伊勢国の神宮めぐり⑮ ~伊勢神宮~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

天照大神(あまてらす)を祀る
内宮(ないくう)と、

豊受大神(とようけ)を祀る
外宮(げくう)と、

別宮(べつぐう)14社
摂社(せっしゃ)43社
末社(まっしゃ)24社
所管社(しょかんしゃ)42社

あわせて
125社の総称が

伊勢神宮(いせじんぐう)
だといいます。



第11代・
垂仁(すいにん)天皇の世に

皇女・
倭姫命(やまとひめ)が、

天照大神の御霊のやどる
八咫鏡(やたのかがみ)
祀ったのが

伊勢神宮のはじまり
だそうです。

 



これが、のちの内宮・
皇大神宮(こうたいじんぐう)
だといいます。



また、第21代・
雄略(ゆうりゃく)天皇の世に

天照大神の
食事をつかさどる神として

豊受大神の御霊
丹波から遷したようです

 



これが、のちの外宮・
豊受大神宮(とようけだいじんぐう)
だといいます。



皇室の祖神である
天照大神を祀ることから、

伊勢神宮は
すべての神社のうえにたつ


「本宗(ほんそう)」と

いわれているようです。



日本で
もっとも知られた神社の
伊勢神宮ですが、

ホツマツタヱをとおすと
さらに深く

知ることができました。

 



ホツマツタヱによれば

内宮は、天照大神が
身罷られた地だといいます。



天照大神が

政治を執っていたという
内宮の地はかつて、


サコクシロのウチ宮』と
いわれていたようです。

これが、
佐古久志呂(さこくしろ)の
宇治(うじ)としてのこり

いまでも、

内宮の鳥居前町


宇治(うじ)

というようです。



冬至には、

鳥居から朝日がのぼる
宇治橋(うじばし)



土地神を祀る
宇治(うじ)神社
ありました。

 



また、
ホツマツタヱによると
 

伊勢では
暦の管理もおこなっていた
といいます。

かつての暦は
『マサカキ』という木によって


「穂」「枝」「鈴」という単位で
数えられていたようです。



天照大神は、


ちょうど暦の木が
50鈴を迎えて枯れたころに
亡くなられたといいます。

境内の神域をへだてる
五十鈴川(いすずがわ)

という川の名は、

50鈴をむかえた暦の木
からきているようです。



伊勢神宮には
「しめ縄」はないといいます。

 

かわりにすべて
「榊(さかき)」が

つかわれるそうです。

 

これも、暦の木である

『マサカキ』からきている

のかもしれません。

 


戦後に自由化されるまで
日本の暦はすべて

伊勢神宮が管理していた
といいます。



五十鈴川には
御裳裾川(みもすそがわ)という
別名があるのですが、

これも
天照大神によるようです。

 



衣の裾のような
意識の届きにくいとこまで
目を向けることが

民を治めるうえでは
重要なことであるというのが
「裳裾の教え」であり、

天照大神は
代々の子孫にこれを
伝えたようなのです。

ですから、いまでも
皇統のことを

「御裳裾川の末(すえ)」
ともいうのだそうです。



ホツマツタヱによれば、

天照大神は
男神だったとされています

そして、その正后は
瀬織津姫(せおりつひめ)
とされています。



「伊勢(いせ)」というのは
「妹背(いもせ)」からきていて


「男女」のことだといいます。

さらには、
「陰陽」「天地」「日月」などの
ことでもあり

これらの
和合(わごう)によって

ながくやすらかな世が
築かれていくのだといいます。

ですから、
『神風の伊勢の国』
というのは

「神和せの妹背の国」
からきているようなのです。



内宮の北に
荒祭宮(あらまつりのみや)
ありますが、

ここには
天照大神の荒魂として
瀬織津姫(向津媛)
祀られているといいます。



ホツマツタヱによれば、

瀬織津姫は
マフツの鏡』をもって

天照大神や

民の姿をうつすことで

その身をかえりみらせ
心を清らかに保たせた
といいます。

 

夫婦岩(めおといわ)のある
二見浦(ふたみがうら)には、

 

鏡岩ともいわれる

興玉神岩(おきたましんせき)が

沈んでいるといわれ、
 

神宮参拝のまえには

二見浦で禊(みそぎ)をするのが

習わしだったといいます。

 

 

この「夫婦」岩も、

 

「妹背(いもせ・男女)」といわれる

「伊勢」の象徴的な姿

なのかもしれません。




天照大神が亡くなれてから、
伊勢の地がどうなっていったのかは
よくわかりません。

風土記によれば、

初代・
神武(じんむ)天皇のころには

伊勢津彦(いせつひこ)
治めていたといいます。



神武天皇はここに
天日別命(あめひわけ)
つかわせて

伊勢津彦に
国譲りをさせたそうです。

 



伊勢津彦は
この国を去るとき、

東から強風を吹かせて

信濃へ逃れたといいます。

これが、
『神風』として伝わり

伊勢津彦から地名をとって
『伊勢』というようになった
というのです。




内宮には
風日祈宮(かざひのみのみや)

外宮には
風宮(かぜのみや)があり

風の神を祀るのは、この
伊勢津彦によるようです。

 



また、
神武天皇がつかわせた
天日別命(あめひわけ)は

 

こののち、

伊勢国造として

伊勢を治めたといいます。

 

ですから、

風宮をにらむように建つ

土宮(つちのみや)には

 

天日別命が

祀られているのかもしれません。

 

 

この、

天日別命(あめひわけ)は


天照大神の世に
暦をつくっていたという


天二上命(あめふたえ)
子孫だといいます。

 

天二上命は

外宮の勾玉池にある

 

