アランドロンと言えば1960年代から1970年代にかけ、世の中にはこんなに憂いを帯びた完璧なハンサムもいるのだという、衝撃を持って迎えられた俳優であった。

● あまりの美貌に、俳優を薦めた
アラン・ドロンは1万3000人の女性と関係したと言われているそうだ。

今は“イケメン”と形容されることが多いが、ドロンは“二枚目”の言葉が似合った。それも“世紀の二枚目”とか“二枚目の代名詞”と呼ばれた。

映画評論家の北川れい子さんはドロンの女性遍歴に関して語った。

「もちろんドロンの魅力は傑出していました。さらに昔はインターネットもなかったので、情報そのものが非常に限られていました。ファンにとってはスクリーンに映る彼が全てという状況でしたから、スターは文字通りの雲上人だったのです。女性遍歴の報道が海外ニュースとして報じられることもありましたが、やはり日本ではそれほど話題にならず、イメージが悪化するようなことはなかったのです」

但し数年前にアラン・ドロンのインタビュー動画をテレビで観た時には、彼にも一般の人と同じように老化という現実が襲ったことを知った。そこにはもはや、他を圧倒していた美を感じることはできなくなっていた。彼は現在88歳。

そして今回、ドロンに関するディリー新潮の記事を読むと、何やら大変な事態に陥っていることがわかる。

アラン・ドロンは、1935年11月生まれ。4歳のときに両親が離婚し母親に引き取られるが、再婚した義父との折り合いが悪く、家庭不和に苦しんだ。17歳でフランス海軍に入隊し、20歳で除隊すると様々な職業を転々とする。その職業経験は後の俳優人生にプラスに働いた。

彼は、元々俳優志望ではなかったが、あまりの美貌に、周囲が俳優を薦めた。演劇を学ぶなど、俳優を積極的に目指したわけではなかったが、スカウトに注目されるなど映画業界と接点が生じた。

● ドロンとマフィアとの関係の疑惑
そして1957年に映画デビュー。1959年に出演したコメディ映画『お嬢さん、お手やわらかに!』がヒットし、まだ駆け出しの俳優だったにもかかわらず、同年、『恋ひとすじに』で共演した西ドイツの若手スターのロミー・シュナイダーに見初められて同棲を始める。

1963年には映画の撮影でナタリー・バルテルミーと共演して交際。この時はロミー・シュナイダーと別れることを選んだため、フランスの芸能メディアから叩かれたという。

1964年に結婚し、ナタリー・バルテルミーはナタリー・ドロンとなり、彼女もスターになった。日本では1968年に出演した、『個人教授』で人気が上昇した。その年にはアラン・ドロンと別居したがその原因は、女優業継続を希望したナタリーに対して、アランが継続に反対だったことによるものだった。二人は一児をもうけたが、69年に離婚。

ナタリー・ドロンと破局すると、『ジェフ』(1969年)の撮影でミレーユ・ダルクと関係を持った。長い交際となったが、80年代後半にオランダ人モデルとの間に二児をもうけ、後に破局している。

アラン・ドロンと交際したのは女性だけではない。イタリアの名匠、映画監督のルキノ・ヴィスコンティは映画「若者のすべて」(1960年)、「山猫」(1963年)の2本でドロンを起用。彼にとっての出世作となっただけでなく、映画史に残る傑作として知られている。「俳優を競馬馬を扱うがごとく丁寧に扱い、忍耐と演出術のありったけを尽くして演技の指導に打ち込む」これはヴィスコンティについて語ったアラン・ドロンのことば。

実はアラン・ドロンが窮地に立たされたことがあり、それも女性関係が影響していた。1968年10月、彼の元ボディーガードだった男性が射殺死体として発見される。捜査の進展と共に、アラン・ドロンとマフィアとの関係や、有力政治家と女性を巡る不適切な交際など、数々の疑惑が浮上した。

「これらの疑惑は当時の日本でも、ニュースとして報じられました。ところがドロンは、このピンチを利用します。チンピラや犯罪者の役に挑み、スキャンダルを逆手にとって観客にリアリティを感じさせたのです。もともとドロンは光だけではなく暗い影も感じさせる役者だったことも幸いしたと思います。アウトローの役も演じるというドロンのイメージチェンジは観客から支持されただけでなく、監督やプロデューサーからも高く評価されました。そのため出演オファーが殺到する事態になり、誰もがスキャンダルのことを忘れてしまったのです」(北川れい子さん)

