ざっかん記
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っところで、




ミニマル先輩に感化せられてAmazon Primeにて《ヒロ・アカ》全シーズンを視聴したぼくは、っその学園祭のシーンでの劇中曲たる《Hero too》に惹かれ、っここのところはしばしば、YouTubeへupせられているその公式動画を聴いてたのしんでいる、

詞は、サビにおいて、つよさばかりがヒーローの条件ではない、っと歌いながら、大ラス後の後奏において、これまでに大勢のヒーローへ出逢ってきた、彼等には生きるためのつよさと勇気とを授かった、っとこの両においてともにstrengthの語彙を用いており、っやや不首尾ではないかとおもうが、っまあうるさいことは云うまい、

YouTubeへはほかにも同曲のカヴァー動画が複数上がっており、っおふたりか、3人目もあるのだがそれはあまりよくなく、っほどある男性歌手のものもよいが、っぼくは韓国の女の子、、、女の子といってももう30代らしいが、っかわいらしい女性のものがいっとう気に入っていて、原曲の歌手はややけだるくか細く、英語の発音もときにルーズで、っしかしそこにこそ魅惑があるが、っこの韓国の子はもっとがつんとパンチの効いた発声であり、詞も1語1語明晰に発音されていてきもちよく、両々捨て難い逸品である、1コーラスのAメロ中途、Put it on the line to、、、っにおくそのPutの、肉食獣のごと聴く者へ噛み附かむばかりの発音のくどさなど、っじつに痛快である、っまた、間奏では、don't listenのlistenのliにおいていったんしゃくりを入れるところまで忠実に原曲をコピーされており、歌唱として完成度が高い、

っごく細部では不満もないではなく、2コーラス冒頭、2連目のWho do they、、、っのWhoはごくかすかにもせよ発音せられているが、1連目のWhat do they、、、っのWhatは完全に欠落しており、っここはちゃんと唄ってくれたかった、男性歌手のどちらかの動画ではそれを明瞭に発音してくれており、っうれしい、っそれと後奏中、courageは、カナで書くならばこの子はカーレッジ気味に発音されているが、っぼくはカーリッジ気味の発音をこのむ、

アレインジやバックのバンドの手応えは、原曲では間奏部におくギターのポリリズムがよりくっきりと立っており、上席、韓国の子のほうでは、大ラスにおいて、and I won't back downへ金切声のごと上声を重ねており、っこれは原曲にはなく、一興、



っほかに、ったまに関連でヒットするショート動画で、女性3人組のすばらしい歌心とハーモニーとのホイットニー・ヒューストン《I will always love you》のライヴ映像があり、っほんの部分のみで、フル・テイクの動画はないのかと検索するとちゃんとあって、ショート動画とは別の機会の映像で、ショート動画のほうが各人の声がよりクリアにバランスよく録れていて音源として上質ではあるが、っそのショート動画のほうのテイクも大ラスの冒頭から切れずに最後まで聴けるものもあり、っそれもここのところ、頻繁に聴いている、



っそれと、っこれもたまに視るショート動画で、左右が反転している映像なのだが、眼の据わったマスク姿の若い女の子が、っぶったまげるようなテクニークで《ミッション・イムポッシブル》のテーマをギターで弾いているものがあるが、探したが、っざんねんながらその全編の動画はないようである、



っいま多摩センのコメダ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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海老名、




っなんのかんので黄金週も後半となったが、っきょうは落ち着いて1公演のみ、小柳英之氏とアーベント・フィルとの、っその名に反して午のひとときであった、演目はラフマニノフ《1・2番》シムフォニー、旗日のよるでなく午だから、流石にいつもよりも大勢の来客があるかと踏むが、っいつもどおりのぱらぱらであった、先頭へ並び、㐧1候補の席を得る、

、、、っいやあ、っなんともはや、、、っことばがありませんねえ、、、

っある種、小柳スタイル、アーベント・フィル・スタイルとして、っほぼ完全体であった、巷にはもっと巧いオケはプロ/アマ問わず雲霞のごと居並ぶのだが、っそういう演奏はもっとスタイリッシュであり、っきょうの彼等はそうではなく、彼等だけの手作りの味で、っしかし、っこちとらが慾しいとおもう要素が、っきょうは萬端に出揃っていた、

絃の編成など、過去いちばんの貧弱かつアンバランスで、1st4というさびしさに対してバス6ってなもの、入場するなりぼくは、こんなんで大丈夫かいな、、、っと憂慮を募らす、楽員がご登壇されると、絃バス2プルト表の白髪の男性は、っひょっときのうのみなとみらい21響のトップの方ではないかと見受けたが、他人の空肖にすぎないだろうか、

