流離の翻訳者 青春のノスタルジア -2ページ目

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

横溝正史(1902-1981)は、名探偵・金田一耕助を主人公にした数々の推理小説で知られる作家である。先日のニュースによれば、彼が14歳のときに雑誌に応募した童話「三つの林檎」が見つかったという。

 

全集未収録のこの作品は、横溝が遺したフィクションの中で最も古いものであり、専門家は「14歳にしてすでに才能が花開いている。まさに、作家になるべくして生まれた人物だと思わせる作品」と評している。

 

 

横溝正史は、私が中学・高校から大学にかけて結構読んだ作家である。当時は角川文庫や角川映画が一世を風靡していた時期。角川書店が仕掛けたミステリーブームの真っ只中で、高木彬光、森村誠一、横溝正史の三人を「三大推理作家」として大々的に売り出していた。

 

私が最初に読んだ横溝作品は『三つ首塔』だった。角川文庫の表紙の絵がとても怖くて、その印象が今でも記憶に残っている。

 

 

映画では、金田一耕助役を演じた俳優も名優ぞろいだ。石坂浩二、渥美清、古谷一行、西田敏行……いずれも個性豊かで、作品ごとに異なる金田一像を楽しませてくれた。

 

 

テレビでは、TBS系で「古谷一行の金田一耕助シリーズ」が放送されていた。1977年から1978年頃のことだ。古谷一行さんが亡くなったのは2022年8月。もうあれから3年が経つのか……。

 

このシリーズで流れていた主題歌は「まぼろしの人」「あざみの如く棘あれば」。いずれも茶木みやこが歌っていた。何とも言えない虚無的なメロディーが、今も脳裏によみがえる。

 

 

 

近くのスーパーで、昨今取り沙汰されているアメリカ産米「カルローズ」が売られていたので興味本位で買ってみた。日本米に比べ、まあまあの味だと思った。

 

以前、アメリカに留学(赴任)した友人から「カリフォルニア米は美味い」と聞いたことがあるが、それは最高級米の話だろう。とはいえ、以前の米不足の時のタイ米とは随分違うものと感じ、十分に国産米の代替財となり得るものと思われた。

 

 

前回、ブログに書いたホラー映画の記事に結構なアクセスがあったようである。確かに、20代くらいまではホラー映画をよく観た。今回、少し続編を書いてみたいと思う。

 

 

1977年、私が予備校に通っていた時代、夏休みの時期に予備校生と現役生を対象とした「夏期特別講習」が実施されていた。「夏期特別講習」は、英・数・国が基本で独自のテキストがあった。また、受講生は追加料金を支払えば社会・理科の講義も受講することができた。

 

予備校生からみれば、現役生は絶対に負けられない存在だった。「現役に負けてたまるか!」といつも思っていた。そんな悶々とした予備校時代、卓球場で球を打ったり、近くの空き地で友人たちとの「庭球野球」で思いっきり球を打ったりしてストレスを解消していた。今思えば虚しい日々だった。

 

 

苦手科目のスランプを抱えていたそんな夏休みの時期、私の周りで流行っていたのが山口百恵の「イミテーション・ゴールド」という曲である。ニヒリスティックな歌詞が虚しい後味を残す。

 

 

 

だが、巷ではオカルトの名作が上映されていた。それはイタリア映画の「サスペリア」「決してひとりでは見ないでください」が流行語となった映画である。

 

アメリカ・ニューヨークからドイツ・フライブルグの名門バレエ学院に留学した少女、スージー・バニオンの周りで起こる悍(おぞ)ましい猟奇殺人事件が映画の基調となっている。「青いアイリス」の謎。伝説の館に潜む140年の秘密。「魔女・エレナ・マルコス」の存在、等々。極彩色に彩られたオカルトの名作である。

 

 

 

 

そしてもう一つ、この頃巷で大ヒットしていたのが、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」という曲だった。当時海水浴場などではこの曲がかかりっ放しだっだらしい。だが、私の場合、この曲の謎が多い歌詞と錆びたメロディーに出会うのは、翌年、大学に入った年の夏だった。

 

 

以前は、夏になると新しいホラー映画が封切られることが多かった。当時はテレビでもホラー映画がよく放送されていたものである。

 

 

物心がついてから最初の恐ろしい体験は、幼稚園の遠足だった。行き先は下関水族館。祖母が幼い弟を連れて私に付き添ってくれた。保護者が同行するのが慣例だったようだ。

 

