「暑さ寒さも彼岸まで」というが、今年のコロナ禍での猛暑もお彼岸を迎えた途端に終息してしまった。毎年、この時期に私が歌う曲は「I'll Remember You」、と聞いて「知ってる知ってる、あの有名なジャズ•スタンダードでしょ?」と思った人は勘違いである。それはおそらく「I Remember You」(1941年)という全く違う曲だ。

 

私が晩夏に歌うのはwillが入った未来形で、ハワイのシンガー•ソング•ライター、クイ•リーが1965年に作った曲ジャズ•スタンダードの黒本、赤本、青本は勿論、「永遠のポップス」にも載っていない。“ハワイのシナトラ”ことドン・ホーのヒット曲なのでハワイアン曲集には載っていたりするが、この曲はハワイアンかどうか?

 

 

私が知ったのは1973年1月の歴史的な衛星生中継「アロハ•フロム•ハワイ」エルビス・プレスリーが歌ってからである。何が歴史的かって、世界約40ヵ国で10億人以上が視聴した、最初にして最大かつ最後の衛星生中継音楽番組だからだ。インターネットが普及しオンデマンド配信が可能となった今では考えられない。

 

プレスリーは生涯、アメリカとカナダ以外で公演をしなかったが、来日公演要請に応えての生中継だったので日本のゴールデンタイムに合わせ19時半(ハワイ現地時刻0時半)開始で37%超の高視聴率を記録したという。当時まだ高校生だった私も、TV放映時の高揚感はしっかり覚えている。

 

1973年のこのイベントで22曲を歌ったプレスリーは当時38歳。もう50年代の“キング•オブ•ロックンロール”時代の思春期の若者ではなかった。映画出演に明け暮れた60年代を経てステージへのカムバックを果たし、父親にもなり、押しも押されぬエンターテナーとしてスロウバラッドなど大人の歌を中心に歌っていた

 

 

この曲を私がこの時期に歌うのは、その歌詞ゆえ。「I’ll remember you long after this endless summer is gone/この終わりなき夏が過ぎ去ってからもずっと君を想い出すだろう 」って、過ぎ去ってしまう(gone)なら、それはそもそも終わりなき夏(endless summer)じゃないじゃん!と突っ込みたくなるけれど…。*1

 

「I’ll be lonely oh so lonely living only to remember you/私は独り寂しく貴方との想い出の中だけに生き」「I’ll remember you your voice as soft as a warm summer breeze/夏の風の様に暖かい貴方の声と」「your sweet laughter mornings after ever after I’ll remember you/甘い笑顔で始まる朝を今も思い出す」と続く。*1

 

そして最後に「You’ll remember too/貴方も想い出すはず」で終わるこの詞は、常夏の島ハワイでまさに終わりなき夏を過ごす愛する人の笑顔のように美しく、儚い。「アロハ•フロム•ハワイ」放映時、プリシラ夫人との離婚調停中だったというプレスリー(彼はこの4年後に亡くなるのだが)の哀愁を帯びた歌声が切ない。*1

この曲を持ち歌にしていたプレスリーは、「アロハ•フロム•ハワイ」をチャリティ•イベントとし、7年前34歳の若さで急逝したクイ•リーの没後に創設された癌基金に収益を寄付している。今も様々な人々が歌い継ぐことで彼は思い出され、彼がテラスで微笑んでいるendless summerは永遠に終わらない気がする。

 

*1:日本語詞は私の「なんちゃって」和訳

 

♪I’ll Remember You 2001年3月25日・大塚「Greco」でのヴォーカルセッションにて♪

 

Saigottimo

朗読家は言葉をどう読むかだし、ヴォーカリストも歌詞をどう扱うかが問われる。このブログでも洋楽スタンダードの歌詞をどう訳すのか訳した日本語詞で歌わないとしても原詞の意味をどう解釈するかという点について、翻訳家でもない私が自分なりに訳したり解釈したことを、このブログで幾つかご紹介してきた

 

しかし、この分野においてはバイブルとされている書物がある。村尾陸男・著「ジャス詩大全」(中央アート出版社・刊)だ。なんと全22巻+αもあり、約1千曲に及ぶ洋楽スタンダードについて、作詞・作曲者や曲にまつわるエピソード、歌詞の和訳とイディオム等の用語解説、名盤紹介から主な歌手の歌い方までが綴られている。

 

私にはこのバイブルを全巻保有している歌仲間が居る。だから私のような「なんちゃって」ヴォーカリストは新しい曲に取り組む際に彼女に頼んでその曲のページを見せてもらったりしている(毎度すんまへん!)。大抵のスタンダードは載ってるし、辞書を引いても分からない言い回しなども、このバイブルを見れば殆ど氷解する。

 

 

しかし、私にはこのバイブルでも解決できなかった事が1回だけあった。曲は代表的なジャズ・スタンダードで1930年作レビューの劇中歌「On The Sunny Side Of The Street」だった。この曲は1929年の世界恐慌真っ只中の世相を表している。だから「そういう時こそ、同じ道でも日陰側ではなく日向側を歩こうよ」という歌だ。

