襷 ―タスキ―  第1回配本 | ざっかん記

襷 ―タスキ―  第1回配本

 

 

 

 小山の朝は早い。職人のうちでは彼が最も工場の近くに棲んでいるが、起きるのは彼がいちばん早い。3日に1度くらい髭をあたる。湯を沸かして茶を淹れ、粗末ながら朝餉を調える。もう独身もながく、馴れた手つきだ。袖を通す作業着もいかにも着古したもので、ほうぼうに機械油のシミがある。左利きの彼は右の胸ポケットへボール・ペンをさすが、ペン先を出したまま胸へさす癖がどうしても抜けなくて、ポケットの底にはインクがにじんでいる。にじんだインクは旧いほうから褪せ、もと黒かったのが青く変色している。あたらしくおろしたボール・ペンも、そういうわけでペン先がつぶれて、いくらも使わないうちに書けなくしてしまう。書けなくして、新品をおろした当座は気を附けるが、また元の黙阿弥。そのくりかえしで、右胸のインクにじみは彼のトレイド・マークである。

 けっしてぶきっちょなわけじゃない。仕事はむしろできるほうだ。工場には大小取り混ぜて10台ばかり機械があるが、そのすべての操作に通曉しているのは小山ひとりである。無口でいつも仏頂面のためみな近附きたがらないが、職人連中は誰もたいがい小山に借りがある。体調をくずして仕事を休んだときに彼に代わってもらったり、へまをしたときに取り返してもらった恩がある者も2人や3人ではない。ちかごろやっと壮年の貫禄がついてきた職人たちなど、みな小山から手取り足取り仕事を教わった口だ。いまでは朝の挨拶も(ろく)にせず、休憩となれば小山を遠巻きにして灰皿を囲む彼等だが、どこかではこのもの云わぬ職人頭に一目置いているのである。

 さいきん小山が目を掛けているのは、武田という新入りだ。大学を出て2年になるのに職にありつけず途方に暮れているところ、社長の佐藤が不憫に思って拾ってやった青年である。大卒ということで、佐藤ははじめ営業職に就けようとしていた。ところがこの武田青年も変わり者で、佐藤に連れられて工場のなかをひとまわりするや職人連の仕事ぶりに魅せられ、ぜひとも職人にしてくれと云って聞かなかった。それで佐藤も折れて、しぶしぶ武田の希望を聞き入れたのである。もっとも、佐藤はとうのむかしに現場を離れていて、新入りの教育といっては小山に一任する習いになっている。預けられたほうの小山は手を焼いた。なにしろ、おい、と呼べば、なんだよ、と返ってくるのへゲンコツを降らせながら行なうのが、小山にとっての新入りの教育だったのだ。それがこんどの武田をおいと呼べば、はいっ、としゃっきりした返辞がし、みれば黒眼勝ちのきらきら光る瞳がある。調子が狂うの狂わないので、メモ帳を手にした武田からなにか質問をされると、言葉がむつかしくてなにを云っているのか分からず、かえって小山のほうが気後れしてしまった。それでも社長の拾い子だからと辛抱していたが、あるときどうにも脇腹がこそばゆいのを堪えられなくなり、辞めるなら辞めろい、という気分で武田を工場の表へ連れ出した。

 ――おまえねえ、よくないよそういうの。なにがって分かってんだろうが。その俺のわからねえ言葉でものを訊くのはやめろってんだ。喋ってて俺に伝わってねえなってのがおまえだってわかるだろうが。そうしたら、おまえくらい頭がいいんだ、俺のわかるような云い方をちったあかんがえねえかってんだよ。なんのための大学出のオツムだ、えっ。だいいち職人の仕事なんてのはな、みて盗むもんだ。教わるもんじゃねえ。その帳面こっちへ貸せちくしょうっ。

 云って武田の手からメモ帳を取り上げ、びりびりに破いてしまった。この仕打ちがわからないヤツならここへ置いておいても仕方がないとのおもいだった。そしてむしろやさしく、諭すようにつづけた。

