河内国の応神めぐり② ~仲哀天皇陵~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

辛國(からくに)神社
500メートルほど南にある
岡(おか)ミサンザイ古墳です。



第14代・
仲哀(ちゅうあい)天皇
埋葬されたという

恵我長野西(えがのながののにし)陵

だといわれているようです。



辛國神社でも、

物部(もののべ)氏
第21代・
雄略(ゆうりゃく)天皇から
 

餌香長野(えがのながの)邑を
たまわったとありましたし、

葛井寺(ふじいでら)には
長野神社があったといいますから

 

ここはかつて

長野といわれた地だったのでしょう。

 



また、

「岡ミサンザイ」の
「岡」も地名だといい


「岡村」があったと

いわれているようです。

 

「ミサンザイ」は

「陵(みささぎ)」が訛ったもの

だともいいますし、

 

「鷦鷯(みそさざい)」という
鳥からきているともいうようです。

 



第16代・

仁徳(にんとく)天皇は

 

斎名を

大鷦鷯(おほささぎ)といい

ミソサザイがまじっているのですが、

 

これもまた

大きな陵を意味する

という説もあるようです。

 


第16代・

仁徳天皇陵は

全国1位のおおきさ

 

第15代・

応神(おうじん)天皇陵は
全国2位のおおきさ

といわれますが、

 

第14代・

仲哀天皇陵は
16番目におおきい陵と

されるようです。



全長は

245メートル、

後円部は
頂高55mあるといい、

藤井寺市内では
もっとも標高があるといわれ

その眺望のよさから
戦国時代には
城郭が築かれていたようです。

 



大阪夏の陣の
道明寺(どうみょうじ)の戦いでは

真田軍が利用したのでは
という話しもあるといいます。

江戸時代になってふたたび

修造されたそうですが、

 

そのときには

3段づくりの古墳が

5段づくりになるなど
改変もあったようです。



出土品の埴輪から
5世紀末のものともいわれ

埋葬者は
仲哀天皇ではなく
雄略天皇ではないか
ともいわれるようですが、

いずれにせよ
大王クラスの墳墓には

ちがいないようです。

 

 

数千年のときをこえて

神々からつらなる

天皇家の陵であるという感動は

 

この国の

誇れる文化のひとつだと

ぼくは思います。




『をとめ と つるぎ』
という舞台で

ぼくは仲哀天皇を
演じさせていただいたのですが、

ご挨拶もかねて

公演前に参拝させていただきました。



すでに公演は
終えているのですが

世間の騒がしさもあって
いまだ御礼もご報告もできておらず

申し訳なく思っています。

 

いずれ

記事にさせていただこうと

思っていますが、

 

ここですこしだけ
公演のなかで気がついたことを

書いてみようかと思います。


 

仲哀天皇の死については

いろいろな話があるようですが、

 

神霊をおろした妻・

神功(じんぐう)皇后にむけて

 

仲哀天皇がはなった言葉が

不遜であるとして

神に死をつきつけられた、

 

というのが

一般的な解釈のようです。

 

 

古事記には
 


高きところに登りて
西のかたを見ても
国は見えず
ただ大海のみあり


とあり、

 

海外遠征をすすめる神に

「外国などない」と

突き返したといわれるシーンです。

 

 

海外情勢も

知っていた天皇が

なぜこう言ったのか、

 

稽古のなかでみえてきたのは

あえてこう言ったのでは?

ということでした。

 



仲哀天皇は

この国の歴史を
そのまま受け継ぐという

意志があり、

 

この国の歴史は
海の外にはない、

 

海外に手出しはしない
とも取れるようでした。

 

そしてそれは

神に背いてまでも

 

日本人としての

調和の道をつらぬく

ということだったようにも

思われました。

 

その姿はどこか

父・日本武尊(やまとたけ)が

神の剣を手放して

 

伊吹山(いぶきやま)

向かった姿とも重なるのでした。

 

 

神がかった

神功皇后は

 

なんじは

ひと道に向かいたまえ

 

と告げたといいます。

 

神の怒りにふれたとして

この言葉は

「死」を意味するといわれますが、

 

死さえ覚悟した

天皇にとってこれは

「人道(ひとみち)」であり

 

ひとびとがより

豊かになるため

調和の道をえらんでいた

ということなのかもしれません。

 

そうすると、仲哀天皇は

神に立ち向かってまで

人の道をひらかれた方だった

という解釈もできそうでした。

 

死によって道をひらく

とはとてもむずかしいことですが

 

ふとそんな考えが

よぎったのでした。

 

 

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☆応神めぐり全記事リスト☆

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河内国の応神めぐり② ~仲哀天皇陵~
河内国の応神めぐり③ ~白鳥陵と白鳥神社~
河内国の応神めぐり④ ~誉田八幡宮~
河内国の応神めぐり⑤ ~道明寺天満宮~