水族館にはお化け屋敷があった。お化け屋敷は真っ暗なトンネルの中で、トンネル内にはトロッコの線路が引かれており、乗客はそのトロッコに乗って入る仕組みだった。

 

弟と二人でトロッコに乗り、真っ暗なトンネルの中へ入っていった。覚えているのは、暗闇の中でトロッコが止まり、左右から冷たい手が伸びてきて首を絞められたことだ。私も弟も大声で泣き叫んだ。記憶はそれだけだが、強烈なトラウマとして残った。以来、暗いトンネルとお化け屋敷には入っていない。

 

 

私が小さい頃のホラー映画は、ドラキュラ、フランケンシュタイン、狼男など怪物ものが中心だった。ところが1973年に「エクソシスト」(THE EXORCIST)が上映されてから、人に悪魔が憑依するなどオカルトという新たな分野が出現した。

 

ホラーとオカルトの違いは、ホラー映画が恐怖を与えること自体を目的とするのに対し、オカルト映画はその中でも特に超自然的・宗教的要素を扱うものと言えるだろう。

 

「エクソシスト」以降も、「オーメン」(1976年)、「キャリー」(1976年)、「サスペリア」(1977年)、「ゾンビ」(1978年)など、オカルトの名作が相次いで公開された。

 

 

そんな中、大学1回生のときに友人と観たある映画では、あまりの怖さに途中で映画館を抜け出してしまった。何とも情けない話である。ただ、真相がわからないと余計に怖いので、後日、友人ともう一度金を払って最後まで観た。

 

その映画は「サスペリアPART2」というイタリア映画である。もともと1975年にイタリアで公開されたもので、原題は「紅い深淵」(Deep Red)。オカルトではなく連続殺人事件をテーマにしたホラー・サスペンスだ。日本公開は1978年で、「サスペリア」のヒットに便乗して「サスペリアPART2」と命名されたらしい。

 

とにかく、この映画は恐ろしかった。特に殺人シーンが怖いのだ。殺人の前に流れる子供の歌、突然現れる人形、血が滴るナイフを見つめる少年の意味など、小道具があちこちに仕掛けられている。映像も美しく、音響効果も素晴らしい。

 

 

あの真っ暗なトンネルの体験以来、暗闇と得体の知れない恐怖は、私の中でずっと生き続けているようである。

 

今どきホラー映画を観る人も少ないかもしれないが、もし機会があれば、あなたもあの恐怖を体験してみてはどうだろうか。レンタルショップに行けばDVDが見つかるかも知れない。

 

 

 

市内の小・中学校で夏休みが始まったようである。公園などで見かける子どもたちの笑顔もひときわ明るくなったように感じられた。昔も今も、夏休みとはそれくらい楽しいものである。

 

今年は梅雨が早く明けたせいか、蝉が季節に先を越されたようである。先週からやっと蝉の声が聞かれるようになった。例年は蝉の声に梅雨明けを知らされるのだが。

 

 

高校3年の夏休みには今でも悔いが残っている。私とって夏休みの一番の課題は、苦手科目の国語(古文・漢文)と社会(世界史・日本史)の克服だった。これに失敗したことが現役合格できなかった最大の理由である。

 

夏休みには、高校でも英・数・国以外に社会・理科でも補習が行われた。社会の補習の教材は「傾向と対策」(旺文社)というものだった。当時の受験参考書のベストセラーだった。

 

また、北九州予備校などでも、現役生を対象とした夏期講習が行われていた。私の高校でも北予備に通った生徒が多かった。

 

そのような中で私がとった戦略は以下のようなものだった。

 

 

方針:高校の補習や予備校の夏期講習は受けずに自宅学習により苦手科目を克服する。

 

国語(古文・漢文):

①古文の参考書を通読し、問題集を一冊仕上げる。

②「源氏物語」を通読する。

③漢文の問題集を一冊仕上げる。

 

社会(世界史・日本史):

④世界史の教科書ではなく、要点整理版を読んで覚える。

⑤日本史の教科書ではなく、要点整理版を読んで覚える。

 

これがすべて誤りだった。国語・社会いずれも、ある程度の基礎力がある受験生のやり方である。得意科目の英語や数学のやり方をそのまま適用してしまったようである。

 

 

結果的に、①②③については完璧に挫折した。古文参考書も「源氏物語」も私には難しすぎた。また古文・漢文の問題集には解説がなく、何故、解答がそうなるのかがわからなかった。問題集の選び方は大切である。