 ――いいか、よのなかでメモをとるヤツほど仕事のおぼえがわるいヤツはいねえぞ。郷に入りては郷にしたがえって言葉おまえさんだって知ってんでしょう、俺が知ってるくらいだ。おまえとしちゃ仕事をおぼえたい一心でメモをとるのかもしれねえが、肝腎の教わる相手の俺にそれが目障りだってんだ。それがおまえわかるかい。おまえにとっての真面目さが俺には目障りなとき、折れなきゃならないのは俺のほうかい。ちがうだろ。おまえのほうだ。おまえさんが俺の眼にかなう、いままでとべつの真面目さを探さなきゃなんないんじゃないのかい。学がねえとおもってナメてるのかしれねえが、おまえがあの小むつかしいことを云うときなあ、俺のことちょっと下にみてんのわかってんだよ。わからないとおもってるだろうが、そういうことってのは人は勘附くもんだ。そのときにおまえは帳面を構えて、私は勉強してるんですっ、って態度をムリして取りやがる。どうしてあんな態度を取るんだ。俺のことを下にみてるのを自分でわかってるからだろう。それが人にものを教わる態度かってんだよ。怒ってるんじゃないよ。おまえほんとうに職人になりたいのかなりたくないのか、それを云うんだよ。

 武田としては、こんな大人(たいじん)にはこれまでついぞめぐりあわなかった。立ち尽くす彼は、感動にふるえていた。彼はどこかで、無学な先逹(せんだつ)を下にみている自分の傲岸を挫かれたがっていたのだ。小山が諫言を吐きはじめた瞬間に、彼にはそのことがわかった。武田が外へ連れ出されるときほかの職人連は、無関心を装いながらも、小山がどんなふうに云って彼を叱るか、おのおのかんがえていた。聴き耳を立てても動かしている機械の音に遮られるきりだったが、自分たちの過去の経験から、ここらが瀬戸際だな、とおもうのだった。

 そして武田は残った。メモ帳を捨てて。慇懃無礼な質問もやめて。毛色がちがっても新入りに手こずらされるのはいつもおなじだ。そうおもうと、小山にはやっと武田がかわいくなった。工場の外壁には階段が掛かってい、2階は事務所になっているが、階下で武田が叱られたときも、翌朝こころを入れ替えて出勤した彼が元気よく先輩連に挨拶しているときも、階段を上がった事務所の玄関口で、社長の佐藤は煙草を()んでいた。手摺に身をあずけ、やっぱり新入りはコヤっさんに任すにかぎるな、とぷかぷか(けむ)を吐いていた。コヤっさんとは、おやっさんがいつだかにそれにすりかわってしまった小山の渾名(あだな)である。

 

 なぜ小山が朝早くに起きるかをまだ云っていなかった。彼は出勤前、工場近くの小学校の通学路に立ち、交通誘導をしている。そのためにである。作業着の上から黄の蛍光素材のヴェストを羽織り、右二の腕に深緑の腕章をするが、これはともに当の小学校から支給されたものだ。まったく自主的にはじめた奉仕だが、地域に歓迎されているのかは云いにくい。小学校は、無償の奉仕をありがたがってすぐさまヴェストと腕章とを支給した。だが父兄から漏れ伝わるところによると、無粋ないでたちの金工職人が横断歩道の脇へ立っているのはじっさいに目にすると異様で、無償奉仕を装ってなにか裏にたくらみがあるとも知れず、そんなところを子供に歩かせるのは不安だ、との声がすくなからず聞かれるとのことである。小学校としては悩ましいところで、べつになにを仕出かしたというのでもない善意の人に、支給した備品の返却をもとめる理由をみつけられずに手を(こまぬ)いていた。偵察がてら教員のひとりがいつも彼が立っている横断歩道を見に行ったこともあるが、たしかに異様だ。なにが起こるでもない、ただ慈悲の眼が、善意の手があるだけで、それがかえって異様なのである。小学校では、過去5年10年とさかのぼっても在校6年間皆勤の生徒はひとりもいなかったが、小山は、はじめて以来18年間、雨の日も風の日も雪の日も、学校のある日は1日も休まず横断歩道に立ちつづけている。

