リーディング小説「生む女~茶々ってば~」
第十五話 女としては最低だが、母としては当然
天正17年5月27日、私は男子を出産した。
初めての出産は、時間がかかった。
自分の口からもれる、獣のような低いうなり声。
身を八つ裂きにされるような痛み。
当たり前だが、すべて生まれて初めての体験だった。
いつ終わるかわからない気の遠くなるような痛み
無事、我が子が体内から生まれてくるか、という不安は果てしなかった。
が、母がこれを3度も体験したことを思い、改めて母の強さを知り、初めて一人の女として身近に思えた。
また強い痛みがさしこむ。
「茶々様、もっといきむんです!」
耳元でうるさいほど大声で叫ぶ産婆の声に、もうこれ以上、無理、と言いかけたと瞬間、股間からズルリと赤子が出てくるのがわかった。
叫ぶのをやめた産婆が、私の股の間から出てきた赤子の頭をゆっくり引き出す。
頭も身体も血まみれの我が子。
産婆の白い着物にポタポタを血を落す姿を、ぼんやり眺めた。
産婆が赤子を木のたらいに入れ、用意してあったあたたかい湯で丁寧に洗い流す。
だがまだその子は泣き声一つ出さない。
部屋に緊張が走る。
生きているのか、という恐怖にその場にいたみなの身体も心も凍りつく。
その時、パンパン、と手を打つような音が静かな部屋に鳴り響いた。
産婆が赤子の足を逆さづりにして持ち、桃のような尻を叩いた音だった。
その子の股の間には、男子のしるしがあった。
泣いて!声を出して!
私は手を合せ、力尽きた身体で祈った。
赤子はまだ泣かない。
白い髪を振り乱し真っ赤になった顔の産婆は、さらに強い力で赤子の尻を叩いた。
ほぎゃー、緊張と沈黙を切り裂き、赤子の鳴く高い声が生命の雄叫びを上げた。
我が子がこの世に声を放った。
「茶々様、おめでとうございます!
男の子でございます!」
荒い息で誇らしく産婆が叫ぶ。
息をつめ、様子をうかがっていた部屋の空気が一変した。
出産の間、ずっと私の身体を撫で続けていた大蔵卿局が涙を流し、産婆から受け取った生まれたばかりの赤子を私にさしだす。
侍女に助けてもらい上半身を起き上がらせ、両手で泣く我が子を受け取った。
ぐにゃりしたあたたかい生き物が、私の腕の中で泣いている。
赤子の手足の指が五本揃っているか、素早く数えた。
しっかり五本の指と桜貝のような爪があった。
ようやく安堵し、息子の頬に自分の頬をすりよせた時、乳房からピュッ、と白い乳が漏れ出た。
誰も教えられていないのに、真っ赤な顔で泣く赤子の小さな口に乳をふくませた。
息子はこくこくと無心に私の乳を吸う。
そこに何の欲望も汚れもない。
愛おしい、よりもっと強い気持ちが、心の奥の奥からマグマが噴き出すようにこみ上げた。
泣きそうになった。
生まれて初めての感情が胸の奥からわき上がる。
それは無条件の愛だ。
一心不乱に乳を飲む、私の中から生まれてきた息子。
我が子だ、まちがいなく、私の子だ、と胸が熱くなった。
この子が豊臣の跡取りだ。
秀吉の後を継ぐ男子だ。
この子が、私の地位と権力につながる道筋を作ってくれた。
私は天に向かい両手を合わせた。
神よ、もしあなたがこの世にいるのなら、私はどれだけ感謝しても足りない。
その時、ドタドタと廊下を走る音がし、乱暴に襖が開いた。
男子誕生の知らせを聞き、秀吉が飛んできた。
ハァハァと肩で息をする秀吉は、乳を飲み満足げに眠っている赤子をじっと見つめた。
そして背を丸め、そろりと抱き上げた。
息子はぼんやり目を開いた。
顔じゅうをくしゃくしゃにし、目を大きく見開いた秀吉は泣きそうに見える。
「おお、これが我が子か。
なんとも可愛いではないか、のう茶々?
よしよし、父がわかるか?
天下はお前のものじゃぞ。
豊臣は、お前が継ぐのじゃぞ」
まだ何もわからない赤子に向かって嬉しそうに語りかける彼は、53歳だった。
53年間生き、彼はようやく我が子を抱けた。
噂によると、ずいぶん昔、側室との間に一度は子をもうけたらしい。
男子だったその子は6歳でこの世を去った、と聞いた。
まだ秀吉が伯父信長の家来だった時だ。
だが秀吉はこの子のことを、何も言わない。
そしてその時の秀吉と今の秀吉は、まるきり立場が違う。
亡くなったその子には悪いが、その子の夭折を喜んだ。
その子が生きていたら、この子は豊臣の後継ぎにはなれないのだから。
女としては最低だが、母としては当然の気持ちだった。
「この子の名は、どうされます?」
秀吉は息子から目を離さず
「この子は棄(すて)と名付ける」
と言った。
私はあっけにとられた。
周りの者たちも、思いがけない名づけに皆、ぽかんと口を開けた。
腹立たしい気持ちを抑え、彼を怒らせぬよう首を傾げ
「どうして、棄などという名に?」
と聞いた。
すると彼は
「おう、茶々は知らぬか?
棄て児はよく育つと、ちまたで言われておるんじゃ。
わしはこの子に長生きしてもらい、末永く豊臣の繁栄を託すぞ」
と胸を張って秀吉が言った。
その発想こそ、百姓出の男そのものだ、と憮然とし脳裏に寧々の姿が浮かんだ。
もしやこれも寧々の案なのかもしれない。
妻である寧々も、もちろんこの子の誕生は耳にしているはず。
男子であることもすでにこの城に潜ませた間者を通じ、知っているはずだ。
だが、これから寧々ともうまくやっていかねばならない。
「そうですね。あなた様の言う通りにいたしましょう」
不満を笑顔でくるみ、秀吉に笑みを向けた。
口では言ったが、一度も我が子に「棄」などという名を口にしなかった。
そんな名前などで呼ばぬ。
建前は、お前の子だ。
だけどこの子は私のものだ。
私がお腹を痛めて生んだ、愛おしい子だ。
ようやく秀吉が腰をあげ、名残惜しそうに部屋を出て行った。
私はすやすや眠る我が子に「王子」と呼びかけ、うっぷんを晴らした。
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女はいくつもの顔を持ちます。
妻、母親、娘、嫁・・・
その顔ごとに立場も思いも、生き方も違います。
でもどんな顔のあなたでも、それはあなたの一部です。
今、あなたはどんな顔で生きていますか?
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