ざっかん記 -21ページ目

ギロッポン、




ユライ・ヴァルチュハ氏の棒、読響で、マーラー《3番》、済む、

昨秋のカーチュン・ウォン/日本フィルから、っことしへ入って井上キーミツ/新日本フィル、っまあアマチュアだが佐伯正則氏、っそしてきょうと、頻繁に聴いてきた同曲、っことしはまだこれから、夏に憮然たる棒、金山隆夫氏の演奏も聴くこととなるが、目下のところ、っぼくにいっとうつよくアッピールしてきているのはカーチュン氏であり、っそれも比較を絶している、っなにしろ、っぼくにとり青春のテーマ・ソングであったこの曲は、っそれゆえにおもい入れがすぎるのか、っこれぞという演奏に出逢えないまま永らくすぐし、近年になってようやっと、故デ・ブルゴス晩年のボストン響およびシンシナティ響とのともに海賊盤というなかなかの果実を獲、っしかし、カーチュン氏の実演を2度とも聴き、っさらに配信動画を録画して音声を抜いてくりかえし聴くうち、っこれがどうして病みつきとなって、っいまではデ・ブルゴスも忘れるくらい、カーチュン氏に夢中である、

彼氏のチャイコフスキー《悲愴》を池袋で聴いたときの所感かなにかでその云い種をしたが、カーチュン氏の演奏は、っいちどスコアを咀嚼、解体、消化し切り、完全に己が血肉と成したうえで、っその血肉を用いてふたたび《悲愴》ならば《悲愴》、マーラー《3番》ならばマーラー《3番》という楽曲を再構成再現前せしめているという手応えがし、っうまくすると、既存の楽曲を一指揮者が解釋している、っなどというつまらない次元を遙けく逃れて、っあたかも彼氏が棒を振ることによっていま初めてその楽曲がこの世に誕生するかのような錯覚をさえ生ずる、

マーラー《3番》は、プリンシパル就任披露という気負いもあったか、っその彼氏の稟質が昇華した好個の例といってよく、全曲冒頭からまず長丁場の1楽章全体において、よくもここまで、、、っと聴けば聴くほどこちとら唖然茫然としてしまうばかり、刻一刻と稠密を極めた表現が連続しており、っくりかえすが、っそれがいつも彼氏の身体と心裡とを通ってきた音として出来する、っせんじつの同《9番》に対して、作り過ぎだ、っという声が一部にあったが、っあるいはそう聴く人もいるのかもしれない、っしかしぼくはいつもそういう人に訊いてみたいのだが、ではあなたは平均偏差らへんをうろちょろしている演奏、なんらの旗色も示さない演奏を聴いていて、ほんとうにたのしいのですか、、、っとまあ他人様の趣味嗜好にはあまり立ち入らないこととして、っすくなくもぼくは、カーチュン氏がしばしば繰り出されるああした作為が、っぜんぜんいやではない、蛇足だともおもわなければ安易だともおもわないし、いいぞいいぞ、もっとやれもっとやれ、っとうれしくなる、っここはもう、血の気の濃い薄いの差なのかな、薄い人を、っべつにわるく云う気はありませんよ、っむかしならぼくも、そんなの人生の損だぞー、っとかつい云いたくなっていたものだが、

っなにが云いたいかもうおわかりであろうが、っきょうのヴァルチュハ氏では、っぼくにはぜんぜん薄いんだよな、っぼくは彼氏をさっき初めて聴いたので、っどういうカリアの人なのかもぜんぜん識らないが、振り姿というのはある程度はその人の音楽の柄というものを表わしているもので、っきょう1楽章が開始してからの彼氏を観ていると、っわずかに膝を折って屁っ放り腰気味に各声部へキューを送る様はいかにも神経質そうで、っやはり読響からはそのとおりの音が出る、出てしまう、っぼくはその数分間だけでも頻りにカーチュン氏を追想せずにはいられなんだ、彼氏はもっと壮健ないでたちで、っもっと太陽のように天眞爛漫で、日フィルからはそのとおりの健康な音が出る、

っそして細部の目の詰み方の差よ、っほんのさいしょのホルンからして、フレイズの末尾の下がる音で、っきょうは8人のうち誰かしら気が脱けており、音域が下がり、吹きにくいところへ来たぶんだけあたりまえに音圧が下がってしまい、楽想の有っている覇気を損なって始まった、っそれは瑕疵とは云えない程度のごくごくかすかな手抜かりではあるのだが、カーチュン氏はといえば、その音を質量としても音価としても確実に保つように、っと練習時にメムバーとしかと申し合わせたということが振り姿からもわかるし、現にちゃんとさようの音が鳴っているのである、っだからきょう、開始3秒でもう、あ、だめ、カーチュンのほうが丁寧、っとぼくはおもったのであった、っもちろん、100分の大曲の成否を3秒で判断するほどぼくも早計ではない心算だが、っこうしたことは一事が万事とも云え、っじっさい、カーチュン氏のその後が大膽不敵な強弱、表情をしかし確信に満ちて振り撒きつづけ、日フィルがまた完全にその手足となって彼氏の意匠を音化してゆくのに対し、ヴァルチュハ氏の表現はぜんぜん不徹底であり、ここはこうでなければならぬっ、っという執念から遠い、

っや、っこれで細部細部へあれこれの表情を与えていないことを難じていると取られたくない、三度くりかえすが、カーチュン氏の演奏は、っそうした稠密な表現が彼氏の心身を通過したものとして再構成せられ、っもってマーラー《3番》というあのすばらしい場面場面が無上に謳われてゆくのだ、っもっと平たく云ったほうがいいのかな、これが俺の音楽だっ、っと云い切った者の清しさが全編を貫くのである、、、っここでどうしてもうんと云ってくれない人がよのなかぞんがい大勢いるのだということを、っぼくも40年生きてきて折に触れておもい知った、それは指揮者が楽曲へ得手勝手な色を塗ったということでしょ、っと彼等はいつもいつも云いたがる、っそしてぼくの40年の結論は、もうその人たちは相手にしない、っそれより仕方がない、っなんとならばぼくはそうはおもわないから、テムポや強弱や表情を極端にいじった演奏でも、っぼくはマーラー《3番》だろうとほかのどんな楽曲だろうと、っその作品の眞相へ触れたと実感することがおおきにできる、っもちろん、テムポや強弱や表情を一寸っきりいじっていない演奏でも、っぜんぜんいじっていない演奏でも、っどれでもなのだが、っそのうちで極端にいじっているもののみをなにかはなから論外であるかのように定めてかかる立場を、っぼくはけっして許容することができない、、、っなにしろゲテモノ趣味者ですからねえ、っいくら他所様から、や、そんなのぜんぜんその作品の眞相じゃないよ、っと云われようが、うるせえっ、っそのひとことである、、、っや、っそのねえ、っべつに頑なになる心算はさらさらなくて、っもっと単純に、だってどうせ音楽を聴くなら、たのしいほうがいいじゃないですか、っというそれだけのことなのだが、そうやっていろいろやりたがる不届者がいるから、それをしていない演奏がうれしい、っというそれがぼくにはわからない、40年生きてきてもついにわからない、っそれはだって消極的じゃないか、っぼくの辞書には、消極的の感銘とはこれもろに語義矛盾である、感銘が感銘であるならばそれは恆に積極的なのである、積極的でなければならないという当為でなくて、感銘しているならばすでにして積極的であるはずだと云っている、作為的のものとの比較でいわゆる正攻法というものを取り沙汰す人たちは、文脈としてそれでいったい自身の感銘を表明していることになるのか、っいまいちど自己点検されたいと、老婆心ながら忠告する、っぼくにはさようの表白は、アンチテーゼを即ジンテーゼと強弁するように読める、仮に自己批判にせよ、っともかくも一定の批判を堪えねば、っがんらいジンテーゼへは至らないはずである、、、っやっぱり頑なだね、

