先日、このブログで書いたオリジナリティの記事に対し、プロのナレーターの方から「個性を考える上で参考になりました」と、うれしい反響を頂戴した。なるほど!日本には「個性」という言葉があったじゃないかと改めて気づかされた。では「個性」とは何か、「オリジナリティ」とは違うのか、について考えてみた。

 

先日、TVの米国人コメンテーターから「人心の同じからざるは其(そ)の面(おもて)の如し」という中国の故事を聞いた。人の顔が皆違うように人の心も皆違うという意味で、「あ」と思った。何故なら、顔は皆違えども共通点(2つの眼、1つの鼻と口など)がある。人の心も同じで両方あるんだ、という気付きを得られたからだ。

【上記故事が掲載の中国の古典】


AIによる「顔認証システム」が成り立つのも、人間の顔には必ず「共通点」と「相違点(個々の特徴)」が両方あるからだ。カメラ画像の中で「人間の顔」を認識できるのは顔としての「共通点」があるからで、さらに一人ひとり違う「相違点」があるからこそ誰々の顔だと特定できる。そうか、人の心(感情や性格)も同じなのか。

 

日本では他人と同じ「共通点」をチームプレーに繋がるとして重視し、他人と違う「相違点(個々の特徴)」はスタンドプレーに繋がるとして出来るだけ抑える教育をここ百年以上続けてきた。それは先進諸国に追い付き追い越すための国策としては結果からみても一定の成果を挙げたし、きっと正しかったのだろうと思う。

 

「ほら周りを見てごらん。そんな事してる人は誰もいないでしょ!」周囲の人と「同じように感じ」「同じように考え」「同じような行動をとる」様に仕向け誰でも同じ能力を持つ事で代替可能にして効率的に組織力を発揮できるようにする。これが明治以降の日本の国家戦略であり、伝統文化として我々が培ってきたものだ。

 

でも海外留学生や外資系企業、海外勤務の日本人は、ミーティングの席で意見を求められると「私は皆さんと同じ意見です」と笑顔で発言し「だったら君はここに居る意味がない」と言われて呆然とする。海外でも人心には「共通点」と「相違点」の両方がある筈だが、重視するのは「相違点(個々の特徴)」の方だからである。

 

全出席者が他人と違う「相違点」を駆使し、異なった視点なり見解を提示しなければ「多方向から議論して結論を導くというミーティングの目的」に貢献できないからだ。一方、日本のミーティングの多くは、他人と同じ「共通点」を発揮し「全出席者が同じ意見だと確認することが目的」だから、そもそも目的が違うのである。

 

その点では「個性」も「オリジナリティ」も(他人と同じ「共通点」ではなく)他人とは違う「相違点(個々の特徴)」の中にあることは間違いない。では同じものかといえば私はちょっと違う気がする。「オリジナリティ」は衆人からも評価される「価値」を有するもので「個性」よりハードルが高いもの、と考えるからである。

 

個々人の性質や特徴は間違いなく「個性」だが、個性でしかない。「オリジナリティ」とは「個性」が醸成されて他人とは違う価値を持ったもの。顔で例えれば、丸顔、細目、団子鼻、福耳などは「個性」ではあるが、それらが一体となって「屈強な面構え」や「思慮深い面持ち」等に昇華したものが「オリジナリティ」ではないか。

 

30歳を過ぎたら「顔は自分で作るもの」とも言われる。親からもらった基礎は変わらなくても、その後の人生における個々人の努力や苦労や経験や心構えやチャレンジやキャリアなどの積み重ねが成人してからその人の顔に表れるという。本当かどうか分からないが、生まれた時点で全部決定済みというより救いはある。

 

誰しも生まれた時点で、他人と同じ「共通点」と他人と違う「相違点」は持っている。前者を磨いて、他人と同じことを他人より上手く出来るよう努める(⇒ナンバーワン)、これは親も国家も後押しする。でも後者(個性)を磨いて、誰でもない自分ならではの価値(オリジナリティ)に高める(⇒オンリーワン)のは自分だけだ

 

世にいう「個性尊重」とはその前段階か前提でしかない。実態は尊重以前に認識すらする気もなく、ただ「共通点」に着目しナンバーワンを目指している。それは否定しないが一方で「相違点」にも着目し「個性」を認識してそれを自分ならではの価値として衆人が認めるような「オリジナリティ」にまで高めていくことも必要だろう。

 

Saigottimo