 

この曲には「明るい表通りで」という邦題もあるが「表通りだから明るい、裏通りだから暗い」という歌ではない。同じ通りでも「片側は建物の日陰、反対側が日向」という場合に日向側を歩こうという意味なので、この邦題はちょっと違うなと思っていたが、そのせいかどうか「ジャズ詩大全」には、この邦題は載っていなかった。

 

原詞は歌詞サイトご参照。以下は「ジャズ詩大全」の和訳を引用させて戴く。冒頭「~ Leave your worries on the door step/悩み事は敷居のところに置いて」で始まり、後半の「If I never have a cent I'll be rich as Rockefeller/お金が1セントもなくたって僕はロックフェラーのように金持ちさ」うんうん、でも問題はその後だ。

 

「Gold dust at my feet on the sunny side of the street/道の陽のあたるところには足元に金(きん)の埃が舞っているから」ん?どういうこと?意味が分からない。金の埃って?何故、足元に舞っているの・・・?他のWebなどを調べても「足元から黄金の喜びがこみ上げてくる」等の意訳はあったが、やっぱり意味が分からない。

 

【数多あるこの曲の音源の中で私のイチオシはこれ↓】

【↑シナトラらしく2つのBig Bandを左右に従えて】

 

ところが、この謎が体験的に解けたのだ。もう10年以上前の通勤途上、渋谷駅から国道246号線沿いに西に10分ほど坂を上った先にあるオフィスに向かって歩いていた時、その瞬間は訪れた。目の前の登り坂のアスファルトの道が朝陽にキラキラと煌めいたのだ。「あ、これかっ!これが、あのGold dustだったのか!」

 

アスファルトはコールタールに石英(ガラス)粒等を含む砂利を混ぜてあるので朝陽を浴び乱反射する。ああ、確かにGold dust at my feetだ。しかも、これは日陰の側では(陽が指さないから)見えない。なるほど、On the Sunny side of the Streetならではだ!「分かったぞー!」と叫びたい、正にアルキメデスの心境だった。

 

♪明るい表通りで 2020年2月14日・渋谷「SEABIRD」第二金曜ライブにて♪

 

Saigottimo

私はこのブログで「個性を磨いて自分ならではのオリジナリティを向上すべき」と述べてきたが、では具体的に「個性を磨く」とはどういうことか?「個性」は他者とは違う「相違点」にあるだろうから、恐らく「長所」「短所」として表れてくるはず。一般的に「短所は直し長所は伸ばす」だろう。でも、実はそこに“落とし穴”もある

 

野球選手に例える。A君は小柄だがパンチ力があり「長所」は長打力で年間10本塁打するも「短所」は確実性に欠け年間打率2割。一方、B君は体格に恵まれているが繊細で「長所」はバットに当てる確実性で年間打率3割打つも「短所」は長打力の乏しさで年間3本塁打、と真逆な「個性」の2人のバッターを想定しよう。

 

「短所を直し長所を伸ばす」と考えれば、A君の育成方針は、短所を修正して確実性を増し打率を上げれば長所である本塁打数も確率的に増えるので、目標は「打率2割5分⇒本塁打15本」。一方のB君は、短所を修正して飛距離を伸ばせば本塁打数は増え、その分は打率も上がるので、目標は「本塁打10本⇒打率3割2分」。

 

そこでA君はB君を見習ってシュアー(堅実)にボールをヒットするように打撃フォームを改造し、一方のB君は逆にA君を見習って思い切り良く振り切るように打撃フォームを改造することにした。お互い自分に無い良さを持っている先生が同僚として近くに居たので教え合うことも出来、2人とも従来と違う打撃フォームになった

 

果たして結果は?A君は打率は2割5分台まで向上するも本塁打は影を潜め1桁に、B君は打率が2割5分台まで下がって本塁打も殆ど増えず、両者とも何の取り柄(長所)もない並以下のバッターになってしまった。これは残念ながらよくありそうな失敗例である。ではこのやり方の、いったい何が間違っていたのだろう?

 

両者とも「育成方針」と「目標」は良いが「方法」を間違えた。「短所を直し長所を伸ばす」のは当然だが、その際にはその人の持つ傾向(個性)である“持ち味”を削がない方法を選ぶべきだ。だが往々にして“持ち味”が何かを考えず「短所を直そう」として“持ち味”を削いでしまうもの。これが冒頭に書いた“落とし穴”だ。

【photo byラッキーエースさん from (写真ac)】

 

「長所」とはその人の持つ個性である“持ち味”が良い方向に働く局面での結果、「短所」とは逆に働く局面での結果。A君の持ち味は“思い切りの良いスイング”で、それが「長打の多さ」という長所にも「打率の低さ」という短所にもなる。だから“持ち味”を削ぐような打撃フォーム改造は「短所」と同時に「長所」も削ぐことになる。

