伊藤詩織監督のドキュメンタリー映画「Black Box Diaries」を早く観たいと思っている。肝心の作品が見れなくて、映画に対する問題点ばかり何回も取り上げられている状況はとても変で『どうでもいいけどいい加減、上映してくれよ!』っていう気持になる。

映画は、元TBS記者の山口敬之(やまぐち のりゆき)という安倍首相に最も近いジャーナリストが、伊藤詩織さんに性加害をした事件を取りあつかっている。性被害者が自分を撮ったドキュメンタリー作品で、監督も兼ねているというのは世界でも初めてではないかと言われている。
● 山口氏の言い逃れは一切通用しない
伊藤詩織さんの著作「Black Box」を読んだときに、とても驚いたことがあった。それは本の題名の「Black Box」という語感から、『ホテルで何があったかは、誰も真実を知ることはできず闇に隠されてしまう。』というような内容かと思っていたら、彼女が山口氏にホテルでどのようなレイプ被害を受けたかの詳細が記述されていた。
ここまで書かれていれば山口氏の言い逃れは一切通用しないと、思ったものだ。もし、ホテルでの山口氏の性加害の記述部分が創作であるとするならば、それは伊藤詩織さんは天才的な小説家になれると思ったほどだ。性被害にあった当人でなければ、記述できない内容になっており、本の内容は、”ブラックボックス”の部分を全てオープンにした内容になっている。
今回の映画の題名にもブラックボックスを使っているが、映画も、山口敬之氏の卑劣な行動を全てオープンにした内容になっているかが、気になるところだ。
この「Black Box」というのは、伊藤詩織さんが警察に届けた後に担当した刑事の人に言われた言葉だという。「あなたは加害者とお酒を飲んでいて、そのお店で記憶を失ってしまった。そして気がついたら被害に遭っていた。そうするともう、何があったかということに関してはわからないと。だからブラックボックスなんですよ」って言われた。で、「非常に難しい」と。当時は、同意がない行為であっても、被害者が徹底的に抵抗しない限りは強姦として認められなかったという。その後に法律が変わったということを町山智浩氏がTBSラジオ『こねくと』にて語っている。

「Black Box Diaries」は、世界各地の50以上の映画祭で上映され18の賞を受賞した作品だが、日本では映像や音声が許諾なく使われたと指摘された問題で、修正を施して上映される可能性が高いという。監督した本人が日本人なのに、日本だけ真実を薄めた作品を見せられるようで、それはそれは残念なことだ。
そもそもドキュメンタリー作品が、映像に出てくる全てのシーンの人物に承諾を得るということが可能なのだろうか。また、承諾を取れる事を意識した時点で、つまらない作品になってしまうのではないか。
● 「私のトナカイちゃん」の265億円提訴
最近、Netflixで鑑賞したドラマ「私のトナカイちゃん」は、事実をベースにしたという作品だが、ここでモデルとした女性から訴えられてしまった。「私のトナカイちゃん」は、クリエイターのリチャード・ガッドが自らの女性からのストーカー体験をもとにドラマ化した作品だ。
ドラマでは本人の名前を変えてはいるが、ドラマのファンの人からすぐにモデルとなった人物が特定されてしまったのだ。
ドラマでジェシカ・ガニングが演じるストーカー女性、マーサのモデルとなったとされるフィオナ・ハーヴェイが、Netflixとガッドを相手取り、1億7000万ドル(約265億円)を求めて提訴した。彼女の身元が簡単に特定されるよう描き、彼女の生活を破壊したと訴えている。
厳密にいえば、これもドラマを作る際にモデルとした女性から承諾を取るべきなのであろう。実際に逮捕された経験を持つ女性なので、このように人物が特定されてしまう可能性は充分に予想できたはずなのだ。
しかし本人の了承を確認したならば、ドラマ化を許可をするわけがないのだ。これはそのドラマを見た人ならわかるだろう。このドラマの完成度と面白さは実に貴重なものだ。ある意味、訴訟を起こしたマーサのモデルの女性の了解を無視して作成したドラマ化のおかげで、世界中の人を魅了した作品が完成できたのだ。あえて理由付けをするならば、ドラマ化が問題というよりは、モデルとした女性・フィオナ・ハーヴェイの犯罪行為に値するストーカーの行動そのものに一番の問題があったと言える。
● 耳障りのいい言葉に逃げるなよ
ところで、今回の伊藤詩織さんの作品をめぐる問題点をめぐって、いろいろな人が意見を述べている。そのなかで、監督・森達也氏の今回の件に関する意見が、問題の本質を突いていてするどいと思った。以下、特に印象に残った3点。
1.ドキュメンタリストは自由だ。だって自己表現なのだ。規範やルールは一人一人に任せられる。だからこそ人を加害する覚悟をしなくてはならない。開き直れ、という意味ではない。被害は最小限にしたい。でもドキュメンタリーである限り、ゼロにはできない。僕たちドキュメンタリストは、自分のエゴ(主観や思い)を優先する自分たちの行いを鬼畜の所業だ、などと自嘲する。胸など張れない。張れるわけがない。その自覚と覚悟がないままにドキュメンタリーを作れば、大きな摩擦が起きて当然だ。
2.いま一番危惧することは、この騒動の余波として、ドキュメンタリーはこうあるべきとか、事前に必ず被写体に見せなければいけないとか許諾は全て取るべきとか、曖昧な領域に線が強引に引かれることだ。ドキュメンタリーは人によって作法が違う。曖昧なグレーゾーンが重要なのだ。
3.今回、例えば防犯ビデオ映像の使用について伊藤さんが「公益性」という言葉を出す。僕は拒否反応が出てしまう。「公益性」という一言で全てを突っ切れるかといえば、そういうわけにはいかないんですよ。公益性を優先したという言い方を彼女はするけれど、公益性なんかドキュメンタリーでは必要ないです。それは後でくっついてくるもので、そういう耳障りのいい言葉に逃げるなよ、と僕は思います。 ( 森達也の、伊藤詩織さんの作品をめぐる記事から抜粋 )
但し、森達也氏が主張する『ジャーナリズムは作品ではない。その問題提起と社会への周知に大きな意味がある。でもドキュメンタリーは作品だ。』という明確な線引きには何か釈然としないものが残る。そこを除けばほとんどの発言にぼくはうなずいてしまった。
思えば、彼のオウム真理教(宗教団体アレフ)を扱ったドキュメンタリー作品「A」(1997年)「A2」(2001年)も好きだったし、スプーン曲げの清田益章などを追跡した『スプーン―超能力者の日常と憂鬱』という著作もとても面白く読んだものだ。
伊藤詩織の映画「Black Box Diaries」のドキュメンタリー作品の承諾の問題の件に絡んで、森達也氏の物事の分析力に、ひさびさに共感を得た結果となった。
参照:日本での公開はどうなる!?伊藤詩織さんの映画をめぐる紛糾
町山智浩 伊藤詩織監督『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』を語る
「浅い」主張ばかり...伊藤詩織の映画『Black Box Diaries』論争