最近、コンスタントに渋谷SEABIRD一金(第一金曜日)ライブに参加している女性ヴォーカリストの牧かおるさん(通称マッキー)の歌を聴いたり一緒にデュエットをしたりした際に、ちょっと気付いた事があった。
彼女は以前プロを目指したことがあったというだけあって歌が上手い。だが歌が上手いヴォーカリストはプロを含めて沢山知っているし彼女らとデュエットをしても感じなかったものをマッキーには感じた。特にデュエットの録音などを聴き直す度になんとも言い難い「違和感」を覚えたのである。
この「違和感」はいったい何なのか最初はよく分からなかったが、最近少しずつ分かってきた。まず、これはどうやら彼女にあって自分にはない要素に起因するものだということ、そしてそれはピッチ感(音程感覚)やリズム感など歌の巧さなどとは違う次元のものであり、いわば目指している「ゴールの違い」のようなものである。
本人には確認していないが、恐らく彼女は歌う際に理想形ともいうべきイメージを抱き、そこへの完成度を意識して歌っているように思える。こう書くとそれは全く当たり前のようにしか思えず、そこに違和感はない。むしろ「違和感」を覚えたのはデュエットをしている私の歌にそういう当たり前の姿勢が全く感じられない事に対してである。
そこで気付いたのは「ジャズ特有の価値観」であった。いわく予定調和を排すべし、いわくノリを最も重視すべし、いわく自由(フリー)に思いのままに演るべし、などなど。つまり「カッチリした演奏」の否定である。私をこの世界に導いてくれた初代SEABIRD一金バンマスの和田敬三氏(as.)などは特に予定調和を忌み嫌いインプロヴィゼーション(即興)を大切にした人だった。だから同じ曲を再演しても毎回違う演奏になるのがjazzなんだな、と私は勝手にそう解釈していた。
これは「完成形を目指そう」とする考え方とは真逆のゴールではないだろうか?例えば思いを込めて歌ったら思わず声が裏返った場合、これを失敗とは考えずに、書道で筆の勢いによって墨滴が飛び散ったような「味わい」として肯定する考え方だ。SEABIRD二金バンドの岩井千尋(tp.)バンマスに教えてもらった“ジャズの帝王”マイルス•デイビス(tp.)の言葉がある「失敗を恐れるな。そんなもの(失敗)はないんだ。Do not fear mistakes. There are none.」
こう書くと私はマッキーの歌う姿勢を「ジャズでは無い」と否定しているように思うかも知れないが、そうではない。彼女の歌は上手いだけではなくジャズとして聴いていて楽しいし、同じ曲を何度聴いてもその時のバンドメンバーやオーディエンス(聴衆)や場の雰囲気によって違う味わいがあり予定調和などには全く陥っていないのだ。
つまりマイルスが提唱し和田バンマスも大切にしたジャズの醍醐味は「完成形を目指して演奏する姿勢」と何ら相反しないどころかちゃんと両立するという事である。そうなると、それを目指さない私はいったい何を目指して歌ってきたのか?という点で自分の姿勢に「違和感」を覚えたのだ。
完璧な歌唱を目指してライブに臨んだ結果、ある部分で思い余って声が裏返ったのならそれも良しとすれば良い。だが最初から完成度を高めようともせず、上手く歌えないことを「いいんだよ、ジャズに失敗なんてないんだから」と許容している私の姿勢がそもそも「おかしいだろ!」という自分自身へのツッコミでもあったのだろう。
Saigottimo