 

A君は“持ち味”である“思い切りの良いスイング”を変えずに打率を上げる方法(ボール球を振らない、打つ球を絞る等)を、B君も“持ち味”である“繊細なバットコントロール”は変えずに飛距離を伸ばす方法(下半身の強化、筋トレ等)を模索すれば、自らの打撃フォームを改造して“持ち味”を削ぐことはなかっただろう

 

表側が美しい塀を「裏側が汚い」といって取り壊したら当然、表側も無くなってしまう。「長所」「短所」も、同じ一つの持ち味(要素・傾向)の表裏であることが多いので片方だけ無くす事は出来ない。「自らの短所は幾つも挙げられるが長所は殆ど思いつかない」人は多いが、逆側に働く局面を考えれば本来双方同数なはず。

 

ここで間違えてはいけない点は、A君もB君もレギュラー選手である点だ。基礎的に未熟な場合はまずそのクリアが必要であり、その段階での「未熟ゆえの傾向」や「単なる癖」は「短所」でも「個性」でもない。これは自戒を込めて既に述べた通り。“個性を磨いてオリジナリティを高める”のとは別次元の課題だからである。

 

勿論、他の要素がどんなに低いレベルでも、ある「長所」が飛び抜けて優れていたら、それだけでオリジナリティとして通用するケースはあるだろう。野球で例えれば、走塁やバントのスペシャリストなどがそうだが、それは当該分野で他に比して相当傑出している事と割り切りが必要であり、誰でもが目指せる道ではない。

 

Saigottimo

洋楽スタンダードの日本語タイトル(邦題)には、なかなか味わい深いものが多い。私が大好きなビリー・ヴォーン楽団の1961年のヒット曲「峠の幌馬車」の原題は「Wheels」で直訳すると「車輪」。ま、そんな感じの曲だが、ムード音楽らしい「峠の幌馬車」というタイトルを意識して聴くと、それっぽい情景も浮かんでくる。

 

スターダスト(Stardust)」「サテン・ドール(Satin Dall)」「トゥー・ヤング(Too Young)」など原題のままカタカナにすれば済むものもあるし、「身も心も(Body And Soul)」「嘘は罪(It's A Sin To Tell A Lie)」「降っても晴れても(Come Rain Or Come Shin)」など、シンプルに直訳してもそのまま邦題としてイケるものもある。

 

また戦前のものでは「月光値千金(Get Out And Get Under The Moon)」「捧ぐるは愛のみ(I Can't Give You Anything But Love)」など、漢文調や文語調の邦題が歌詞の内容とピタッとハマるものもある一方、単語2、3個程度ならまだしも文章になるとカタカナでは長過ぎるし日本語に直訳しても「?」というケースも多い。

 

トニー・ベネットの代表曲「I Left My Heart In SanFrancisco」には「霧のサンフランシスコ」「想い出のサンフランシスコ」「わが心のサンフランシスコ」など邦題が複数あるCBSソニーのトニー盤は「霧の~」、東芝のジュリー・ロンドン盤は「想い出の~」、ビクターのブレンダ・リー盤は「わが心の~」、これレコード会社の事情?(因みに「花のサンフランシスコ」は全く違う曲なのでお間違いなく)

 

思い出のたね(These Foolish Things (Remind Me Of You)」などは、直訳すると「それらのつまらない事柄(が私に貴方を想い出させる)」となる。本編の歌詞も「タバコの吸殻、航空便の半券、隣の部屋のピアノの音など、ふとした日常の何でもない出来事(Foolish Things)が、私に貴方のことを想い出させる」といった詩的な内容なので、「思い出のたね」とは実に上手いネーミングだと思う

 

こうした邦題の中で最近ドキッとしたのは「貴方と夜と音楽と(You And The Night And The Music)」だ。これは一見「夜も昼も(Night And Day)」のように難無く直訳出来ているように思えるが違う。定冠詞(The)が付いているからだ。つまり、正しく直訳するなら「貴方とあの夜とあの音楽と」になる。これ全然意味違いますよね!

 

定冠詞(The)が付いていない「You And Night And Music」だったら「(ワタシってぇ)貴方と夜と音楽(が好きなのよねー)」ってな軽い感じになるのだが、定冠詞(The)があることで事情は一変!「貴方と、あの夜と、あの音楽(勿論、忘れたなんて言わないわよね!)」という、スッゲー重い感じになってくるじゃないの。

 

そう考えながら改めて原詞を見ていくと・・・おおー怖ッ!

