リーディング小説「生む女~茶々ってば~」
第十八話 本当に嫌な女だ
聚楽第で過ごした幸せな時間。
それは、シャボン玉のように儚かった。
この年、私は何者かの念に押されるよう、慌ただしく住いを移った。
秀吉が天下統一する上で、まだ手に入れてなかったのは関東と東北だった。
秀吉は関東の北条氏や諸大名達に従うよう促したが、北条氏政・氏直親子は従わなかった。
彼らと戦うため秀吉は春、小田原征伐に出陣した。
その際、私と鶴丸は大阪城に帰るように言われ、聚楽第に大いに心を残しながらここを去った。
秀吉のいない大阪城を采配するのは、北政所である寧々だ。
このたびは戦の留守中を守る寧々に大人しく従い、よくよく彼女を観察した。
大蔵卿局が寧々の事を詳しく教えてくれた。
寧々は下級武士の娘で、秀吉とお互い好きあったもの同士で一緒になったそうだ。
「ありえない」
私は耳を疑い、驚きのあまり手にした干菓子をポトリ、と落した。
若き日の秀吉と寧々が動物のようにむつみ合う姿が浮かぶ。
それはとても下卑て見えた。
政略結婚が当たり前の我らには、考えられない。
しばらく開いた口がふさがらず、フリーズした。
大蔵卿局は畳に落ちた干菓子を侍女に拾わせ、新しい菓子を運ばせた。
私はその菓子に手もつけず、脇生(きょうそく)にひじを置き、秀吉と寧々夫婦の強い結びつきの原点に気づいた。
彼らは二人で一人だ。
私と治長が決して表に出せない秘密を共有したように、彼らも同じものを乗り越えここまで来たにちがいない。
だからこそ柴田の父を倒し、下級武士から下剋上を成しえ、天下統一への駒を進められた。
秀吉と共に成り上がった寧々だからこそ、彼女は誰にもわけへだてせず平等に接しているのだ。
そう思うと、喉の奥がムズムズするかゆみを感じ、かきむしりたくなった。
寧々のようなことは、私にはできない。
それに誰も私にそのようなことなど、求めていない。
わかっている。
秀吉は寧々に母のような包容力を求め、私に女を求めた。
喉の奥のかゆみを押しとどめる為、ひとくち生姜湯を飲んだ。
生姜の辛みが喉のつまりを押し流した。
秀吉はもう寧々を女として見ておらず、長らく彼女を抱いていないはず。
だから寧々は自分の存在価値を見いだす為、忙しく働き自分に仕事を与える。
傍らにいる侍女に命じ、螺鈿の小箱から鏡と紅を取り出させた。
鏡を侍女に持たせ、小指で真っ赤な紅を唇にさす。
紅が肌になじむよう、舌で上唇にのせた紅を舐めた。
「本当にお美しゅうございます」
ほぉ、と大蔵卿局や侍女達からため息が出た。
大蔵卿局が赤い紅をさした私を見て、誇らしげに笑みを浮かべる。
もう一度鏡をのぞくと、白い肌に真っ赤な紅が映えた薔薇のような女がいた。
それが私だ。
女としての優越感が沸き上がる。
寧々が秀吉の閨だけなら、彼女は女としてのエクスタシーを知らないだろう。
あるいは彼との陳腐なセックスで、エクスタシーを感じたのかもしれない。
どちらにしを気の毒なことだ、と声に出して笑いそうになるのを抑えた。
どこに寧々の耳があるかわからない。
ある日、寧々が私を訪ねてきた。
「淀殿、お願いがございます」
侍女が出したお茶に目もくれず、いきなり本題に切り込んだ。
「秀吉から手紙がまいりました。
急ぎ、小田原城に向かってくれませんか?」
丁寧な言葉だが、有無も言わせない上から目線の命令だった。
「なんでしょう?いきなり」
ムッときた私は、寧々に噛みついた。
「どうやら小田原城は、長期戦になるようです。
そして秀吉は力を得る為、あなたにそばにいて欲しいそうです」
寧々は袂から取り出した手紙を広げた。
「秀吉の手紙にはこう書いてあります。
ーお前の次にすきな淀を、ここに呼んで欲しいー
と。
これは秀吉の頼みです。
豊臣の勝利のためです。
さ、淀殿、急ぎ支度を。
小田原までお願いいたします」
にこやかに微笑む言葉の裏側に、犬でも追い立てるような強い悪意を感じた。
わざわざ秀吉の手紙を読んで聞かせる面の皮の厚さ。
本当に秀吉と似たもの夫婦だ、と思った後、一番大切なことに気づいた。
「ちょっと待って!
鶴丸はどうなるの?」
愛する我が子のことを思い、心臓が止まりそうになった。
「北政所様、私が小田原城までいくのは構いませんが、鶴丸も一緒に連れて行ってもよいでしょうか?」
と身を乗り出し、尋ねた。
寧々はニッコリ笑った。
「何もご心配せずとも大丈夫です。
鶴丸君は、私が面倒見ます。
どうぞ淀殿は何もご心配せず、安心して秀吉のところに行き、豊臣のために尽くして下さいな」
有無も言わせない命令。
仮面のような笑顔をはりつけ、寧々が答えた。
それは彼女のどす黒さを目立てさせる。
寧々の顔が悪魔に見えた。
「やられた!
寧々は、鶴丸と私を引き離すチャンスを狙っていたに違いない」
私はうつむいて、唇を噛んだ。
本当に嫌な女だ。
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