 工場の佐藤のもとにも、あれはどういうつもりなんだと(ただ)す声が届いている。佐藤はそれを、さあどういうつもりなんでしょうね、と(かわ)すことに決めている。いまから19年前、小山は身体(からだ)ひとつで工場へ転がり込んできた。どこか翳のある、苦み走った貌附きのいい男だった。見る目にやんちゃ放題をやってきた風だったが、いっぽうですでに職人としての貫禄を身につけており、じっさい仕事はおどろくほどよくできた。それで雇い入れた。それからほどなくして、あしたっから子供たちのために横断歩道に立つ、仕事に穴はあけねえからなにも訊かずにそうさせてくれ、ととつぜん談判され、なにか深い仔細のあるらしい様子なので、すきにしろ、とだけ佐藤は云った。そのときから片時も休まずである。

 大人たちが遠巻きに見て小山のことを気味悪がるのをよそに、子供たちはみな彼のことを慕っている。おおきな声で彼に朝の挨拶をし、横断歩道を渡ってゆく。18年間、この小学校の学区内では子供が被害者となる交通事故は発生していない。

 

 小山が交通誘導をするようになるいきさつを知るには、彼の若いころを知らなければならない。彼の若いころといえば、それはひどいものだった。

 一部に人は、無頼漢の生き様に生の躍動をみようとする。が市井の無学の人が、それゆえに無頼たらざるをえず、社会なり地域なり家庭なりにおける己の客観視ままならぬがために無法な独善に走るとき、そこには、とても生の躍動などと(うそぶ)いてはいられぬ悲劇があるだけだ。無頼とは、知的飽食から来る欺瞞にまみれた遊戯では断じてない。どうやら社会なるものへ順応しなくてはならないらしいと(はだえ)で感じている者が、不幸にしてその素養を誰からも授けられないまま当の社会へ突進してゆかねばならぬときにあげる、血の絶叫である。その独善は、なまじ順応する仕方を知っているために順応したがらぬ身勝手ではなく、順応せねばならないと勘附いているのにその仕方がわからぬがために喀血を余儀なくされる悲劇の結果なのだ。青年小山は、その血反吐を吐きまくったひとりだった。だが彼はその悲劇から懸命に逃れようとした。そして永年の苦労の末やっといまの静かな朝を手に入れた。30年余前の彼の朝は、いまのそれと似ても似つかない。

 

 のぞいてみよう。

 

 ひどく脂汗の浮く額、鼻の頭。呻吟(しんぎん)はいまだ寝醒めを摑まず。逃げ惑う先々に兇暴なノックの音。ついに四方を囲まれ八方を塞がれ、ふりほどくように醒めれば、(さえず)り降る日常の床にいる。悪夢にこんこんと教わらずとも、ほんとうは憶病者なのだと自分でよく知っている。いまは独りだ。ちょうどいい。こんな見苦しい姿はとても女には見せられない。

 3日に1度はこうして迎えられる、それが小山の朝だ。呑むより浴びるほうの酒は、うらぶれた酩酊と悪夢とを連れて来こそすれ、陶酔を惠んではくれない。以前はあべこべだった。そしてなぜ逆転したのかを彼は知っている。起きて仕事へ行かねばならない、その義務感が深酒と手を組むとき、酔漢に悪夢をみせるのだ。

 懐寒ければ女を泣かす、泣かせれば財布の底から金が湧いた。給料日はまったく彼の任意だった。いま彼は、給料日は月に1度しかないと知り、財布はただの布きれでしかないと知る。手繰り寄せれば済んだ給料日へ、みずから日一日と歩み寄らねばならない。不埒な青春は散った。

 当初は、無心の相手が女から貸金業者に変わっただけだった。こんどこそ仕切り直すんだとほうぼう逃げ回っては職を変えたが、どうしても給料日を待てず、パチンコに競馬、負けて自棄酒、無断欠勤、解雇、そのくりかえしだった。こんどこそ、こんどこそ仕切り直しだ。その決心への試練か、どうやら取立屋を巻き(おお)せたらしいこの(へや)でいつしか、呻吟の夜が、悪夢の朝が、はじまったのだった。