 

Saigottimo

先日、このブログで書いたオリジナリティの記事に対し、プロのナレーターの方から「個性を考える上で参考になりました」と、うれしい反響を頂戴した。なるほど!日本には「個性」という言葉があったじゃないかと改めて気づかされた。では「個性」とは何か、「オリジナリティ」とは違うのか、について考えてみた。

 

先日、TVの米国人コメンテーターから「人心の同じからざるは其(そ)の面(おもて)の如し」という中国の故事を聞いた。人の顔が皆違うように人の心も皆違うという意味で、「あ」と思った。何故なら、顔は皆違えども共通点(2つの眼、1つの鼻と口など)がある。人の心も同じで両方あるんだ、という気付きを得られたからだ。

【上記故事が掲載の中国の古典】


AIによる「顔認証システム」が成り立つのも、人間の顔には必ず「共通点」と「相違点(個々の特徴)」が両方あるからだ。カメラ画像の中で「人間の顔」を認識できるのは顔としての「共通点」があるからで、さらに一人ひとり違う「相違点」があるからこそ誰々の顔だと特定できる。そうか、人の心(感情や性格)も同じなのか。

 

日本では他人と同じ「共通点」をチームプレーに繋がるとして重視し、他人と違う「相違点(個々の特徴)」はスタンドプレーに繋がるとして出来るだけ抑える教育をここ百年以上続けてきた。それは先進諸国に追い付き追い越すための国策としては結果からみても一定の成果を挙げたし、きっと正しかったのだろうと思う。

 

「ほら周りを見てごらん。そんな事してる人は誰もいないでしょ!」周囲の人と「同じように感じ」「同じように考え」「同じような行動をとる」様に仕向け誰でも同じ能力を持つ事で代替可能にして効率的に組織力を発揮できるようにする。これが明治以降の日本の国家戦略であり、伝統文化として我々が培ってきたものだ。

 

でも海外留学生や外資系企業、海外勤務の日本人は、ミーティングの席で意見を求められると「私は皆さんと同じ意見です」と笑顔で発言し「だったら君はここに居る意味がない」と言われて呆然とする。海外でも人心には「共通点」と「相違点」の両方がある筈だが、重視するのは「相違点(個々の特徴)」の方だからである。

 

全出席者が他人と違う「相違点」を駆使し、異なった視点なり見解を提示しなければ「多方向から議論して結論を導くというミーティングの目的」に貢献できないからだ。一方、日本のミーティングの多くは、他人と同じ「共通点」を発揮し「全出席者が同じ意見だと確認することが目的」だから、そもそも目的が違うのである。

 

その点では「個性」も「オリジナリティ」も(他人と同じ「共通点」ではなく)他人とは違う「相違点(個々の特徴)」の中にあることは間違いない。では同じものかといえば私はちょっと違う気がする。「オリジナリティ」は衆人からも評価される「価値」を有するもので「個性」よりハードルが高いもの、と考えるからである。

 

個々人の性質や特徴は間違いなく「個性」だが、個性でしかない。「オリジナリティ」とは「個性」が醸成されて他人とは違う価値を持ったもの。顔で例えれば、丸顔、細目、団子鼻、福耳などは「個性」ではあるが、それらが一体となって「屈強な面構え」や「思慮深い面持ち」等に昇華したものが「オリジナリティ」ではないか。

 

30歳を過ぎたら「顔は自分で作るもの」とも言われる。親からもらった基礎は変わらなくても、その後の人生における個々人の努力や苦労や経験や心構えやチャレンジやキャリアなどの積み重ねが成人してからその人の顔に表れるという。本当かどうか分からないが、生まれた時点で全部決定済みというより救いはある。

 

誰しも生まれた時点で、他人と同じ「共通点」と他人と違う「相違点」は持っている。前者を磨いて、他人と同じことを他人より上手く出来るよう努める(⇒ナンバーワン)、これは親も国家も後押しする。でも後者(個性)を磨いて、誰でもない自分ならではの価値(オリジナリティ)に高める(⇒オンリーワン)のは自分だけだ

 

世にいう「個性尊重」とはその前段階か前提でしかない。実態は尊重以前に認識すらする気もなく、ただ「共通点」に着目しナンバーワンを目指している。それは否定しないが一方で「相違点」にも着目し「個性」を認識してそれを自分ならではの価値として衆人が認めるような「オリジナリティ」にまで高めていくことも必要だろう。

 

Saigottimo

9月は年間で最も雨量が多いそうだ。雨というと梅雨の6月のイメージが強いが「秋の長雨」という言葉もあるし台風の影響も大きいのだろう。4月以降ライブ出演は自粛しているので今年は雨の歌も歌えなさそうだ。といっても雨のスタンダードは数多あれど私が歌えるのは「Yesterday I Heard The Rain」くらいだが…。

 

服や色など、よく「自分が好きなものと似合うものが違う」ケースがある。小柄で可愛い服が似合いそうな娘がデザイナースーツがお気に入りで、逆にシンプルなスーツが映えそうなスラッとした女性がフリフリ大好きだったり...。歌も同じで他人から勧められる歌は経験的にほぼ間違いがない。実はこの曲もまさにそうだった。

 