● 断っても“一緒に食事を”と
現在は家族に見守られながら療養生活を送るフランス人俳優のアラン・ドロン。その彼は昨夏まで日本人女性ヒロミ・ロランさんと事実婚状態にあった



ヒロミさんは、約50年前にフランスに渡り、映画業界で活躍してきた。そこで地歩を固めて来たヒロミさんは、アラン・ドロンとの出会いを懐かしそうに振り返る。

「初めてアランに会ったのは1989年12月です。彼は映画『ダンシング・マシーン』にプロデューサー兼主演俳優として参加していました。パリ近郊の都市・ブローニュ=ビヤンクールにあった、ブローニュ映画撮影所で準備中のことでした」

「忘れもしない、90年3月24日。この前日の金曜日、彼から“明日、スタジオに来るように”と言われたのです」 フランスでは、映画の撮影も週末は完全に休止するのが慣習だ。

「彼にも私にも仕事はありません。それでも呼ばれた通りに撮影所に足を運び、人気のない館内を歩いてアランの控室に向かいました。ノックしてドアを開けると、そこで彼が私を待っていました」

その日から、ドロンはヒロミさんにアプローチを繰り返し始めた。

「断っても、断っても“一緒に食事を”と。当時、私は結婚していましたからそんな気にはなれず、そのたびに断り続けたのです」
が、相手は名うてのプレイボーイ。手を替え品を替え、誘いは続いた。

「5月のクランクアップを目前にした最終週のある日、アランが思い詰めたような表情で“食事に誘いたい。これが最後だ。もし君が断るなら、今後、君と会うことは決してない”と言ってきました。正直に言えば、アランの誘いに悪い気はしていなかった。彼の思い詰めたような言葉には驚かされましたが、この時、私は初めて誘いにOKを出したのです」

● 「仕事は辞めてくれ」と懇願
この日の夜を境に、二人の関係は“恋人”に昇華した。ただ、ヒロミさんには伏せられていた事実があった。ドロンはことあるごとに“自分は独身”と話していたが、実際にはロザリー・ファン・ブレーメンとドゥシーの邸宅で同棲していたのだ。
 

2001年にロザリーはドロンのもとを去り、その年の末にフランス人の実業家と正式に結婚した。

「ロザリーさんと別れると、アランは頻繁に電話で“ドゥシーに来てほしい”と訴えてきました。でも、私には仕事があったので、すぐには彼の要望に応じられませんでした」

「私は昔から動物が大好きで、当時も自宅で年老いた犬を飼っていたんです。ドゥシーでは多数の犬が飼われていましたが、そのうち2匹だけがアランとともに生活していて、1匹は他の雄犬を受け付けない犬でした。だから他の犬たちは、庭に作った囲いの中。室内犬だった私の犬を、囲いの中で一緒にするなんてことは当然できなかったのです」

こうしてパリにとどまったヒロミさんだったが、4年後の2006年に愛犬が死んだことで潮目が変わった。

「アランに飼い犬の死を伝えると、“ドゥシーに来てほしい。ずっといてほしいから仕事は辞めてくれ”と懇願されました。映画監督になるのが強く思い描いた私の夢。それを捨てるのは辛いことでしたが、アランと暮らすためには必要なことでした。それで彼のために仕事を辞めることにしたのです。私が49歳の時でした」

紆余曲折を経て、ドロンと事実婚状態になったヒロミさん。こうして17年間に及ぶ、ヒロミさんとドロンのドゥシーでの生活が始まった。二人が暮らした居宅はドロンが36歳の時に購入したものだ。

平穏が破られたのは昨年の夏。ドロンには3人の子どもがいる。長男・アントニー、長女・アヌーシュカ、次男・アラン=ファビアンである。

昨年7月5日、三人は連名でヒロミさんをドロンに対する「モラル・ハラスメント」、「信書の窃取」などの容疑で刑事告訴し、そのうえでドゥシーから追い出した。驚くべきことには、この告訴に当のドロンも加わっていた。告訴の理由は、ドロン家の代理人を務める、クリストフ・アイエラ弁護士がメディアに発表した声明文から読み取れる。

〈ヒロミは策略や脅迫を用いて、アラン・ドロンを親戚や友人、家族から孤立させ続けた。彼女はドロンの電話での会話や個人的なメッセージを常に監視している。時にはドロンの代わりにそれらに応答し、彼のふりをして郵便物を横取りすることもあった。ヒロミは子どもたちが、これまでのように定期的に父親に会いに来ることを妨げている。彼女は専横的で、脅迫的な態度で、さらにドロン氏の飼い犬を決して容認できない方法で虐待している〉

