「げくう」のほかに
「とみや」「とつみや」
ともいうようです。
正式には、
豊受大神宮(とようけだいじんぐう)
だといいます。
外宮先祭(げぐうせんさい)
といって、
すべての祭事は
外宮からはじまるといい
それにならって参拝も
外宮から内宮がよい
といわれるようです。
外宮のある神域も
勾玉池(まがたまいけ)など
川や池でかこまれているので
火除橋(ひよけばし)を
わたってゆきます。
参道は、
北からはいる
北御門(きたみかど)と
東からはいる
表参道(おもてさんどう)が
あるようです。
もとは、北御門が
正面だったそうです。
けれども、
伊勢市駅が整備されると
駅にちかい東が
表になったといいます。
ちなみに、
外宮は左側通行で
内宮は右側通行だそうです。
表参道の火除橋をこえると
清盛楠があります。
平清盛(たいらのきよもり)が
参詣したさい、
楠の枝がかかって
帽子が落ちてしまったといい
恥をかいた清盛は
枝を切り落とした、
という話がのこるといいます。
ですから樹齢も
800~1000年という
大木ですね。
清盛楠のおくには
斎館があり、神職の
潔斎(けっさい・おこもり)も
おこなわれているようです。
北御門の参道とは
ここで合流するようです。
北御門の参道をはさんで
大庭(おおば)があります。
ここには、
祭祀につかわれる
九丈殿(くじょうでん)
五丈殿(ごじょうでん)が
差し金のように
L字にならんでいます。
さらに、方位守りである
四至神(みやめぐりのかみ)も
祀られています。
五丈殿のまえにある
廻榊(めぐりのさかき)に宿る
とされているようです。
内宮では、
かつては、
宮廻神(みやめぐりのかみ)といい
境内の200ヵ所に
あったといいます。
やがてそれが
中世には44ヵ所、
江戸時代には16ヵ所となり、
明治時代の整理統合によって
ひとつにまとめられたようです。
たくさんあったといいますから、
明治になるまでは
ずいぶんと雑多な印象だった
のかもしれません。
いまでは、
どこも整然としていて
「神宮(じんぐう)」という
格式を感じられるようです。
五丈殿や四至神のように
内宮とおなじものでいうと、
忌火屋殿(いんびやでん)や
御酒殿(みさかどの)があります。
これは、遷宮の地である
古殿地(こでんち)の
おくにあるようです。
外宮に祀られている
豊受大御神
(とようけのおおみかみ)は
食事の神とされていて、
朝夕の2度、
内宮や外宮の神々に
神饌(しんせん・神さまの食事)をそなえる
日別朝夕大御饌祭
(ひごとあさゆうおおみけさい)は
「※外部リンク]
1500年もつづく
重要な祭祀だといいます。
神饌をつくるときには
神聖な火である
忌火(いみび)がつかわれる
そうですが、
忌火屋殿では
木(板)と木(錐)をすりあわせて
忌火をきりだすといいます。
そして、そのまま
忌火屋殿のとなりには
御酒殿があるといいます。
御酒殿ではかつて、
お酒が醸造されていたそうですが
いまでは
麹の保管庫とされていて
醸造も忌火屋殿で
おこなっているようです。
それも、
6月の月次祭(つきなみさい)
10月の神嘗祭(かんなめさい)
12月の月次祭
の三節祭(さんせつさい)
のときのみだといいます。
では、
ふだんの祭祀に
使われているお酒はというと、
内宮も外宮も
「灘の白鷹(なだのはくたか)」
だといいます。
これは、
兵庫県西宮市のお酒であり
皇學館大學の初代館長が
西宮の廣田(ひろた)神社の
宮司だったご縁だによるといいます。
西宮や廣田神社といえば、
天照大神の姉・ワカヒメや
天照大神の后・瀬織津姫の
ゆかりの聖地です。
六甲山(ろっこうさん)の
水でつくられたお酒が
伊勢(妹背)に
納められているというと、
ホツマツタヱ好きにとっては
胸が熱くなることでしょう。
さて、こちらが