 

④⑤についても挫折した。これは教科書を一通り読んだ受験生の学習方法である。教科書を読まずして要点整理版を読むことは無意味である。全く興味がわかず覚えることもできなかった。

 

 

 

 

 

考えてみれば、英語や数学は教科書を何度も読み、基礎問題から応用問題まで何回も解いて覚えて得意科目になったものである。ましてや苦手科目について、楽をして克服できるわけがないのだ。

 

やはり、苦手科目の克服には時間を掛けるべきである。補習や夏期講習で刺激を受けることも大切である。周りの受験生の学力もわかるし友人もできるかもしれない。苦手科目こそ楽しく勉強することが大切である。

 

 

昔は「夏は入試の天王山」などと言われた。今の受験生の事情とは随分異なるものと思われるが、参考までに自分の失敗について書いてみた。とにかく「苦手科目は教科書に立ち返る」ことが大切だと思う。

 

先日、スーパーマーケットで酒類を物色していたら、小学1年生くらいの娘を連れた若い父親に出くわした。

 

父親はレモンサワーを1本買い物かごに入れ、2本目に手を伸ばそうとしたそのとき、娘が「パパ!ダメ!一本だけだよ!ママに叱られるよ!」と父親の尻を叩いた。父親は情けなさそうな顔をして手を引っ込めた。

 

飲んでいる途中で「今日はここまで!」と妻に酒を取り上げられる自分の姿が頭に浮かび、「おお、ここにも同志がいたか!」と妙な共感を覚えた。

 

 

高校の頃は、とにかく腹が減った。朝ギリギリまで寝ていて、朝食を食べないから余計に腹が減るのだろう。また、いくら食べても太らなかった。弁当がない土曜日の午前中の授業を終えると空腹感はピークに達し、帰宅せずに高校の食堂に立ち寄ることも多かった。

 

土曜日の食堂には特別メニューがあった。焼きそばの超大盛りが半額だったのだ。とにかく量が多く、二人でも食べきれないほどだった。鉄板にこびりついた「おこげ」みたいなものも入っていて、これが香ばしくて美味かった。食堂にとっても廃棄せずに済むメリットがあったようである。

 

 

腹ごしらえがひととおり終わったら、路面電車で小倉の街に出て本屋に行くことも多かった。銀天街の「ナガリ書店」の2階で受験参考書を物色し、将来の夢が膨らんだり、溜息をついたりしていた。参考書に飽きたら、京町銀天街の喫茶「マヤ」でコーヒーを飲んだ。

 

 

街に出ずにまっすぐ家に帰ってテレビをつけると、「高校教師」という番組が放映されていた。加山雄三さんが英語教師役で、ちょっとフケた女子高生やスケバンがたくさん出てくる学園ドラマだった。同世代ではあるが、「東京の高校生はスゴイな!」などと思いながら見ていた。

 

主題歌は夏木マリさん「裸の青春」。この歌詞が結構強烈だった。「たった一度の青春を悔いなきようにと言うけれど、春の嵐が過ぎた後、何もしなかったと嘆くより、ああ~過ち悔やむ方がまし」

 

 

高校3年の頃、どこかのクラスの女子の友だちの妊娠中絶費用のカンパが回ってきたことがあった。「我々の世代にもそんな生徒がいるんだな?!」と呆れた記憶がある。

 

 

思えば、受験への不安や恋愛への憧れなど、葛藤が渦巻く中で悶々とした高校時代だったが、それでもどんな日も、腹だけは減っていた。

 

 

 

 

 

勝山公園の近くにボウリング場「勝山パークレーン」ができたのは、私が小学6年生くらいのときだった。当時、日本中がボウリング・ブームに沸いていて、大都会に限らず、私が住む地方都市でもボウリング場の新設が相次いでいた。

 

 

実際にボウリング場に通うようになったのは、中学1年の頃だった。箸と鉛筆は右利きなのだが、実はボウリングは左利き(サウスポー)だった。元々左利きで、箸と鉛筆だけを小学校にあがる前に親に矯正されたものだ。ボウリングは球を最初に持ったのが左手だったためサウスポーになった。因みに野球は右投げ右打ちである。

 

週休二日制などない時代で、日曜日の早朝に「早朝サービス」という料金が安い時間帯が設けられていた。家族や友人たちと早起きして、よく出かけたものだ。

 