渋谷・SEABIRD第一金曜ライブでご一緒している女声ヴォーカルの大津晃子さんに追っかけファンのアメリカ人男性が居て、たまたま私の歌も聴いてくれた際にメモをもらったのだ。「アナタ、Tony Bennett ノ コノ曲、合ウト思ウ。歌ッテミテ」と。私は曲名すら知らなかったがyoutubeで探し、音楽の達人に採譜してもらった。

「Yesterday I Heard The Rain」は、1968年にトニー・ベネットが発表したアルバムの表題曲だが、ペリー・コモをはじめ、ディオンヌ・ワーウィックシャーリー・バッシーなど、女声シンガーも採り上げているスタンダードだと分かった。リズムはスロー8beatが多いようだ。早速、歌詞の意味を知るべく、ナンチャッテ翻訳を試みた。

 

Yesterday I Heard The Rain (英語⇒日本語)

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昨日、貴方の名を囁く雨を聴いた
いったい何処に行ってしまったのかと尋ねていた

それは物言わぬ群衆の上に浮かぶ雲から
歩いている私に、そっと囁いてきた

黒い傘がドアを出ては私を追いかけて来るが

通り過ぎる顔の無い人々は誰も私を知らなかった

昨日、私は雨の中で飲んだくれながら
目をつぶって空を見上げていた

しかし、貴方のイメージがまだ宙を漂っていた
それは、炎よりも鮮烈だった

昨日、私は情け容赦ない街の闇を見た
そして、貴方の名を囁く激しい雨を聴いていた

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トニーは「DuetsⅡ」でこの曲をスペイン語のアレハンドラ・サンスとデュエットしているので調べてみたら、この曲は元々メキシコの作曲家、アルマンド・マンサネーロの「Esta tarde vi llover(雨のつぶやき)」に英語詞を付けたものと分かった。そこでスペイン語の原詞を、機械翻訳等でナンチャッテ和訳してみた。

 

Esta tarde vi llover (スペイン語⇒日本語)

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昼下りに雨が降るのを見た、人々が走っていくのを見た
そこにあなたは居なかった

別の夜 輝く青い大きな星を見た
そこにあなたは居なかった

別の午後 恋する鳥がキスしているのを見た
そこにあなたは居なかった

昼下りに雨が降るのを見た、人々が走っていくのを見た
そこにあなたは居なかった

秋、雨が降るのを見た、海が歌っているのを聴いた
そこにあなたは居なかった

もう分からない あなたがどのくらい私を好きなのか
私がいなくて寂しいのか 私がそう想うだけなのか

はっきりしているのは、雨が降るのを見たこと
人々が走っていくのを見たこと
そして、そこにあなたは居なかったこと

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原詞は「(今日の)昼下り」なのに英語詞では「昨日」になっている点が面白い。どちらも愛する人を失った心情を綴っていて、それぞれに味わい深い歌詞ではあるが、原詞の「そこにあなたは居なかった(Y no estabas tu:イーノ エスタバス トゥー)」の繰り返しは、とても詩的で、切なく、儚く、美しい響きに聴こえる

 

ブラジルのスター、ロベルト・カルロス盤は、この原語のリズムやニュアンスが美しく、胸にジーンと来る。さらに小野リサもラテンのアルバムでこの曲をカバーしており、スローボサに乗せて原語(スペイン語)で歌っている。私は今まで英語でしか歌ってなかったが次回(来年か?)は原語(スペイン語)で歌ってみようと思った

 

そういえば、以前マッキーが歌いたいと言ってたからデュエットもアリだが、男女なのでキーをどうするかが問題だ。小野リサはG、シャーリーはA、ディオンヌはB♭、ペリー・コモはB、ロベルト・カルロスはD♭、トニーとサンスのデュエットもD♭、トニーのソロはD、マンサネーロはE♭、ホセ・フェリシアーノはE、とバラバラだし。

 

♪Yesterday I Heard The Rain 2019年6月14日・渋谷「SEABIRD」第2金曜ライブにて♪

 

Saigottimo

コロナ禍で猛暑日が続いて気付いたら9月、もう夏が終わろうとしている。4月以降は歌も朗読も自粛しているので、今年は夏の歌を歌わないまま終わりそうだ。最近でこそ「夏」といえばボサノヴァが主流だが“スタンダード・ヴォーカリスト”の私は「海」をテーマにハワイアン等様々なジャンルのスタンダード(古い曲)を歌ってきた。

1946年のシャルル・トレネの代表曲で「海」という意味のシャンソン「ラ・メール」もその一つ。英語詞では「ビヨンド・ザ・シー(Beyond The Sea)」としてボビー・ダーリンが1960年に全米6位のヒットにしている。彼は37歳で夭折したジャズ界のエンターテナーであり、彼の半生を描いた自伝映画のタイトルにもなっている。

 

若い方々は同じボビーでも90年代にクルマのCMで流れたAOR(アダルト・コンテンポラリー)の旗手、ボビー・コールドウェル盤の方がお耳馴染みがあるだろう。また2003年にディズニー映画「ファインディング・ニモ」のエンディング・テーマにもなった(歌:イギリスのロビー・ウィリアムズ)ので、英語版は子供達にもよく知られている。

