穴と橋とあれやらこれやら -330ページ目

穴と橋とあれやらこれやら

初めまして。ヤフーブログ出身、隧道や橋といった土木構造物などを訪ねた記録を、時系列無視で記事にしています。古い情報にご注意を。その他、雑多なネタを展開中。

 

2010年9月14日、初めての鎌倉探索。この日のネタで記事にしているのは、序盤の住吉隧道、中盤の北鎌倉駅裏の隧道扇ガ谷の名称不明隧道二本

 

 

 

今宵ご紹介するのは、北鎌倉駅方面に山越えするところにあった物件。事前に地図で見つけて気になっていたのを確認しに来たのだった。

 

 

 

 

おお。

見えてきた。が…

 

 

 

 

 

 

 

あーなるほど。

このパターンね。

 

実はこの日の前半、同じパターンのものを見ていた。ぁ、現在地コチラ

 

 

 

 

 

 

 

 

この不自然な封鎖。

パッと見、封鎖された旧隧道に見えるが、さっきのは実はそうではなかった。なので、ここもきっと「アレ」かと。

 

 

 

 

 

 

 

 

要石があるということは、

本当はもっとクラシカルなお姿だったんだろうと思うのだが、全面的に改修されているっぽい。

 

 

 

 

 

 

 

 

隙間から覗いた洞内はこんな感じ。

洞床の位置はこんなにも高く、路面とは全く一致しない。よって旧隧道ではあり得ないのである。

 

貫通しているのが見える。あちらへまわってみよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

で、あちらへまわるためには絶対に通るのがこちら、

神奈川県道21号横浜鎌倉線のこの洞門。

 

 

 

 

 

 

 

 

その名も、

(ウッ…ボケてる)巨福呂坂(こぶくろざか)洞門。

 

 

 

 

 

 

 

詳しくは

コチラをどうぞ(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

書かれているように実際はロックシェッドなのだが、

「切り通しを往く」感を出すために、この横長の六角形を連ねた開口部を設けてあるらしい。

 

 

 

 

 

 

 

うむ、

なかなかイイと思う。

 

 

 

 

 

 

 

抜けて振り返り。

伝わるかどうか、なかなかの坂。

 

 

 

 

 

 

 

 

で、写真右外、洞門のすぐ脇にあるのが、

先にご紹介したあの隧道の反対側である。

 

やたら文字数の多い扁額がある。やはりここの前に見たのと同じ「アレ」なようだ。

 

 

 

 

 

 

 

扁額には…

「巨 福 呂 坂 送 水 管 路 ず い 道」。

 

そう、これはかつて水道管を通した、管路隧道だったんである。そして、ここは鎌倉市内にもかかわらず、「横須賀市水道局」というミニ扁額も。どういうことか。

 

 

ネットで素晴らしい解説を見つけたので、少し長いが一部転載させていただく。

https://4travel.jp/travelogue/10656873 での、ドクターキムルさんという方によるものである。ありがとうございます。

 

建長寺から鶴岡八幡宮に向かう途中にある巨福呂坂洞門の横には巨福呂坂送水管路ずい道がある。鎌倉市の真ん中にあるのだが横須賀市水道局(現在は横須賀市上下水道局)が管理している。元々は旧海軍施設であった。
 日露戦争の勝利により、海軍力増強が推し進められ、横須賀海軍工廠をはじめとする横須賀の海軍施設も拡張されていった。その結果、艦隊補給や工廠用水などの水需要も増大し、走水水源では間に合わなくなった海軍は新たに相模川支流の中津川から水を引くことを計画した。これが軍港水道半原系統で、約53km離れた愛川村半原から新設の逸見浄水場まで自然流下式で導き、ろ過した後、各施設に配水するものであった。送水線路はほぼ直線に南東に向かい、鎌倉あたりで東南東に少し折れて横須賀・逸見へと続いている。そのため、送水線路上にあった河川や丘陵には水道橋や隧道が何箇所か建設された。この水道管が敷設されたルートは「横須賀水道みち」、「横須賀海軍水道みち」と呼ばれる。
 工事は明治45年(1911年)に始まり、大正7年(1918年)に通水し、大正10年(1921年)には全施設が完成している。
 半原取水口、半原沈殿地や逸見浄水場は現存しているが、平成19年(2007年)4月より送水休止中し、大部分は道路として利用されている。送水管路隧道(水道トンネル)も当時のままにレンガ巻き立てのものが幾つも残っている。今では、所謂戦争遺産なのかも知れない。

 

 

 

というわけで、これはかつての海軍による導水路の隧道なのだった。何も付け加えることはない。

 

 

 

実は当初、文中にある愛川町半原の取水地ほど近くに残る煉瓦隧道(この日とは別の2012年に訪問)を記事にしようと思っていたのだが、諸事情によりコチラをご紹介した。まあ色々考えながらやってますのよ(笑)。

 