ボウリングに行く前日の土曜日の夜は、ワクワクして眠れないこともあった。実際にあまり眠れないままボウリング場へ行ったことも何度かあった。それくらい楽しいスポーツだった。

 

テレビでもボウリングの試合が放送されていた。中山律子、並木恵美子、須田開代子、野村美枝子などの女子プロボウラーたちが、きら星のように並び、それぞれ人気を博していた。

 

中学2年のころ、マイボールとマイシューズを持っている友人がいて、ずいぶん羨ましく思ったものだ。彼は一人っ子で、小遣いをたくさん貰っていたようで、学校が終わると、夕方一人でボウリング場に通っていた。確かにボウリングも上手かった。彼は野村美枝子プロのファンだった。

 

 

当時、テレビ番組に「美しきチャレンジャー」というものがあった。放映は1971年4月から10月までなので、私が中学1年の頃の作品だ。主演(ヒロイン)は新藤恵美さんで、当時20歳前後のセクシーな女優だった。この人は後に日活ロマンポルノにも出演したらしい。

 

また、中村晃子さんが歌っていた主題歌も、結構好きだった。今でも時々口ずさむことがある。「巨人の星」「タイガーマスク」など、当時のスポ根ものの主題歌は、子どもにも歌いやすいものが多かった。

 

 

高校時代は、中間・期末などの試験が終わるたびに、友人たちと打ち上げと称してボウリングに行った。大学を卒業する頃まで、ボウリング人気は衰えなかったように思うが、実際には1980年代に入った頃から人気は下火になっていったらしい。原因は供給過剰によるものだという。

 

 

最後にボウリングをしたのは、翻訳会社に入社した年のレクリエーションだったから、2011年のことだ。いつもながら大したスコアは出せなかったが、あれから14年、ボールを投げていない。歳をとっても、ボウリングくらいはいつでも楽しめる体力を維持していたいものである。

 

 

 

小倉城に隣接する「勝山公園」は今では花見の会場として有名だが、かつて「ジェットコースター」が設置されていたことを知る人は少ないだろう。そのジェットコースターを背景に叔父夫婦と一緒に写った私の幼い頃の写真が残っている。

 

 

勝山公園から南に延びる道沿いは、今は「大手町」と呼ばれマンションなどが立ち並んでいるが、かつては「小倉陸軍造兵廠」(兵器製造所)が置かれていた所である。

 

母が高校時代、戦時下の学徒動員でこの造兵廠で働かされたと聞いた。生きていれば今年97歳、80年以上も昔の話である。

 

戦後、私が高校生くらいまで、造兵廠の跡地は廃工場のような形で残されていた。日中国交正常化(1972年)の前後、倉庫のような造兵廠跡地で、時々「中国展」(中国物産展)が開催されていた。中国展では、物珍しい雑貨・玩具や食品などが安価で売られていた。

 

 

 

勝山公園の近くには「小倉市民会館」があった。高校1年のとき、中学時代の友人と小倉市民会館の「イルカ」のコンサートを観にいった。ネットで調べると、彼女は私より8歳年上なので、当時24歳くらいだったことになる。

 

小倉市民会館の閉館が2003年なので、既に22年が経過したことになるが、跡地は「大芝生広場」と呼ばれるスペースになっている。

 

 

 

小倉市民会館の隣にあったのが「小倉市民プール」である。今思えばあんな街中に露天のプールがあったこと自体不思議な感じがする。市民プールには通算で5回くらい行ったことがあるが、そのうちの1回、弟と夏休みにプールに行った時のことを今も思い出す。

 

 

私が小学4年で弟が小学1年の頃の話である。夏休みのある日、自宅で昼食を食べた後、祖母からプール代、往復のバス代とおやつ代分のお金をもらって弟と二人でバス停に向かった。バスに乗り午後1時過ぎにはプールに着いた。暑い日だった。

 

1時間余りプールで遊んだらアイスキャンディが食べたくなった。貰ったお金でアイスキャンディを買い弟と二人で食べた。それからまたプールに戻って遊んだ。

 

夕方4時くらいになって、そろそろ帰りの時間が近づいていた。「ジュースが飲みたい!」と思ったが、お金は帰りのバス代分しか残っていなかった。

 

弟に「ジュース飲みたいか?」と尋ねると「うん!」と答えた。「とりあえずジュースを飲むか!歩いて帰ればいいことだし!」と安易に思いジュースを買って二人で飲んだ。これで一文無しになった。

 

 