っともかく、ヴァルチュハ氏の造形を聴いていてぼくは、どうだっ、まいったかっ、これが俺の音楽だっ、っという圧倒、ユライ・ヴァルチュハという一個の天稟の閃きをぜんぜん味わわなんだ、たまさか聴いてみたけれど、この人は今後、ぜんぜん聴かなくていいや、っと1夜にして見限ってしまった、誰もがマーラー《3番》という楽曲に1度はみるだろう平凡な景色っきり、彼氏は展開してくれなんだ、指揮台へ立って100人の楽隊を率い、2,000人のお客を相手にする人が、っそんな平凡な夢をみていてどうするのか、っいっそなんだかよくわからない演奏をしてくれるほうが、っまた聴いてみてもよいかもしらんとおもわされるものだが、っきょうのあのかんじだと、っなにかほかの楽曲ではとてつもない達成を聴かせるだろうということは、っおよそ想像されない、っもっとも、彼氏ひとりがとくべつ愚図なのじゃなく、っよのなかの大半の音楽家とは、っぼくにすればそういう人たちである、っひどい云い種に聞こえるだろうが、ちがうとは云わせないぞ、っという気がぼくにはある、悔しかったら、っぜひともみな、清水の舞台から飛び降りていただきたいものである、耳に痛いという人もおおいはずだ、



、、、っきょうはどうしたのだろうか、っまだ永山の駅で雨宿り、っあすは聖蹟別棟へ出勤する社員がぼくひとりなので、っいつもみたように9時ぎりぎり出社ではだめで、8時すぎには来てしまうアルバイトさんのために早めに事務所を開錠せねばならんのだが、

読響は、っさように指揮者にあふれむばかりの創意がなくては雑然と鳴り勝ちで、ホルンもトロムペットもトロムボーンも、ポテンシャルとして日フィルからすると相応の遜色をおぼえないわけにゆかなんだが、コン・マス氏の音のキャラクターはすばらしく、1楽章ではじめに㐧2テーマが現れるときからもうこちとらの胸を奪ったし、っその後も恆に魅惑的だった、フォアシュピーラー氏も、フィナーレでほんのひと節のみソロがあるが、っその色艶はコン・マス氏に勝るとも劣らない、

2楽章後半から3楽章のポスト・ホルンが出るまであたりなど、指揮者に勝れるためというよりは、オケの上質さそれ自身がサントリーというあの音場を味方につけ、潤いある時間が流れた、ポスト・ホルンは、っおっかなびっくりなのもそうだし、っそれよりも、拍へ音型を嵌めてゆくっきりで、っぜんぜん唄っていないことのほうが、っぼくには気懸りであった、っもっともっと、っあくがれることが音楽であり、音楽することがあくがれることであるはずのこの場面だとおもうのだが、っあんなにテムポの箍の中でびくびくと吹かれたのでは、っその気分もどこへやらである、

アルトはカーチュン氏のときの坂本女史より上質であったが、100分の全体が秀でていなくては、一部品に勝れていても宝の持ち腐れである、

ボーイズにはどうしてももっとチャイルディッシュなキャラクターが慾しい、っそれに、っこのあたりヴァルチュハ氏の造形は無趣味もよいところで、っただ音楽がテムポへ乗って流れてゆくっきりで、っなんらのアイディアも盛り込まれないつまらなさ、っすばらしい声だったアルト女史もここではオケとの間でタテがずれる、



流石にもう帰ろう、1時すぎだ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




っきょうはこれから、




ギロッポンにてヴァルチュハ氏と読響とのマーラー《3番》である、終業後、永山から小田急へ乗るが、新百合でなにかしらトラブルとかで電車が停まり、気を揉んだところ、っじき動いてくれた、



っせんじつの井上キーミツと日本フィルとの横浜公演は、っやはりあの中学生連は静粛にはしていられなんだようで、っその周囲へ坐した人からは苦情が出ている模様である、っまあ、っどうかねえ、災難と諦めるよりほかないかねえ、っどこの楽団も、未就学児の入場は断わっているが、逆を云えば、就学している子供が場内でやや多動の気味であったとしても、っそれはもう不可抗力ということだろう、っあのように団体で大挙して聴きに来るならば、事前の授業中に、演奏会とはしかじかのものだ、客席でのあるべきふるまいとはかくかくのものだ、っとよくよく教示しておいてくれたいものだが、っそのくらいのレクは、っぼくはやったとおもうよ、っけれども、っかんがえてもごらんなさいよ、っぼくは中学も高校も公立の普通科だったが、クラス3、40人のなかにクラッシックを聴きますなんという奇特なというかあほな趣味を有っている人間なぞ、っほんの1人いるかいないかだ、、、っだからそうか、憤っている人は、そうなのだからはなから全員を連れて来るなよ、っと云いたいのかなあ、っそれはねえ、、、っそれは一理あるかもしれんねえ、っなにしろなんの予備知識もなくぱっとわかる音楽ではないわけだから、っぼくの席からは、っなんかどこかざわざわしとんなあというかんじは察知せられなかったんだけれども、近くの人はそりゃ不愉快だったんだろうねえ、っまた相手がいたいけな子供だからね、っあほな大人になら、ってめえこなちくしょうっつってつっかかってゆけばよいわけだけれども、子供じゃねえ、、、引率の先生方へじっさいに文句を云った人もいるみたいだが、っだからそれもね、そも全員を連れて来るなよ、っということであって、っどうあれ連れて来ることが定まってしまった以上、生徒さん全員を完全に静粛にしておくことというのは、っどんな事前の指導をもってしても無理だったとおもうから、っその先生をとっつかまえておまえんとこの生徒っていやどうなってやがるんだってのもねえ、先生がかわいそうだという気もするし、っや、痛し痒しですな、



っところで、フルトヴェングラーが擁護したのはプフィッツナーだと書いたが、っあれそうでしたかねえ、っなんだか記憶が曖昧で、自信がなくなってきたんだが、ったしかプフィッツナーだったとおもうんだけれど、レーガーとかでしたかねえ、っま、っなんかそのへんの作家ですわ、



当のキーミツの動画を録画したが、っあの日2時3時に帰宅するとすでにしていったん配信が停止せられ、アルヒーフ作成中となっており、っざんねんながら佐藤氏の絃が切れたトラブル部分まで含めて収録することは叶わなんだが、っこんかいはソリスト・アンコールはカットせられていない、権利関係に抵触するものは事後的に割愛せられてしまうということだろう、



っはてさて、っまもなく開演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




桜木町、




井上キーミツ/日本フィル公演、済む、演目はショスタコーヴィチのセロ・コンチェルト《2番》、シムフォニー《10番》である、

っやはり、演奏会をさいしょっから最後まで客席で聴くというのは頗るよい、っとうぜんだが、

っここ桜木町は、先般コバケンさんと日フィルとの公演を聴いた際におもったが、トーンとしてごく豊麗で、編成が膨大だと鳴った音がだいぶん残響にパックせられるふうだ、バルコニーは視界不良だからと以前は2階正面席へ坐すことがおおかったが、っほぼまいかい睡魔に襲われるのはなんだろうとよく訝っていたもので、っそりゃあんなにぼわんとした耳当たりの音になっては睡くなるはずである、っきょうはRCの2列目というかなりに舞台へ近い位置で、絃バスはほぼ完全に見えない、指揮者やソリストも、手摺が邪魔で、首を伸ばすか顎を引くかしていないと見えないといったありさまだが、音としては鮮烈である、っただ、トュッティは優に飽和し切るため、大宮のデッドで乾いた環境のほうが、声部声部の質感がもっとマルチに主張し合うたのしさがあったか、

佐藤晴真氏を招いての《2番》コンチェルトは、1楽章の中途で苛烈なピッツィのために彼氏の絃が切れ、キーミツとおふたりして袖へ下がられて仕切り直し、っしたがって、っあれで時間にして都合1.2とか1.3回分聴いたこととなり、っゆうべ客席で聴けなんだぼくとしては、っいくらか取り戻したことになるだろうか、、、発想が貧乏人である、

開演前にキーミツがマイクを持たれてすこしくお話しになったが、スコアには絃は16型でと記されてあるところ、彼氏の趣向で10型と倹しい規模で望まれるとのこと、っつまりちょうど指定の半数の人員というわけだが、ったしかに、っそもセロをソロにしたコンチェルトではオケがあまりヴォリューミーでは音勢バランスが取れないし、っじっさい聴いていると、曲調としても、絃に分厚い量感が慾しいとおもわせる個所は、っどの楽章にもなかった、

劈頭章を深沈と運び、諧謔章でやっと音楽を動かしはじめる、っというフォルムはショスタコーヴィチの後年の作に顕著な傾向だが、っこれもその例に漏れず、っかつ、コンチェルトであるにも拘わらず、フィナーレは賑やかに終止せず、シムフォニー《4・15番》みたように打楽器各種におしゃべりをさせ、謎を掛けて了わる、っその謎々の感触も、シムフォニーと共通しているところもあり、異なっているところもあり、不勉強なぼくは、っきのうをべつにすればきょう初めてちゃんとこの曲を聴いたのであるが、っこの人の作はほんとうに、作曲という業を通じて余人に未踏の境地へと分け入ってゆく感触がたまらない、