 

【左上:ボビー・ダーリン、右上:ボビー・コールドウェル】

【下:映画「ファインディング・ニモ」のWebリボン】

 

この曲は古くから日本でも親しまれており、菅美沙緒さんの日本語訳詞も一般に普及している。以前にこのブログでスペイン語の「キエンセラ(Quien Sera)」が英訳詞の「スウェイ(Sway)」になると別の曲のようだと述べたが、この曲も原語のフランス語詞、訳詞の英語、日本語でそれぞれ味わいが全く異なってくるから面白い。

 

そこで「一回、全部試したろうか」と思い、1コーラス目をフランス語でルバート(テンポのない語り調)、2コーラス目を日本語でビギン(ツタータ、ツタツタ、というリズム)、3コーラス目を英語でスイング(4beat)で歌ったことがある。2006年10月12日(木)、四谷三丁目・Bobby'sでの根市タカオさん(b)主催のセッションでのことだ。

 

日本語をビギンで歌おうと思ったのは、母親が晩年(といっても51歳で早逝したので40代後半だが)自宅に先生に来てもらってエレクトーンを習っていた時期があり、この曲をビギンのリズムで弾いていた記憶があったのと、改めて日本語の訳詞を見ると何となくビギンのリズムが合うように感じたからでもある。

 

●1コーラス目はシャルル・トレネのオリジナル風に、ナンチャッテ(カタカナ)フランス語をルバートで、

「ラメール、コンファドゥンシー、ルローン、デゴール、フォクレール、アデガフレーム、ダッハジョーン、ラメール…」

●2コーラス目はビギンのリズムに日本語訳詞をのせて、

「ラメール、なーつの日~、波~は踊る~、光の~影、ラメール…」

●3コーラス目はJack Lawrenceの英語詞をスイングで、

「Somewhere beyond the sea Somewhere waiting for me…」

 

3か国語の歌詞を暗記し頭をフル回転させながら歌い終わると、根市さんが「ようやく3コーラス目で調子が出てきたね」と笑い、ヴォーカル仲間で大先輩の稲葉さんも笑顔で「あんた、なーんかスゴイことやったねー」と感心してくれた。で、結論としては、やっぱりジャズバンドの伴奏で歌うなら「英語&スイング」かな、という事だった。

 

「ラ・メール」には「母」という意味もある。カタカナで書くと同じだが、フランス語のスペルは微妙に違い、海は(La Mer)母は(La Mere)だ。ラテン語で海は(Mare)だからきっと語源は一緒で“全ての生命の源”つまり「母なる海」ということなのだろう。なので私は”母の日”に因んで5月に歌う事もあるが、残念ながら今年はもう歌えない。

 

Saigottimo

私は歌も朗読も、当然ながら「下手になりたい」と思ったことはないし「下手より上手い方がいい」と思っている。しかし前回の記事で、私が標榜しているのは「上手いかどうか」ではなく「オリジナリティが高いかどうか」であり、自分にあるのは「上達意欲よりもオリジナリティ向上意欲」だと書いた

 

では、「上手/下手」とは別の価値基準だと私が主張する「オリジナリティ(の有無や高低)」とは何か?辞書にはこうある↓

 

オリジナリティ[originality]⇒[original]+[ity]

 ⇒オリジナル[original]であるさま(名詞)

オリジナル[original]⇒[origin]+[al]

 ⇒オリジン[origin]な~(形容詞)

オリジン[origin]⇒起源、源泉、原因、原点、素性…(名詞)

 

【右:トヨタ・オリジン(2000年発売)】

【左:初代トヨペット・クラウン(1955年発売)】

 

トヨタ自動車は2000年に生産累計1億台達成記念車として千台限定で「オリジン」という車を発売した。1955年に同社が発売した初代トヨペット・クラウンのデザインを復刻させたもので、当時「観音開き」と呼ばれた後部ドアの前開きも再現され、まさにトヨタの原点を示す象徴。元カーキチ少年の私には凄く懐かしい。

 

一般的に物事の意味を明らかにしたい場合は「その“反対”は何か」「それとそれ以外との“違い”は何か」の回答を試みるのが手っ取り早い。例えば「愛情とは何か」を明らかにしたければ「愛情の“反対”は何か」「愛情とそれ以外の“違い”は何か」の回答によって(その人の「愛情」に対する考えが)明らかになる。

 

私が考えるオリジナリティの”反対”は「コピー(複写)、模倣」であり、オリジナリティとそれ以外の”違い”は「源泉かどうか」である。つまり、上記の事から、オリジナリティとは、「(人マネではなく)その人が本来持っている要素(源泉)に起因していること」、言い換えれば「(他の誰でもない)その人ならではのもの」だ。

 