外宮の正宮です。
板垣(いたがき)
外玉垣(とのたまがき)
内玉垣(うちたまがき)
瑞垣(みずがき)という
4つの垣に
かこまれているといいます。
瑞垣のうちには
西宝殿・東宝殿がありますが、
配置はすこし
内宮とちがうようですね。
正殿のうしろ
外垣のうちには
下幣殿(げへいでん)と
御饌殿(みけでん)があります。
忌火屋殿でつくられた
日別朝夕大御饌祭の食事は
御饌殿にそなえられるそうです。
柱をつかわないつくりで
井桁のように組んだ建屋に
1本の丸太をきざんでつくった
階段がつづいているらしく、
建築様式としては
もっとも古いものだといいます。
正宮には、祭神である
豊受大御神のほかに
御伴神(みとものかみ)が
3座祀られているといいます。
一説には、
天児屋根命(あまのこやね)
太玉命(ふとたま)
天津彦彦瓊瓊杵尊(ににきね)
といいますが、
詳しくはわからないようです。
こちらの神々も、
ご神体として
豊受大神は鏡、
天児屋根命は笏、
太玉命は勾玉、
瓊瓊杵尊は鏡が
それぞれ
御船代(みふなしろ)に
おさめられているといいます。
ただ、
御饌殿にはこばれる食事は
内宮の3柱と
外宮の3柱の
6膳だといいますから、
ひとつ足りていません?
いったいなぜなのでしょう?
古殿地のまえにある
三ツ石という磐座は
パワースポットだといわれていますが、
もしかすると、
御伴神のことでしょうか?
さらに、
外宮の正殿にも
心御柱(しんのみはしら)が
埋まっているといいます。
高さは180センチ
太さは30センチほど
だそうです。
内宮の心御柱はほとんど
埋まっているといいますが、
外宮の心御柱は
半分ほど地上にでている
ともいうようです。
由緒によれば、
第21代・
雄略(ゆうりゃく)天皇が
天照大神の霊夢をみて
丹波(たんば)国の
比治真奈井(ひじのまない)から
等由気大神(とゆけのおおかみ)を
遷し祀ったといいます。
しかしこうすると、
外宮の神官であった
渡会(わたらい)氏は
もともと
伊勢にいたのか
それとも
丹波からきたのか
よくわからなくなるのでした。
ホツマツタヱには
『
しきなみよする
いせのみや
ながくしづまり
まもるべし
とよけのかみと
もろともぞ
やまとひめより
これおつぐ
』
とあり、
天照大神の
お告げを聞いたのは
伊勢神宮を創始した
倭姫命(やまとひめ)
だったようです。
これによって、
第11代・
垂仁(すいにん)天皇が
丹波道主命(たんばみちぬし)らを
つかわせて
豊受大神を
丹波から伊勢に
勧請したといいます。
時代がずいぶんと
渡会氏の祖である
大若子命(おおわかご)は
内宮の初代神主だった
とされていますから、、、
ここにもなにか
伝わっていない歴史が
あるようですね。
では、豊受大神とは
どんな方だったのか、
つぎの記事で
まとめてみようかと思います。
いまでは、
トヨウケビメとして
女神ともいわれるようですが、
ホツマツタヱでは
天照大神とおなじく
男神だったようです。
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☆神宮めぐり全記事リスト☆
伊勢国の神宮めぐり① ~宇治橋~
伊勢国の神宮めぐり② ~五十鈴川~
伊勢国の神宮めぐり③ ~天照大神~
伊勢国の神宮めぐり④ ~内宮と荒祭宮~
伊勢国の神宮めぐり⑤ ~所管社~
伊勢国の神宮めぐり⑥ ~磐座と近畿五芒星~
伊勢国の神宮めぐり⑦ ~宇治神社と足神さん~
伊勢国の神宮めぐり⑧ ~鳥居前町の社~
伊勢国の神宮めぐり⑨ ~猿田彦神社~
伊勢国の神宮めぐり⑩ ~茜社~
伊勢国の神宮めぐり⑪ ~外宮~
伊勢国の神宮めぐり⑫ ~豊受大神~
伊勢国の神宮めぐり⑬ ~高倉山~
伊勢国の神宮めぐり⑭ ~二見興玉神社~
伊勢国の神宮めぐり⑮ ~伊勢神宮~