小倉城に隣接する「勝山公園」は今では花見の会場として有名だが、かつて「ジェットコースター」が設置されていたことを知る人は少ないだろう。そのジェットコースターを背景に叔父夫婦と一緒に写った私の幼い頃の写真が残っている。

勝山公園から南に延びる道沿いは、今は「大手町」と呼ばれマンションなどが立ち並んでいるが、かつては「小倉陸軍造兵廠」(兵器製造所)が置かれていた所である。
母が高校時代、戦時下の学徒動員でこの造兵廠で働かされたと聞いた。生きていれば今年97歳、80年以上も昔の話である。
戦後、私が高校生くらいまで、造兵廠の跡地は廃工場のような形で残されていた。日中国交正常化(1972年)の前後、倉庫のような造兵廠跡地で、時々「中国展」(中国物産展)が開催されていた。中国展では、物珍しい雑貨・玩具や食品などが安価で売られていた。

勝山公園の近くには「小倉市民会館」があった。高校1年のとき、中学時代の友人と小倉市民会館の「イルカ」のコンサートを観にいった。ネットで調べると、彼女は私より8歳年上なので、当時24歳くらいだったことになる。
小倉市民会館の閉館が2003年なので、既に22年が経過したことになるが、跡地は「大芝生広場」と呼ばれるスペースになっている。

小倉市民会館の隣にあったのが「小倉市民プール」である。今思えばあんな街中に露天のプールがあったこと自体不思議な感じがする。市民プールには通算で5回くらい行ったことがあるが、そのうちの1回、弟と夏休みにプールに行った時のことを今も思い出す。
私が小学4年で弟が小学1年の頃の話である。夏休みのある日、自宅で昼食を食べた後、祖母からプール代、往復のバス代とおやつ代分のお金をもらって弟と二人でバス停に向かった。バスに乗り午後1時過ぎにはプールに着いた。暑い日だった。
1時間余りプールで遊んだらアイスキャンディが食べたくなった。貰ったお金でアイスキャンディを買い弟と二人で食べた。それからまたプールに戻って遊んだ。
夕方4時くらいになって、そろそろ帰りの時間が近づいていた。「ジュースが飲みたい!」と思ったが、お金は帰りのバス代分しか残っていなかった。
弟に「ジュース飲みたいか?」と尋ねると「うん!」と答えた。「とりあえずジュースを飲むか!歩いて帰ればいいことだし!」と安易に思いジュースを買って二人で飲んだ。これで一文無しになった。
小倉の街中から自宅へ帰る道は何となく知っていた。ただ、それは路線バスが通る道だった。平和通⇒三萩野⇒木町⇒山田と主要系列のバスが通る道である。これは、市民プール⇒勝山公園⇒造兵廠跡地(大手町)⇒木町⇒山田という最短のルートと比べると2.5倍くらい長いものだった。だが私はこの最短ルートを知らなかったのである。
夕日が傾く中、弟と二人自宅に向かって歩き出したのは4時半くらいだった。バスだと20分くらいのルートだが、子どもの足で歩くと遥かな道のりだった。弟は黙って私についてきた。最後は、弟の手を引き、辺りに宵闇が迫る中、自宅に着いたのは7時くらいだった。
祖母はもちろんのこと、仕事から帰った父母も心配していたが「ただいま!」と帰ると皆が温かく出迎えてくれた。不思議と叱られることは無かった。たぶん父母とも、私がそれなりの責任を果たしたことを認めてくれていたのかも知れない。
以前、弟夫婦と飲んだときに、弟が今でもウォーキングが好きで、1日3時間(15キロ)歩くこともあるという話を聞いたが、彼のウォーキング好きはこの行軍のときに始まったのかも知れない。
