『ターミネーター2』 | やりすぎ限界映画入門

やりすぎ限界映画入門

ダイナマイト・ボンバー・ギャル @ パスタ功次郎

■「やりすぎ限界映画工房」
■「自称 “本物” のエド・ウッド」


■『ターミネーター2』
やりすぎ限界映画:☆☆☆☆★★★[95]

1991年/アメリカ映画/137分
監督:ジェームズ・キャメロン
出演:アーノルド・シュワルツェネッガー/リンダ・ハミルトン/エドワード・ファーロング/ロバート・パトリック/アール・ボーエン/ジョー・モートン/マイケル・ビーン

1991年 第7回 やりすぎ限界映画祭
1991年 ベスト10 第1位:『ターミネーター2』
やりすぎ限界パルムドール/やりすぎ限界女優賞/やりすぎ限界男優賞/やりすぎ限界監督賞/やりすぎ限界脚本賞:『ターミネーター2』

D.B.G.生涯の映画ベスト10
第36位:『ターミネーター2』
(『ターミネーター』のシリーズ2作品を含めて
※『ターミネーター3』『ターミネーター4』は対象外)


[ネタバレ注意!]※見終わった人が読んで下さい。



やりすぎ限界男優賞:アーノルド・シュワルツェネッガー


やりすぎ限界女優賞:リンダ・ハミルトン


やりすぎ限界男優賞:エドワード・ファーロング


やりすぎ限界男優賞:ロバート・パトリック


[ “補助パワー 始動” ]



“補助パワー 始動”。『ターミネーター』「2部作」の「全て」が “補助パワー 始動” に向かって収斂される。極限の「衝撃」。涙が出なくなるまでの「号泣」。パンツについた瞬間に聞こえた「ガルマ・ザビ」の台詞。「キャメロン… はかったな キャメロン!」。初めて見た時、涙を流しながら笑うしかもはやなす術はなかった。



なぜここまで “補助パワー 始動” に魂が震えるのか? 「ターミネーター」という言葉を「歴史」に残した「天才」。映画史においてジェームズ・キャメロン監督が “神” まで昇華した理由。「続編映画」「前作を超える」とは何か? 『ターミネーター』「2部作」を「愛の映画」に完成させた “補助パワー 始動” の「衝撃」。観客は「天才」という言葉が、キャメロンのような人間を表現するための言葉であることを思い知らねばならない。

[「続編映画」「前作を超える」とは何か?]



「名作」と言われた映画の「続編映画」が「前作を超える」例は圧倒的に少ない。実際に超えた「続編映画」が「頭に思い浮かぶほどしかない」のがその証拠だ。数多くの続編映画が実際は圧倒的に忘れ去られてる。だからこそ「前作を超える」「続編映画」は「伝説」となれる。



キャメロン監督の「偉業」は映画史を震撼させた「2本」の「続編映画」にある。1本超えるだけでも「天才」なのに「まぐれではない」「2本連続」で映画史を震撼させた。『エイリアン2』と『ターミネーター2』。「2本」の「続編映画」の成功がキャメロンを “神” の “棲息速度域” へ到達させた。

[『エイリアン2』『ターミネーター2』]


■『エイリアン2』より

『ダイ・ハード』シリーズなどに受け継がれた「続編映画」を他の監督に変える制作方法。シリーズを「違うカラーの映画」にしてマンネリ化を防ぐ方法はキャメロン監督が確立した。過去にも他の監督に変えた続編映画は数多くあったが、観客の「記憶に残る」成功したシリーズは殆どない。映画史を震撼させた「違うカラーの映画」で、キャメロン監督はこれまでの「続編映画」の概念を根底から覆した。『エイリアン2』が初公開された時の天地が引っ繰り返るほどの「衝撃」を忘れる人間はいない。



『エイリアン2』の「衝撃」だけで「天才」であることを充分「証明」した。だが『ターミネーター2』の2回目の「衝撃」。「まぐれではない」「2本連続」で「証明」できる人間がこの世に何人いるのか? 「誰にも思いつけない」「誰にも予測できない」観客へのプラス方向での「極限の裏切り」。「恐るべき脚本」「恐るべき物語」「恐るべき想像力」。そして「恐るべきテーマ」。『アビス』の頃はスピルバーグとルーカスに肩を並べる存在まで君臨した。だが『ターミネーター2』の「1991年全米興行収入1位」でキャメロンはスピルバーグとルーカスを超えた。

[映画史「震撼」「CG創始者」]



