福知山(ふくちやま)の
豊受大(とようけだい)神社です。
豊受(とゆけ)とも
よむようですね。
4キロほど北にある
皇大(こうたい)神社は
伊勢(いせ)にしずまる
天照大神(あまてらす)が
もと祀られていた地として
元伊勢(もといせ)と
いわれますが、
豊受大神社は
伊勢の外宮にしずまる
豊受大神(とようけ)が
もと祀られていた地として
元伊勢と
いわれているようです。
天照大神の御霊は
この地で祀られたあとも
各地をめぐったようですが、
豊受大神の御霊は
ここにとどまり、
第21代・
雄略(ゆうりゃく)天皇の世に
伊勢に遷ったといいます。
しかしながら、
雄略天皇がみたという
天照大神のお告げは
『
丹波の比沼の真名井にいる
豊受大神を呼びよせよ
』
というもので、
この候補地もまた
比沼麻奈為(ひぬまない)神社や
真名井(まない)神社など
いくつかあるようです。
豊受大神社は
由良川(ゆらがわ)へそそぐ
雲原川(くもはらがわ)と
宮川(みやがわ)の
合流地点にある
船岡山という
丘のうえにあります。
かつてはここを
比沼の魚(真名)井ケ原
といっていたらしく
これが、由来に
なっているようです。
この船岡山を
古墳とする説もあるようですが、
川ぞいにあることから
中州だったのかもしれません。
中州を聖地として
神饌である魚をとる
湿地だったとすれば、
沼のような地にある
魚(まな)飯(いい)原も
ありそうな気がします。
また、一説には
聖徳太子(しょうとくたいし)の弟・
麻呂子(まろこ)親王が
鬼退治のさい、
天照大神を
皇大j神社に祀るとともに
豊受大神も
豊受大神社に祀ったとも
いわれるようです。
古事記・日本書紀には
ほとんど記述のない
豊受大神が
なぜ伊勢で
祀られているのかは、
ホツマツタヱをみれば
よくわかります。
豊受大神は
天照大神の祖父
(イサナミの父)にあたり
直系断絶の危機から
この国をすくい、
天照大神に
帝王学を教えた方です。
天照大神が
政治を執るようになると
あれていた
宮津(みやづ)へうつり
治めたといいます。
また、そのまま
マナヰに眠ったとも
いわれていて、
宮津や京丹後は
豊受大神のゆかりが深い地
のようです。
いわれていますから、
もしここが
その地だったとすれば
船岡山が墳墓というのも
だからでしょうか、
近畿五芒星の一角は
元伊勢・内宮の
皇大神社ではなく
元伊勢・外宮の
豊受大神社ともいうようです。
記紀では
天照大神も豊受大神も
女性神だとされていますが、
ホツマツタヱでは
天照大神も豊受大神も
男性神とされています。
これが、ホツマツタヱの
面白いところなのですが、
聞いたはなしによれば、
伊勢神宮でも豊受大神は
「女性とは限らない」
とされているそうなのです。
豊受大神とは、
天照大神が厚く敬った神であり
皇大神社が
湿度をもった陰の気、
谷の気だったとすれば
豊受大神社は
乾燥した陽の気、
山の気だったともいえそうです。
古木の鳥居にも
あるようにここは
聡明な豊受のおじいさま
という感じがします。
4つの摂社はどれも
伊勢外宮とおなじく
土宮(つちのみや)
多賀宮(たかのみや)
月宮(つきのみや)
風宮(かぜのみや)
というようです。
また、
本殿をコの字にかこむ
37の末社はそれぞれ
37の社家がそれぞれ
ひとつずつ祀ったとも
いわれるようです。
なかでも
御幸神社がおおきいのは
とりまとめ的な役割なのでしょうか?
とはいうものの、
ぼくの感覚としては
麻呂子親王が祀った社
というほうがしっくりくるようです。
鬼を平定したと
いわれていますが、
「鬼」というのは
朝敵という意味だとすれば
勢力をもった一団が
ここに国を築いていた
ともとれそうです。
元伊勢のある
大江山は鉱山であり
製鉄で栄えていたともいいます。
また、そんな
大江山をめぐる古道は
雲原川や宮川ぞいにあることも
関係があるのでしょう。
派遣された
麻呂子親王はむしろ
その一団を理解し
手を組んだようにも
思われてしまいます。
それはどこか、
国譲り神話のときに
出雲に派遣された
天穂日命(ほひ)にも
近いのかもしれません。
仏教のひろまる時代に
古代の神の教えをひらいた
麻呂子親王をおもうと
ここにもなにか
隠された歴史があったのかもしれない
などと思いを馳せてしまいます。
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☆近畿五芒星めぐり全記事リスト☆
近畿五芒星めぐり① ~元伊勢・内宮~
近畿五芒星めぐり② ~元伊勢・外宮~
近畿五芒星めぐり③ ~伊吹山~
近畿五芒星めぐり④ ~醒ヶ井~