流離の翻訳者 青春のノスタルジア -2ページ目

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

母方の伯父が亡くなってから8年半ほどになる。伯父夫婦には子供がいなかったため、幼い頃から私たち兄弟を可愛がってくれた。

 

私が小学校3年くらいの頃、伯父の家に遊びに行くと、街に連れて行ってデパートでオモチャを買ってくれたり、喫茶店でケーキを食べさせてくれたりした。喫茶店では、伯父は黙ってコーヒーを飲んで煙草を吸っていたが、その姿が今も何となく思い浮かぶ。

 

伯父が買ってくれたオモチャで今も覚えているものがいくつかある。電池で動く「スーパージェッター」「流星号」のプラモデル。ゼンマイで動く「オバケのQ太郎」などなど。「流星号」のプラモデルは父が組み立ててくれたが、楽しそうに作っていた父の姿も思い出す。

 

 

そんなオモチャの中で、一番印象に残っているのが怪獣のプラモデルで、「ウルトラQ」に登場する冷凍怪獣「ペギラ」のものだった。確か色は紫で可動式のものではなかった。これが、最後まで一人で作れた最初のプラモデルだった。

 

「ペギラ」は私の好きな怪獣の一つで、「ウルトラQ」では第5作「ペギラが来た!」と第14作「東京氷河期」の2作に登場する。

 

ペギラを撃退したのは「ペギミンH」という物質で、南極大陸に生育する架空のコケの成分から抽出したものだった。このコケは遭難した犬を越冬させるほどの滋養に富むが、一方で、ペギラと同環境に生息するアザラシに対しては毒物として働くという。

 

東京にペギラが飛来した際は、爆薬と混合させたものを搭載したセスナ機が体当たりすることで撃退したが、まるで特攻隊のようなストーリーである。しかし、このコケはペギラを退治するまでには至らず、追い払うに留まっている。いつか蘇ることを想定したもののようである。

 

 

白黒の映像の当時、眼が光り口から冷凍光線を吐く「ペギラ」は、子どもの眼にはとても恐ろしいものに映った。日本列島を覆うこの猛暑も「ペギラ」が何とかしてくれないかな、などと思う。

 

 

先月半ばから、妻が故郷の中国・広州(Guangzhou)に帰国しており、何かと不便で退屈な日々が続いている。妻の母親の健康状態があまり良くないから仕方ないが、そのおかげで「自分で自分の弁当を作る」という貴重な体験ができた。

 

ただ、中に何が入っているかわかっている弁当を開けるのは実につまらない。「ワクワク感」も何もない。いつも自分で自分の弁当を作っている人の気持ちが少しわかったような気持ちになった。

 

 

そんな退屈しのぎに、先日、以前買ったDVDを観なおしてみた。「黄泉がえり」という映画である。公開が2003年なので22年も経つことになる。そんな昔の映画だったのか?

 

草彅剛さんと竹内結子さんのダブル主演だが、竹内結子さんは、私が好きな女優の一人だった。彼女が自ら命を断ってからもう5年近くになる。コロナ禍の真っ最中だった。今も残念に思う。

 

主役以外のキャスティングも素晴らしい。石田ゆり子さん、哀川翔さん、柴咲コウさん、長澤まさみさん、市原隼人さん、伊東美咲さんなどなど。長澤まさみさん、市原隼人さんは中学生役で登場する。彼らの出世作のひとつだろう。

 

 

九州の阿蘇地方で、死者が死んだ当時のままの姿で自分のことを想い続けてくれる人の前に甦る(黄泉がえる)という怪現象が発生する。事件の調査のため、故郷でもある現地に赴いた厚生労働省の若きエリート・川田(草彅剛さん)は、そこで海で事故死した親友・俊介のフィアンセだった葵(竹内結子さん)と再会する、といった感じでストーリーが展開する。

 

 

主題歌は柴咲コウ(RUI)さん「月のしずく」。歌も素晴らしく映像も美しい。哀しくも美しい思い出が残る感動的な作品だった。

 

「誰かを思い続けること」「その想いが時を超えること」——そうした映画の世界に、自分自身がどこか救われるような気持ちがした。

 

 

 

久ぁ~しぶりに英語関連の記事を書く。

 

先日、英会話のレッスンでbasteという動詞が出てきた。未知の単語だったので教師に聞くとput meat juice back on the meatと説明された。「肉汁を元の肉にかけ戻すこと」を言うらしい。料理関係の単語に強い方なら当然ご存知の単語だろう。

 

1) Baste the chicken regularly so that it will not dry out.