テーマ分けに悩んだけど、まあ水路隧道かな、やっぱり。




最後に余談。


今回の記事でも片鱗は伝わると思うが、穴だらけの街・鎌倉はすなわち坂だらけ。レンタサイクルでまわったこの日は日頃の運動不足も祟って、もう足がDEATH(笑)。いないと思うが、チャリでまわろうって人はご覚悟のほど(笑)。

 

 

 

 

以上。みっちりの文章で終わるってのも珍しいな。

 

 

 

 

 

 

新型コロナウィルスの感染拡大による影響、甚大に出ておりますねえ。皆様いろんな局面でいろんな形で、影響を被っておられると思います。

 

 

わたくしもご多分に漏れずでございましてね。

 

「集まり」が禁忌とされているこの現状により、ウチの会社も非常に影響を受けておりまして、3月の売り上げがほぼ飛ぶ勢いでございます。それでも、もっともっと困っている方はたくさんおられるでしょうが。

 

 

2月26日の政府要請(文化庁による「各種文化イベントの開催に関する考え方について」)から約2週間、そして全国で休校が始まって1週間。まだ効果のほどは不明でしょうが、とにかく先が見えないのはツライですな。とりあえず、ただただ早く収束に向かうことを願うばかりです。

 

 

 

 

 

 

 

バス停記事ですよ(笑)。場所はコチラ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【2025年10月24日追記】

この橋の名称を誤って別の橋のものを記載していたため、記事タイトルを修正しました。状況はこちら参照。

 

 

2017年5月5日、深遠なる紀伊半島彷徨の2日目。

 

この日のネタで記事にしているのは朝方の菅の谷橋唐尾隧道関連だけだが、今宵のネタは夕方になって訪れた物件。

 

 

 

 

現在地はコチラ

この農道然とした道へと降りていく。

 

ちなみにバス停の名は「登記所前」というが、この小屋が登記所なんだろうか(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

で、右カーブの先でタメもなく広がるこの景。

すぐ出た~。

 

向こうを横切る長い橋は、国道168号のもの(名称忘れた・笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

で、本題はこちらでありまして、

ええ感じですやん…。

 

わたくしの記憶が確かならば、和歌山県で確認できた二件目の沈下橋。いや、この地域での呼び名は潜水橋か。

 

 

 

 

 

 

 

 

下流側からのサイドアングル。

コレを見て、めっちゃ違和感を感じた。なんかヘンやぞ?

 

 

 

 

 

 

 

 

上流側から見て、ようやく気付いた。

橋脚が、めっちゃヒョロヒョロなんですが!

 

この手の橋は、桁となかば一体化したゴッツいコンクリ塊の橋脚を備えていることが多い。しかるにここはこのとおり。大丈夫なのか?大丈夫じゃなさそうに見えるんだが。

 

 

 

 

 

 

 

そのくせ、桁だけは

上流側に水切り加工と、鉄板保護がキッチリと。

 

桁が無事でも、橋脚が損傷してしまえばなんにもならんと思うんだが、うーむ?

 

 

 

 

 

 

 

この手の橋にしては、

幅員はまあ広い方かな?ダブルトラックがしっかり刻まれてる。これなら車で乗り入れりゃよかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

川の名は、赤木川。

これは上流側。

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてこちら、下流側。

この日はほんと、水が少なかったなあ。

 

 

 

 

 

 

 

渡って、正対。

柔らかな西陽が、これまたイイ感じ。

 

なんか、青空のもとの開放的ロケーションの記事って久しぶりな気がするな。

 

 

 

 

 

 

 

コチラ側には、赤木川に降りるスロープがあったのだが、

そこから撮ると、三本のジグザグ状直線が画面を横切って、面白い写真になった。え?全然面白くない?それはあいにくでしたな…(笑)。

 

 

 

この時点で16時37分だったが、実はこの後にあと三つもいいネタ(当社比)に出会ってしまい、日没までガッツリだった。まあそのあたりもそのうち記事にしていく予定。

 

 

 

 

 

 

以上。

 

 

 

 

 

2016年6月11日、「HTK2016、久々OFFもあるよツアー(仮)」初日。この日のネタで記事にしているのは、相谷トンネル境隧道、メインターゲットであった田河内隧道まぢトンネル見返橋
 
今宵ご紹介するのは、まぢトンネルの次にやってきたトンネル。地図で見ると林道的な道に描かれた長そうなトンネル表記、ちょっと楽しみに現地へやってきたのだが…
 
 
 
 
 
おおっ!
殺風景なポータルだが、予想にたがわぬ長さじゃないの!
 