ではオリジナリティを高めるためには出来るだけ人マネや模倣をしない方が良いのかといえば決してそうではないだろう。「偉大な創造は模倣から生まれる」と言われるし、徹底的に模倣を試みることでどうしてもマネできない本家のオリジナリティを発見でき、同時に似ない部分に自分のオリジナリティを発見することも出来る。

 

そして、そもそも数多ある本家本元の中から自分がマネしたいと「その対象」を選んだこと自体が「その人ならでは」の価値観の一部であり、その人のオリジナリティの一部でもあると思う。坂本九はロカビリーが大好きでプレスリーのマネをした結果、あの「九ちゃん節」というオリジナルに辿り着いたのかも知れない。

 

勿論、あの時代にロカビリーが大好きでプレスリーのマネをしていた若者は山ほど居たが皆が坂本九のように世界に通用するオリジナリティを得た訳ではない。彼は特別な才能にも運にも環境にも恵まれたのだろう。ただ私が坂本九の事例で言いたいのは模倣やマネから出発してもオリジナリティは養えるという事である。

 

そして、オリジナリティを高めるための心構えや努力の方向性とは、自分が模倣をしたい憧れの対象を真剣に選択して本気でマネをし、そこで終わらないことだろう。「真剣に」というのは「皆がビートルズと言うので自分も」みたいに流されてではなく「自分が本心から憧れる対象」を選択する事だ。

 

もし憧れの対象が「プレスリーとバディ・ホリー」だったら、その2人(プラス自分)の組合せがオリジナリティの方向性になるし、誰か一人だったとしても「その人と(マネをする)自分」という組合せでオリジナリティの方向性が定まる。あとはマネで終わらずに極めることで(憧れの対象が抜けて)最終的に「自分」が残るはず。

 

これは料理で言えば「煮詰めてダシをとる」ような工程だろう。じっくり煮詰めて丁寧に灰汁(アク)を排除することで雑味が抜け、昆布でもカツオでも椎茸でも、エキスが凝縮したダシが出来上がる。問題はどれが灰汁(アク)で、どれがエキスかという判定だ。料理なら灰汁(アク)は表面に泡状に出てくるので分かり易いが...。

 

灰汁(アク)に相当するのは「単なる癖」や「未熟ゆえの傾向」。演奏で一定のテンポを刻もうとしても走ってしまう(速くなる)人やモタる(遅くなる)人は「単なる癖」だし、私のウクレレのように易しいコード展開では早くなり難しいコード展開では遅くなるのは「未熟ゆえの傾向」、どちらもオリジナリティとは違う

 

一定のテンポで刻むスキルをキチンと会得した上で、それでも「自分の心の奥底からこみあげてくる何かによって敢えて走りたくて(モタりたくて)走る(モタる)」なら、それはオリジナリティの一部かも知れない。以前に「マッキーにあって私に無いもの」で記したがジャズの“自由さ”はその判断を難しくしてるかも知れない。

 

Saigottimo

私はアマチュアヴォーカリスト&朗読家として、ささやかながら活動をしているが、このブログで何度も書いているように「ナンチャッテ」ヴォーカリスト「なんちゃって」朗読家だ。つまり本格的にヴォーカルや朗読を基礎から学んだり先生について習う「ちゃんとした」ヴォーカリストや朗読家ではないし、そうなるつもりもない

 

小説を書くことが好きな人が居たら、それを生業にしていなくても本として出版していなくても「小説家」と名乗ればいい。普通の人より文章を書いたり物語を創ったりすることが上手くなくても、その人が好きで小説を書くなら問題ないと思う。しかし私のこのような考え方はどうやら日本では少数派のようだ。

 

何故そんな事をいうかといえば、それは多くの人から理解されないばかりか誤解されて困るからである。どう誤解されるかというと「きっと歌(朗読)が普通の人より上手いからなんですよね?」とか「歌(朗読)を続けているということは、当然、上手くなりたい(上達したい)んですよね?」などと聞かれたりするのである。

 

何故そう聞かれる事が誤解で困るのかというと、私自身はそんな価値観で動いていないからだ。価値観として有してはいても重要な価値基準ではないからだ。単に自分が好きだから歌ったり朗読しているのであって上手いからでも上手くなりたいからでもない。勿論「下手より上手い方がいい」が、所詮その程度である。

 

こう言うと同じ音楽仲間から「上手くなりたい訳じゃない?じゃあ一体何を目指して歌ってるわけ?」と聞かれるが私の答えは「歌いたい歌を歌いたい時に歌いたいように歌いたいだけ」である。「いやいや『歌いたいように』と言うけど憧れのアーチスト、例えば『シナトラのように歌いたい』とか思うでしょ?」などとも言われる。

 

誰しも憧れのアーチストは居る。私も特定の曲を「サッチモやプレスリーのように歌いたい」と思う事はある。憧れのアーチストは当然上手いから、そのように歌いたいなら、それは結局「上手くなりたい」つまり“上達意欲”だろうと言われる。でも自分がサッチモやプレスリーになりたい訳でも同じ様に歌いたい訳でもない

 

