日記「今日見た映画 2005」3『スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐』 | やりすぎ限界映画入門

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■『スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐』
やりすぎ限界映画:☆☆☆☆★★★[95]

2005年/アメリカ映画/141分
監督:ジョージ・ルーカス
出演:ユアン・マクレガー/ナタリー・ポートマン/ヘイデン・クリステンセン/イアン・マクディアミッド/サミュエル・L・ジャクソン/ジミー・スミッツ/クリストファー・リー/アンソニー・ダニエルズ/ケニー・ベイカー/テムエラ・モリソン/アーメッド・ベスト/ピーター・メイヒュー/ブルース・スペンス/サイラス・カーソン/デヴィッド・バワーズ/マット・ローワン/グレーム・ブランデル/トリシャ・ノーブル/クローディア・カーヴァン/キー・チャン/ジョエル・エドガートン/ケイシャ・キャッスル=ヒューズ/オリヴァー・フォード・デイヴィス/レナ・オーウェン/ジェイ・ラガイア/ローハン・ニコル/ジェームズ・アール・ジョーンズ/フランク・オズ

■2005年 劇場公開作品 3本目

映画は総合芸術。「俳優」「芝居」、「監督」「演出」、「物語」「テーマ」、「撮影」「音楽」「美術」「編集」…………。これらが「全部」「完璧」な完成度の映画ってあるのだろうか? 「良い映画」「悪い映画」とは、その人自身「自分が何に完全共感するか?」であって、「人それぞれ全員違う」。その人にとって「全部」「完璧」な映画はあるかもしれないが、実際は「その人にとって完璧」なだけで、別の人が見たら「面白くない」映画な場合が殆どなのが真実。

「2005年」「鶏」は「尖ってた」。「鶏にとって完璧」な映画は、『ロッキー2』『マッドマックス2』『エイリアン2』『ターミネーター2』…………、とあったが、自分が「完全共感」できない映画の「いい部分を評価」する「心の度量」はなかった。映画は「大勢の人間が力を合わせて作る」総合芸術なので、「この映画は俳優がいい」「この映画は物語がいい」「この映画は美術がいい」…………とか、どんな映画にも「いい部分」「長所」があるのに、所詮「鶏」にそんな見方はできなかった。

「真似できない」「自分が作れもしない」分際で、「この部分にリアリズムが足りない」とか、「何様か解からない」「上から目線」でしか映画を見れなかった。「2005年」公開当時「鶏」は、『スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐』を[90]、「この程度の理由でダース・ベイダーにはなれない」としか思えなかった。「ヘイデン・クリステンセン」「アナキン・スカイウォーカー」の「ダース・ベイダーに堕ちた理由」が、「本当にそう見える」恐るべき極限のくそリアリズムに到達してるとは、どうしても思えなかった。

「鶏」程度の脳みそで「尖ってた」せいで、「エピソード2」は「かなり」見たが、「エピソード3」はあまり回数を見てこなかった。だが「今」、「旧3部作」「新3部作」の6作品の中で僕の『スター・ウォーズ』シリーズ「ベスト1」が、『スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐』に傾き始めてる。

「今」の視点で見直し、「2005年」当時見えてなかったものが、冷静に見れるようになったのかもしれない。恐るべき極限のくそリアリズムに見えた「エピソード2」も、今は冷静に「SFオペラ」に見える。「ファンタジー」であり「童話」や「SF映画」、「創作」であるということ。「実話」「ドキュメンタリー」までの恐るべき極限のくそリアリズムではない。

リアリズムの「加減」を考慮した作風だと思う。「ジョージ・ルーカス監督」が「SFオペラ」に拘ったのは、「女性」「子供」にも「見やすいもの」を志したように見える。「実話」「戦争映画」のような「残虐模写」を見せなくても、「マイナス思考が人間を破滅させるテーマ」は見せることができる。

極限のくそリアリズムなら、「ダース・ベイダー」のしてることは『ランボー 最後の戦場』の「陸軍大佐」と同じ「虐殺」。だが「創作」に「絶対虐殺を見せなければならない」ルールはない。「創作」は、「虐殺をしてる人」として、見る人間に想像させることができる。また「どの部分」に「焦点」を当てて強調するか、「何を見せたいか」で作風は変わる。「エピソード3」は、「ダース・ベイダーに堕ちた理由」の、「パルパティーンがどうやってアナキンを騙したか」より、「ダース・ベイダーに堕ちる人間がどんな人間か」を「強調」した映画に「今」は見える。

さらに、「2005年」当時「SFオペラ」にしか見えなかった「パルパティーンがどうやってアナキンを騙したか」も、「今」は、極限のくそリアリズムに見えるようになってしまった。

「パルパティーンがどうやってアナキンを騙したか」は、「妻の命を救いたい」「真面目な人間」の「心の隙」につけ込んだからだった。「2005年」当時「全く見えてなかった」。「ダース・ベイダー」も「妻」の前では「下僕」となって跪くしかない、「恐るべき恋愛映画」だった。

「勝手な僕の私見」「映画で描かれてない部分」を想像しながら見て、「エピソード2」でアナキンが、円形闘技場で「リーク」を「フォース」で「洗脳」「操った」のを思い出す。アナキン自らの意思でなく「心が弱ってる隙」を、パルパティーンが「フォース」「暗黒面」で「洗脳」「操った」なら、「ダース・ベイダーに堕ちた理由」が極限のくそリアリズムにも見える。

