伊勢国の神宮めぐり⑬ ~高倉山~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

外宮(げくう)の鎮座する
高倉山(たかくらやま)には
 

ほかにも、

たくさんの社があります。

 

 

また、山頂ちかくには

高倉山遺跡(たかくらやまいせき)という

巨大な円墳まであるというのです。


奥ゆき、約19メートル
高さ、約4メートルという石室は
国内最大級だといいます。

しかも、かつては
天岩戸(あまのいわと)とよばれ

公開されており、
 

江戸時代には

参拝客でにぎわっていた

といいます。

 

山中の参道には

茶屋やお休み処まで

あったようです。

 


いまでは、

高倉山は立入禁止とされ

石室もみることはできないようです。

 

けれども、
遺跡につかわれてた

巨石のひとつが

高倉山と神域をわたす
橋になっていて

亀石(かめいし)として
親しまれているといいます。

 


高倉山遺跡の埋葬者は
わかっていないそうですが

外宮の神官である
度会(わたらい)氏ではないかと
いわれているようです。



亀石をわたると、

西に別宮・
風宮(かぜのみや)

東に別宮・
土宮(つちのみや)
があります。



風宮は、内宮にある
風日祈宮(かざひのみのみや)
とおなじく

風の神である
級長津彦命(しなつひこ)と
級長戸辺命(しなとべ)という
男女神を祀るようです。



「神風(かみかぜ)の国」
ともいわれる

伊勢(いせ)にちなんだ
社のようです。

ただ、
別宮に昇格したのは

鎌倉時代の元寇(げんこう)を
撃退した神徳によるといいます。

それまでは、
内宮も外宮も風宮は
末社だったそうです。



土宮は
地主神である

大土乃御祖神
(おおつちのみおや)を
祀るといいます。

気になるのは、
土宮だけ南ではなく

 

東にある風宮を
向いているということです。

 



伊勢国風土記によれば、

もともと
伊勢国を治めていたのは
伊勢津彦(いせつひこ)

だといいます。

朝廷から派遣された
天日別命(あめひわけ)
にせまられて、

 

伊勢津彦は、この地を
国譲りしたようです。
 

国を追われて

東方の地へ去るとき、

 

伊勢津彦は
神風を吹かせたといいます。

それによって

伊勢は「神風の国」と

よばれるようになり、

 

以来、伊勢は

東から吹く風が強いのだそうです。



とすると、

風宮は
伊勢津彦のことであり、

土宮は

渡会氏の祖先である
天日別命のこと
なのかもしれません。

 



境内にはほかに

度会大国玉比賣
(わたらいおおくにたまひめ)神社と

度会国御(わたらいくにみ)神社が
祀られていました。

 



度会大国玉比賣とは、

伊勢津彦の娘であり
天日別命の妻になった

弥豆佐佐良比賣命(みずささらひめ)を
祀るといいます。



また、
度会国御神社は

弥豆佐佐良比賣命と
天日別命の子である

彦国見賀岐建與束命
(ひこくにみがきたけよつか)を
祀るといいます。

 

つまり、境内には

度会氏の祖先である

父と母と子が祀られている

ということのようですね。

 

さらに、

茜社(あこねやしろ)には

 

天日別命の祖父である

天二上命(あめふたゑ)

祀られていましたから、

これらをむすぶ線もまた
意味があるのかもしれませんね。

 



さて、
風宮・土宮があるのは

高倉山域にある
檜尾山(ひのきおやま)という
丘のふもとですが、

 



檜尾山に鎮座するのが
多賀宮(たかのみや)です。

 


豊受大御神(とようけのおおみかみ)
荒魂(あらみたま)を祀るといいます。

 



内宮の荒祭宮(あらまつりのみや)では
天照大御神(あまてらすおおみかみ)

荒魂として

天照大神の正后である
瀬織津姫(せおりつひめ)
祀られていると書きました。

とすると、
外宮の多賀宮でも
豊受大神の荒魂として

べつのかたが
祀られているのかもしれません。



多賀宮の東のふもとには
下御井(しものみいの)神社
があります。

ここは、社ではなく
井戸を祀るといいます。



ちょうど谷のようになっていて
個人的には外宮のなかで
とりわけ好きなお社です。

高倉山周辺は
水が豊富だといいます。

水が湧くということも
食事をつかさどる神として
重要なのでしょう。

しかし、
祭礼につかわれるのは
下御井神社の水ではなく

上御井(かみのみいの)神社
の水だといいます。



高倉山域にある
藤岡山(ふじおかやま)の
ふもとにあるといいますが、

立入禁止の場所にあり
参拝できないといいます。

 