 いまの職場を彼は、追われたくない。そしてきょう現在追われていない。むしろかわいがられている。ちいさな金型工場だが、社長は長篠といって、これができた人で、職人は出来損ないほど辛抱強くかかえておくものだ、という(はら)なのだ。週に1、2度工場へ鼻の頭を見せられるかどうかだった小山へ、長篠は何度かこう云ったものだ。

 ――毎日まいにち規則正しく仕事へ出掛けていけるヤツばかりじゃないさよのなか。

 小山は、かばってもらえているんだとおもっていた。自分にはどこか愛嬌があって、長篠が自分を責められずにいるんだと。しかしようよう毎日出勤できるようになってくると、どうやらちがうらしい、長篠の科白(せりふ)は頓智の利いた諫言だったらしい、ということがわかってきた。彼は赤面とともに自分の幼さを知った。女をいかようにでも意の(まま)にできていたときには、自分が全世界の支配者である気がしていた。長篠を相手にも、持前の愛嬌を武器に巧く取り入ることができたつもりでいた。だがすべては見透かされていた。彼は恥じた。そのとき悔悟に襲われて以来きょうまで、皆勤がつづいている。長篠には、小山のこの改心を待ってやる度量があった。何人も職人を育ててくるなかで培われた信条があった。小山は救われたのだ。

 云ったように、十数年ののち佐藤の工場へ移るころには彼も立派に職人としての貫禄を身に修めていたわけだが、その彼の成長を語るうえで欠くことのできぬ人物がいる。当時長篠の工場で職人頭をしていた簑島という男だ。このころの簑島と小山との関係が、ちょうどいまの小山と武田との関係に相似している、と云えば早いか。気風(きっぷ)のいい、つっけんどんな物腰の、粗忽(そこつ)者だが、でも仕事のことなら誰にもぐうとも云わせない、職人のなかの職人であった。もっとも簑島自身は、俺たちから下の世代に職人の肩書は荷が勝ちすぎる、と常日頃謙遜していた。彼によるとその理由はこうだ。―職人ていや俺たちの師匠筋の時代でおわりよ。俺の師匠は、工場が請け負った新幹線の部品の仕事を、その線路がテメエの故国くにを通るからっていってぜったいにやりたがらなかった。国潰しの片棒が担げるかって啖呵切って、とうとう辞めちまいやがったんだ。風の噂じゃ、浮浪者に身をおとして野垂れ死んだとかよ。それもかみさんこどもをのこしてだ。俺にはとてもそんなマネはできねえ。気に入らねえ仕事を蹴って女房子を路頭に迷わせるなんてな。だからもうよのなかにほんとの職人はいねえ。いつまでも正面切って綺麗事が云えるようじゃなきゃな。意地じゃなくカネで仕事を択ぶようになっちゃあ、もう職人じゃねえのさ。

 俺はおまえの腕を認めたよ、と云うのはずかしさに簑島は、自分の眼鏡にかなうようになった弟子にこの野垂れ死に師匠の話を聞かせることを常としていた。小山は、彼からゲンコツを喰った回数も並外れていたが、この話を聞かされた時期も群を抜いて早かった。なんのために仕事なんてしなきゃならないのか、とりとめのない不平をぶらさげて朝工場へ行ったような行かないような日々には、簑島は彼に見向きもしなかった。毎朝出てくるようになって初めて痛烈なゲンコツを降らせ、罵倒し、反抗する彼と取っ組み合いのけんかをやり、かならず師匠が弟子をこてんぱんにのめした。上背のある小山に対して、簑島は小柄でずんぐりむっくりだったのに。

 若い小山には、刃向かってもかなわない相手のできたことがうれしかった。自分で自分のことを(かわず)だとわかっているそのことより、おおきなおおきな先逹からおまえは井の中にいるんだと教えられることのほうがどれほど貴いか知れない。若い身空に無頼を貪った者の更生には、是非ともその震盪が入用なのだ。いや、その震盪が加わらなければ、彼等は自分が更生したがっていることにすら気が附かないのである。辣腕簑島との出逢いは、小山にとって眞に幸福であったと云わねばならない。