小倉の街中から自宅へ帰る道は何となく知っていた。ただ、それは路線バスが通る道だった。平和通⇒三萩野⇒木町⇒山田と主要系列のバスが通る道である。これは、市民プール⇒勝山公園⇒造兵廠跡地(大手町)⇒木町⇒山田という最短のルートと比べると2.5倍くらい長いものだった。だが私はこの最短ルートを知らなかったのである。

 

夕日が傾く中、弟と二人自宅に向かって歩き出したのは4時半くらいだった。バスだと20分くらいのルートだが、子どもの足で歩くと遥かな道のりだった。弟は黙って私についてきた。最後は、弟の手を引き、辺りに宵闇が迫る中、自宅に着いたのは7時くらいだった。

 

祖母はもちろんのこと、仕事から帰った父母も心配していたが「ただいま!」と帰ると皆が温かく出迎えてくれた。不思議と叱られることは無かった。たぶん父母とも、私がそれなりの責任を果たしたことを認めてくれていたのかも知れない。

 

 

以前、弟夫婦と飲んだときに、弟が今でもウォーキングが好きで、1日3時間(15キロ)歩くこともあるという話を聞いたが、彼のウォーキング好きはこの行軍のときに始まったのかも知れない。

 

 

買ってきたフライパンIH対応じゃなかったので、お隣のお婆ちゃんにあげたら、お返しに500mlのビール6本と手縫いと巾着をいただいた。却って気を遣わせてしまったようで申し訳なく思う。

 

父の日に、娘が小さなショルダー・バッグを贈ってきたので、娘の誕生日にネットで地元産の米10キロを贈った。孫が3人いるので消費量も半端ないだろう。娘から「ありがとう」のLINEが来た。

 

この歳になると、そんな小さなやり取りが何となく楽しい。

 

 

私が小学校低学年の頃は、夏休みが近づいた今の時期、小学校では短縮授業が行われていた。今思えば、学校から早く帰れて楽しい時期でもあった。そんな時期にある悲しい思い出が残っている。

 

 

小学校3年の頃、N君という仲良くなった友達がいた。たぶん転校生ではなかったか。彼はなんでも知っていたし、なんでもできた。勉強もスポーツも。

 

いわゆる東京弁を話していたので親は転勤族だったのだろう。何処か垢ぬけた(頭脳が)スマートな男の子だった。

 

 

夏休みが近づいた短縮授業の7月のある日、N君と一緒に帰途についた。その帰り道、大きな池のそばの外国人墓地にさしかかった。N君が「ちょっと寄り道していこうか?」と言った。私は「うん!」と答えた。

 

外国人墓地の周囲には有刺鉄線が張りめぐらされており普通は入れなかったが、何か所か鉄線が破られており、子どもたちにとっては格好の遊び場になっていた。真夏の白昼、木陰の芝生の上に寝転がっていると眠くなった。

 

 

うつらうつらしているとある物音で目が覚めた。ふと見るとN君が墓の朽ちた十字架の1本を引き抜こうとしていた。私は「N!そんなことやめろ!罰があたるぞ!」と制止したが、彼は十字架を引き抜くと池の中に投げ込んだ。

 

そのあとどうなったのか記憶が無い。だが私はこのことを誰にも話さなかった。止められなかった自分も同罪のような気がしていた。

 

 

それからしばらく経って夏休みが始まった。当時、夏休み中には何日か登校日があった。8月のある登校日、教室にN君の姿がなかった。先生が教室に入ってきた。

 

先生は教壇に立つと「悲しいことですが、N君が交通事故で亡くなりました」と告げた。

 

N君の母親はいわゆる「教育ママ」で、N君は夏休みも毎日朝から猛勉強させられていた。ただ午後3時になると、母親はご褒美として小遣いをN君に与えた。

 

N君にとって、小遣いをもって大通りを渡った正面の駄菓子屋に行くのが唯一の楽しみだった。大通りに飛び出した瞬間、N君はトラックにはねられた。

 

 

今は池も埋め立てられてなくなり外国人墓地も何処かへ移設された。当時の面影を偲ぶものは何も残っていない。それでも、あの夏の白い光と池に浮かぶ苔の緑だけは、今も心の奥に残っている。

 

 

こちらでは、史上最短の梅雨が史上最速で明けた後、容赦のない暑さとなっている。まだ地表がさほど熱くないため、朝方は何とか涼しいが、猛暑になるのも時間の問題だろう。

 

 