日別朝夕大御饌祭
(ひごとあさゆうおおみけさい)では

上御井神社の水が

つかわれるといいます。

そして、もし、
上御井がかれたときにだけ
下御井をつかうといいます。

けれども、これまで

上御井がかれたことはないようです。

 

だとすると、

下御井はなんのために

あるのでしょう。


さて、

気になるのはここからです。
 

上御井は、またの名を
『をしほ井(忍穂井)』
というのだそうです。



ホツマツタヱには、


むかつひめ
ふちおかあなの
おしほゐに


うふやのみみに
あれませる
 

おしほみのみこ
おしひとと


とあり、

天照大神の正后である
瀬織津姫(ムカツ姫)

藤岡山の端の
オシホ井の

産湯をつかって
末っ子を産んだことから、

天忍穂耳尊(おしほみみ)・
本名(いみな)オシヒトと
いわれたといいます。

 



つまり、

外宮のあるこの地は、

天照大神と瀬織津姫の
世継ぎである

オシホミミが産まれた地
だというのです。
 

 

さらにつづけて、

 

おしひとと

いみなおふれて
かみありの
もちゐたまえは

 

とあり、

神が産まれた祝いとして
餅飯がふるまわれた
といいます。

またもしかすると、これが
食い初めのはじまり
だったのかもしれません。

 

オシホミミやオシヒトには

「末子」や「身体の弱い」という意味もあり

食べることで

補おうとしたのかもしれません。

 

そしてこれが、

この地が食に関するという

はじまりなのかもしれません。

 


オシホミミは、
オモイカネワカヒメ夫婦
滋賀で養育されたのち、

ヒタカミ(日高見)を都として
政治を執ることになります。

オシホミミは、
養育されていたときには


地名をとって
多賀若宮(たがわかみや)

いわれていたといいます。

また、ヒタカミで
政治を執るようになると

ヒタカミの都を
タカノコフ(高の首)と
名づけたといいます。

その都があったのは、いまの

多賀城(たがのき)跡のあたり
だといいます。



また、オシホミミの
後見役として、

7代目タカミムスビ(高皇産霊尊)
タカキネ(高木神)
ついていたといいます。

このかたは、

外宮でまつられている

5代目タカミムスビ

豊受大神の孫にあたります。

 


となると、
外宮の多賀宮で

祀られているのは

天照大神の嫡男である
オシホミミ(天忍穗耳尊)のこと
かもしれませんね。

 

上御井とつなぐために

下御井が東のふもとに

あるのかもしれません。

 



多賀宮もまた
南ではなく南西のほうを
向いていて

その先には、別宮・

瀧原宮(たきはらのみや)

があるようです。

瀧原宮は、
母・瀬織津姫を祀る社
だといわれていました。

 

ここにもまた

父と母と子の関係が

結ばれているようですね。

 

 

外宮の境内社としては

ほかに

大津(おおつ)神社
がありました。

こちらは、
明治時代の遷座であり

 

もともとは

港町の守護神だったといいます。



また、
高倉山の東側、

旧豊崎文庫のあたりから

はいってゆく


伊我理(いがり)神社と
井中(いなか)神社は

伊我利比女命(いがりひめ)と
井中神(いなかのかみ)を
祀るといいます。

 

 

ともに

神田に祀られていた

神さまだといいます。

 



猪による食害から

作物を守るために、


猪狩(いかり)にかけたのが

伊我利比女命(いがりひめ)という

女神だといいます。

また、井中神は

神田の井泉の神であり
水をつかさどっていたようです。

 

 

このほかにも、

高倉山周辺や駅のほうに

外宮の社はまだまだあるのですが

 

そちらはまた

いずれ参拝できたらと思います。

 

 

 

伊勢国の神宮めぐり⑭ へ つづく

 

 

 

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