 

 出逢いといえばこの工場で小山は、後半生の軌道を決定的にする女性と出逢っている。長篠梓、社長長篠のひとり娘である。高校を出て簿記の専門学校に通いながら、工場の経理や雑務を手伝っていた。目醒め、皆勤がはじまってじき、例のトレイド・マーク、右胸ポケットにインクにじみができたその小山の無精を、彼女はしばしば見咎めた。盛夏、その作業着の上を脱ぎTシャツ1枚で仕事をしている彼のところへ来て彼女は、放ってある作業着を取り上げてやはり、

 ――やだ、孔まで空いちゃってる。当て布して縫ってあげるよ。インクだってベンジンで叩けば落ちるから。

 と云った。はずかしい小山は、

 ――いいっすよそんな。

 と彼女の手から作業着を取り返そうとするが、相手はそれをぎゅっとつよく摑んでいて、もういちど怒ったように、

 ――いいから縫ってあげるって云ってんの。

 と云って彼をふりほどくように作業着を自分の身体にひきよせた。気附かないフリ気附かないフリをしてきたが、このとき彼は、梓が自分に惚れていることをあきらかに知った。ただでさえ暑いうえに操業している機械の熱ももうもうと籠もる町工場で、見兼ねた簑島がわざとらしい咳払いをするまで、ふたりは作業着の端と端とを握って視線を交わし合った。

 ふたりの仲については、職人連の間では早くから公然の秘密だった。なにしろ、この一件にかぎらず、小山が入社して間もないころから、それまで稀にしか工場に顔を見せたことのない梓がのべつ覗きに来ては、彼にあれやこれやと世話を焼くのだ。気附かないほうがおかしい。長篠夫妻はというと、長篠の工場も佐藤のとおなじで2階が事務所になっていたが、ふたりは事務所にいることがおおく、しばらくこのことには鈍感だった。がやはりこういうことは女親で、先に気が附いたのは妻の陽子のほうだった。ある夜、夫の晩酌中に陽子が彼にそのことを告げたが、グラスの汗を人差指の腹で拭いながらそうかと呟いた父親は、もちろん心中穏やかではなかった。

 それからの長篠は、大人気ないと知りながらも、小山につらく当たってしまった。みていて、このままだと小山がへまをするとわかっていたのにあえて指摘しないでいて、じっさいにへまをしてしまってからひどく叱責し、晩酌のとき自己嫌悪に襲われたりした。じき彼は、以前のように気を置かず小山と接することにひどく困難を感ずるようになった。いかにもやんちゃ者だからこそ拾ってやりたいと、小山が自分の(もと)へ流れてきたとき、彼はおもった。そういう若者こそ、いったん仕事にのめり込むとめきめきと腕を上げるものだから。さいきんの小山をみて彼は、自分の眼鏡に狂いはなかったと、どこか自己満悦に浸るところがあった。そこを寝耳に水、娘との関係を知らされ、反射的に、飼い犬に手を噛まれた、とおもう自分を抑えることができなかった。それは人徳者なればこそなのだ。ふいに裏返ると、人徳者ほど陰湿である。

 しかしじっさいのところは、父親が心配をするほどには、あるいは職人連が下世話な想像力をはたらかせて描くほどには、若いふたりの関係は進展していなかった。ふたりが工場の外で仕事以外の時間に逢うようになるのは、まだだいぶんあとのことである。小山の心中を云えば、梓に惹かれるいっぽうで、自分のように着のみ着のままで借金取りから逃げてきたような輩が、社長のだいじなひとり娘とどうこうなっていいわけがない、との気兼ねも育っていた。それが井戸を井戸とわかった蛙のものの感じ方というものだ。以前の彼ならば、男と女とは惚れたほうの負け、世話になっている人の娘だろうが、自分に惚れている女ならばぞんぶんに薙ぎ倒せばいい、かんがえるよりまえにそうしていた。職人として腕を上げてゆく自分をすきになりかけていた彼は、うまれてはじめて女との距離の取り方に慎重になっていた。じっさい、梓がいたこと、彼女との関係をかんがえることで、彼は自分の立場をよくよく(わきま)えるようになったし、それが身を入れて仕事をするためのおおきな動機となったことは疑いのないところだ。

