河内国の応神めぐり③ ~白鳥陵と白鳥神社~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

古市(ふるいち)駅の
500メートル南西にある
白鳥陵(はくちょうりょう)古墳です。



ここは、
日本武尊(やまとたけ)の
陵だといわれています。

「ヤマトタケル」で
知られていますが、

これは
明治以降の読みだそうで

もともとは
「ヤマトタケ」だといいます。



三重県の
能褒野(のぼの)
身罷ったヤマトタケは

陵に埋葬されるとき
白鳥となって
飛びたったといいます。




そうして
河内(かわち)国の
旧市(ふるいち)村に
降りたったそうです。

そこで旧市にも
陵を築いたのがここ
白鳥陵古墳だといいます。

 



日本書紀には

ほかにも

大和(やまと)国の
琴弾原(ことひきのはら)にも
降りたったとあり、

奈良県御所市の
冨田(とみた)にも
陵があるといいます。

この3つの陵をあわせて
白鳥陵(しらとりりょう)と
いうようです。



天皇・皇后以外の皇子で
「陵」という
表記をつかうのも

3つの陵をもつのも
ヤマトタケだけだといいます。



ホツマツタヱには


しらいとり
おひたつぬれは
やまとくに
ことひきはらに
おはよえた
おきてかわちの
ふるいちに
またよはおつる 



白い鳥を
追い尋ねれば

大和国の琴弾原に
尾羽を4枝置いて

河内国の旧市にも
また4羽落ちた


とあります。
また、


おははあたかも
かみのよの
よはきしそこれ 



尾羽(おば)とは
天皇の治世において
世を祓い清めるようなもの


とありますから、

尾羽とは
紙垂(しで)や
御幣(ごへい)のようなもの
だったのかもしれません。



松尾(まつお)大社
創祀をしたのは
忌寸都理(はたのいみきとり)
といいますから、

白斎鳥(しらいとり)というと
どこか人名のようにも
思えてしまします。



白鳥陵古墳は

軽里大塚古墳
(かるさとおおつかこふん)

前の山古墳
(まえのやまこふん)

ともいうようです。

なぜなら、この古墳は
5世紀後半の築造ともいわれ

ヤマトタケとは
年代的なズレがあり

埋葬者にも
諸説あるといいます。



白鳥陵古墳にはかつて、
伊岐宮(いきのみや)という
お社があったといいます。

戦国時代に
戦火で焼失すると
500メートル西の

峯ヶ塚(みねがづか)古墳に
遷されたといいます。

 



その後、
大地震で倒壊した
といわれますが、

江戸時代の終わりごろ
遷座すると

白鳥明神として
祀られたといいます。

 



それが現在、
古市駅の東にある
白鳥(しらとり)神社であり、

社殿には
『伊岐宮』の扁額が
ありました。

 

 

一説には近隣の

伊岐谷にあったとも

いうようですが、

 

この文字をみれば

ヤマトタケが致命傷を負った

伊吹(いぶき)山

 

伊夫岐(いぶき)神社

思い出します。


この神社の地にはもともと
神仏習合によってうまれた
牛頭天王(ごずてんのう)

その妻とされる
頗梨采女(はりさいじょ)が
祀られていたといいますが、

伊岐宮がここに遷座して

白鳥神社となったとき、


その同一神とされる
素戔嗚尊(そさのを)と
奇稲田姫(いなたひめ)が
ともに祀られたようです。

 



また、近隣の
高屋(たかや)神社も
合祀されると

祭神であった
饒速日命(にぎはやひ)

広国押武金日命
(ひろくにおしたけかなひ)こと

第27代・
安閑(あんかん)天皇も
祀られたといいます。



白鳥神社の
縁起によると

ヤマトタケは
この地から飛びたつとき


埴生野(はにゅうの)の丘を
羽を曳(ひ)くがごとく
飛び去った


といわれていて、

 

これが
羽曳野(はびきの)市の
由来になっているといいます。



しかしながら、


記紀には
その記述がみられず

もしかすると
ホツマツタヱにある


おははあたかも
かみのよの
よはきしそこれ 





尾羽がまるで
野を掃くように
曳きずっていった


と解釈したのかもしれません。

だとしたら、
とても面白いですね。

 



白鳥陵古墳が
ヤマトタケの陵に
治定されたのは
明治期のことだといい、

それまでは
白鳥神社のある丘が
ヤマトタケの陵だと

されていたようです。

ここは
白鳥神社古墳といわれ


もとは

前方後円墳だったようですが

古市駅の建設によって
分断されたといいます。

とはいえ、

古墳とするにはあまりに

出土品がすくないともいい

こちらも諸説あるようです。

 



この地は、
古市古墳郡として
世界遺産にも登録されていて

大小さまざまな古墳が
ならんでいます。

さらに、
白鳥陵古墳の北にある
翠鳥園(すいちょうえん)遺跡からは

およそ
2万年まえの
旧石器時代の石器が

2万点ちかくみつかった

といいます。

 

いずれも奈良県の

二上山(ふたかみやま)で採れる

サヌカイトで作られているといい

 

ここは、

石器の製作場だった

ともいうようです。

 



ですから、もしかすると、
ここは神話の時代から
栄えていた地なのかもしれません。

ちなみに、ここには
百済(くだら)の

渡来氏族である
 

古市(ふるいち)氏が
暮らしていたといいます。

辛國(からくに)神社
葛井寺(ふじいでら)には

百済の

辰孫王(しんそんおう)からつづく
葛井(ふじい)氏が
いたといいますが、

ほかにも
辰孫王の系譜の

津(つ)氏や
船(ふな)氏が
いたといいます。

どちらも
海運水運に関わる
氏族だったようです。

第15代・
応神(おうじん)天皇

第16代・
仁徳(にんとく)天皇も

これらおおくの
渡来人の力をかりて
治水事業に取り組んだといいます。

さらに、
百済の王仁(わに)からつづく
西文(かわちのふみ)氏も
いたといい、

こちらはおもに
朝廷で文筆を担当したといいます。

 

ですからここは、

渡来系氏族の栄えた地

でもあるようです。
 

 

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