伊勢国の神宮めぐり⑨ ~猿田彦神社~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

鳥居前町をぬけると
猿田彦(さるたひこ)神社
があります。

みちひらきの神として
猿田彦大神(さるたひこ)を
祀るようです。



天照大神の孫・
瓊瓊杵尊(ににきね)の

道案内をしたことから

岐神(ちまたがみ)
塞ノ神(さいのかみ)
道祖神(どうそじん)

などともいわれるようです。

 



ホツマツタヱには


おとたまがわの
しらすなに
ひるねしておる
ちまたかみ


とあり、

オトタマ川の白砂(領土)で

昼寝しながら待っていたのが

岐神(ちまたがみ)こと
猿田彦だといいます。


みのたけそなた
つらかがち
はなたかさなき
めはかがみ      


身長は17尺
(面妖なもので顔は)
ホオズキのように赤く
鼻の高さは7寸
目は鏡のように輝いていた
といいます。

 



そこで、

ニニキネ一行はまず

 

天鈿女命(うずめ)を

つかわせたといいます。


うすめむねあけ
もひぼさげ
あざわらいゆく


ウズメが胸をひらいて
腰ひもをさげ(下秘部をさらし)
おおいに笑いながらゆくと、

猿田彦も目を覚まして
 

『かくするなにゆえや』

「なぜそんなことをするのだ」
 

と答えました。

さらに、ウズメが


『みまこのみゆきさき かくおるはたそ』

「天孫の道行きにいるそなたは誰じゃ」


と聞くと、




かみのみまこの
みゆきなす
うかわかりやに
みあえして
あいまつながた
さるたひこ



天照大神の御孫の
行幸をむかえるため

ウカワの行宮に
饗宴を支度して
お待ちしていたのは

ナガタの
猿田彦です


と答えたようです。

ウカワ宮とは
琵琶湖の西にある
白髭(しらひげ)神社だと
いわれていて、

猿田彦とニニキネ一行は
高島のあたりで出会った

といいます。

そうして、
高島から大津までの
道を拓いたことから

猿田彦は
『三尾(みお)の神』という

称え名を賜ったようです。


 

気になるのは、この

問答のつづきです。

ウズメがおどろいて

 

『なんちしるや きみいきますとこを』

「あんたは知ってるのかい? 天孫の行き先を」


と聞いたところ、


きみはつくしの
たかちほぞ
われはいせのさ
ながたがわ



天孫・ニニキネさまは
筑紫の高千穂です。

わたしは伊勢の南の
ナガタ川です


と答えたといいます。

これはどうやら、
行幸の目的地ではなく
人生の終着地、つまり


「行き先」ではなく「逝き先」を
答えたようなのです。

猿田彦はつづけて



なんちわがなお
あらわさば
われもいたさん



もし、あなたがわたしの名を
天孫・ニニキネさまにお伝えしたならば
わたしはこのようにいたしましょう


といい、

そんな未来の可能性を

ウズメに託したのでした。

また、これには


あなたがわたしの名を
名乗るようになれば


という
婚姻の意味も含まれていて、


猿田彦とウズメが結ばれることも
ほのめかしていたようです。



予言のとおりに
猿田彦が伊勢にあらわれたのは

第11代・
垂仁(すいにん)天皇の世

だといいます。

 

倭姫命(やまとひめ)
天照大神の御霊を祀る地を

もとめていたときのことです。



ゐすずがわ
ふもやよろほの
さるたひこ


五十鈴川(いすずがわ)のほとりで
208万穂にもなる

年老いた猿田彦が

 

渡会(わたらい)氏の祖である

大若子命(おおわかご)のもとに

あらわれたといいます。

 




われむかし
かみのたまもの
さこくしろ
うちみやにいれ
あらみたま
やよろほまちし



わたしはむかし
天照大神より賜った神器を
サコクシロの内宮に納めて

天照大神の御霊を
8万穂待っていました


こうして
天照大神の御霊がふたたび
この地へ戻ったからには


これさづけ
なかたうまれの
つちぎみは
もとにかえらん
もちかえり
つげよとてさる


この土地と神器を
あなたさまに授けて


ナガタ生まれの辻君(土公)は
もと(故郷・天)にかえりましょう。

どうぞこれを持ちかえり
よろしくお伝えください


そういって

「猿」田彦は(世を)
「去」ったといいます。

 


猿田彦が、伊勢に

納めていた神器とは


さかほこぎ
うつくしきすず
わいきたち


だといいます。
 

天照大神から

神器を託された猿田彦は、

ただひたすらに

宇治で待っていたようです。

ヤマトヒメは、


みくさはまつる
みなもとと
いやまひかえす
あぐらいし



この3種の神器は
伊勢の宮を祀る根源です


といって
座磐(あぐらいし)を
祀ったといいます。

この磐座が
内宮の磐座(ないくうのいわくら)

でしょうか?

