近畿五芒星めぐり③ ~伊吹山~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

滋賀県最高峰の
伊吹山(いぶきやま)です。



標高はおよそ
1377メートルで
 

片道3時間半ほどで
登れる山だといいます。

琵琶湖(びわこ)

一望できる眺めもあって

初心者から上級者まで
親しまれる山のようです。

 


伊吹山ドライブウェイという
有料道路をつかえば

9合目まで
車でゆくことができて、

そこからは
歩いて20分ほどで
山頂ですから

ハイキングを楽しめる
観光地でもあるようです。



とくに
高山植物が豊かであり

目に鮮やかな
草花を楽しむことが

できるといいます。

固有種もおおく
「イブキ」とついた草花も
20種類以上あるそうです。



1300種という植生のうち
280種が薬草といわれ

「薬草の宝庫」とも
いわるようです。

こうした植生には
伊吹山の特殊な環境が
関わっているといいます。



伊吹山はちょうど
本州のまん中あたり、

若狭湾(わかさわん)
伊勢湾(いせわん)
はさまれたもっとも狭い
くびれ部分にあります。

 

 

若狭湾からの

日本海側の気流と

 

伊勢湾からの

太平洋側の気流が

ぶつかるため

 

風がつよく、雨や

霧もおおいようです。



北側はとおく
白山(はくさん)からつづく
山々がひろがり


北方の高山植物が
運ばれてくるのですが、

南側は
関ヶ原(せきがはら)など
平野がひろがるために
 

北方植物の終着地に
なっているといいます。


滋賀の
近江(おうみ)盆地と

愛知の
濃尾(のうび)平野をむすぶ
関が原は

 

日本の東西をつなぐ

関となるだけでなく、

風の通り道にも
なっているようで

 

冬には

豪雪地帯になるといいます。

11メートル82センチという
伊吹山の積雪記録はいまでも
世界一なのだそうです。



琵琶湖
600万年前に
伊賀で生まれた

古代湖であり、

40万年前に
いまの場所に落ち着いた
といわれますが、

伊吹山は
3億年前に噴火した
海底火山であり、

そのうえを
2億5千年前の
海底の層(付加体)が

おおっているといいます。

伊吹山の上部は
ウミユリや原生動物の
死骸によってできた

石灰岩(せっかいがん)
の層であり

そうした
石灰岩を好む植物も
集まっているようです。

 



伊吹山は
石灰岩の産地としても
採掘がすすんでいて

とおくからでも

おおきく削られた山肌を

みることができます。

ひとびとの
暮らしのためとはいえ
これをみるといつも

心が痛みます。

けれども、こうした
人の手によって
生み出されてきた環境も

あるようです。

 



たとえば
山頂やふもとからは

4000年前の
縄文時代の遺跡が
みつかっているといいます。

あたりには
集落が築かれていた
といいますから、

これらのひとびとによって
持ちこまれた植物もあるでしょう。

 



また、のちに

山岳信仰や修験道も

さかんになってくると、


行者たちの食糧として
「伊吹そば」が栽培された

といいます。

 

これは
在来種の蕎麦であり、

伊吹山は
日本蕎麦発祥の地とも
いわれているようです。

蕎麦発祥の地が
関東風と関西風の
出汁のわかれ目になっている
というのも面白いですね。



さらに、
織田信長の時代には

ポルトガルの
宣教師が持ち込んだ
西洋の薬草3000種を

伊吹山で栽培した
といいます。

このときの薬草のいくつかは

いまでも自生しているようです。

 



伊吹山の薬草は
全国の医薬品や漢方と
なるだけでなく

地元のかたがたの
民間薬にもなっている
といいます。

伊吹もぐさなどを使った
伊吹百草(ひゃくそう)は

お茶や入浴剤としても
親しまれているようです。

山頂や駐車場の茶屋では
こうした伊吹そばや

薬草アイスクリームを
いただくことができました!

 



薬草とともに
伊吹山のなりたちを
まとめてみましたが、

 

ここからは神話です。

なにしろ、伊吹山で
もっとも知られているのは
 

日本神話にものこる
日本武尊(やまとたけ)

だからです。



ヤマトタケ「ル」で
知られていますが

タケルには
蛮族という意味もあり
皇族の尊称にはつけらないので

本来は
ヤマトタケといわれていた
ようです。

 



父である第12代・
景行(けいこう)天皇の
命によって、

朝廷にしたがわない
地方の反乱軍たちを

西に東に鎮圧していった
ヤマトタケですが、

最期がここ
伊吹山だといいます。



ようやく遠征をおえた
ヤマトタケは、

愛知で待っていた妻・
宮簀媛(みやずひめ)
もとにかえってきました。

しかし、伊吹山に
荒ぶる神(守)がいるという
ひとびとの訴えによって

妻とゆっくり過ごす時間もなく
すぐに出発したといいます。

ところが、伊吹山では
神の返り討ちにあってしまい

 