《1番》が開始すると、開演前の諸々の不安は一発で消し飛んだ、っばかりか、どんな大怪獣が海老名の街へ襲来したのか、っという金管連の手加減なしの怒号は同時にひびきとしてもぴたりとツボを当てており、っこのほんの冒頭っきりでも、他の指揮者、楽団からはぜったいに聴くことができない、他の楽隊の金管とは、っもっとあたりまえにすっきりと眞鍮管へ吹奏した綺麗な音色なのだ、アーベント・フィルのあの濁りを含んだ色と耳当たりとはいったいなんなのだろう、清酒と濁酒との差のようなものである、

懸案の絃だが、っまるで心配は要らなんだ、っというよりも、過去最高にアンサムブルのピントがびたっと合っており、っとうぜんながら上が薄く、っどっしりとうねるごと線の太さは望みえないが、分厚い下にコーティングせられた全体のひびきの包容力は、文句なしにここちよい、

っしかも、全員が書法書法に応じた奏楽上の要諦要諦をつよく意識した発音に徹しられ、っじつに頼もしいばかりである、同団はプロ/アマの混合体とのことであるが、っあるいはきょうの絃は、大半がプロフェッショナルでいられたのではないだろうか、っどの声部も後列の方まで、こういう雰囲気の人はアマチュアにはあまりいない、っと見えたし、っじっさい、弾き姿としてもどなたもちゃんと腕に覚えのある方と拝察せる、黄金週中の公演ということで、っふだんのアマチュアのメムバーの方が軒並み参加を辞退され、プロの方が各位、伝手を頼ってトラを呼ばれたともかんがえうる、っともかく、管絃楽のなかで絶えず絃合奏のみでがっしりと堅固なアンサムブルが作れているので、客席のこちとらは安心し切って演奏を堪能していられる、

っそのうえ、絃だけではない、っきょうは管打もまた彼等としては愕くほど高解像で、全員が音楽人としてめいっぱい旺盛でありつ、っなおかつ、演奏藝術が最も高度の説得力を有つうえで必須の冷厳冷徹、冷静沈着をいささかも譲られることがなかった、っぼくの主観では、っいつもの彼等はけっしてそのようではなくもっと放埓で、委細構ってられっかっ、どわちゃーっっ、どんがらがっしゃーんっっっ、っというふうでいられるのである、

ホルンなど聴くがよい、彼等もまたラッパ連とおなじく絶妙の濁りを含み、っしかし齋奏、合奏の音色は剛毅かつ奥深く、絃や木管に支えられての1番女史のソロや、下位奏者おふたりによるほんの背景の全音符の和音なども、っおひとりびとりの音色がうつくしく、っかつ恆に他声部と意を束ねられているがために、一寸したことでも、ホルンとはなんと仕合わせ色の楽器なのだっ、っとの感激をこちとらへ惠む、っその1番女史は彼等のマーラー《5番》時のおなじく1番の方と見受けたが、あのマーラーがきょうのごとより高い問題意識になるアンサムブルで行なわれていたならば、っとこちとら長歎息を漏らしてしまうばかり、っきょうは、全体にほんとうにすばらしくブリリアントな合奏であった、

ヴァントは晩年に三顧の礼で招かれ、気乗りがせずにベルリン・フィルへ客演して、っしかしあれらのブルックナーの公演、音盤を史上へ刻印したが、っその《9番》1楽章冒頭のホルンの主題について事後のインターヴューで、このホルンは全員が統一した音色で吹けなくてはならない、練習では何度となくやり直してほんの1度っきり、辛うじて満足のゆく音が得られたが、本番ではうまくゆかなかった、っと天下のベルリン・フィル相手に忌憚なく不満を述べている、っしかし、演奏とはさようのものであり、っそれへ懸ける指揮者の執念もまたさようでなくてはなるまい、っきょうのホルン連のもののみごとな吹奏を聴きながら、頻りとその挿話を想い出していた、

っこれら強靭なパートパートから組み上がる《1番》は、発端から終止まで、果たして胸いっぱいの共感を有って踏破せられた、っおもえらく、ラフマニノフは各声部が縦横に絡み合うひじょうに細密な書法に依っているため、本番直前のみとおもわれる、アマチュア奏者も含む楽団としては極端に少ない練習量で公演を熟される彼等としては、うわっ、これは最大限の集中力を動員しないととても乗り切れないわっ、っとの焦燥に驅られたのではないか、っこれまでの公演にその集中力がなかったとは云わないが、っしかしきょうはいつもの、おいっ、あんたどこで音出しとんねんっ、っという休みの小節数の数え間違いなどもまるでなかったのである、っいまさらながらあらためて噛み締めるが、数十人の人間が互いに極度の集中力を通わせ合い、緊迫した時間を醸成しているそのおなじ場へ居合わせるのは、っなんとまた気分爽快であることか、

