紀伊国の熊野めぐり⑩ ~花の窟神社~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

三重県の熊野市
有馬(ありま)にある

花の窟神社

(はなのいわやじんじゃ)

です。

 



熊野灘(くまのなだ)に面した

七里御浜(しちりみはま)の
北端ちかくにあるここは、

天照大神の母・
伊弉冊尊(いさなみ)
御陵といわれています。

 



日本書紀には


イサナミを
紀伊国熊野の
有馬村に葬った。

花のときには
花をもって祀る。


とあるようです。

 



これは
ホツマツタヱにも


いさなみは
ありまにおさむ
はなとほの
ときにまつりて


とあり、

 

おなじことが

書かれているようです。



『花と穂のとき』とは
『春と秋』のこと

だといいます。

いまでも
花の窟神社では、
 

2月2日と10月2日に
例大祭である

『御綱掛け神事』が

行われているといいます。



高さ45メートルともいわれる
ご神体の磐の頂上と、

ご神木の松の木を
170メートルの長い綱で

結ぶのだといいます。



大綱は細い藁縄を
7本たばねて
つくられており、

それらは
イサナミが産んだという
7柱の自然神を

あらわすのだそうです。

 



風の神・
級長戸辺命(しなとべ)

海の神・
少童命(わたつみ)

木の神・
句句迺馳(くくのち)

草の神・
草野姫(かやのひめ)

火の神・
軻遇突智尊(かぐつち)

土の神・
埴安神(はにやす)

水の神・
罔象女神(みつはのめ)

これがその

7柱だといいます。



大綱には
3本の綱幡が吊るされ、

2月には
ツバキの花が

10月には
ケイトウの花が
飾られるといいます。

 



3本の幡は
三流の幡(みながれのはた)
といい

イサナギとイサナミの
子である

天照大神(あまてる)
月讀命(つきよみ)
素戔嗚尊(そさのを)

をあらわすようです。

だとすれば

扇のついた綱は、

 

ワカ姫ヒルコさまと

ヒヨルコさまを

あらわすのかもしれませんね。



ご神体の磐は
圧巻で、

 

岸壁のようです。



一説には、


花の窟神社の磐は
陰石(いんせき)であり

神倉山(かんのくらやま)
ゴトビキ岩を

陽石(ようせき)とした
一対ともいわれるようです。

 

また、

ゴトビキ岩とおなじく

 

この磐もまた

『天磐盾(あめのいわたて)』ではないか

といもいうようです。

 

したのほうに、

ぼくがいるのが

わかりますでしょうか?

頂上付近の磐は

アメリカ・ラシュモア山の

大統領像のように、

 

ひとの顔のようにも

見えてきます。

 



これもまた、

1500万年前の
火山活動によって
産まれたものだといい

地上に噴きだした
熊野カルデラのマグマが
火砕流となって固まったもので、

流紋岩質火砕岩
というのだそうです。

 



イサナミは
火の神・
カグツチを産んで
亡くなったといいますが、

花の窟神社から
2キロほど西には

カグツチが
産まれた地とされる
産田(うぶた)神社が
あるといいます。

 



第10代・
崇神(すじん)天皇の時代に

玉置(たまき)神社
遷されたという
速玉神(はやたま)は、

産田神社から
遷されたともいうようです。



玉置山にも
火山の形跡がありましたし

火の神・カグツチは
火山にも通じるのでは
という気もしてきます。

花の窟神社では
イサナミの磐座と
向かい合うように、

 

カグツチの磐座が
ありました。

 



こちらも
とても立派な磐座です。

記紀では
御子とされますから、

王子の窟(おうじのいわや)とか
聖の窟(ひじりのいわや)と

よばれるようです。

 

こちらにも

頭があるような

気がしてしまいます。



熊野には
古墳がないともいわれ

 

かつては
風葬や水葬だったのではないか
という話もあるようです。

イサナミが納められたのは

御幣のさきにある

縦長の窪みだと

いわれているようですが、

イサナミが

死後の姿を恥じたのは

風葬だったからではないか

ともいうようです。

 


また

有馬には、

炭焼きを業とする
渡来人の集団が

出雲から移住してきた
という伝承もあるといいます。

ソサノヲを
祖先と仰ぐ人々が、
故郷に帰ってきた
のでしょうか?

もしかすると、

カグツチが炭焼きをする
渡来人だったのかもしれません。

 

だとするとそこに、

カグツチとイサナミの関係も

見いだすことはできないでしょうか?


カグツチの磐座を

みていると、


イサナミを慕って

この地で身罷った
カグツチの墓にも

みえてきそうです。




熊野速玉大社

(くまのはやたまたいしゃ)にも
 

徐福(じょふく)の

到来伝説がありましたが、

北東に
10キロほど離れた
波田須町(はだすちょう)にも
徐福到来伝説があるといいます。

 

青岸渡寺(せいがんとじ)の

裸形(らぎょう)上人といい

この地には
おおくの渡来人が
たどり着いていたのかもしれません。

 

しかしそれは、

楽な道のりでは

なかったようです。

 



熊野灘は
たいへんな荒波であり、

明治9年には
軍艦「雲揚(うんよう)」が
座礁・沈没し、

平成21年にも
フェリーが座礁したといいます。

七里御浜は
日本の渚百選にも選ばれる
美しい浜のようですが、

波が荒く
急に深くなるため
遊泳禁止だといいます。

 



初代・
神武(じんむ)天皇の
東征でも

熊野灘の荒波を鎮めるため
神武天皇の兄弟である
イナヰイとミケイリが
身を投げたといいます。

 

しかし、彼らには

その後も生き延びた

という伝説もあるため

 

どこかの浜に

流れ着いたのかもしれません。

 



手水のとなりにある

この磐座は、

 

ご神体から

はがれ落ちたといいます。

 

身体の悪い部分を

なでてから

この磐を触ると

治るともいわれていて、

 

隈(くま)を背負って亡くなった

イサナミの神徳

なのかもしれません。



境内にはほかに

お稲荷さんの社と
黄金竜神の社がありました。

 

玉砂利が敷かれた

不思議な場所です。

 

 

神武天皇の

ご兄弟といわれる

ミケイリは、

 

三狐神(みけつかみ)とも

家津美御子(けつみみこ)とも

通じそうです。

 

ともに由来は

御食(みけ)だといいます。

 

 

龍神さまは

金運アップとも

いわれているようですが、

どちらも背後には

磐がそびえており

 

磐を祀る社のようにも
感じられました。

 

どなたかの御霊が

宿られているのかもしれませんね。



ところで、

「花の窟」の由来ですが

 

ホツマツタヱでは

ソサノヲの本名を

「ハナキネ」というのだそうです。

 

イサナギとイサナミが

クマノの地

 

長女の

ワカ姫ヒルコともに

 

はなのもと

うたおをしゑて

 

暮らしていたときに

産まれたので、

この名をつけたようです。

 

 

その後、

すれ違ってしまう

母と子のおもいが

 

こうして陵のもとで

ひとつになっていることに

胸が熱くなります。

 

 

紀伊国の熊野めぐり⑪ へ つづく

 

 

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