その傷がもとになって
三重県鈴鹿の
能褒野(のぼの)
亡くなったといいます。



ヤマトタケは
伊吹山へ向かうとき、

神代より伝わる
草薙剣(くさなぎのつるぎ)を
宮簀媛のもとに置いていった
といわれています。

なぜ置いていったのかは

さまざまな説がありますが、
ぼくとしては

戦に明け暮れたヤマトタケは
その最期において

争いごと(武)を手放して
調和の道をさぐったのでは
と思っています。

また、
最期を悟ったヤマトタケは

愛する人のもとに
加護としての神剣を
置いていったのでは
とも思っています。

ひとり残された姫が
神剣を祀ったのが
熱田(あつた)神宮であり

以後、姫たちは
神剣を奉斎することで

ヤマトタケに
守られていたとも
いえるのでしょう。



では、
伊吹山の神(守)は
どんな方だったかというと、

古事記には
白猪とあり

日本書紀には
大蛇とあるようです。



ヤマトタケはこの姿を

神ではなく

神の使いだと誤解して
 

戦かわずに
またいでいったといいます。

そこで、伊吹山の神は
雹(ひょう・ひさめ・つらら)を
降らせて

 

風を吹きすさび

霧に迷わせたところ

ヤマトタケは
高熱とめまいに
襲われたといいます。

一説によると

このときヤマトタケは、


伊吹山に自生する
イブキトリカブトの毒に

やられたのではないか、

ともいうようです。



伊吹山という名から
祓戸大神(はらえど)の
1柱である

伊吹戸主(いぶきどぬし)
との関係も気になりますが、

ふもとの
伊富岐(いぶき)神社や
伊夫岐(いぶき)神社では

伊吹山の神として
多多美彦命(たたみひこ)が
祀られていました。


 

伝承によれば、
伊吹山の神である
多多美彦は

となりにある
金糞岳(浅井岳)の女神(姫)と
背くらべをしたところ

一晩のうちに背をのばした

浅井岳に負けてしまい
 

多多美彦は怒りにまかせて

浅井岳の女神の首を

斬り落としたといいます。

この女神の首が

つぶつぶと
琵琶湖に浮かんで
竹生島(ちくぶしま)になった
ともいわれ、

竹生島の
都久夫須麻(つくぶすま)神社には
浅井姫が祀られているようです。

実際に、
浅井岳は伊吹山につづいて
滋賀県で2番目の高さだといいます。

 



「伊吹」は「息吹」
「多多美」は「たたら」にも
通じることから、

伊吹山に暮らしていた
製鉄民族のこととも
いわれるようです。

浅井岳の旧称である
金糞岳(かなくそだけ)の
金糞とは

製鉄のさいに出る
金屑(かなくず)のこと
だといいますから、

 

ここに

浅井氏と伊吹氏の

争いをみることができる

ともいうようです。

多多美彦も浅井姫も
親類同士だといいますから

 

製鉄で栄えた民族が

暮らしていたのでしょう。

ジブリ映画の
「もののけ姫」の世界ですね。

さらにおもしろいのは、
伊吹山には巨人伝説まで
あるといいます。



9合目の駐車場と
山頂をむすぶ
3つのルートのうち

下り専用で
もっとも険しく
時間がかかるという
東登山道には、

 



石灰岩が
雨によって浸食された
カルスト地形という

不思議な光景が
ひろがっています。

 



巨石や奇岩が
意図をもってならべられた
かのような大地には

古代人の暮らしが
透けてみるようですが

中世のひとびとはここに
伊吹弥三郎(いぶきのやさぶろう)
という巨人をみたようです。

 


すり鉢状に崩落した磐は
カルスト地形によくみられる
ドリーネといものだそうですが

ここでは
「弥三郎泉水」と
いわれているようです。

 

写真では

ちょっとわかりにくいですね。

またこちらの磐は
「百間廊下」と
いわれているようです。

 



あたりには、
こうした磐座のような
奇妙な磐や
墓のような丘まであり

興奮さめやらぬ
場所となっています。

 



弥三郎はこのあたりを
住処にしていたといい

夜になると
食べ物や娘をとりに
村にあらわれたようです。

 

そのためか、
京の都であばれた
酒呑童子(しゅてんどうじ)の
父親ともされるようです。

また、
琵琶湖の土を運んで
伊吹山と霊仙山をつくった
ともいわれるようです。

比叡山(ひえいざん)

三上山(みかみやま)にも
そんな伝説がありました。

しかしこれも、もしかすると、
高い技術力で

山をひらいた一族のことを
いっているのかもしれませんね。



ヤマトタケの亡きあとは
ヤマトタケの息子が第14代・
仲哀(ちゅうあい)天皇
なるのですが、

その妻である
神功(じんぐう)皇后
息長(おきなが)氏の姫であり

伊吹山のふもとに
暮らしていたといいます。

息長氏は海中でも
息が長くつづくことから
海人族ともいわれますが

製鉄民である
伊吹(息吹)氏とも
つながるようです。

また、息長氏は
忌火(いみび)という
浄化の火にも関わるようですから

製鉄による

技術や軍事力をもった

強大な豪族だったのでしょう。



もしかすると、ヤマトタケが
伊吹山の神を討たなかった
という恩情が、

子の仲哀天皇の妻として
息長氏の姫をむかえた
という歴史につながった
のかもしれませんね。

日本列島の中心ともいえる
伊吹山では

おおくの歴史が動いた
ともいえるようです。


 

近畿五芒星の一角だけあって

とても地場が強い

のかもしれませんね。

 

 

近畿五芒星めぐり④ へ つづく

 

 


 

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☆近畿五芒星めぐり全記事リスト☆
近畿五芒星めぐり① ~元伊勢・内宮~
近畿五芒星めぐり② ~元伊勢・外宮~
近畿五芒星めぐり③ ~伊吹山~
近畿五芒星めぐり④ ~醒ヶ井