暑さと同時に「冷たい麺」の季節になった。私は昔から冷たい麺には眼がない。ソーメン、冷やし麦、ぶっかけうどん、冷麺などなど。今年もここのところよく食べるようになった。

 

小学5年の夏休みに喉の手術をした。手術後、喉の痛みがひどく、普通の食べ物を呑み込めなくなった。医者の指示もあり、3週間くらいソーメンしか食べられなかった。朝・昼・晩とも祖母が作るソーメンだけという生活だった。

 

不思議なもので、それ以来ソーメンが大好物になった。麵つゆで食べるだけではなく、味噌汁にも入れることがある。小葱を刻んだものを振りかけると実に美味い。

 

ただ、ソーメン生活が開けて、最初に食べた普通のおかずの美味しさは今でも忘れることができない。

 

 

 

 

 

昨日、久しぶりに独りドライブを楽しんだ。九州道を福岡方面に走り「宮田スマートIC」で降りて県道21号線に入った。昔よく走った道だったが、道路も沿線の景色も随分変わっていた。

 

宮若市のラーメン店「来々軒」は改装されて立派になっていた。珍しく、透き通ったスープの豚骨ラーメンが食べられる店である。

 

また、宮若市には以前野菜などの直売所があったが、これが「みやわかの郷」として生まれ変わっていた。産地産直のレストランも併設されており、地元の新鮮な食材が味わえるようである。この辺りは3年ぶりくらいだったが、随分と開発が進んだものだ。

 

 

 

 

閉店する店があれば、新規に開店する店もある。街の進化とはそんなものである。

 

福岡市や北九州市のベッドタウンとして魅力ある住宅都市づくりを進め、人口定住が進んできた隣接する宗像市に水をあけられた形で、宮若市の人口は減少傾向にあるらしい。

 

他にも、中心市街地の衰退、自動車主体の生活による人口の拡散、また、それらに起因して農地の減少が進むなど、宮若市も様々な問題を抱えているようである。

 

 

車内で1970~80年代のポップスを聴きながら、そんなことを考えた。

 

なお、下の写真は宮若市のマスコット、災いを追い出し幸福を招く、表裏一体型の招き猫の「追い出し猫」である。今の宮若市にも、そして私自身にも、そんな猫の力を少し借りる必要があるかもしれない。

 

 

以前から気になっていた映画「月光の夏」を、昨日YouTubeで観ることができた。戦後50年に因んで1993年に製作された映画で、涙が溢れてくるような映画である。

 

 

あらすじは以下の通り。

 

太平洋戦争末期の夏、九州・鳥栖国民学校(現・鳥栖市立鳥栖小学校)に二人の陸軍特攻隊員が立ち寄った。理由は、その国民学校にあるピアノが弾きたかったからである。

 

特攻隊員の一人は上野の音楽学校でピアノを学んだ学生で、翌日知覧へ向かう前に、学校のグランドピアノでベートーヴェンの「月光」を演奏した。もう一人、熊本師範出身の特攻隊員は別れ際に「海ゆかば」を心を込めて演奏した。

 

この演奏を聴いた教師・吉岡公子は長年その出来事を胸に秘めていたが、老朽化したピアノの廃棄を知り、旧い思い出を語り始めた。この話はメディアで報道され吉岡に注目が集まり、ピアノは修復されることになった。

 

吉岡は二人の陸軍特攻隊員の名前を知らなかったが、マスコミの力もあって、特攻隊員の生き残りで「海ゆかば」を演奏したとされる風間森介少尉が見つかった。だが風間は、何故か「月光」の件に関しては沈黙を貫いていた。

 

ドキュメンタリー作家らの取材に同伴して、吉岡も知覧に行くことになった。そして、知覧特攻平和会館で「月光」を弾いた海野光彦少尉を見つけた。

 

また、大牟田の元隊員の証言で、特攻の帰還兵を秘密裏に幽閉していた「振武寮」の存在が明らかになった。当時、特攻の帰還兵は特攻隊員の士気を低下させる都合の悪いものと考えられたからである。

 

風間は、特攻機のエンジンの不調で出撃を中止して引き返し、生き延びた負い目があり、「振武寮」について長年語らずにいたが、取材を通じて次第に心を開くようになった。

 

風間は「海野は戦死しました。私は生き残っております」と語るが、吉岡は「よう生きとって下さいました」と涙ながらに返答した。そして半世紀の沈黙を経て、風間は思い出のピアノと再会して、再び「月光」を演奏することになった。