3種の神器は
内宮の磐座に祀られていた
のでしょうか?



猿田彦神社の由緒では

ヤマトヒメの巡行のさい、
 

猿田彦の末裔である
大田命(おおた)が


伊勢の地を差しだしたと

されるようです。

ですから、

猿田彦神社では


猿田彦大神とともに
子孫の大田命も

祀られているといいます。

 



猿田彦や大田命を祖とする
宇治土公(うじとこ)氏は
猿田彦神社の宮司家であり、

伊勢神宮の式年遷宮では
心御柱(しんのみはしら)
御船代(みふなしろ)
造って奉納するといいます。

宇治土公(うじとこ)は
宇治土公(うじのつちぎみ)とも
いうようですから、

サコクシロの『宇治』にいた
ナガタ生まれの『つちぎみ』という

ホツマツタヱの記述にも

つうじるようですね。

大田命や猿田彦は
興玉神(こしたまのかみ)ともいわれ

伊勢内宮の垣内でも
祀られていました。

 



もしかすると、
内宮の御船代にある
剣・鏡・弓がそれぞれ

サカホコギ・
ウツクシキスズ・
ワイキタチをあらわしている
のかもしれませんね。

 

榊・鈴・楽器など

祭器をあらわしている、

ともいうようです。

 



もうひとつ、
気になる記述があります。

五十鈴川の別名に
御裳裾川(みもすそがわ)
あるのですが、

 

これは、ヤマトヒメが

衣服の裾を濡らしながら

五十鈴川を渡ったことによる

といいます。

しかし、
ホツマツタヱでは

 

ヤマトヒメがあらわれる

はるか以前からここを


みもすその
さこくしろうち


といっていたようです。

 



「御裳裾(みもすそ)」とは、
衣服の裾のことであり

「取るに足らないもの」や

「ふだん顧みることのない場所」
という意味もあるといいます。
 

神々は、なぜかこの

『御裳裾(みもすそ)』を
大事にしていたようなのです。



天照大神は、遺言でも
『裳裾を汲め』

といったそうですし

 

左大臣をつとめた
天児屋根命(あまのこやね)
亡くなるとき、

『御裳裾よ 乞うはこれぞ』
と遺したといいます。



どうやらこれは、
天照大神の

故事によるようです。

天照大神が
ハタレ(反乱軍)にそなえて
禊(みそぎ)をしたときのこと、

衣服の裾が
岩にかかったといいます。


天照大神はあまり気にせず

つよく引いたところ

裾が割けてバランスを崩し
滝つぼに落ちたようです。



溺れかかった天照大神は

救いをもとめて

天地に祈ったといいます。

しかしながら、
川にうかぶクズとともに

流れてきた蛇に


裾のやぶれたところを
噛まれたというのです。

あまりに
踏んだり蹴ったりなのですが、
 

天照大神は、これこそ

天啓にちがいないと

思いつめたようです。

 

 

おいつめて

とまるわらびで

くくりすつ

もすそのくずに

やぶるゆえ

 

これを

文字通りに読めば、

 

蛇を追いつめて

蕨(わらび)でくくって捨てた

 

となるのですが、あえて

想像力をたくましくするならば、、、


蛇をつかみあげた

天照大神は

 

蛇を縄として

あたりにうかぶ小枝をくくりつけ

「浮き」をつくって救われた、

 

と読んでみたくなります。

 

藁(わら)や藁尾(わらび)には

「取るに足らないもの」という

意味があるといいますし、

 

水田にうかぶ

「浮き藁」のように、

 

川面にうかぶ小枝を

「藁びたもの」といった

のかもしれません。




衣服の裾のように

取るに足らないものでも


軽んじればそこから
大事にいたることもあるし、

藁や蕨のように
取るに足らないものでも


束になれば(使い道によっては)

助けになることもある。


そういうことを
悟ったのではないでしょうか?