フルトヴェングラーは同時代人としてその進取の気風に明確に拒絶反応を表明し、ストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチを、児戯、っという膠もない語彙さえ用いて斥けており、っかたやプフィッツナーを、浪漫派のトラディツィオンに殉ずることにより、我等のこの時代には聴かれるが、未来へはけっして遺らない人、っとして悲哀を籠めて擁護しているが、っかなしいかなその予見通り、っいまやストラヴィンスキーもショスタコーヴィチも、世界のストラヴィンスキー、世界のショスタコーヴィチであり、っあまつさえ20世紀の大古典とさえ目されている、プフィッツナーは、忘れ去られた前世紀の遺物である、稀代の大巨匠としていまなお聴き継がれるフルトヴェングラーがしかし、時代のなかでさようの立場を採っていたということは、後代のぼくらとしてもっと意識してよい、ワルターにしても、ジャズについては、音楽への冒瀆、っと完全拒否だし、宇野さんとの文通のなかで、プッチーニを熱烈に称揚される宇野さんに対して、異国の若人よ、くれぐれもさようの世俗音楽なぞを我等が大古典たるモーツァルトと同列に論じないように、っと窘められたといい、ジャズはともかく、プッチーニさえ許容できないのか、彼の地の伝統の厚みとはかくまでなのかと、っいつかに宇野さんは述懐されていたものだが、っかく申す、コンサーヴァティヴィストをもって任ずるはずのぼくも、ストラヴィンスキーもショスタコーヴィチもなんらの抵抗とてなくたのしんでしまっている21世紀の愚輩の一個である、っこんにちコンサーヴァティヴィストとしてはせめて、っそのことに後ろめたさを嘗めるか否か、っそれは重大な問題として弁えていなくばなるまい、児戯の感触を、完全拒否ではない、っある程度は応接し、順応しもする、っや、臆面もなくたのしみさえする、っしかし、心裡のいずこかでは良心が疼きもする、っそれがモラルというものなのだろう、こんな子供騙しをしかしたのしんでしまって、、、っと折に触れて自重自嘲の気味を意識するのと、けっきょくはたのしむのだから良心の呵責なぞおぼえなくてよい、忘れてしまってよい、っと開き直るのとの間には、っなにかおおきな隔たりがある、っその弁えはこんにち、っぼくら現代人のせめてもの良識であるべきではないか、フルトヴェングラーやワルターに対して、こんな時代にしてしまってすみません、っとひとこと詫びるくらいの遠慮を有つことは、っじつにあらまほしきことにちがいあるまい、っさようにして、時代というものは遷ってゆく、っその遷移がちゃんと漸次的であること、っそれこそが、っいつの日もコンサーヴァティヴィストの切なる希いである、



っさておき、《10番》は、キーミツがこの曲を振られる最期の機会であったのかとおもうが、っきのうからしてエラーも極少となり、有終の美を飾るに相応しい大演奏であった、っかのロズージェストヴェンスキーが読響と行なったサントリーでの同曲は、っぼくとして生涯忘れることのできない麗しい記憶であり、っそこでは老匠の境涯を映してアレグロさえ沈み込むように深々としていたものだが、キーミツはこの曲に関するかぎりそうした年寄りじみたテムポは拒否し、前進性を強調するシーンがおおい、っそれが彼氏の人生の結論なのだろう、

っとくに1楽章では、長大のわりにあんまり急速章の風附きをしていないこの音楽に対して、大トュッティを經るたびに気分としては足取りを重くしてゆきたくなるところ、拘泥を断って前へ前へと進む、N響との演奏でもそのことが顕著に感じられたが、っきょうも同断である、

日フィルは、っほんとうに惚れ惚れする合奏だ、赤の次はもう青です、っという淡白な膚合いのN響に比して、赤と青との間にはもちろん紫があります、その間々にもいまだ無数の色調があります、っといったぐあいに音の色も質感もその変化は遙けくグラデュエイトで、っやはり、っそれでこそのオーケストラの本格の聴き応えというものである、N響のあのようでは、っわるくするとチープというか、っおもちゃのオーケストラというか、オーケストラごっこのような聴こえ方をしないともかぎらない、

っきのうは2楽章において、全員での強音部を見送ってのち、絃のみが弱音で取り残されるそのタテ線が乱れるというトラブルがあったが、っきょうはよろしく修整せられていた、っしたがって、短小なこの楽章では日フィルの強靭な合奏にほんの一分の隙とてなく、満堂を圧倒するにじゅうぶんである、

日フィルでまたぼくがいかにも好もしいとおもうのは、音の手触りがいつも健康的のことである、オーケストラの音色、質感というものは、指揮者の性格に依存して左右せられもするが、っまず楽団の地金として、絶えず明晰であろうあろうとすること、音を出す以上は快くないよりは快い音色であろうあろうとすること、っさようにして精錬せられてゆけば、っいきおい人懐こさを逸した殺伐たる合奏へ堕すこともありふれた通弊だが、日フィルはこんにち、っとても精妙なのに、同時にとてもフレンドリーな音の色、音の貌をしており、彼等が鳴るだけで、客席のぼくとしてもううれしくてたのしくて仕方がない、声があかるくて、話ずきで、っその人がいるだけで場のムードが決定せられる人というのがいるもので、っそういう人の数値化しえないしかし社会への貢献たるやいかばかりか、っとぼくなどは恆日頃からさようのいわゆるムード・メイカーへの満腔の敬意を捧げているものだが、っこんにち日フィルの奏楽は、っいわばそうした声なのである、っその人がいてくれるだけで誰しもがこころうれしくなってしまう、っさようの色であり薫りなのである、っきょうなどもあれで、っいったいなんたる仕合わせな音響を結んでいたことであろうか、

っよって、死神が不敵に踊るような3楽章でさえ、っやり切れない深刻趣味とは無縁で、音楽がどんなにシアリアスネスへ傾斜しようとも、絶えずゆたかな音響美に耀かむとする精神の健康健全が保たれる、っまた声部声部が、っなんと貪慾貪婪にみずからの役割役割を謳歌せむと意を束ね合うのだろう、ったとえばオーボー1番は、っきのうフィナーレの序奏におくソロでかすかに音が掠れたが、っきょう見ながら聴いていると、っそれも能うかぎりエスプレッシーヴォであらむとするが故の名誉の負傷であったのだとありありとわかる、彼氏ばかりではない、フリュートが、ピキェロが、コール・アングレが、クラリネットが、ファゴットが、プリンシパルのみならず下位の奏者に至るまで俺も我もと殺到し、競い合うようにしてみずからこころゆくまで音楽をたのしんでいられる、っまばゆいばかりのムジツィーレンの氾濫である、

ホルンとトロムペットとの音色、音勢の相関も、っじつにザ・ベスト・ミックスである、っよくあり勝ちなのは、ホルンがしゃびしゃびと水っぽく、音量も出さず、角がよわくては飛車独りが気張らねば、っとトロムペットが不当に硬く、無駄な音圧を誇示するという窮窟な関係で、N響や都響はしばしばそういうふうだが、日フィルのホルンは、っいまや大スター信末氏と村中女史との2トップで、絶えず音量を出さないよりは出して、ごつごつと硬質硬骨の感触もふんだんに盛り込んでゆこう、っとの地合いがよくよく共有せられているようで、っしばしば、もうあとわずか吹きすぎると流石に我勝ちのスタンド・プレイと映じてしまうか、っというぎりぎりのラインを狙いにゆく果敢さが聴かれ、っその気概がまことにうれしい、ホルンがそうあってくれるとトロムペットはずいぶんと楽ができ、っもう一方の雄、オットー氏は余裕綽々の勇姿、下位のメムバーにも名手が揃い、っあのように金管全体の音色、音量音圧がびしっと安定し、いつでも一定品質以上を提供できますっ、っという安心を聴き手に与えるその頼もしさというのは、っひとむかし以前の日本のオーケストラにはおよそ望みえないことであった、っきょう日、っほんの一寸した合奏の綻びにすらケチを附ける向きがあるが、っぼくなどからすると、君等の耳は不当に贅沢なのじゃないのか、ここ数年で日本のオーケストラは、瞠目すべき進展を遂げたのではないのか、まずはそのことを素直に壽ぎ、感謝しないでは、演り手と聴き手との関係として、いささかフェアネスを欠くのではないか、っと憤らずにいない、