「鶏肉が乾かないように、こまめに肉汁をかけなさい。」

 

ただし、テキストでは上記の文が、動詞avoidを使って以下のように書かれていた。

 

2) Baste the chicken regularly in order to avoid it drying out.

「鶏肉が乾くのを防ぐために、こまめに肉汁をかけなさい。」

 

「avoid it drying out」の部分に違和感があり、自宅に戻ってからAIに尋ねてみた。回答は以下の通りである。

 

「avoid+it+動名詞(~ing)」のような形は、文法書などでは「カジュアルで口語的な言い回し」とされることもあります。少しフォーマルにしたい場合は「avoid the chicken drying out」「avoid its drying out」などが使われます。

 

では「avoid it drying out」の文構造は?⇒これは次のように分解されます。

avoid(動詞)

it drying out(動名詞句)「it(= the chicken)」「dry out(乾く)」という内容の名詞的な句(=動名詞句)になっています。つまり、avoid+[it drying out](=「それが乾くこと」を避ける)

 

英会話のテキストでは、文法書や辞書にない構文にお目にかかることが多い。まあ、最初に言語ありきで、その後に文法書や辞書が作られるわけだから、それも仕方ないことかも知れない。

 

ただ、日本人が英会話で構文を作成する場合は、1)の形か以下の3)の形をとるのが普通ではないだろうか。

 

3) Baste the chicken regularly (in order) to prevent it from drying out.

 

西部劇をよく観るようになったのは、小学校高学年から中学生にかけてのことである。当時は「インディアン対騎兵隊」をテーマとしたものが多かった。

 

中学に入ると、クラスに坊主刈りの男子が半分くらいいたが、長髪組を騎兵隊、坊主刈りをインディアンに見立てて戦争ごっこをしていた。私は騎兵隊組で「カッチャン将軍」と呼ばれていた。映画「壮烈第七騎兵隊」(1941年)カスター将軍をもじったものである。

 

 

中学の半ばくらいからイタリア製作の「マカロニウェスタン」が流行り始めた。いわゆる「用心棒」のシリーズである。やはり最高傑作はフランコ・ネロ主演の「続・荒野の用心棒」(1966年)と言える。ガンマンの世界にマシンガンという小道具が登場した。

 

 

 

 

マカロニウェスタンはアメリカ映画に比べて残虐なシーンが多いのが特徴だが、その一方でBGMや主題歌が渋くて格好いいものが多かった。マカロニウェスタンのBGMを特集したLPを持っている友人がいて、何度か聴かせてもらったことがある。

 

ちょうどその頃、日本では「必殺シリーズ」が流行りはじめるが、これらのBGMはマカロニウェスタンの影響を受けているのではないか、というのが以前からの私の持論である。

 

 

 

先日紹介した「サスペリアPART2(紅い深淵)」(1975年)の残虐な殺人シーンは、マカロニウェスタンも含めて、本来、血の気の多いラテン系の民族の気質に由来するものなのかも知れない。

 

 

監督のダリオ・アルジェントが製作した映画は、以後も結構観ている。「インフェルノ」(1980年)「シャドー」(1982年)「フェノミナ」(1985年)「オペラ座/血の喝采」(1987年)などなど。

 

また、BGMも気に入ってサントラ盤を購入した。ゴブリン(GOBLIN)というイタリアのプログレッシブ・ロックバンドが演奏しているものが多いが、「インフェルノ」のように、キーボーディストのキース・エマーソン(Keith Noel Emerson)によるものもある。