■「CGは、最近数多くの映画に用いられてはいるが、まだ新しい技術といった感が強く、『T2』ほど大規模に採用した映画はない」
(『メイキング・オブ・ターミネーター2』より)

「神への冒涜」となる「CG」。「この世で作れない映像がない」技術。キャメロン監督こそが、今でこそ当たり前の「究極映像」=「CG」の “本物” の開拓者だ。アメリカ映画の歴史を変えた「CG創始者」。“神” と呼ばれる真実がここにもある。



『ターミネーター2』の「CG」が現代のアメリカ映画の基礎を築いた。「愛の映画」が「本当にそう見える」ためには極限のくそリアリズムが要求された。「T1000」を生み出したキャメロンの「狂気の世界観」。「誰も見たことがない」「新しいもの」に全世界が震撼した。



■「この技術がいかに新しいものかを考えると、T1000のキャラクターをこのレベルまでCGで処理しようというのはリスクが大きい。ジムは、あえてこのリスクに挑戦したんだ。最終的に50以上ものショットを作ったが、これは1本の映画の中に登場するCGの数としては、信じられないほど多いよ。だが、ジムが設定したキャラクターを作り出すには、これ以外手はなかった。一番最初にストーリーボードを見て感じたことは、“こんなもの、見たことも聞いたこともない” だよ」
(『メイキング・オブ・ターミネーター2』より)

当時これほど「CG」を使用した映画はなかった。『ターミネーター2』の成功がスピルバーグの『ジュラシック・パーク』を生み出した。ルーカスの『スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス』よりキャメロンは時代を先行した。現代の「神への冒涜」が始まったのはまさに『ターミネーター2』からだった。

[「誰にも予測できない」「恐るべきテーマ」]



「何をしても死なない」=「不死身」「無敵」の強さ。「警官17人殺し」「トレーラー爆発」の「無敵」から、「骨格」剥き出しで「上半身だけ」となってまでの「不死身」。1作目は「人間を殺す」ための「極限の悪」を「これでもか」と叩きつけた。これは人工知能「A.I.」が生まれようとしてる人類への警告。「便利」と思ってた文明に人間が滅ぼされる「恐るべきテーマ」だ。テクノロジーに頼りすぎる不安への「絶望」を示唆した。



■「 “運命ではない” 」

なぜ涙が止まらないのか? 『ターミネーター2』の「恐るべきテーマ」が「希望」だからだ。“運命ではない” “人生は自分で築く”。人間は自らの行動によって「絶望」を「希望」に変えることができる。

[「絶望」から「希望」へ]



人工知能「A.I.」への「不安」。人間の使い方によって「絶望」にも「希望」にも成り得るということ。「人間を殺す」ための力が「人間を守る」ための力に「変化」した時、ドラマは「恐るべき想像力」の “生息速度域” へ到達した。



「機械のターミネーターが 生命の価値を学べるなら-」。「自分が死んでも殺す」から「自分が死んでも守る」へ。「極限の悪」が「極限の善」へ豹変する。全世界が「シュワルツェネッガー」はまた人間を殺しにきたと思った。プラス方向での「極限の裏切り」。1作目が「悪」であればあるほど2作目の「善」が「極限領域」へ到達する。もはや1作目は「愛の映画」の「前置き」でしかなかった。

[「愛の映画」]



■「殺すとこだったぜ」
 「おれはターミネーターだ」
 「いいかい よく聞けよ
  君は もう
  ターミネーターじゃない
  人を片っ端から
  殺そうとするのは よせ」
 「なぜだ」
 「なぜって いけないんだよ」
 「なぜだ」


俺の「やりすぎ限界アンテナ」が一瞬で「危険度」を察知した。「ヤバい」…。もうここから涙が出た。「これはとんでもない映画になるぞ」……。



1作目の「絶望」から2作目の「希望」へ。人間のテクノロジーの全てが「絶望」ではないという「希望」。「悪」から豹変した「正義」。「人間を殺す」ための力が「人間を守る」ための力に「変化」した “補助パワー 始動”。「衝撃」の「愛の映画」。



1作目で「面白い映画」が「莫大な製作費」ではない「想像力」であることを全世界に証明した。その “本物” の「天才」が「莫大な製作費」を手に入れたらどうなるのか? パンツについた瞬間に聞こえた「ガルマ・ザビ」の台詞。「キャメロン… はかったな キャメロン!」。「恐るべきやりすぎ限界映画」に震撼せよ。「天才」という言葉が、キャメロンのような人間を表現するために存在する言葉であることを思い知るだろう。





『ターミネーター』
『ターミネーター2』

画像 2016年 12月