トロムボーンははんたいに、若い奏者に代替わりしたことで以前からすればやや大人しくなり、っしかしぼくにすればそれもまたうれしい、っかってのヴェテラン勢を軽んずるのではけっしてないが、っその往時の日フィルのトロムボーン連はいかになんでもばりばりいいすぎ、音色として世辞にもうつくしいとはしえなんだし、音勢としても全楽の裡での一部品としてぜんぜん定位できていなんだ、それでもいいんだ、俺様の音を吹き散らかせばいいんだ、っというのはもはやこんにちのオケ・マンの士気ではなく、、、断わっておけば、っぼくは演奏の性格次第ではいまだにそのことを哀しみもするアナクロニズムの虜囚ではあるが、日フィルに関するかぎり、っとにかくソフィスティケイトという形容をネガティヴな文脈で用いむという気を、っこちとらをしてぜんぜん惹起せしめない、っより精妙であればあるほど、っよりうれしい、っより仕合わせな聴体験を与えてくれるのである、

っそして絃、っあのぎーぎーがりがりでぜんぜんひびかずに側鳴り放題、音量も出ずに管連中に消され、アルティキュレイションも、っここで何度もその譬えをしたように、犯罪者が筆跡を気取られぬために定規を宛てがって書いた犯行声明文みたようにがぎごぎのぎこちなさであった日フィルの絃が、っいまやなんと大々々刷新を遂げたことか、往時はぼくも客席で、これがプロフェッショナルの演奏かよ、、、っとしばしば怨嗟をおぼえ、っそれが彼等の公演から足が遠退く一因でもあったが、っふたたび頻繁に聴くようになって、っいちばんうれしいのはこのことかもしれない、描線はひじょうに鋭利だが音量にも不足せず、っしかも指揮者の意気に感じて色合いがひじょうに複雑に変転する、っきょうも、っかっては汚ない側鳴りの代表格という不名誉に甘んじていたヴィオラ連が、音場という空間をおもうさま支配せむかのようなえもいわれぬ香気を発する、っほんとうに、っよくぞここまで持ち直した、持ち直したというか、っそんな非礼な評価ではいけなくて、稀代の藝術家集団、日本フィルハーモニー交響楽団である、

っそれら部品を集めて成る《10番》は、掛け値なしに超の字の附く一級品特級品であった、っきのうはフィナーレの最終音が声部間で呼吸が合わずにわずかに尻窄みで、キーミツが客席を向き直りながら振り収められるために、直後に起こる歓呼と拍手とによってやや誤魔化された憾があったところ、っきょうは見ているとキーミツが音頭を取ってそのためにすこしく時間を取ってでもしっかりと最終音を打ち据えて了わろうというふうで、っそれはみごとに定まって、っまことに気分爽快であった、

っおなじ曲でもほんとうに指揮者に依りけりで、ロズージェストヴェンスキーのときは、フィナーレさえ儀式のごと深淵で、最終音を振り切って天を指したままの老匠の棒は、っご当人としてはすぐに拍手を始めてくれるなというご意向は微塵も有たれていないようであったが、っそれでもぼくら2,000人は、彼氏のその棒がゆっくりと下りてくるまでじつに10と数秒間にも亙って、誰ひとりとして拍手を始めることができなんだのである、っあんなにも賑やかに終止する曲だのに、

静かに了わる曲のときはなおさらで、っこないだのカーチュン氏のマーラー《9番》は、初日も彼氏が完全に腕を下ろされるまでのあれで30秒ほどの間、拍手は起こらなんだが、っそれでも腕が下り切れば堪え切れない人が手を叩き始めたので、2日目はそれ以上であった、初日とほぼ同様の結び方、初日よりすでにしてやや長かったかもしれない沈黙ののち、彼氏の腕はゆっくりゆっくりと体側へ下りたが、っこちらは完全に下り切っても満席の堂内はしかし依然、森閑としたままで、カーチュン氏はそのまま、っおそらく瞑目して立ち盡し、っややあってもういちどかすかに振り解くような仕種をされて初めて、っぼくらは夢幻の境から現へと連れ戻されたのであった、っしたがって、っそうさあれで、完全に楽音が終止してから、1分か、っどうかすると1分半ほども、大観衆が沈黙を守ったことになるのではないか、

表現、演奏の煮詰まりぐあいからいって、っよしんば天を指して振り収めるなりすれば、っきょうの演奏もまた、賑やかな終結に反して長い長い沈黙を生んでもおかしくはなかった、っそこを客席を向き直ってすかさずの拍手を許されるあたり、キーミツという人の稟質を象徴していたようにおもう、



東神奈川辺まで歩ってぼやぼやと食事をしていたら、っいまもう日附を跨いで、っまだ南武線車中である、っこれから聖蹟からチャリンコで帰宅せねばならないが、動画配信はいまだ公演全編を観られる状態であってくれるだろうか、トラブルによるコンチェルトのやり直しも含めてドキュマンとして録画してコレクションしておきたいのだが、逸るきもちを抑えて家路に就くとせむ、

っあすは、っあすというかもうきょうは、っひさびさになんにもやることがない休日、っのんびりとすぐさむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




っおや、




っいま脇の喫煙所を利用せむとて器の前を通るに、修学旅行生とおぼしき中学生くらいの一団がその門前へ屯しており、引率の先生方が、はい、広がらないでもっと詰めなさい、っとかと云われている、生徒さんたちはみな手へテケツを握っているが、っこの子たちがこれから井上キーミツの公演を聴くのだろうか、中学生に難解なショスタコーヴィチとはなかなかにヘヴィな修学だとおもうが、っいいですねえ、っどんどん若い人たちにも聴いてもらって、舞台へ乗っているほうだって、っとくに売り出し中の俊秀にとっては、っやっとこさお客の面前で演奏できる機会が殖えてきても、っそのお客が年寄りばかりではいかにも張り合いがなかろう、

喫煙所は灰皿が撤去せられており、廃止かもしらん、っま、っあそこは喫煙しない人も歩く狭い通り道だから、早晩そうなりそうな気はしたが、っいまは代わりにおっちゃんふたりが摑み合いの喧嘩をしており、なにやってんだか、っと一瞥をくれてすぐに去り、っほかに隠れてこそこそ服んでいられそうな場所を索めて彷徨う、

っそれにしても、っぼくはもう20年も東京へいるが、東京の演奏会の客席には、学校帰りに直接来ました、っみたような若い人がいかにもすくない、田舎へいたころは、名古屋フィルの公演へ行くと、あ、あそこにも、あ、こっちにも、っと学生服の一群がちらほらといたものだが、都下1千と数百万、隣県も合わせれば2千万規模の人口がいて、相応に子供も大勢いるだろうのに、親は子供に駄賃を渡して演奏会へ通わせるくらいのことをしなくてどうするのか、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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っきのうは、




往きは2時間半でも着けなんだというのに、っゆうべ23時すぎに大宮を出て、志木、小金井を通って八王子、南大沢辺まで帰って、0:30すぎにはもういつも利用しているコイン・パーキングへいたのだから、渋滞の有無でいかに所要時間がちがうか、、、

アラームを掛けずにばたんきゅうで、目覚めた瞬間に、あかんっ、っとおもうが、っさいわい7:30ころで、っゆうゆうと2度睡ののち出勤、11:30ころには仕事をやめてしまって聖蹟本棟へ社用車を戻し、本社へきのうの日報と現場経費の残金とを提出し、着替えて、シガレットを服んだりしながら、悠長ボス、人足人事ボス、キーハリほかを相手にしばし油を売る、っいまは南武線車中、



っきょうは井上キーミツの《ラ・ボエーム》の池袋と名取との発売日であり、っよろしく良席を得る、前者は2日間開催のうち2日目を取る、初日はカーチュン氏公演とバッティングだったかな、っぴあでは12:00発売となっていたが、器のサイトで無料アカウントを作るとそこでは10:00発売であった、後者は、一寸以前に調べたときにはぴあでは座席指定の表示がなかったので他のサイトで購わねばならないかとおもうが、っきょう検索するとちゃんとその表示があった、

っこれで同全国楽旅8公演のうち、っぼくの行く予定の4公演中3公演の切符を入手済みである、残る川崎も、器の有料会員になっておいたが、当該公演も優先割引販売の対象のようであり、っこないだ売り出した夏の音楽祭の切符と合わせて、器の会員費ととんとんくらいの金額は償却することになるのじゃないか、京都は左方を購ったが、っきょうの2枚はつい習い性で両とも右方にしてしまう、川崎は左寄りにするとせむ、