 

 

 

 

 

1980年代に入り、ダリオ・アルジェントの作品は、オカルトものが中心となっていったが、やはりサスペンスものの方が私には面白い。「サスペリア」「フェノミナ」のように美少女を登場させるものも多くなっていった。ただ、どういうわけか美少女は死なない。また、鳥(カラス)、動物(犬・猿)や虫など(トカゲ・蛆・蝿・蜘蛛が、アクセントのように出てくるものも多い。

 

 

イタリアでは、テレビ番組でダリオ・アルジェントのサスペンスが放送されていたようである。機会があれば是非観てみたいものである。

 

 

 

 

 

でもやはり、恐怖の記憶として今も脳裏に残っているのは「サスペリアPART2(紅い深淵)」。これがダリオ・アルジェントの最高傑作と言えるだろう。

横溝正史(1902-1981)は、名探偵・金田一耕助を主人公にした数々の推理小説で知られる作家である。先日のニュースによれば、彼が14歳のときに雑誌に応募した童話「三つの林檎」が見つかったという。

 

全集未収録のこの作品は、横溝が遺したフィクションの中で最も古いものであり、専門家は「14歳にしてすでに才能が花開いている。まさに、作家になるべくして生まれた人物だと思わせる作品」と評している。

 

 

横溝正史は、私が中学・高校から大学にかけて結構読んだ作家である。当時は角川文庫や角川映画が一世を風靡していた時期。角川書店が仕掛けたミステリーブームの真っ只中で、高木彬光、森村誠一、横溝正史の三人を「三大推理作家」として大々的に売り出していた。

 

私が最初に読んだ横溝作品は『三つ首塔』だった。角川文庫の表紙の絵がとても怖くて、その印象が今でも記憶に残っている。

 

 

映画では、金田一耕助役を演じた俳優も名優ぞろいだ。石坂浩二、渥美清、古谷一行、西田敏行……いずれも個性豊かで、作品ごとに異なる金田一像を楽しませてくれた。

 

 

テレビでは、TBS系で「古谷一行の金田一耕助シリーズ」が放送されていた。1977年から1978年頃のことだ。古谷一行さんが亡くなったのは2022年8月。もうあれから3年が経つのか……。

 

このシリーズで流れていた主題歌は「まぼろしの人」「あざみの如く棘あれば」。いずれも茶木みやこが歌っていた。何とも言えない虚無的なメロディーが、今も脳裏によみがえる。

 

 

 

近くのスーパーで、昨今取り沙汰されているアメリカ産米「カルローズ」が売られていたので興味本位で買ってみた。日本米に比べ、まあまあの味だと思った。

 

以前、アメリカに留学(赴任)した友人から「カリフォルニア米は美味い」と聞いたことがあるが、それは最高級米の話だろう。とはいえ、以前の米不足の時のタイ米とは随分違うものと感じ、十分に国産米の代替財となり得るものと思われた。

 

 

前回、ブログに書いたホラー映画の記事に結構なアクセスがあったようである。確かに、20代くらいまではホラー映画をよく観た。今回、少し続編を書いてみたいと思う。

 

 

1977年、私が予備校に通っていた時代、夏休みの時期に予備校生と現役生を対象とした「夏期特別講習」が実施されていた。「夏期特別講習」は、英・数・国が基本で独自のテキストがあった。また、受講生は追加料金を支払えば社会・理科の講義も受講することができた。

 

予備校生からみれば、現役生は絶対に負けられない存在だった。「現役に負けてたまるか!」といつも思っていた。そんな悶々とした予備校時代、卓球場で球を打ったり、近くの空き地で友人たちとの「庭球野球」で思いっきり球を打ったりしてストレスを解消していた。今思えば虚しい日々だった。

 

 

苦手科目のスランプを抱えていたそんな夏休みの時期、私の周りで流行っていたのが山口百恵の「イミテーション・ゴールド」という曲である。ニヒリスティックな歌詞が虚しい後味を残す。