また「尖ってた」「偏見」「先入観」「思い込み」で、「エピソード3」はあまり回数を見てこなかったはずが、何で「これほど」、「皇帝に跪くアナキン・スカイウォーカー」が「忘れられなかった」のか? 「目が黄色」な「破滅」、「ムスタファ―の死闘」が「忘れられなかった」のか? 「自分が知らない自分」を「また」思い知る。

僕が「今」孤独な「独り者」な「真実」「理由」、女にフラれるたびに「史上最強のジェダイに なってみせる」思った真実は「頭が悪かったから」。「鶏」程度の脳みそしかなかったから。自分が悪いのに、悪いのを「去って行く女のせい」にした。「他人のことを考える人間」=「女のことを考える男」への「考える」が、「足りなかった」から「しか」「ない」。

僕が多くの「去って行く女」に何をしてきたか思い出すと、「自分の子を妊娠してる妻の首をフォースで絞める」、「目が黄色」な「暗黒面」に「堕ちた奴」のように、「女を哀しませる」「女の信頼を失う」ことばかりしてきたことを、「かなり」思い出す。「僕自身がしてきたこと」に「似て見えた」から。

『スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐』の「ヘイデン・クリステンセン」「アナキン・スカイウォーカー」ほど、「女を不幸にする」「女のことを考えない男」、「最悪の男」は、「滅多に見れない」。「自分の子を妊娠してる妻の首をフォースで絞める」など「もう人間じゃない」。「絶対こうなってはいけない」「反面教師」の「極限領域」だろう。

「耳を疑うわ オビ=ワンの言う通り 別人だわ!」と、僕から「去って行く女」「全員」「思った」だろう。「罪悪感」「いっぱい」で僕の「胸が張り裂けそう…」になり、「涙」が出た。見てて「もう許してくれ」「俺が間違ってた」だった。「忘れられなかった」のは、「僕自身がしてきたこと」だと「うっすら」、「2005年」から「潜在的」に感じてたからだろう。「今」見直して「決定的」に、「これが俺だ」と「自覚」した。「逃げ出したくなる」ほど「恐怖」「痛さ」に追い込まれた。

僕が「つい最近まで」女にしてきたことって、「僕は平和と- 自由と正義と安全を 僕の新帝国にもたらした!」と、「目を真っ黄色にして」叫んでたのと同じだったのだろう。自業自得に「今頃」「やっと」気づいた。

「終わりだ アナキン 私の方が有利だ」。「鶏」程度しかない脳みそで「僕の力を見くびるな!」と思い上がってきた。僕が「今」孤独な「独り者」な「真実」「理由」を、「仏様」と言う名のオビ=ワンに、「脚と腕を斬られて火達磨になった」ことなのだと自分自身で「自覚」「解釈」してる。

「選ばれし者だった!」 「予言」は外れ「旧3部作」「新3部作」の「6部作」で「フォースにバランスをもたらす者」は、「ルーク」だったという物語と解釈してる。「あんたが憎い!」と叫ぶ「鬼の形相」「怒りの目」が昔の僕に見える。「弟と思ってた 愛してた!」の「憐れ」「惨め」に「涙」しかない。

「女性」「子供」にも「見やすいもの」、「SFオペラ」のはずが、「ダース・ベイダーに堕ちる人間がどんな人間か」を「強調」した「ヘイデン・クリステンセン」「アナキン・スカイウォーカー」の、「自分の子を妊娠してる妻の首をフォースで絞める」、「女を不幸にする」「最悪の男」は、恐るべき極限のくそリアリズムで「やりすぎ」、「リミッターを振り切ってる」ようにしか見えない。

「最期」、「ムスタファ―の死闘」の「オビ=ワン」対「アナキン」、コルサントの「皇帝」対「ヨーダ」の「ライトセーバー」の闘いの「怖さ」に、ビビって「泣きながら」震え上がり大きい方を漏らした。見てて「旧3部作」「エピソード4」の「オビ=ワン」対「ベイダー」、「エピソード6」の「弱過ぎる皇帝」が、「頭の中でDVDを再生」で見えた。「ジョージ・ルーカス監督」の「誰も見たことがない」「新しいもの」、「本当はこうしたかった」 “本気” が、「過去5作」の「100乗」で「火山の噴火」のごとく「爆発」したように見えた。

「エピソード3」「ライトセーバー」の闘いの「リミッターを振り切ってる」恐るべき極限のくそリアリズム。「エピソード4」の「オビ=ワン」対「アナキン」の「最終対決」前、「2人に何があったか」「初めて」「真実」を知って、大きい方を漏らしたあげく、「出るもの全部出て何も出るものがなくなった」「ショック」「衝撃」、「失神」「気絶」まで追い込まれた。「エピソード4」が「子供だまし」、「違う話」にまで見えかねない「究極映像」に「絶句」「放心」。

『スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐』が、「もう二度と絶対こうなってはいけない」という、僕にとって「生涯の映画」だと思い知った。

「自分がしてきた罪を生涯忘れないため」、『スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐』を「生涯見続ける」。僕は「生涯反省」しなければならない。




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