリシャ語で「我、発見せり」という意味らしい。店には、当時40代後半のママと、京都芸術短期大学や京都工芸繊維大学の女子学生たちがアルバイトしており、男子学生にはなかなか楽しい空間だった。

 

カラオケを初めて歌ったのもこの店で、曲は「そして神戸」だった。ちょうどカラオケが流行り始めた時期だった。パブは2階にあり、1階には喫茶「更紗(サラサ)」があった。ここでも何度か食事をした。味もなかなか良かった。「ユレイカ」「更紗」も、今はもう存在していない。

 

 

北大路にあるラーメン屋「天天有」に通うようになったのも2回生の頃だ。この店のラーメンは「天下一品」と比べるとあっさりしており、特にスープが美味しかった。記憶では北大路通り沿いにあったように思うが、調べてみると実際にはもう少し北東の一乗寺寄りだったらしい。

 

それにしても、下宿から自転車で30分近くもかけて、よく通ったものだ。

 

 

入社3年目の1984年5月、私は京都を一人旅した。新幹線で京都まで行き、レンタカーを借りて市内を巡った。このとき泊まったのが「ホリデイ・イン京都」だった。

 

ボウリング場やスケートリンクと隣接する総合施設として、かつては賑わっていたようだが、宿泊したのはこれが最初で最後だった。ホリデイ・イン京都はその後「ホテル・アバンシェル京都」と名前を変え、2013年には廃業したという。

 

 

こうして思い出を辿ってみても、かつて親しんだ施設や店の多くは、今では姿を消してしまっている。せめて、今なお残っているものだけでも、大切にしていきたいと思う。

 

 

 

 

「貴重な歳月が手の指の間からこぼれつつあった。人生へのやみがたい渇望を残したまま。」

 

大学本学構内の何処かのトイレにあった落書きである。

 

 

私が入学した当時の総長は、岡本道雄(1913-2012)という人だった。ある日の授業の間、トイレをひたすら我慢していた私は、授業終了と同時に時計台のトイレに急いだ。トイレ入り口付近で正面衝突しそうになったのが岡本総長だった。

 

入学式のご挨拶からお顔は覚えていた。「あっ!すみません!」と謝罪してから個室に滑り込んだ。相手の反応を見る余裕は無かった。そんなことを思いだした。

 

 

先月以来、旧交を温める活動が続いているからか、当時の頃の夢をよく見るようになった。夢の中で、忘れていた当時のエピソードが蘇ることもある。不思議なものだ。

 

 

夢を覚えるのにはコツがある。朝起きたら、そのとき覚えている夢の一部をどこかに書き留めておく。あまり時間が経っていなければ、その一部から夢の全体を思い出すことができる。これを「夢のしっぽを捕まえる」というらしい。昔々読んだ本にそんなことが書いてあった。

 

 

1976年に「夢で逢えたらという曲がある。大瀧詠一の作詞・作曲によるもので、吉田美奈子が歌った曲である。東京で勤務していた頃、友人からこんな話を聞いた。

 

「この曲がもし大ヒットしていたなら、日本の音楽の歴史は変わっていたかもしれない。」という話である。確かにシャンソンの香りがする曲である。

 

 

徒然なるままに、心に移りゆくよしなしごとを書き綴ってみた。