 

 

 

だが、巷ではオカルトの名作が上映されていた。それはイタリア映画の「サスペリア」「決してひとりでは見ないでください」が流行語となった映画である。

 

アメリカ・ニューヨークからドイツ・フライブルグの名門バレエ学院に留学した少女、スージー・バニオンの周りで起こる悍(おぞ)ましい猟奇殺人事件が映画の基調となっている。「青いアイリス」の謎。伝説の館に潜む140年の秘密。「魔女・エレナ・マルコス」の存在、等々。極彩色に彩られたオカルトの名作である。

 

 

 

 

そしてもう一つ、この頃巷で大ヒットしていたのが、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」という曲だった。当時海水浴場などではこの曲がかかりっ放しだっだらしい。だが、私の場合、この曲の謎が多い歌詞と錆びたメロディーに出会うのは、翌年、大学に入った年の夏だった。

 

 

以前は、夏になると新しいホラー映画が封切られることが多かった。当時はテレビでもホラー映画がよく放送されていたものである。

 

 

物心がついてから最初の恐ろしい体験は、幼稚園の遠足だった。行き先は下関水族館。祖母が幼い弟を連れて私に付き添ってくれた。保護者が同行するのが慣例だったようだ。

 

水族館にはお化け屋敷があった。お化け屋敷は真っ暗なトンネルの中で、トンネル内にはトロッコの線路が引かれており、乗客はそのトロッコに乗って入る仕組みだった。

 

弟と二人でトロッコに乗り、真っ暗なトンネルの中へ入っていった。覚えているのは、暗闇の中でトロッコが止まり、左右から冷たい手が伸びてきて首を絞められたことだ。私も弟も大声で泣き叫んだ。記憶はそれだけだが、強烈なトラウマとして残った。以来、暗いトンネルとお化け屋敷には入っていない。

 

 

私が小さい頃のホラー映画は、ドラキュラ、フランケンシュタイン、狼男など怪物ものが中心だった。ところが1973年に「エクソシスト」(THE EXORCIST)が上映されてから、人に悪魔が憑依するなどオカルトという新たな分野が出現した。

 

ホラーとオカルトの違いは、ホラー映画が恐怖を与えること自体を目的とするのに対し、オカルト映画はその中でも特に超自然的・宗教的要素を扱うものと言えるだろう。

 

「エクソシスト」以降も、「オーメン」(1976年)、「キャリー」(1976年)、「サスペリア」(1977年)、「ゾンビ」(1978年)など、オカルトの名作が相次いで公開された。

 

 

そんな中、大学1回生のときに友人と観たある映画では、あまりの怖さに途中で映画館を抜け出してしまった。何とも情けない話である。ただ、真相がわからないと余計に怖いので、後日、友人ともう一度金を払って最後まで観た。

 

その映画は「サスペリアPART2」というイタリア映画である。もともと1975年にイタリアで公開されたもので、原題は「紅い深淵」(Deep Red)。オカルトではなく連続殺人事件をテーマにしたホラー・サスペンスだ。日本公開は1978年で、「サスペリア」のヒットに便乗して「サスペリアPART2」と命名されたらしい。

 

とにかく、この映画は恐ろしかった。特に殺人シーンが怖いのだ。殺人の前に流れる子供の歌、突然現れる人形、血が滴るナイフを見つめる少年の意味など、小道具があちこちに仕掛けられている。映像も美しく、音響効果も素晴らしい。

 

 

あの真っ暗なトンネルの体験以来、暗闇と得体の知れない恐怖は、私の中でずっと生き続けているようである。

 

今どきホラー映画を観る人も少ないかもしれないが、もし機会があれば、あなたもあの恐怖を体験してみてはどうだろうか。レンタルショップに行けばDVDが見つかるかも知れない。

 

 

 

市内の小・中学校で夏休みが始まったようである。公園などで見かける子どもたちの笑顔もひときわ明るくなったように感じられた。昔も今も、夏休みとはそれくらい楽しいものである。