引退までのキーミツの公演も、っまだこれからひとつふたつ増えそうな気がするが、発表済みの公演のうち未発売のものは、京響とのブルックナー《8番》、OEKとのショスタコーヴィチ《死者の歌》、っそしてサントリーでの読響とのラスト公演か、既発売の各公演の売れ行きをみるところ、っようよう惜別の感触を催しつつあるようだが、っいまのところ最後者以外はさほど入手難ではなさそうだ、最前者は、音盤となっている同コムビの同曲を聴くかぎり、ブルックナーとしては不必要なくらいにソフィスティケイトせられてしまった音をしており、殊に弱音をデリキットに扱うあまり、音楽がしばしば活き活きとした推進力を失う憾がある、っこんどの公演でも、京響は同様の線の細い音で勝負してきそうな予感がするので、っぼくとしては曲趣からいってなるがたけたっぷりと直接音気味の音量音圧を聴きたく、っしたがって階上の正面席は敬遠し、多少とも視界が犠牲となっても、2階バルコニー右翼をすこしく舞台へ寄ってみる心算である、定期ではなく特別公演のようなので、切符の争奪戦はさほどシヴィアではないはずだ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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大宮、




抜かったっっっ、

っきょうは三鷹の試掘で、っいつもみたように一作業員でなくぼくが代理人だったが、オペはやんちゃオペさんだわ哲学科出先輩はいるわで、っあっという間に午前中で仕事は済んでしまう、っそうでなければ、現場から直帰でそのまま社用車で大宮まで行ってしまう心算だったのだが、

、、、っというその心算だったので、聖蹟別棟まで戻ってもその気が疼き、2時間半あって着かないということはなかろう、っと16:20ころ、ホーム・センター行って直帰します、っとかと石川サユリストさんに大嘘を吐いて大宮へ向かう、っが、環8といい新大宮バイパスといい帰宅ラッシュにして、敢えなく19時までに大宮へ着けず、、、残り3、4kmで痺れを切らし、横路へ逃げたのが災いで、っあれで最後までバイパスへいれば、っぎりぎりイン・タイムであったかもしれない、

っしかも、19:10前ころにもぎりで切符を切ってもらい、場内スタッフの方に案内されて、コンチェルトの1楽章後に器へ入り、2階の最後列へ坐してくれろと云わるが、演奏は1楽章終了からほぼ間髪を入れずに2楽章へ遷ったため、っぼくともうおひとり老紳士がいたが、2重扉の間でスタッフの方が内扉を開けられないまま、すみません、楽章間がごくごくみじかかったので、ご入場いただくわけにはまいりません、っとなってしまい、フィナーレへはもとよりアタッカのため、コンチェルトはロビーのモニタを視ながら館内放送でっきり聴けず、、、

っわるいことはできないものである、大人しく聖蹟本棟へ社用車を戻し、電車で来ればよかった、辛うじて、ソリスト・アンコールへは入れてもらい、天井桟敷みたようなところでカザルス《鳥の歌》を聴くが、っこの大宮は、ったしか2,000席をおおきく超脱する大器のはずで、っじっさいソリストは遙か遠くに見えたが、渋谷とおなじで、え、たった1挺のセロがこんな大音場でこんな音量音圧、音のエッジで聴こえるかしら、っといった感触であり、ここも増幅しているのじゃないのか、っと疑られた、



っさておき、っどうとか気を取り直して休憩中にほんらいの自席へ着座し、っそこは2階の両脇が袖のごと彎曲しているもちろん右翼の4列目、最も内側で、っそこまで行ってみると舞台の眺望はサントリーのRCなどと同等のすばらしいものであったが、井上キーミツ/日本フィルで、ショスタコーヴィチ《10番》、っちなみに前半は、佐藤晴真氏を招いての同《2番》コンチェルトであった、

キーミツはN響とも渋谷で《10番》を演奏済みで、っつい先般、音盤になったが、っぼくはこんかいのこの公演に関して、進境著しい日フィルはN響を凌ぐ演奏を達するだろうと、密かに、っしかしつよく期待を有っていた、

果たしてっっっ、っやはりきょう日、N響よりも日フィルのほうがアンサムブルの風合い、膚触りが断然快いっっっ、恆に全体として一体のひびきがしており、っしかも各声部の色、唄い方もいずれ劣らぬ名キャラクターたちである、アマチュアリズムと云いたいくらいの迫眞のエスプレッシーヴォが至るところ咲き乱れるのも、悟り澄ましてい勝ちのN響にはなかなか望みえない美点中の美点である、

っきょうは、っごく細部でいくらかのエラーがあったか、っあすは横浜で夕から同プロで、っよろしく修整せられむことを、っぼくはあさのみ仕事をしてから出向くが、、、っもう23時になるのに、っまだいま大宮で食事して、っこれから八王子まで帰るんだよ、っま、っあしたは車を聖蹟本棟へ戻すくらいっきり仕事がないからね、っあすこそは、佐藤氏のコンチェルトをちゃんと聴かねば、っそして動画配信、当日中はコンサート全編を観られるが、翌日になると編集せられてソリスト・アンコールなどはカットせられてしまう惧れがある、帰ってあすのうちに録画しておかねば、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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参宮橋、




国立オリムピック記念青少年総合センターなる、明治神宮の脇にある施設内、っいくつか棟があり、っそのカルチャー棟内のホールにて、700余席となっていたが、っお客は数十人っきりおらず、っいちおう二重扉だったが、っその外方は故障中につきすべて開放せられており、っしたところ、内方の扉が外気の影響を受けてばたばたし、扉の隙間へ風が吹き込んで、ひゅーーーーー、っとひどいノイズがのべつしている、っぼくは前半は右端で扉の直近へおり、っもろにその被害を受けて、後半は中央附近後方寄りへ逃げてみたが、後部の扉も同様にひゅーひゅーいっている、指揮者が無粋なら、器までその彼氏にお誂え向きというところで、微苦笑とともに看過す、

小柳英之氏の棒、、、っは持たれていなんだが、アーベント・フィルで、マーラー《4番》を先に演り、後半はヴァグナー《タンホイザー》《リエンツィ》両序曲、《名歌手》3・1幕の前奏をこの順に、日曜に19:30から開演だというのに、っあいかわらず傍迷惑なくらいたっぷりである、

絃は1stが7だが、バスは6人もおり、っそのプリンシパルの男性は髪を振り乱して全身全霊をふりしぼるすばらしい弾き姿、後列には学ランの男の子もいる、プロフェッショナルとアマチュアとの混合体というが、公演の広告もほとんどなく、現にぜんぜんお客は来ないわけで、興行毎に恆にもちだしであろう、謎の団体である、っしかしこの下の厚い、っそれでも全体に小規模の彼等は、狭い音場で金管にめいっぱいに吼えられても、量としてぞんがい渡り合っている、

マーラーは、鈴の音と木管とが完全に通り過ぎてしまってから、っつまり記譜とはちがう、っもっと後ろからやっとVnが入り、っいきなり極端なアゴーギクで勿体附けてテーマへ遷る、っその提示までこそ、っぞんがいオケも巧く、滑らかに流れてゆく、お、そんなこともできるのね、っと意外におもうのもまもなく、展開では早くも事故多発、っどこかからオーボーの1番が完全に1小節前へずれてしまい、っしかもだいぶんしばらく当人そのことに気附かない、2番が教えてやれよ2番が、っとぼくなど客席ではらはらしたが、3人でいっしょにベル・アップするところでちゃんと揃ったのでほっと胸を撫で下ろしたところ、っその先でもまたずれてやんの、っその他、1楽章を了えるまでに、っぼくにわかっただけでも、絃、ファゴット、ティムパニが出してはいけないところで音を出していた、っそれは去年末に王子で聴いたスメタナでもまったく同様だったのだが、っどうしてああいうことになるのかしら、っすこしく異常な事故率で、小柳氏はといえば、1拍1拍うるさいくらいに、ぐいっ、ぐいっ、っと1234なり123なりと振られているのに、っどうしてあれでみな数えられなくなってしまうのだろうか、っけれども、っぼくは前回公演の経験から、予めぜんぶ赦しているのである、っべつにミスの頻発をよろこんでいるわけではないのだが、っそんな失点よりも、得点があるかどうかのほうを気にしているのだ、