もしそうなら理想はサッチモやプレスリーのデッドコピーになってしまうが、そうではないのだ。より正確に表現するなら「あんな風に自分の個性を生かして歌いたい」と思うのだ。上手いから憧れるのではなく、オリジナリティがあってカッコいいから憧れる、言うならば“上達意欲”ではなく“オリジナリティ向上意欲”なのだ。

 

私がサッチモの名唱で知られる「What A Wonderful World(この素晴らしき世界)」をデビュー曲として歌えるようになったのは、実はナディア・ギフォードのCDでこの曲を聴いてからである。そうでなかったら、無理してサッチモの様に太いダミ声で歌おうとしたか、少なくともサッチモの歌い方を意識してしまっただろう

 

しかし66歳の男性(サッチモ)と6歳の少女(レコーディング当時のナディア・ギフォード)、この真逆の歌い手による両極端な歌唱を聴くことで、私はスッとサッチモの歌い方から解放され「ああ、自分なりに歌えばいいんだな」と、私は初めてこの曲を自分らしく(オリジナリティを以て)自由に歌えるようになったのである。

 

先日の弘田三枝子の追悼記事でも書いたが彼女が戦後最高の女声ヴォーカリストと言われる所以は上手いからではなくて(勿論滅茶苦茶上手いけど)彼女のオリジナリティが高かったからである。加山雄三坂本九も同様にオリジナリティが高いのだ。だから私は声を大にして言いたい。上手いかどうかじゃないんだなと。

 

Saigottimo

一昨日(8/28)、NHK-BS1スペシャル「オーケストラ・明日へのアンサンブル 孤独の奏者たち奇跡の共演」を観た。コロナ禍で演奏会が軒並み中止となり自宅待機を強いられたオーケストラ団員達が自宅で独り黙々と演奏する様子が「孤独のアンサンブル」として5月に放送され、人の居ない街の映像と共に印象深かった

 

今回はその第3弾で、無観客ながらもコンサートホールに集い、実際に共演を果たした。N響、都響、読売日響、東フィル、シティフィル、日フィル、神フィル等のコンマス(コンサート・マスター)以下トップ奏者13名が、曲によってステージや客席で3人〜13人(全員)でソーシャルディスタンスをとってアンサンブルを奏でた。

 

絵画展に行けない人のために「展覧会の絵」、映画に行けない人に「ニュー・シネマ・パラダイス(のテーマ)」、バレエに行けない人に「(くるみ割り人形から)花のワルツ」、(野球等)スタジアムに行けない人に「威風堂々」、もどかしい現実に「ケ・セラ・セラ」と選曲もよく練られ、編曲も見事だったが演奏も素晴らしかった。

 

ヴァイオリン、チェロ、トランペット、ホルン、フルート、クラリネット、ファゴットなど各楽器パートの首席奏者ばかりだったから演奏が素晴らしいのは当たり前だが、それでも当人達は緊張しただろう。「めっちゃドキドキしましたが、皆さん素晴らしかったので楽しく気持ちよく音楽できたと思います」という正直なコメントもあった。

 

私は観ていて気付いたことが3点あった。1点目は、指揮者が居ないということ。そもそも弦楽四重奏などは指揮者は居ないし、室内楽では指揮者が居ない事もあるので当然かも知れないが、オーケストラの活動がないと活動できないことは指揮者も同じ。全パートを把握する彼等はどんな思いでこの番組を見たのだろうか。

 

2点目は、ピアニストもヴォーカリストも居ないということ。アンサンブルという響きからも絵的にもピアノや歌は外れるのかも知れないし、ホルンやファゴット等と違って単独で演奏会が可能だという事情もあるのかも知れない。あとヴォーカルについては感染対策上、まだマスクをしないと危険なので難しいのかも?

 

3点目は、「音の厚み」が凄いということ。今回、曲によって演奏者は数人、全員でも13人だから100人前後のフルオーケストラと比べれば人数は当然少ない。それなのに「え、本当にこの演奏者達だけの音なの?」と耳を疑うくらい、音量の大きさではない豊潤さ、つまり「音の厚み」の凄さを実感したことだ。

 

これはクラシックのみならず、同じ人数でも演奏者に力量ある場合は音に「厚み」を感じることがある。今回、力量が優れているのは間違いないが、通常ならフルオーケストラから13人だと少なく感じるところだが、5月の「孤独のアンサンブル」でのソロ演奏からなので、音も多く感じたという事情もあるのだろうか。

 

【コンマス3人のアンサンブル】

そして出演者はみな各オーケストラのトップ奏者だとしても、違うオーケストラの団員と共演する機会は今までそれほど無かっただろう。またオーケストラを代表する3人のコンマスの合奏もこんな状況でなければ実現しなかっただろう。その意味でも今回の番組は将来「奇跡の共演」だったと言われる企画かも知れない。

 

(※同番組はNHKBS1で9/1(火)深夜0:45~再放送される予定)

 

Saigottimo