熊野三山(くまのさんざん)
のひとつである
熊野那智大社
(くまのなちたいしゃ)です。
那智山(なちさん)の
中腹にあるここは、
熊野三所権現
(くまのさんしょごんげん)
のひとりである
熊野夫須美大神
(くまのふすみ)
を祀っているといいます。
かつては、
800メートルほど北にある
那智の瀧のふもとにあり
瀧そのものを
ご神体として
祀っていたようです。
社伝によれば、
初代・神武(じんむ)天皇の
東征のさいに
那智の浜に
上陸した一行は、
光輝く山を目指して進み
この瀧をさぐりあてると
大己貴命(おおなむち)
を祀ったといいます。
その後、那智山の
光ヶ峰(ひかりがみね)に
那智権現が降臨したので
あわせて祀るようになったようです。
現在地に遷座したのは
第16代・
仁徳(にんとく)天皇の時代
といいますから、
すでに
1700年以上の歴史が
あるようです。
鳥居の正面
向かって右側の山々が
光ヶ峰だそうです↓
もちろん
神武天皇の上陸地には
諸説ありますし、
ソサノヲの子であり
出雲の大国主である
オホナムジをなぜ
瀧に祀ったのかも
よくわかりませんから
この社伝はどこか
強引な気もします。
けれども、
熊野本宮大社
(くまのほんぐうたいしゃ)の
社伝とおなじく
「光(月)が降りてきた」のが
熊野権現のはじまり
「夫須美(ふすみ)」に
「結び(むすび)」を掛けて、
ここは
「結宮(むすびのみや)」
ともいわれ、
縁や願いを結ぶ神社
ともされているようです。
熊野三山では
伊弉冉尊(いざなみ)の
別名とされる
熊野夫須美ですが、
ホツマツタヱによれば
クマノクスヒは
天照大神と
トヨ姫アヤコの子で、
本名(諱)を
ヌカタダといったようです。
ホツマツタヱには
『
なちのわかみこ
ぬかたたよ
いさなみまつる
くまのかみ
』
とあり、
ヌカタダ(クマノクスヒ)は
那智の若御子といわれ
この地で
祖母イサナミの霊を
祀っていたようなのです。
ですから、
おそらくここは
クマノクスヒが
祭祀をおこなった地であり
那智の瀧は
クマノクスヒが身を清めたか
瀧そのものを
イサナミとして祀った
のかもしれません。
また
拝殿のとなりには
八咫烏(やたがらす)を祀る
御縣彦社(みあがたひこしゃ)が
ありました。
おそらくこれも
『
しこめがしゐを
からすかみ
まつれはくろき
とりむれて
からすとなつく
』
クマノクスヒが
黒い鳥を
「カラス」と命名した
事績によるのでしょう。
しかしながら、祭神は
建角身命(たけつみ)と
されていました。
八咫烏を
タケツミとする説は
根強いですが、
ぼくとしては
別人格であると
思いたいところです。
さらに、
本殿の瑞垣のなかには
烏石(からすいし)という
磐座があるといいます。
道案内を終えた八咫烏は
この地に舞い戻り、
烏石となって鎮座したという
いわれがあるようです。
とすれば、
社殿の遷座は
磐座を祀るため
だったのかもしれませんね。
またその
歴史のなかでは
平重盛(たいらのしげもり)が
造営奉行となったり、
織田信長(おだのぶなが)による
焼討にあったり、
それを
豊臣秀吉(とよとみひでよし)が
再興したり、
江戸幕府第8代将軍・
徳川吉宗(とくがわよしむね)が
大改修をおこなったりと、
さまざまな変遷が
あったようです。
境内には
奥州藤原氏の
藤原秀衡(ふじわらのひでひら)
手植えの山桜があったり、
第77代・
後白河(ごしらかわ)法皇の
御手植えの桜が継がれていたり
するといいます。
とくに
後白河法皇の崇敬はあつく
34回におよぶ熊野詣を
おこなったといいます。
ところで
「那智」の語源についても
難地(なんち)に
由来するとか、
山の入口を意味する
「なぐち」「なぎた」から
きているとか、
インドの
女性の蛇神である
「ナーギ」からきてるとか、
さまざまな言われが
あるようです。
これを
漢字から解いてみると、
「那」「智」は
『しなやかで美しい
神への誓いをたてる』
となり
またしても
イサナギを祀る
クマノクスヒの姿が
見えてくるようでした。
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