 このころ、長篠にはげしく叱責されてふさいでいる彼を簑島は、社長がああつらく当たるのはおまえに目を掛けているからだろ、こんなことでおまえいじけるんじゃないぞ、とよく励ましたものだ。梓とのことではやましいところのない彼は、簑島の云うとおり、長篠の仕打ちを社長の鞭撻とはおもっても、父親の怨恨とは(つゆ)おもわなかった。皮肉と云うべきか云わざるべきか、こういうときに焚きつけられる純真こそ、長篠が抜かりなく見抜いた小山の資質だった。彼はひたむきに仕事に打ち込むようになった。そして長篠のいわれなき仕打ちを耐え、かえってそのことで、職人としても、いや人としても男としても、立派に成長した。不幸中の、おおきなおおきな幸だった。

 

 小山の眼附きが変わったことを見逃す簑島ではなかった。きのうおとついまでは、ちょっと目を掛けてやるか、くらいにしかおもっていなかった若造だが、いまでは、自分が一線をしりぞいた後はコイツに、というほどにかんがえていた。職人だから無口だというのも早計で、ほんとうは簑島ほどのお喋りもめずらしい。それに自分の若いころ、若いもんを大事にしろ、仕事のことで小言を云うのはいい、怒鳴り散らしてもいいし手を上げたっていいが、コミュニケイションをとることだけは絶えず忘れるな、と教わっていたこともある。横文字の似合わない先輩連の口からコミュニケイションコミュニケイションとたびたび聞かされたのが可笑(おか)しくてそのことをよく憶えており、自分で若い職人をかかえるようになってからも信条のひとつにしている。だがいちばんおおきいのは、ひとり娘が年頃で、あまり口をきいてくれなくなっていたことだ。お喋りの気を発散したいのに、その捌け口がなかった。このころから、昼、簑島は小山を行きつけの定食屋に毎日誘うようになった。小山も嫌ではなかった。

 ――よう、さいきんなんだ、その、いやにがんばるじゃねえか。

 ――え、がんばれって云ったのミノさんじゃないすか。

 ――おうそうか。そうだな。

 よくがんばってるよ、そのひとことが咽元まで出ていたが、口へは出さなかった。甘やかしてはいけないとおもっていたわけではなく、小山のがんばりが飴玉慾しさのそれではないとわかっていたからだ。

 何度か昼をともにしたある日、定食屋を出てふたりで歩っているとき、しーはー楊枝(ようじ)をつかいつかい、簑島は訊いた。

 ――おまえ、なにがあってうちへ来た。

 ――へ。

 ――いや。姫さんのことで社長に気兼ねしてんだろ。なにかあってうちへ来たからじゃないのかとおもってな。

 ――なにかあったようにみえます。

 訊き返す小山。

 ――このやろ。

 云って簑島はふりかえる。楊枝をかみくだき、道端へ捨て、小山に歩み寄る。殴られるとおもって小山は身構える。しかし簑島は、小山の前まで来てしゃがみ込み、彼の作業ズボンの裾をまくって(すね)をぺしぺし叩く。

 ――傷だらけじゃないか、え。

 ――そ、そんなことないっすよ。

 退いて裾を直しながら小山。

 ――おまえは重えんだよ。

 ――重い。

 ――そうだ。そうとうなワルをしてきたろ。

 ――や、だから。

 ――そうにちげえねえ。うちに来るようなヤツはたいがい碌でもねえヤツよ。チンピラのなり損ないみてえなな。だがそういうヤツはみんな紙っぺらみてえに軽いんだ。へらっへらへらっへらしやがってよ。それがおまえはちがう。重えんだよ。じとっと湿ってやがる。こいつぁワルはワルでもそうとう骨のあるワルだなとおもったもんだが、なんかそんなことで姫さんに遠慮でもしてんじゃねえのか。