2楽章はホルンの1番が自席を離れて指揮者の脇まで来て吹かれる、っここまでを聴くかぎり、曲調からいっていまだ小柳節の見参とまではゆかない、ソリストはいつ登壇されるのかなとおもっていると、3楽章がとつぜんにして大トュッティへ達するところであり、っまことに最適最良のご登場であったが、っその3楽章は、冒頭からの静かなうち、絃はすべての声部がおもいの丈を縦横に謳う、小柳氏はやはり不細工放題にほとんどずっと腕で拍をとられているのみ、っときおり弱音が慾しいときのアクションもまたいかにもカッコわるいが、っそれでもああしてオケがよく唄ってくれるのである、大トュッティではホルンもトロムペットもティムパニも剛毅に轟いて小音場をめいっぱいに満たし、っこちとら眩しい天啓を浴びているようであった、

フィナーレのソロは竹内京花女史、っぼくにとってのこのフィナーレのソロはバーンスタイン旧盤のレリ・グリストが永遠に凌がれることのない無二の名花であり、っそれからすると他のいっさいの演唱は、っこの云い種で伝わるならば、っただのソプラノだ、っもっとグリストのように地声に類する発声も効果的に用いてキャラクタリスティックに唄ってくれないのでは、っぜんぜん印象に遺らない、っが、史上にあんなグリストみたような人が現れて、っあれほどの演唱を音盤へ刻まれてしまっては、後代の歌手にとってはいかにもやりにくいのに相違あるまい、っいまの歌手は、っああした歴史的の名盤へ耳を貸したりするのだろうか、聴けば、自分にはこの歌唱を凌駕することができないと痛いほどよくわかって、誰しも絶望するのではなかろうか、自分にはとてもこの曲を舞台で、人様の前で唄うことはできないと、グリストの猿真似をしたって仕方がない、っしかしでは、他の方法でどのようにしてあれ以上の存在感を獲得しうるというのであろうか、っそれをおもうと、レリ・グリストとは罪な人である、っきょうの竹内女史も、っまあふつうのソプラノであり、っぼくとして、erはアーとでなくエルと古風に唄われたかったのと、っあれしきの容積の音場でその声量でどうするのかとややおもったのだが、小柳氏はぞんがい音量バランスを適切に操作されており、アレグロの部分をのんびり気味にされるのも、女史はときに唄いにくそうではあったが、っつんのめるようなテムポで音楽が小手先へ流れるよりは遙けく増しであった、

っそして、音楽が最後の1連へ差し掛かると、っそのララバイのごと管絃のやさしさに包まれ、竹内女史も、グリストを忘れさせるにはもちろん及ばないものの、っじゅうぶんに曲趣を伝え、っなんと、曲が終止するころには、っぼくは頰へ泪を落としていたのであった、



ヴァグナーではより金管が放縦となり、小柳節もいよいよ面目躍如、っそれでいてぞんがい騒音勝ちにはならず、っむしろ楽隊と堂内とが完全に共鳴共振し、っただ音楽それのみを実感できる時間がおおかった、テムポは悠然たるもので、《タンホイザー》序曲の終結部や《名歌手》1幕前奏の冒頭からなど、巨大にして魁偉、後者の最後はバンダを加えて本隊とは別音型を吹かせ、圧倒的の音塊が屹立するのであった、

次は森口真司氏と同日の公演、チャイコフスキー《3・6番》である、



っさて、っこんどの週末は大宮、横浜と、井上キーミツ/日本フィルで、ショスタコーヴィチ《10番》だね、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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所沢、




佐伯正則氏の棒、ナズドラヴィ・フィルなる楽団で、スメタナ《我が祖国》公演、済む、っきょうはスメタナの140回目の命日とのことで、本国ではじつにプラハの春音楽祭のオープニング・コンサートで同曲が演奏せられているわけなのだが、本邦でもそれに倣いたいという趣向で、劈頭には立奏でチェコ国歌が演奏さる、

佐伯氏については、調布でのマーラーにはそれほどつよく感銘を与えられたというのではなく、指揮者のセンスとしても楽団の水準としても、マーラーを十全に謳歌するにはいますこしく繊細なテクスチュアも事とできなくては、そのためには指揮者は拍ばかり振っていないで個別声部へどんどんキューも送ってくれなくては、っとおもわされたものだが、っきょうは、っきょうも佐伯氏は概して拍を振りつづける棒でいられたが、大柄の体軀にしてかならずしも華美流麗とはいえないその軌道は、小柳英之氏ほどではないにせよ相応に不細工であり、っそれがスメタナにはじつに好適で、点で音が出ないために音楽が絶えずおおらかに深呼吸している、

オケはじつにすばらしかった、ナズドラヴィとは現地での乾杯の発声らしいが、直訳すれば、ご健康にっ、っくらいの意らしく、っそれはあれだろうか、ほどほどに呑もうや、っということなのか、っそれとも、酒で身を持ち崩すというがそんなの知ったこっちゃない、不健康がコワくて酒が呑んでいられるか、呑みたいだけ呑んでこその精神の健康だっ、っという叛骨のことばだろうか、

っとまれ、っまず音場っっっ、数えるほどっきり来たことがないが、直近では去年、アマチュアがマーラー《トラギッシェ》を演るのを聴き、っそれは各声部とも譜面のオタマジャクシを追い掛けるのに汲々としたぜんぜん無趣味の演奏であり、っこちとらをして器のトーンを意識せしめるには到底及ばなんだ、っそれが、っきょうのナズドラヴィ・フィルはアマチュアとしては極めてテクニークに勝れ、っかつ、チェコ音楽に偏執し、っそればかりを取り上げる公演を行なってきた、っまた、主要メムバーの都合とあほヴァイアラス騒ぎとから8年間の活動休止を余儀なくせられ、っこんかいがじつにひさかたぶりの公演であったという事情もあろう、声部という声部があふれむばかりのエスプレッシーヴォを集わせ合い、っそれが、っおそらく1千と数百席、2,000席級からすればやや狭いのだろう音場へ、豪華、豊麗な残響に包まれて鳴り渡る、っきのうおとついのサントリーにおく日本フィルの音を薄いと聴く向きが念頭におもっている音場におけるオーケストラの鳴り方とは、っかようのものなのだろうと拝察せられる、ったしかに、っこの音量感音圧感、っこの全楽のブレンドの豊饒、っこの残響の長さは、オーケストラ演奏を聴く環境としてまことに理想的であるが、サントリーはサントリーで、っあのさっぱりすっきりとした後味を、っそれはそれでたのしんでしまうに如くはないと、っぼくはおもっている、

っその咽せ返るような音響のなか味わう《我が祖国》は、っいつも以上に隨所でぼくの胸を高鳴らせ、目頭を熱くさせた、去年から坂入健司郎、井﨑正浩、小柳英之、小林研一郎各氏と、ったてつづけに聴いてきた同曲であり、っみなそれぞれに記憶に残る公演だったが、っきょうの佐伯氏もそのいずれにも劣らない、っゆたかなひびきに抱擁せられるという点では、最も仕合わせですらあったかもしれない、

〈ヴルタヴァ〉は主題中のアクセントのたびにそのためにたっぷりと時間を取って歌を撓ませ、大河の眺望を具現す、

〈シャールカ〉の歌は、井﨑、小柳両氏もぼくを泣かせたが、っきょうあらためて、っなんという名曲だろうと感極まらずにいなんだ、クラリネットもじつに独壇場で、男性奏者だったが、怨讐に燃える女の情念を謳い抜く、

〈ボヘミアの、、、〉は、欝蒼たる森を描く冒頭のトュッティが退潮し、クラリネットから牧歌が始まると、木管各種はいずれもすばらしい歌心を通わせ合う、っいったん泪脆くなるともうダメで、一寸した音楽的妙味でももう泪腺が弛む、

〈ターボル〉から〈ブラニーク〉へ掛けてもこころゆくまで曲想を堪能することが叶い、後者の胸突き八丁、ターボル、ヴィシェフラド両動機が交互に鳴る場面では、大音場では音勢からいって後者の主張がよわくなり勝ちで、人によってはここでヴィシェフラド動機が鳴っていると認識していない向きもあるのではないかとおもうほどだが、っきょうは両動機がちゃんと並び立って聴こえ、っついに勇躍の足並みによって全曲は終結を迎えるのであった、



