出雲国の八重垣めぐり④ ~千家家と北島家~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

出雲大社
(いずもたいしゃ・いづもおおやしろ)
といえば、

神楽殿(かぐらでん)が
知られています。

 



巨大なしめ縄は
出雲のイメージにも
なっているようですね。

しかしこちらは、
出雲大社ではなく

出雲大社教
(いづもおおやしろきょう)
の施設だといいます。

 

 

神光満殿(しんこうまんでん)の

額がかかるここは、

 

かつて

風調館(ふうちょうかん)と

よばれていたようです。



出雲の祭祀は

天照大神の子・
天穂日命(ほひ)によって
はじめられたといいます。

その子孫が、やがて
国造(くにのみやつこ)となり
出雲を治め、

いまでも
出雲大社の祭祀を
おこなっているようです。

 



天穂日命から
17代目のときに
 

「出雲」の姓を

たまわったといいます。

しかし、
兄弟争いによって

55代目からは


「千家(せんげ)」と
「北島(きたじま)」に

にわかれたようです。



そこから、

奇数月は
千家家が出雲大社の

祭祀をおこない

偶数月は
北島家が出雲大社の

祭祀をおこなったといいます。



明治時代になって
政府による

国家神道(こっかしんとう)が
整えられてゆくなか、

神官による
布教や葬儀が
禁止されると、

千家家は
出雲大社教を

北島家は
出雲教(いずもきょう)を
おこしたといいます。



これには、

神道は宗教なのか
神社は宗教なのか

というはなしも
関わってくるのですが、

神道を軸として
近代化をとげたい政府と

民間信仰のあいだには
ずれもあったのでしょう。

 



ですから、
日本各地の神社は
崇敬「講」をまとめて

「教団」を
たちあげることで、

土地の信仰(神話・歴史)
を守りつつ

神社を財政難からも
救おうとしたようです。

しかし、これもまた、
神社を統合管理したい
政府の策でもあったのでしょう。



当時は、
神道事務局(しんとうじむきょく)が

こうした教団を
管理していたようです。

 



なかでも、
信者数などのおおい教団は

 

神道事務局から

独立をゆるされたといいます。

 

これを

布教する神道として

「教派神道(きょうはしんとう)」

 

といったらしく、

神道事務局をふくめて
14派あったようです。



14派のうちのひとつが、
 

千家家の

出雲大社教だった

といいます。


ほかには、

 

伊勢(いせ)
神宮教(じんぐうきょう)

天理教(てんりきょう)

金光教(こんこうきょう)

も独立した

教派神道だったようですね。


北島家の出雲教は
神道事務局の所属

だったといいます。



出雲大社教を創設したのは

第80代・出雲国造の
千家尊福(せんげたかとみ)
だといいます。



神道事務局の
祭神をきめるさい、

造化三神と天照大神の
4柱を祀りたい
伊勢派と

大国主命をくわえて

5柱を祀りたい
出雲派のあいだで

論争がおきたそうです。

このときに
伊勢派と対立したのが
千家尊福だそうです。



出雲大社の
大国主命(おおくにぬし)
幽界(あのよ)をおさめる神
であるから、

顕世(このよ)をおさめる神・
天照大神とともに祀るべきであり、

目に見える世界と
目に見えない世界は
表裏一体だという

「幽顕一貫(ゆうけんいっかん)」
をとなえたといいます。

しかし、
国家神道を確立したい
明治政府と伊勢派は

あの世もこの世も
天照大神がおさめるとして
受けつけなかったようです。

これが、
神道事務局から
独立するきっかけにも

なったようですね。



のちに、
千家尊福は議員となり

東京の知事や
司法大臣となったといいます。

第2鳥居・

勢溜の鳥居のちかくには
銅像まであるようです。

また、
お正月に歌われる


としのはじめの
ためしとて

おわりなきよの
めでたさを


という
『一月一日』の歌も

千家尊福の
作詞だといいます。



戦後になって
出雲大社と出雲大社教は
統合されたとはいいますが、

出雲大社は
神社本庁の所属にあるものの

出雲大社教は
神社本庁の所属ではない
と明記しているようです。

これには、
神社本庁の前身である

神道事務局との確執が
あるのかもしれませんね。

 



ちなみに、
北島家の出雲教は

戦後に宗教法人として
認可をうけているため

神社本庁の所属では
ないようですが、

ご祭神として

大国主命や

天穂日命のほかに


造化三神と天照大神も

祀られているといいます。



ところで、
「千家」や「北島」という名は
地名からきているといいます。


千家は、


出雲市斐川町の
併川(あいわか)に

 

『千家』という

地名がのこっているようです。


神在月にあつまった

八百万の神々が
さいごに立ち寄るという

万九千神社(まくせのやしろ)
のあたりですね。

 



また、出雲大社の
北にそびえる山々は
北山(きたやま)山系ともいわれ、

かつては
神西湖(じんざいこ)
湿地帯のおくに浮かぶ
島のようにみえたともいいます。

 


北山山系のふもと、いまの

島根ワイナリーのあたりには


菱根池(ひしねいけ)という

巨大な池があり、

そこに暮らす国造のことを
北根島(きたねじま)の国造
とよんだそうです。

これが
「北島」となったようですね。

 


ということは、
出雲大社の地には

北島家のほうがさきにいた
ということでしょうか?

 



実際に、
北島家の館はもともと

出雲大社の
北側にあったといいますし、

 

北島家は

神在月(10月)をふくむ

偶数月の祭祀だけではなく、

 

3月3日、5月5日、9月9日

などの祭祀も

おこなっていたといいます。

 

 

祭神として

産土神も祀るようですし、

 

土地のひとびとは

北島家で結婚式をあげる
といいますから、

 

ふるくから

この地に根づいた氏族

だったのかもしれません。
 



おもしろいのは、
出雲国造はもともと

松江市の
大庭(おおば)あたりに

暮らしていたといいます。

 

 

神魂(かもす)神社の

あたりですね。

そこは、
出雲国造の氏神とされる
熊野大社(くまのたいしゃ)や

素戔嗚尊(そさのを)が
暮らしたとされる
須我(すが)神社もちかく

古代出雲の
中心地だったようです。



大庭は、島根半島が
海をへだてていたときも

もっとも陸地に
近づいていた場所であり

海運や防衛の拠点でも
あったことでしょう。


出雲国造が
大庭からいまの地に
うつったのは

奈良時代と
いわれるようですね。

とすると、
出雲大社はいつから
ここにあったのか?

というはなしにも

つながるようですが、

 

それはまたいずれ

書けたらとおもいます爆  笑キラキラ

 

 

出雲国の八重垣めぐり⑤ へ つづく

 

 

 

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