茜社(あこねやしろ)
祀られていました。




さらに、
天日別命の妻や子

外宮に祀られていて

それらの社はどうやら

三角形にならぶようでした。



また、

天日別命の子孫が
 

大若子命(おおわかご)

だといいます。

大若子命は
倭姫命(やまとひめ)につかえて

伊勢神宮の
初代・神主になられた方です。



五十鈴川のほとりで
猿田彦神(さるたひこ)に会ったのも
大若子命だといいます。

 

こうして、

大若子命は猿田彦から

伊勢の地をたまわったようです。

 


天二上命、天日別命、大若子命
とつづく系譜が

外宮の神官である
度会(わたらい)氏だといいます。

 

この氏族は、鎌倉時代に

度会神道(伊勢神道)をおこすと、

 

外宮の祭神である

豊受大神(とようけ)

 

原初神の

生まれ変わりであるとして

 

外宮の地位向上に

務めたといいます。

 

 

「外宮先祭(げくうせんさい)」

といって

すべての祭祀は
外宮からはじまるというのも

度会神道によるようです。

 

神宮参拝は

外宮から参るほうがよい

というのもこれによるといいます。

 

 

たしかに、
ホツマツタヱによれば

豊受大神は
天照大神の祖父であり、

日本の皇統をまもって
天照大神を養育したかた

だといいます。

そして、天照大神は
豊受大神を慕うあまり

京丹後にある
豊受大神の墓所のちかくに
埋葬されたというのです。

 



それほどのかたですから、


天照大神が祀られる
内宮のそばに

豊受大神を遷して

外宮としたというの

よくわかします。

 

また、

外宮の地位向上をねがった

度会氏のおもいもわかります。


記紀には、

豊受大神についてほとんどなにも

書かれていないため

 

豊受大神は天照大神の

食膳係とされていたようなのです。

 

外宮の神官は

度会(わたらい)氏が
つとめたように、

 

内宮の神官は

荒木田(あらきだ)氏が

つとめたといいます。

 

荒木田氏は

天児屋根命(あまのこやね)

子孫だといい、

 

ミカサフミを編纂した

大鹿島命(おおかしま)

はじまるようです。

 


50鈴をむかえて
天照大神が亡くなったあと


代理として政治を執ったのが、
天児屋根命だそうです。

天児屋根命は

臣を教育するため、ここに


『氏侍所(うちはべどころ)』という
官学校をひらいたようです。



これがのちの
林崎文庫(はやしざきぶんこ)
豊宮崎文庫(とよみやざきぶんこ)
へつながり

神職養成校である
皇學館大學(こうがくかんだいがく)
なっていったのかもしれません。

 

 

天児屋根命は、代理に

政治を執っただけでなく

 

天照大神の亡き地を

祀っていたことでしょう。

内宮には

内宮の磐座

(ないくうのいわくら)という

巨大な磐がありますが、

 

ここがその地

なのかもしれません。



もしくは、

倭姫命(やまとひめ)

伊勢神宮の祭祀をはじめた地

かもしれませんし、

猿田彦神(さるたひこ)

天照大神から授かった神器を

納めていた地かもしれません。

 

また、

猿田彦が座っていたという

『あぐらいし』かもしれません。

 



いまでも、
式年遷宮の祭祀は
ここからはじまるといいます。

 



内宮の磐座は、

 

宇治橋から

五十鈴川へむかう参道と
 

内宮の北をむすぶと
ゆきあたるようです。

 

それほど、

内宮にとって重要な場所

なのでしょう。

 



倭姫命によって、

 

天照大神の御霊が

ここに祀られたのは、

この地が

天照大神の亡くなられた地

だったからのようです。

 


では、外宮の地には
どんないわれがあったのか

というと、

天照大神の御子である
天忍穂耳尊(おしほみみ)が
産まれた地だといいます。



オシホミミの産湯をつかった
「をしほ井」という井戸は

上御井(かみのみいの)神社として
一般者は参拝できない
境内のおくに祀られているといいます。

日別朝夕大御饌祭
(ひごとあさゆうおおみけさい)では

 

上御井神社の水が
つかわれるそうです。



オシホミミが産まれたとき、


この地の

『もちゐ(餅飯)』が

ふるまわれたといいます。

 

身体が弱かったともいわれる

オシホミミにとって

「食」は重要だったようです。

外宮のある地は
「山田(やまだ・ようだ)」と

いわれていたそうです。

ここは、
高倉山(たかくらやま)

ふもとにある
 

稲作が豊かな地
でもあったのでしょう。

 

 

この地の「飯」によって

世継ぎのオシホミミが

ながらえたのであれば、

 

ここはまさに

食に関わる地といえるのでしょう。

 

 

そんな、

オシホミミの妻となったのが

栲幡千千姫命(たくはたちぢひめ)

であり、

 

内宮の相殿に

祀られているといいます。

 

鈴鹿峠(すずかとうげ)に眠る

スズカの神』でもある

栲幡千千姫は、

 

豊受大神の

ひ孫でもあるようです。

 

 

伊勢国の神宮めぐり ~終~

 

 

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伊勢国の神宮めぐり② ~五十鈴川~
伊勢国の神宮めぐり③ ~天照大神~
伊勢国の神宮めぐり④ ~内宮と荒祭宮~
伊勢国の神宮めぐり⑤ ~所管社~
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伊勢国の神宮めぐり⑦ ~宇治神社と足神さん~
伊勢国の神宮めぐり⑧ ~鳥居前町の社~
伊勢国の神宮めぐり⑨ ~猿田彦神社~
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伊勢国の神宮めぐり⑪ ~外宮~
伊勢国の神宮めぐり⑫ ~豊受大神~
伊勢国の神宮めぐり⑬ ~高倉山~
伊勢国の神宮めぐり⑭ ~二見興玉神社~
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