事後は器の楽屋口の見えるところでしばしシガレットを服んでいたが、っやがて楽員の方々がわらわらと出て来られ、最後に佐伯氏が楽員の方おふたりと出て去られた、参宮橋の開演までは長時間あり、駅へ戻る途次で食事、っいま西武線車中、生を2杯呑んだが、醉い醒まし、腹熟しに、新宿から音場まで歩く心算である、



っところで、っゆうべ早くもカーチュン氏のマーラー《9番》を録画し、先の下野/N響の《DQ》とともに、音声を抜いてiPhoneへ同期して聴いているが、件の〈そして伝説へ...〉の冒頭ファンファールが再現する直前の1小節におくVnは、っこれぼくのおもっている音型を弾いているだろうか、っつまり、N響との収録に際して改変が為されたのでなく、っもとよりこの音型で、ったまさか音勢バランスでそれが聴こえづらい演奏がおおかったというにすぎないのだろうか、っぼくのおもっている音とは、っこの声部が16分音符を3音下がって4音目を上がる音型を3度繰り返し、アウフタクトでトロムペットがファンファールを吹き始めるというものだが、っむかしの《DQ》の音盤ではブックレットへ全曲の譜面が載っており、っしかしそれはオーケストラ譜ではなくゲイム音源のそれであって、っその当該個所には、3拍とも異なる上下動の音型が記されていたようにおもうのだけれど、委細は知れない、っいずれ、っここでの音の聴こえ方として、仮に3音下がって4音目を上がる同一音型の3度繰り返しが奏されているとしても、っその晴れがましさがよろしく効果を上げる演奏にはなっていない、

幕間にはN響事務方とジャーナリスト飯尾洋一氏との対談があり、っとちゅうから公演中で気の休まらないだろう下野氏も加わられるが、当日のメムバーのなかには当該音盤の収録に参加された方もいられ、下野氏としてその助言におおくを俟たれたとのこと、誰だろうなあ、収録は80年代の末ころとおもうが、往時いまだ若き藤森氏あたりかなあ、っあの音盤はホールででなくスタジオでの録音で、絃は、1stでさえたしか×3とブックレットにあったようなかすかな記憶があり、少数で録った音の周波数をいじり、っあたかも大勢で弾いているかのように粉飾したものであろう、っしたがって再生音はオーケストラの音響を聴くにあたっての本格の手応えを生ずるものではなく、っぼくにとっての《DQ》の各スートを聴きたいときの㐧1候補は、ロンドン・フィル盤である、っあちらもスタジオでの録音ではあるが、絃はそれなりの人数を起用しており、再生音の耳当たりとしても、っちゃんと各楽器の好い音がしている、



っさて、っぞんがいぎりぎりになってしまったな、っもうじき会場着、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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渋谷、




ファビオ・ルイージ氏の棒、N響で、パンフィリ氏という、っぼくとそう生年の違わぬ40代半ばのイタリィの作家の《戦いに生きて》なる単一楽章の小品で開幕し、レスピーギ《トリニティ》を、《松》を演って休憩、っそして《噴水》《祭》である、パンフィリ氏はわざわざ来日、来場されていたようだ、

ミニマル先輩は渋谷におくN響公演は、3階席へはPAを咬ませてスピーカーから音を出している、っとおっしゃっている、確證があってのことなのかわからないが、3,600人も入る器の天井桟敷みたような席で、あんなに音が来るはずがない、っとミュージシャンとしての体感を表白されているので、っぼくもきょう聴いていて、っそうにちがいないとあらためておもった、っそれはN響公演通い常連の人たちにとっては、っどの程度、公然の秘密なのだろうか、っみなあれで、っなにひとつ機械類の世話にならない実音を聴いていると、っほんとうにおもっているのだろうか、

っぼくの経験を云えば、ゲルギエフがマリインスキー劇場管を連れてきてマーラー《3番》を演ったのが、っあそこを訪れたさいしょであり、っそのロビーで井上キーミツに遭遇し、あっ、井上道義だっ、っとおもったのも懐かしいが、永らくそれが唯一の機会であった、っというのは、ったぶんまだ画学生時分だったのかとおもうが、っその身の上に来日オケの高額の切符では天井桟敷を購うのがやっとであり、っそこから豆粒みたようなゲルギエフや楽員たちを見下ろしていて、っおそらくスピーカーの力は借りていなかったのだろう音は隣室から漏れるステレオでも聴くようにみすぼらしく、こんな広すぎる駄器、2度と来るもんかっっっ、っと憤慨したのであった、東京へ20年も暮らしながらついにN響を聴く習慣が具わらなんだのも、っこの器への最低最悪の㐧一印象があったからかとおもう、

っのち、っだいぶんさいきんになって、亡くなられてしまった元同輩で、イタリィで画描きをなすっていた方へ拙作を渡しておいたところ、っその返礼にといってN響定期の切符をくださり、っそれはヤルヴィ氏と、ったしか五嶋みどり女史との共演だったのかとおもうが、ショスタコーヴィチ《1番》コンチェルトとバルトーク《オケ・コン》とというもので、NHKホールかよ、、、っと気乗りがせなんだものの、っいただきものでもあって無下にもできず、っじつにやっとかめで出向いたのだった、っそれも3階のいちばん安い切符であったのだが、っなんだかあれかな、っいまはちがって全席指定なのかしれんが、っあのときは最安席は自由席扱いかなにかで、開場してもぎりを通過するや否や、っさもしい常連連中が一目散に階段を駈け上がってゆくという、現代日本人の恥部をみるようで不愉快なおもいもしたような記憶が遺っているが、っところが、っその位置で聴くN響は、っじつに音量たっぷり、最弱音でもちゃんと聴こえてくるじゃないか、ええ、おかしいなあ、こんな大空間でこんな音量音圧が得られてたまるかよ、っとおもいつつも、器をなかなかに見直したのだった、っが、っそのことをミニマル先輩に話すところ、や、あれぜったいスピーカーから音出しているよ、あんな音量で聴こえるはずないもん、っとのことであったわけだ、

っきょうもその疑念を抱いての着座だったが、っやはりその気味だ、パンフィリは最弱音に始まるが、っいつ音が鳴り出したのかはっきりとわかるし、開始直後、ヴィオラのトップがたったひとりでかすかにごにょごにょっと演る音型がしかしちゃんと聴こえるのである、レスピーギでときどきあるマロ氏のソロにしても同断で、坂入氏との上野でのショスタコーヴィチではあんなにも瘠せて艶のなかった彼氏の音は、っここではじつに強靭で芯が通っている、直前にサントリーというより狭く、好条件の音場で聴いていても、オケ中の絃のソロはあんな瞭然とした聴こえ方はけっしてしない、ミニマル先輩ならずとも、っぼくもスピーカーから音を出しているとおもわずにいないところである、っまあでもそれはそれで、大空間で最適音量のステレオを聴いているようなもので、っべつにいいじゃないのよってなものだが、っそれならそうで、弊団のNHKホール公演ではスピーカーを使用して増幅を行なっております、っとN響は正直に公表してもよさそうな気はする、っとまれ、っそうすると3階席はどこで聴いていようと音はたいして変わらないわけで、っいまさらながらに、っあの階段を駈け上がっていた連中への憐愍の情が去来してくる、

っだからこの所感は、コンサートを聴いてのというよりも、広大な視聴室で音盤を聴いてのものと同然であろう、

下野氏との《DQ》公演時に云ったように、N響は、ったしかに流石に一廉の楽団にちがいないのだが、っあれでほんとうに音色は豊饒なのだろうか、っなんだかどこまでいっても強弱と描線のシャープネスとっきり聴こえてこず、当の舞台へ乗っている本人たちが、っそれ以外それ以上の音楽的要素というものを信頼していないかのような寂しさを、っこちとらなどは感じてしまう、っかっちりとした音が出れば出るほど、でもそれっきりない、っとぼくの耳はどんどん意地悪になり、っさてはこころはどんどん虚しくなってしまう、オーケストラを聴くというのは、っぼくにとってはもっともっとカラフルで、っもっともっといろいろの質感、膚触りがし、っもっともっと複雑微妙な体験であるはずなのだ、映画やTVドラマのサウンド・トラックをオーケストラで収録する際、指揮者や楽員はみなヘッド・セットをかむり、電子メトロノームの音を聴きながら演奏している、出てくる音は精確そのものである、N響を聴いていると、っなんだかそうした奏楽を大音場でやってみていますという感触がして仕方がない、っその精確さをうれしいとおもえるほど、っぼくは人間ができていないようだ、