 

今年は梅雨が早く明けたせいか、蝉が季節に先を越されたようである。先週からやっと蝉の声が聞かれるようになった。例年は蝉の声に梅雨明けを知らされるのだが。

 

 

高校3年の夏休みには今でも悔いが残っている。私とって夏休みの一番の課題は、苦手科目の国語(古文・漢文)と社会(世界史・日本史)の克服だった。これに失敗したことが現役合格できなかった最大の理由である。

 

夏休みには、高校でも英・数・国以外に社会・理科でも補習が行われた。社会の補習の教材は「傾向と対策」(旺文社)というものだった。当時の受験参考書のベストセラーだった。

 

また、北九州予備校などでも、現役生を対象とした夏期講習が行われていた。私の高校でも北予備に通った生徒が多かった。

 

そのような中で私がとった戦略は以下のようなものだった。

 

 

方針:高校の補習や予備校の夏期講習は受けずに自宅学習により苦手科目を克服する。

 

国語(古文・漢文):

①古文の参考書を通読し、問題集を一冊仕上げる。

②「源氏物語」を通読する。

③漢文の問題集を一冊仕上げる。

 

社会(世界史・日本史):

④世界史の教科書ではなく、要点整理版を読んで覚える。

⑤日本史の教科書ではなく、要点整理版を読んで覚える。

 

これがすべて誤りだった。国語・社会いずれも、ある程度の基礎力がある受験生のやり方である。得意科目の英語や数学のやり方をそのまま適用してしまったようである。

 

 

結果的に、①②③については完璧に挫折した。古文参考書も「源氏物語」も私には難しすぎた。また古文・漢文の問題集には解説がなく、何故、解答がそうなるのかがわからなかった。問題集の選び方は大切である。

 

④⑤についても挫折した。これは教科書を一通り読んだ受験生の学習方法である。教科書を読まずして要点整理版を読むことは無意味である。全く興味がわかず覚えることもできなかった。

 

 

 

 

 

考えてみれば、英語や数学は教科書を何度も読み、基礎問題から応用問題まで何回も解いて覚えて得意科目になったものである。ましてや苦手科目について、楽をして克服できるわけがないのだ。

 

やはり、苦手科目の克服には時間を掛けるべきである。補習や夏期講習で刺激を受けることも大切である。周りの受験生の学力もわかるし友人もできるかもしれない。苦手科目こそ楽しく勉強することが大切である。

 

 

昔は「夏は入試の天王山」などと言われた。今の受験生の事情とは随分異なるものと思われるが、参考までに自分の失敗について書いてみた。とにかく「苦手科目は教科書に立ち返る」ことが大切だと思う。

 

先日、スーパーマーケットで酒類を物色していたら、小学1年生くらいの娘を連れた若い父親に出くわした。

 

父親はレモンサワーを1本買い物かごに入れ、2本目に手を伸ばそうとしたそのとき、娘が「パパ!ダメ!一本だけだよ!ママに叱られるよ!」と父親の尻を叩いた。父親は情けなさそうな顔をして手を引っ込めた。

 

飲んでいる途中で「今日はここまで!」と妻に酒を取り上げられる自分の姿が頭に浮かび、「おお、ここにも同志がいたか!」と妙な共感を覚えた。

 

 

高校の頃は、とにかく腹が減った。朝ギリギリまで寝ていて、朝食を食べないから余計に腹が減るのだろう。また、いくら食べても太らなかった。弁当がない土曜日の午前中の授業を終えると空腹感はピークに達し、帰宅せずに高校の食堂に立ち寄ることも多かった。

 

土曜日の食堂には特別メニューがあった。焼きそばの超大盛りが半額だったのだ。とにかく量が多く、二人でも食べきれないほどだった。鉄板にこびりついた「おこげ」みたいなものも入っていて、これが香ばしくて美味かった。食堂にとっても廃棄せずに済むメリットがあったようである。

 

 

