所沢、 | ざっかん記

所沢、




佐伯正則氏の棒、ナズドラヴィ・フィルなる楽団で、スメタナ《我が祖国》公演、済む、っきょうはスメタナの140回目の命日とのことで、本国ではじつにプラハの春音楽祭のオープニング・コンサートで同曲が演奏せられているわけなのだが、本邦でもそれに倣いたいという趣向で、劈頭には立奏でチェコ国歌が演奏さる、

佐伯氏については、調布でのマーラーにはそれほどつよく感銘を与えられたというのではなく、指揮者のセンスとしても楽団の水準としても、マーラーを十全に謳歌するにはいますこしく繊細なテクスチュアも事とできなくては、そのためには指揮者は拍ばかり振っていないで個別声部へどんどんキューも送ってくれなくては、っとおもわされたものだが、っきょうは、っきょうも佐伯氏は概して拍を振りつづける棒でいられたが、大柄の体軀にしてかならずしも華美流麗とはいえないその軌道は、小柳英之氏ほどではないにせよ相応に不細工であり、っそれがスメタナにはじつに好適で、点で音が出ないために音楽が絶えずおおらかに深呼吸している、

オケはじつにすばらしかった、ナズドラヴィとは現地での乾杯の発声らしいが、直訳すれば、ご健康にっ、っくらいの意らしく、っそれはあれだろうか、ほどほどに呑もうや、っということなのか、っそれとも、酒で身を持ち崩すというがそんなの知ったこっちゃない、不健康がコワくて酒が呑んでいられるか、呑みたいだけ呑んでこその精神の健康だっ、っという叛骨のことばだろうか、

っとまれ、っまず音場っっっ、数えるほどっきり来たことがないが、直近では去年、アマチュアがマーラー《トラギッシェ》を演るのを聴き、っそれは各声部とも譜面のオタマジャクシを追い掛けるのに汲々としたぜんぜん無趣味の演奏であり、っこちとらをして器のトーンを意識せしめるには到底及ばなんだ、っそれが、っきょうのナズドラヴィ・フィルはアマチュアとしては極めてテクニークに勝れ、っかつ、チェコ音楽に偏執し、っそればかりを取り上げる公演を行なってきた、っまた、主要メムバーの都合とあほヴァイアラス騒ぎとから8年間の活動休止を余儀なくせられ、っこんかいがじつにひさかたぶりの公演であったという事情もあろう、声部という声部があふれむばかりのエスプレッシーヴォを集わせ合い、っそれが、っおそらく1千と数百席、2,000席級からすればやや狭いのだろう音場へ、豪華、豊麗な残響に包まれて鳴り渡る、っきのうおとついのサントリーにおく日本フィルの音を薄いと聴く向きが念頭におもっている音場におけるオーケストラの鳴り方とは、っかようのものなのだろうと拝察せられる、ったしかに、っこの音量感音圧感、っこの全楽のブレンドの豊饒、っこの残響の長さは、オーケストラ演奏を聴く環境としてまことに理想的であるが、サントリーはサントリーで、っあのさっぱりすっきりとした後味を、っそれはそれでたのしんでしまうに如くはないと、っぼくはおもっている、

っその咽せ返るような音響のなか味わう《我が祖国》は、っいつも以上に隨所でぼくの胸を高鳴らせ、目頭を熱くさせた、去年から坂入健司郎、井﨑正浩、小柳英之、小林研一郎各氏と、ったてつづけに聴いてきた同曲であり、っみなそれぞれに記憶に残る公演だったが、っきょうの佐伯氏もそのいずれにも劣らない、っゆたかなひびきに抱擁せられるという点では、最も仕合わせですらあったかもしれない、

〈ヴルタヴァ〉は主題中のアクセントのたびにそのためにたっぷりと時間を取って歌を撓ませ、大河の眺望を具現す、

〈シャールカ〉の歌は、井﨑、小柳両氏もぼくを泣かせたが、っきょうあらためて、っなんという名曲だろうと感極まらずにいなんだ、クラリネットもじつに独壇場で、男性奏者だったが、怨讐に燃える女の情念を謳い抜く、

〈ボヘミアの、、、〉は、欝蒼たる森を描く冒頭のトュッティが退潮し、クラリネットから牧歌が始まると、木管各種はいずれもすばらしい歌心を通わせ合う、っいったん泪脆くなるともうダメで、一寸した音楽的妙味でももう泪腺が弛む、

〈ターボル〉から〈ブラニーク〉へ掛けてもこころゆくまで曲想を堪能することが叶い、後者の胸突き八丁、ターボル、ヴィシェフラド両動機が交互に鳴る場面では、大音場では音勢からいって後者の主張がよわくなり勝ちで、人によってはここでヴィシェフラド動機が鳴っていると認識していない向きもあるのではないかとおもうほどだが、っきょうは両動機がちゃんと並び立って聴こえ、っついに勇躍の足並みによって全曲は終結を迎えるのであった、



事後は器の楽屋口の見えるところでしばしシガレットを服んでいたが、っやがて楽員の方々がわらわらと出て来られ、最後に佐伯氏が楽員の方おふたりと出て去られた、参宮橋の開演までは長時間あり、駅へ戻る途次で食事、っいま西武線車中、生を2杯呑んだが、醉い醒まし、腹熟しに、新宿から音場まで歩く心算である、



っところで、っゆうべ早くもカーチュン氏のマーラー《9番》を録画し、先の下野/N響の《DQ》とともに、音声を抜いてiPhoneへ同期して聴いているが、件の〈そして伝説へ...〉の冒頭ファンファールが再現する直前の1小節におくVnは、っこれぼくのおもっている音型を弾いているだろうか、っつまり、N響との収録に際して改変が為されたのでなく、っもとよりこの音型で、ったまさか音勢バランスでそれが聴こえづらい演奏がおおかったというにすぎないのだろうか、っぼくのおもっている音とは、っこの声部が16分音符を3音下がって4音目を上がる音型を3度繰り返し、アウフタクトでトロムペットがファンファールを吹き始めるというものだが、っむかしの《DQ》の音盤ではブックレットへ全曲の譜面が載っており、っしかしそれはオーケストラ譜ではなくゲイム音源のそれであって、っその当該個所には、3拍とも異なる上下動の音型が記されていたようにおもうのだけれど、委細は知れない、っいずれ、っここでの音の聴こえ方として、仮に3音下がって4音目を上がる同一音型の3度繰り返しが奏されているとしても、っその晴れがましさがよろしく効果を上げる演奏にはなっていない、

幕間にはN響事務方とジャーナリスト飯尾洋一氏との対談があり、っとちゅうから公演中で気の休まらないだろう下野氏も加わられるが、当日のメムバーのなかには当該音盤の収録に参加された方もいられ、下野氏としてその助言におおくを俟たれたとのこと、誰だろうなあ、収録は80年代の末ころとおもうが、往時いまだ若き藤森氏あたりかなあ、っあの音盤はホールででなくスタジオでの録音で、絃は、1stでさえたしか×3とブックレットにあったようなかすかな記憶があり、少数で録った音の周波数をいじり、っあたかも大勢で弾いているかのように粉飾したものであろう、っしたがって再生音はオーケストラの音響を聴くにあたっての本格の手応えを生ずるものではなく、っぼくにとっての《DQ》の各スートを聴きたいときの㐧1候補は、ロンドン・フィル盤である、っあちらもスタジオでの録音ではあるが、絃はそれなりの人数を起用しており、再生音の耳当たりとしても、っちゃんと各楽器の好い音がしている、



っさて、っぞんがいぎりぎりになってしまったな、っもうじき会場着、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)