っあとはお客の雰囲気、N響とみりゃ無条件に大歓声、大拍手を送りますみたような、勝手連というのか、無思慮な人たちがだいぶん大勢いるのも、っなにかいやだ、っちょうどあのかっての階段駈け上がり連がそういう人たちなのだろう、志ん朝さんの高座を聴いていると、マイクが拾ったお客の笑声は、っほんとうに面白いから笑っているという手応えをしている、っそれからすると、圓生師のものなどを視聴すると、定番のくすぐりの個所へくると、笑わなきゃ、ここくすぐりだから、圓生大先生のくすぐりだから笑わなきゃ、っとなにかお客が強迫観念に囚われでもしているかのような強張った感触がする、落語を覚えるなら圓生で、っとは云い古された指南だが、っお客をさように萎縮恐縮させてしまう人が、っはたして舞台人としてほんとうに天下人であろうか、っぼくなど、舞台人たるものお客を仕合わせにしてくれなくては、っとつよくつよくおもわずにいない、

キーミツも引退されてしまうことだし、っぼくにとってはふたたび足が遠退くこととなりそうなNHKホールである、



っさてあすは、っあすもダブル・ヘッダー、午は所沢にて、っこないだ調布でマーラー《3番》を振られた佐伯正則氏がスメタナ《我が祖国》を披瀝される、っあのマーラーにそれほどいたく感銘を享けたわけではないのだが、っまあ無料公演でもあることだし、っそしてよるは、渋谷というか参宮橋のなんだか行ったことのない器で、っかの小柳英之氏の公演、ヴァグナーの序曲や前奏やとマーラー《4番》とだったとおもうが、っできるだけくっちゃくちゃのどったばたのめっためたの演奏で、火の玉みたようにぶっ飛んでくれることを期待してやまない、っあんなにもダッサダサの不恰好な音楽家がこの現代にいてくれるということが、っぼくはうれしくて仕方がない、っよのなかの音楽という音楽が残らず洗練せられてしまったら、っそれはすなわち音楽の滅亡と同義ではないか、っかようの言辞を容れたがらない向きがあることは承知している、っわかっていて敢えて挑発しているのである、っぼくにすれば、ダサい音楽ももちろん音楽のうちである、っそんなの至極あたりまえのことじゃないか、世人とはいったい、っそれしきのことも許容できないというのであろうか、落語にはフラというすばらしい価値観があり、市民権を得て定着している、音楽シーンはフラを許し、っばかりか愛するだけの度量を有てないのか、誰がそんなの要らないと云っても、っぼくだけはそれを有ちつづけたいところである、っというよりも、去年末、初めて小柳氏を聴いたとき、っぼくはただ率直に感動していたのだ、感動している者に感動するなというのは、っそれはまさしくできない相談である、っあす、っできるだけ、っできるだけめっちゃくちゃの演奏になってしまってくれたい、っめっちゃくちゃの演奏に、っするのではなく、結果としてなってしまう、っそこに無二の感動がある、鳴る音の感覚的の耳当たりを洗練せしめることよりももっともっとほかに、彼には叶えたい音楽があるのだ、っぞんぶんに発奮せよっ、小柳英之っ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




ギロッポン2日目、




カーチュン・ウォン/日本フィルでマーラー《9番》、済む、済んでいま溜池山王から渋谷へ来て、NHKへの坂を登り切る直前あたりの右っ手のビル1階にある喫煙可のカッフェ、っその名もLIGHTERSへ入り、チーズ・ケイキを食し、パイプを咥えている、

っゆうべもあれからうだうだしていたら帰宅したのは2時すぎとなってしまい、っきょうはもう仕事は休んで、午くらいまでごろごろしていて出掛く、

っゆうべはS、っぼくがサントリーではこのブロックと定めているRCの5列目で、2、3列前には東条氏が坐していられたが、っきょうの切符は、一般販売の初日に購ったはずだが、っすでにして2階のSはどこでも売り切れており、不本意ながらA、LDの最前列へ甘んず、っのち切符は完売したようでめでたいが、ったしかに、っゆうべもきょうも満杯のお客であった、アジア人のいまだ30代という俊秀、5年後や10年後は知らないが、現時点ではかならずしもワールド・フェイマスとはいえない指揮者をしかしさように遇することができて、っぼくも日本人の一個としてうれしい、プリンシパルへ呼んだ日フィルにしても、っじつに炯眼というべきであろう、

っさて、っその位置取りのせいで音が遠かったからか、っはたまた1日熟したせいで奏楽にゆとりができたからか、っゆうべに比してザッツの乱れ等は極少となり、全体の経緯がひじょうによく整理せられた代わりに、音色の豊饒、楽曲と四つに組まむとする執念はかすかに減退したかもしらず、っよってぐつぐつと滾るような、煮詰まって内容が凝って、、、こって、っじゃなくて、こごって、っね、凝ってくるような手応えでは、っゆうべのほうが勝った、、、っこれも、かった、っじゃなくて、まさった、っね、勝ったかもしれない、

読者様方も先刻ご存知のとおり、っぼくは絃ではVnをよりゆたかに聴きたい人である、彼等が全体のひびきのなかでのまずいちばんの主体主幹となり、他のいっさいの声部は、内声から低音に至るまで、っすべてそれとの相関の裡に量も色も定まっていると聴くのが、っぼくにとってのオーケストラ鑑賞というものである、っしたがって位置取りは必然にして右寄りとなり、聴覚としても視覚としても全楽をみ渡していられる2階席が㐧1の選択肢となる、サントリーでは、2階正面では最前列でもすでにして舞台からかすかに遠い気がし、常設の楽団の定期ではその最前列附近もまず得られないので、っそうするとRCが最も狙い目である、RCとて会員向けの先行販売のある公演では前方は得られないが、舞台からの直線距離としてはRCの5列目か6列目あたりが正面席の最前列と同等程度であり、編成の規模や楽団の鳴り方の性質にも依るとはいえ、っこれまでにこのブロックへ坐して音響への不満を抱いたことは、っぼくはない、

っきょうは左方だったので、っそうおもって聴けば、っやはりごくわずかに高絃の音がこちらへ来ていない憾が遺ったろうか、っそうするとぼくのおもう管絃のウェル・バランスというものに破綻を来たし、全体の色調もときに単調に聴こえないとしなかった、っゆうべの公演への所感の諸賢による短文投稿をざっと繰ってみたが、っひびきが薄いという旨のことを云われている人がひとりふたりいられ、RCでどうどうと色彩の氾濫を浴びたぼくとしては、え、あれを薄いと聴くなんて、なんて贅沢な耳なんだ、っと訝ったが、LDに類する条件で聴いた人は、っゆうべもきょうもさようの感触を得たとして無理からぬところかもしれない、っそれが音場というもの、っそれが座席の位置というものであり、っだからぼくは貧乏人足だった時分から、っいまだってまったく高所得者ではないが、っどんな器でのどんな公演であろうと、っまずSを購うことをかんがえるのである、

単発の特別公演ならば、っそのRCの最前列を得られるチャンスもまたある、っことしはすでにして2公演のその列の切符を得ており、っひとつに、井上キーミツと服部百音女史とのショスタコーヴィチの両コンチェルト公演、オケはN響であり、っついにサントリーでN響を聴く機会も巡ってきたので、っじゅうじつの日フィルとどう渡り合うか、っその点もたのしみである、っひとつに、っこないだの上野での坂入健司郎氏公演のパンフレットへ案内が挿まれてあったが、ジョージ・ハリオノ青年の本邦でのコンチェルト・デビュー公演である、彼氏のピアノは、YouTubeでチャイコフスキーを弾くのをもう2年か3年前に観、若いくせにしてばりばりと弾きまくる弾き飛ばすというのでなくして、っどっしりと遅いテムポの裡にがらんがらんと教会の鐘楼が鳴るような巨大なピアニズムを披瀝されており、っあれでまだハイ・ティーンくらいだったのだとおもうが、観ながらぼくは、いやいや老大家じゃないんだから、、、っとその偉容に感じ入ったもので、っしかしそんなこともしばらく忘れていて、去年末ころだったか、想い出して公演情報を検索したときには、横浜でのリサイタルが済んだ直後であり、口惜しいおもいをした、っしかしコンチェルトはまだ弾かれていなかったようで、っあのYouTubeとおなじように大人の風格をみせるのか、っそれともこの数年内にも若さの心境の変化があったか、晩秋ころの公演だが、期して待ちたい、



っさて、っまもなく渋谷開演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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