現在地コチラ。地図のポイント位置でわかる通り、志子部側から登ってきた。
 
 
 
 
 
 
 
扁額が示すお名前は、
本谷隧道。
 
 
 
 
 
 
 
 
特に意味なく、
ポータル脇に登ってもう一枚。
 
 
 
 
 
 
 
 
そして、ノートさん見下ろし。
路面にうっすら付着した苔で察しがつくとおり、この道そう使われてはいないようだった。とはいえ、これよりもずっと廃道っぽい現役道路はなんぼでもあるから、さほど酷いってわけではない。

 

 

なんでこんなこと書くかというとね。

 

帰ってから知ったことだが(そしてさほど意外でもなかったが)、この隧道は鳥取県で有名な心霊スポットだそうで(知らんけど)、検索すればいくつもその手のレポが出てくる。そういう記事でお約束のように道が酷いとか廃道同然とか書かれているのだが、いやいや、盛り杉でしょ。

 

 

 
 
 
 
 
 
当然ながら、いろんな表現で気持ち悪いとか嫌な感じがしたとか、口をきわめて並べ立ててるけど、
あたしゃあ全然なんとも。これまたいつもどおり。

 

見る人が見れば(そう見たい人が見れば)、なんか写ってんのかね、この写真も。知るかそんなん(笑)。単なる静かなトンネルであり、それ以上でも以下でもなかった。むしろ無照明っぽいのが逆にポイント高し。

 

 

しかし改めて、長さはなかなかあるな。これも帰ってから調べたところ、延長は673mだった。うむ、なかなか。ちなみに昭和47年建造。

 

 

 
 
 
 
 
 
鉄板の構図。
びっくりするほど全然怖くない(笑)。夜に来ればそりゃあ怖いでしょーが。
 
 
 
 
 
 
 
 
では、乗車して通り抜け。
洞内の志子部寄りは、断続的に素掘り区間が登場。このあたりは案外広いな。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大江側に抜けて正対。
 
印象が違うが、よく見れば志子部側とほぼ同じ仕様だ。
 
 
 
 
 
 
 
扁額もまた、ほぼ同じ。
なぜなら、同じ揮毫者だから(笑)。「船岡町長 福田耕蔵書」とある。

 

ちなみに船岡町は、2005年の合併で八東町の一部となってその名が消えた。

 

 
 
 
 
 
 
 
アンポン…
じゃなくて安本、若気の至りやな…(笑)。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大江側の
鉄板の構図。

 

ところで、ノートさんが停まってるところだが、

 

 
 
 
 
 
 
 
そこは、唐突な感じで
「大江隧道公園」なる公園となっていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こんな山奥に公園?と違和感ありあり。地図で見ると大江の集落もさほど近いわけでもないし。
それでも、さほど荒れ果ててるふうでもないのは、定期的にお年寄りたちがゲートボールでもやりに来てるんだろうか(笑)。

 

 
 
 
 

この後隧道を抜けて引き返したのだが、その際の動画を撮ってたのでどうぞ。

隧道からの林道もけっこう楽しかったので、ふもとの分岐まで少しだけ長くなっております。対向車一台あり(笑)。

 

 

 

以上。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【前篇】より続く。

 

 

 

ここまであえてスルーしてきたが、

暗渠内には一本の鉄管が通されていた。

 

 

 

 

 

 

 

しかしその一部は

無残に落下してしまっていた。

 

 

 

 

 

 

その落下箇所を見上げると、

どうやら固定用の金具が腐食、脱落したことが原因っぽい。

 

 

 

 

 

 

 

残りもいつ落ちるかわからないってことで、

廃物件探索は、いつでもどんなものでも自己責任。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この様子だと、

落ちて数年以上は経過してそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

煉瓦積みそのものは 

まだ健全…

 

 

 

 

 

 

 

 

と思いきや。

けっこうな規模のクラックが(汗)。

 

廃線路敷ということで土被りは少なく、もう列車が通過することもないために荷重に耐え続けるような状況ではないが、徐々に綻びは大きくなるだろう。川を通す暗渠なので、定期的に保守の手は入っているのでは?と思われる。

 

 

知らんけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

抜けて(ほぼ)正対。

ド逆光と植生に阻まれながら、なんとか撮った一枚である。

 

 

 

 

 

 

 

 

ちょっと気に入ったのが、

後付けで設置されたと思しき、鉄管を支持するステーとその台座。

 

写真上端に、逆行を遮ろうと添えていた手のひらが写り込んで萎(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

で、両側側壁は

年季の入りまくった空積みの石垣で、実にイイ感じ。

 

 

 

 

 

 

 

 

それにしても、いつも思うことだが、

小さな流れのたびにこんな手のかかる煉瓦構造物を逐一造ったとか、気が遠くなる。

 

この旧線が開業したのは1898(明治31)年のことだが、この規模のもの、どのくらいの人数で、どのくらいの工期で造ったのだろうか。昔の人はほんとに凄い。

 

 

 

 

 

 

 

いやいや、堪能した。

実は動画も撮ってたのだが、見返したら冗長すぎて、また逆光が見苦しくて、めでたくお蔵入りとなった(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(謎笑)。

 

 

 

 

 

以上、完結。