「アントニーの声明には〈2023年6月27日、父自身がヒロミ・ロラン氏にドゥシーの家から退去するように書面で求めた〉とある。彼は“自分こそが父親の後継者”との自負が強く、以前からヒロミとは折り合いが悪かった。不仲のきっかけは5年前にドロンが病気で倒れたことで、以来、両者の関係は冷え込んでいったとみられている」

ヒロミさんが後を引き取って言う。「アントニーが声明で指摘した昨年の6月27日、私とアランは定期健診のためにスイスの病院を訪れていました。そこでアランが私に家から出ていけと言うと思いますか? アントニーをはじめ、子どもたちの主張はすべて作り話で、何の根拠もないことは明らかです」

ドロンの子どもたちを「家族と感じていた。とくにアラン=ファビアンは小さい頃からかわいがっていたのに……」と回想するヒロミさんは、自身が告訴された2023年7月に対抗措置を取った。

長男のアントニー(59)、長女のアヌーシュカ(33)、そして次男のアラン=ファビアン(30)の三人と、彼らが雇ったガードマンらを自身への暴力、窃盗(衣類や貴金属、日記、ドロンからのプレゼントや手紙、一緒に撮った写真、ドロンとヒロミさんの関係を証明できるすべての物や、数多くの私物を返還しないこと)、さらに誣告(ぶこく)罪で刑事告訴したのである。

● ほかの部分も全部だめだ
フランス中が注視する中、泥沼化必至とみられた両者の訴訟合戦はあっけなく幕を閉じた。今年1月4日、モンタルジ検察が以下の声明を出し、ヒロミさんを不起訴処分にすると発表した。

〈アラン・ドロンに被害をもたらしたとされる暴力行為は、証人や定期的に彼のもとを訪問していた医療従事者によって確認されなかった。同じことは、飼い犬への残虐行為にも当てはまる。モラル・ハラスメントも同様である〉

“単なるきょうだい間の相続争い” ヒロミさんの主張の正当性がすべて認められた格好だったが、検察はヒロミさんによる子どもたちに対する訴えも〈追放の日に暴行があったとはいえない〉と否定し、不起訴とした。一連の騒動を、現地紙記者は次のように分析する。

「アントニーたちは巧みにメディアを利用して、ヒロミへの批判を繰り返した。その効果は絶大で、国民の多くは“単なる一外国人がフランスの華麗なる一家に勝てるわけがない”とみていた。ところが結果は予想とは異なり、司法はヒロミの主張を全面的に認めた。この判断で国民のドロン一家を見る目に変化が生じました。騒動の本質は、単なるきょうだい間の相続争いではないのかと」ドロンが持つ資産の総額は、100億円とも400億円ともいわれる。

この遺産相続を考えた時に、相続権を持つ子供達にとって、日本人女性ヒロミ・ロランの存在は邪魔でしかなかったのであろうと推測できる。

〈ヒロミ・ロランがアラン・ドロンのもとを去り、子どもたちとの対立が激化した23年7月以降、ドロンの健康状態は悪化したようだ。悪性リンパ腫が全身に広がり、認知能力と運動能力を明らかに低下させた。8月からは“ほぼずっとベッドの上にいる”状態にある〉

ドロンの子どもたちによって電話番号をブロックされているヒロミさんは、昨年11月、とある方法でドロンとの通話に成功した。

「忘れもしない21日の午後7時。やっとアランと話ができました。息切れしているみたいに押しつぶされたような声なので“どうしてそんな声なの?”と尋ねると“声だけじゃないんだよ。ほかの部分も全部だめだ”と悲しそうに言う。私は彼が病気の治療を中止したと感じました。というのも、私がドゥシーにいた6月に検査した時は薬が効いていて、医者が“奇跡的だ”と驚くほど改善していたんです。体重も88キロほどありました。きちんと薬を服用しないとアランの命が危ない」

「懸命に声をふり絞るように“僕は独りぼっちなんだよ”と訴えるんです。そして何度も“会いたい、会いたい”と言ってくれました」『思い出が詰まったドゥシーからの放逐、ドロンとの離別からちょうど1年。ヒロミさんはいまも愛する人と再会する日を待ち続けている』という内容で、ディリー新潮の記事は終わっている。ぼくにとって、懐かしい俳優アラン・ドロンの、想像もしていなかった哀しい近況の内容となった。

参照:1万3000人の女性と関係? 88歳「アラン・ドロン」の最後の交際相手は日本人
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