 ――や、だから、まえにも云ったけど、姫とはなんにもないんですってばほんとに。

 ――いまは、ってだけだろ。いや、俺はそのことを訊きたいんじゃない。そうとうなことをやってきたのか、そっちを訊きたいんだ。どうなんだ。

 なぜ簑島が自分の過去を聞きたがるのか、小山にはわからなかった。しばらく黙っていて、その沈黙を答と受け取ったか、簑島はまた先へ立って歩き出した。小山としては、話したくないわけでもなかった。ただ、期待されているほどの黒々とした来歴は背負っていないように彼自身は感じてい、簑島を幻滅させるのではないかとおもっていたのだ。小走りに追いかけながら、

 ――それほどでもないんですよ。

 と簑島の背へ云った。

 ――それほどでもだああ。んなあまいきな口ききゃがって。

 ふたたびふりむいた簑島の貌はむしろ剽軽(ひょうきん)なふうをしている。また歩み寄って、こんどは両の拳で相手のこめかみをすりつぶしてやろうとするが、体を躱された。

 ――ほんとに。ほんとにそんなワルやってきてないっす。わっ、ちょっ。

 なおも相手が襲ってこようとするので小山もすこしく激して云う。

 ――やりたかったですよ、ワル。でもたいしたことできなかった。

 聞いて簑島も、ふざけて取っ組もうとするのをやめて、ちょっとして云う。

 ――よし聞かせろ。ついてこい。

 先へ立って行ってしまった。

 連れ立って河川敷まで歩ってきて、土手へ坐した。簑島はひしゃげたソフト・ケイスからのこりすくない煙草を難儀してやっと1本抜き、ふかした。となりで小山は、もう昼休みが終わってしまうとおもってそわそわした。

 ――なんだい。

 ――え、なんだいって。

 ――なんだよ。昼休みが終わっちまうって云いてえのかよ。

 ――そろそろ戻んないと。

 ――これからワルの話をしようってのに、え、がっかりさせんなよ。そんなにケツの穴がちっちぇえのか。だいじょうぶだよ。研修だ研修。ちょっとくれえ遅く帰ったからって誰にもなんにも云わせねえよ。

 簑島は、フィルタの根元のそのまた元をつまんで吸わなくてはならなくなるまで1本の煙草を味わった。落ち着いたものだった。小山は、そのさまをまじまじと見ていた。町内の少年野球の監督をしている簑島は、いつも、工場内でも、キャップをかむっていて、耳(たぶ)の後ろは永年に(わた)って焼け込み、浅黒い色がもう抜けないようだ。その耳の穴から1本白髪がのびている。みているうちに、彼も妙に落ち着いた気分になった。

 ――よう、云えよ。おまえの料簡(りょうけん)をよ。

 小山のほうを見ないで、吸い終わってフィルタだけになった煙草をおもちゃにしながら、簑島はつぶやくように云う。

 ――ああ……

 小山には、いまがどういう時間なのか、なんの時なのか、もうひとつわからなかった。このときから云十年経過したいまだに、彼のなかでこの簑島との河川敷でのひとときは、腑に落ちぬ意識の空地のままだ。

 ――ワル、について、云えば、いいんすか。

 ――そうよ。

 おずおずと、小山は話し出した。

 ――俺は、俺はワルってのは、よのなかがいまあるふうをしているための仕組みぜんぶを憎んでるヤツのことだとずっとおもってきた。なんていうか、法律だとか、そういうことをさ。いまのこういう仕組みじゃないべつの仕組みでもよのなかはそれなりにまわるはずだとおもったら、いまの仕組みにしたがわなくちゃならないのは(しゃく)だろ。

 彼は、ついさいきん井の外を知った蛙ではない。ずっと以前からそれを予感しながら井に棲んできたのだ。つまり、仕組みそのものが要らないとは、彼はかんがえたことがない。

 ――それが、俺のまわりのワルとか不良とか呼ばれてたヤツらときたらどうだよ。あいつらはぜんぜんそんな仕組みをほしがっちゃいねえ。ただむやみにいまある仕組みが(いや)なだけなんだ。俺は、なんていうか、かっこわるいとおもったなそんなのは。