腹ごしらえがひととおり終わったら、路面電車で小倉の街に出て本屋に行くことも多かった。銀天街の「ナガリ書店」の2階で受験参考書を物色し、将来の夢が膨らんだり、溜息をついたりしていた。参考書に飽きたら、京町銀天街の喫茶「マヤ」でコーヒーを飲んだ。

 

 

街に出ずにまっすぐ家に帰ってテレビをつけると、「高校教師」という番組が放映されていた。加山雄三さんが英語教師役で、ちょっとフケた女子高生やスケバンがたくさん出てくる学園ドラマだった。同世代ではあるが、「東京の高校生はスゴイな!」などと思いながら見ていた。

 

主題歌は夏木マリさん「裸の青春」。この歌詞が結構強烈だった。「たった一度の青春を悔いなきようにと言うけれど、春の嵐が過ぎた後、何もしなかったと嘆くより、ああ~過ち悔やむ方がまし」

 

 

高校3年の頃、どこかのクラスの女子の友だちの妊娠中絶費用のカンパが回ってきたことがあった。「我々の世代にもそんな生徒がいるんだな?!」と呆れた記憶がある。

 

 

思えば、受験への不安や恋愛への憧れなど、葛藤が渦巻く中で悶々とした高校時代だったが、それでもどんな日も、腹だけは減っていた。

 

 

 

 

 

勝山公園の近くにボウリング場「勝山パークレーン」ができたのは、私が小学6年生くらいのときだった。当時、日本中がボウリング・ブームに沸いていて、大都会に限らず、私が住む地方都市でもボウリング場の新設が相次いでいた。

 

 

実際にボウリング場に通うようになったのは、中学1年の頃だった。箸と鉛筆は右利きなのだが、実はボウリングは左利き(サウスポー)だった。元々左利きで、箸と鉛筆だけを小学校にあがる前に親に矯正されたものだ。ボウリングは球を最初に持ったのが左手だったためサウスポーになった。因みに野球は右投げ右打ちである。

 

週休二日制などない時代で、日曜日の早朝に「早朝サービス」という料金が安い時間帯が設けられていた。家族や友人たちと早起きして、よく出かけたものだ。

 

ボウリングに行く前日の土曜日の夜は、ワクワクして眠れないこともあった。実際にあまり眠れないままボウリング場へ行ったことも何度かあった。それくらい楽しいスポーツだった。

 

テレビでもボウリングの試合が放送されていた。中山律子、並木恵美子、須田開代子、野村美枝子などの女子プロボウラーたちが、きら星のように並び、それぞれ人気を博していた。

 

中学2年のころ、マイボールとマイシューズを持っている友人がいて、ずいぶん羨ましく思ったものだ。彼は一人っ子で、小遣いをたくさん貰っていたようで、学校が終わると、夕方一人でボウリング場に通っていた。確かにボウリングも上手かった。彼は野村美枝子プロのファンだった。

 

 

当時、テレビ番組に「美しきチャレンジャー」というものがあった。放映は1971年4月から10月までなので、私が中学1年の頃の作品だ。主演(ヒロイン)は新藤恵美さんで、当時20歳前後のセクシーな女優だった。この人は後に日活ロマンポルノにも出演したらしい。

 

また、中村晃子さんが歌っていた主題歌も、結構好きだった。今でも時々口ずさむことがある。「巨人の星」「タイガーマスク」など、当時のスポ根ものの主題歌は、子どもにも歌いやすいものが多かった。

 

 

高校時代は、中間・期末などの試験が終わるたびに、友人たちと打ち上げと称してボウリングに行った。大学を卒業する頃まで、ボウリング人気は衰えなかったように思うが、実際には1980年代に入った頃から人気は下火になっていったらしい。原因は供給過剰によるものだという。

 

 

最後にボウリングをしたのは、翻訳会社に入社した年のレクリエーションだったから、2011年のことだ。いつもながら大したスコアは出せなかったが、あれから14年、ボールを投げていない。歳をとっても、ボウリングくらいはいつでも楽しめる体力を維持していたいものである。