 

つまりこれは、


とおくの民のちいさな声にも
耳を傾けることを心掛けた
 

ということかもしれません。

 

天照大神も

 

をさむたみ

みなもすその

なかれなり



といい、

 

ハタレを破って
民を治められたのも

 

裳裾が流れるという

苦い経験があったからであり、

 

裳裾の教えを悟ったからだと

いうようです。



おなじく、猿田彦も

天照大神のように

御裳裾を経験したといいます。

 

猿田彦が
海で漁をしていると


ひらこにかまれ
おほるるお


ヒラコに噛まれて
溺れたといいます。

ヒラコは、
おおきなしゃこ貝とも

サメともクラゲとも
ウミヘビともいうようですが

これも諸説あるようです。

 


 


きみうすめして
そことくに
つふたつあはの
さくとこに
ひきあけさしむ


天照大神とウズメは
泡のわきあがるところへ

いそいで飛び込むと、

 

海底にあった(なにかしらの)

難を解いて、

 

ふたりで

ひきあげたのですが

 

猿田彦はぶくぶくと

泡を吹いていて

 

タマシヰの緒が

切れ(割け)かかっていた
ようです。

 


古事記ではここで
猿田彦は

死んでしまったとされ、

底度久御魂(そこどくみたま)
都夫多都御魂(つぶたつみたま)
阿和佐久御魂(あわさくみたま)

という3神が生まれた
といわれているようです。

 

しかし、ホツマツタヱを

よく読んでみてみると、

 

「こどく」が「ふたつ」となり

「くとこ」とさかさまになっています。

 

もしかすると、

ウズメと結ばれていなければ

 

ここで亡くなっていた

のかもしれませんね。

 



つづけて
ホツマツタヱでは


わらにたす
はびらおぬきて
なまこなす


とあり、

藁縄で患部をしばって
血をとめたか

毒をぬいたかしたのち、

 

人工呼吸や腹部圧迫などの

救命措置をして
肺から水を抜くと

息(生き)を吹き還した
ようですね。



おもしろいのはここでも、
「藁(わら)」に救われている
ところです。

 

藁(わら・割)は

吾(われ・割)にもかかり

 

「藁」を持つことで、

自「我」(意識)をたもつという

意味があったのかもしれません。


「溺れるものは藁をもつかむ」や

「藁にもすがる思い」は

ここからきているのかもしれませんね。

 


さらにいえば、
猿田彦とウズメの出会いも

「わら」でした。

 

ウズメはおおいに

「笑って」いたといいます。

 

「わらう(笑)」は

「はらう(祓)」にも

つうじているといいますし

 

笑うことで、穢れをはらう

という神事もよくありますね。

 

怪しげな猿田彦を

笑い飛ばすことで清めた

のでしょうし、

 

天岩戸にこもった

天照大神をさそいだしたのも

ウズメの『かしまし踊り』

大笑いの声によるようです。

 

「わらう」はまた、

「わら」を「なう」という

藁縄つくりにも通じていて

 

これは、祓い清めの

しめ縄にも通じているようです。

 

伊勢神宮にしめ縄はない

といいますが、これは

 

うずめの御霊がいまでも

「笑って」いるからでしょうか?


 

また、もうすこし

深読みするならば

 

猿田彦は溺れたとき

足を失ったのかもしれません。

 

蛇に足をかまれた

というのは、

 

蛇足(だそく)というように

蛇が持たないものを欲した

ともとれますし、

 

『そことく』とは

足を切って助かった

ということかもしれません。

 

これはつまり

禊(みそぎ・身削ぎ)でも

あるのでしょう。

 

さらに、伊勢では

『あぐらいし』に座っていた

とされますが、これも

立っていることができなかった

のかもしれません。

 

「足」が

「身の裾」だとすると、

 

足を失った

猿田彦だからこそ、

 

裳裾の重要さを

体現した人物だとされた

のかもしれませんね。

 

だからこそ、

宇治(うじ)神社には

足神(あしがみ)

祀られていたのでしょうか。

 

 

宇治神社の境内は

那自賣(なじめ)神社の

旧座地だったといいますが、

 

げんざい、

那自賣神社が祀られている地は

 

興玉森(おきたまのもり)といい

猿田彦神社の旧座地だった

といいます。

 

もともと、

大田命や宇治土公氏は

興玉森に暮らしていたようです。

 

 

 

伊勢国の神宮めぐり⑩ へ つづく

 

 

 

 

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