 肚の底に苛立ちが苦く煮(こご)るのを、彼は感じた。むかしよく()めた、さいきんはわすれていた苦味だった。欺瞞を厭う純潔こそが世にワルと呼ばる者たちの内奥で燃える原動力なのだと、彼はかたく信じた。しかしじっさいに目にしてきたのは、あまりといってあまりに下卑た児戯のみだった。彼は眞にワルでありたかった。あんなのがそうでないとは見ればわかった。しかしでは、自分ではなにをどうしたものか、わからないままきょうまできた。ワルになれないのならいまある仕組みに順応せねばならないとも、彼はずっと以前から予感してきていた。敗北だとしても、そこに苦味を、彼は感じなかった。

 ――車の免許をとりたがるだろ、ああいうヤツら。俺はもうそれが気に入らなかった。だってそうだろ。車に乗るってことはどういうことだよ。交通ルールにしたがうってことだろ。だから、だからだからよ、あいつらはよのなかが厭だからワルをやってるんじゃねえんだ。そうじゃねえんだ。ただ車なら車に乗りたいってだけなんだ。そのためには教習所で聞き分けのいいフリもすれば筆記で及第するためのおベンキョウだってするんだ。よう、そんなのがワルのやる事かよおい。だから慾望なんだよ。目の前にぶらさがってるそいつを追っかけてるだけなんだ。おおきなおおきな仕組みのプールんなかでぷかぷかぷかぷか泳いでること、泳がせてもらってることはおいといて、どうかするとそれに気附いてるのに気附かないフリしといて、車に乗りたいってそのこと、とにかくそのことだけなんだ。ワルも所詮は大噓()きなんだぜ。ちゃちな慾望のためにでっかいルールの前でしおらしくしてみせたりする賢さがあるんだぜ。カッコわりい、カッコわるいったらねえよ。それでオマワリとちょっと喧嘩したくれえのことを自慢にしてるヤツなんざみた日にゃ、反吐が出るどころじゃねえちくしょうっ。

 自分がだんだん饒舌になるのを、彼は感じた。無学無学といったが、彼のこうした率直な実感は、ありとある知力を突き抜け、眞に知的なひびきをあげるようにおもえる。

 小山が自分自身に向けて奥歯を噛んだまま話すようで、簑島は聞き役に徹するべきなのを知ったが、話を聞きながらおもうところがあった。簑島の青年期は昭和33年3月31日以前で、つまり吉原がいまの吉原でなくまだむかしの吉原の時代だった。同輩の職人連は給金を手にするとは連れ立って女郎(じょうろ)買いに出掛けたものだが、青年簑島はついにその誘いを断わり通した。同輩からは、女郎を知らなくてなにが職人だ、とさんざ馬鹿にされた。訳知り貌に、女郎と同衾(どうきん)することは社会の暗がりに手を触れることだ、その暗がりをおまえは知らないんだ、と何度となく云われた。そのときの簑島の気持ちは、ちょうどいま小山が吐露したのと似ている。暗がり暗がりというが、女のうちの一定数が春を(ひさ)ぐことをもっての渡世を強いられるそれこそそういうよのなかの仕組みが出来上がってきてしまったこと。さては現代ではそこで吸い上げられたカネが日本と不和にある国へと暗々裡に流れ、利さるべきでない人々を利すること。そういうことこそ暗部の母屋、暗がりの本丸というべきであって、それからしたらたかが一個の商売女の身体の味を知ることなど、暗がりは暗がりでも、つい軒先のちょっとした翳くらいのものであろう。だからそこで問題になっているのは、小山も云う通り、慾望なのだ。女を買いに行きたいというある気分にすぎないのだ。話を聞きながら簑島は、若くときの漠たる憤懣に、いま小山が解答を与えてくれるように感じた。彼は、そして小山もおなじだろうが、ただ慾望ならただ慾望で、それはそれでかまわないとおもう。それを社会の暗部を実地に知ることなどと称して誇大にみせ、いい気になるのは止してもらいたいとおもうだけなのだ。