っぼくはラフマニノフを、チェムバーなどはもちろんのこと、管絃楽作品もまるで網羅的には聴けておらず、シムフォニーも《1番》には疎いが、1楽章が主部へ遷ると、木管の主題はもろにチャイコフスキー《5番》フィナーレに通有の下降句を含み、っそれはそのまま遠く〈ディエス・イレー〉をも幻視せしめる、単にロシア人には馴染み深い音型ということなのかもしれないが、っしかしラフマニノフは、《2番》コンチェルトといい《パガニーニ・ラプソディ》といい、っほかにもあるかもしれないが、っとかく〈ディエス・イレー〉に影を踏まれた作品歴を有つ人である、

2楽章は、っごつごつと不細工な点画で小さな3つを振りつづけられる小柳氏に応えて、オケがけっして振り落とされまいとする懸命さを発揮され、当初こそその絶妙のダサさがご愛嬌であったが、先へゆくに連れて夢中さが合奏を緊密に引き締め、オーケストラ全体を一体の生命体として躍動せしむる物怪の好結果を生む、

っやや生地は薄くとも、3楽章の歌でも緊張の糸は切れずに繫がり、フィナーレへと至ると、乗っけから全力を振り絞るオケの威風はいかばかりか、っここでも、っただ無法の絶叫に感けるのではなく、いかに金管に吼え立てられようと、われわれがそれぞれの音を疎かにするわけにはゆかないのだっ、っとの絃全員の懸命なボウイングが印象に遺る、っそれによって屹立する全奏において、小柳氏の悠然超然たる気風、っこの楽団特有の轟々とした音圧、っそれを空騒ぎと堕せしめない全楽員のオケ・マン魂が綜て渾然と融け合い、指揮者も、楽員おひとりびとりも、数少ないぼくら客のひとりびとりも、ラフマニノフとはなんとすばらしいのだっ、っとの昂ぶりを等しく共有したことであろう、西洋音楽の史上に、20世紀ものさいきんになって、っかようの遅れてきた浪漫派が存在し、彼がまた前世紀の大家大家の誰にも優る野放図なまでの感傷屋であったというのは、っぼくら後代の人類にとり、っまこと得難い僥倖である、

《2番》もまったく同等に、っや、1曲をたいへんな熱量で熟されたその余勢を驅って、っより勢い込んでというよりも、っもはやゆとりをさえ有って謳歌せられた、1楽章が㐧2テーマへ至ったとき、っそれが㐧1テーマの展開を經て再現せられたとき、っともにぼくは川崎で聴いた和田一樹氏の、オケのテクニークはそれなりだったが、っしかし共感らしい共感がまるで迸ることのなかった虚ろな同曲演奏を想起していた、聴けっ、和田よっっ、音楽を謳い上げるとはこういうことだっっっ、

2楽章も、っここまで来るとむしろ鉄壁と聴こえる、主部の再現においては、16分だか、Vnの細かい刻みにとてもおもしろい動きがあり、っそれがたったの4人では流石に弱打のシムバルにさえ消され勝ちとなるが、些細な創である、

3楽章でも、乗っけからやはり和田氏の救い難い虚しさとの対比をおもわないわけにゆかなかった、っなにという計略が入用というのではないのだ、っもとより、っぶきっちょ放題の小柳氏に巧妙な作為など望むべくもない、っむつかしいものである、音楽人としての練達を修養することにより、っかなしい哉、っときに人は音楽から遠く隔たってしまう、っきょうはいわば、クラリネットの主題はあたりまえに切なく流れ、頂点へ向けての漸増はそのままあたりまえに胸の膨らみなのであった、っできる人には難なくできる、こんなにもすばらしい音楽ですっ、っと訴えることが、っできない人には逆立ちしてもできない、こんなにもすばらしい音楽ですっ、っと訴えるという、っがんらい音楽人があたりまえにできなくてはならないことが、

フィナーレもまた、外観の熱狂とは裏腹に、っとことん複雑なスコアだが、っすでにして昇龍の勢い、っやはり、小柳氏が各細部を目敏く叱咤されるからというよりも、大局観の親方の下、楽員諸氏がめいめいのロールロールへ徹し切らむとされる積極性の勝利であり、っついに萬感の㐧2テーマの再現を經て、昂奮の坩堝たるコーダへと突き進む、っこのフィナーレや同1楽章、《1番》フィナーレにおいても、最終音をぎゅっとブレイキを踏みながら終結せしめるのは、っじつに小柳氏の稀代の豪傑たるの證左にほかならない、満足も満足、大満足の2大名演であった、

、、、っことばもないなどと云いながら、語りも語ったりの長広舌だったね、

っいまは、器から畑の間を抜けた先へ王将があり、っそこで食事中、昂奮も冷め遣らぬところで、多摩センへ戻り、コメダでクール・ダウンしてから帰るとせむ、



っあすは最後の旗日、っどこかでなにか公演、翌平日も、黙々先輩現場へ出勤して、っよるに知己トロムボーン奏者さんの乗られる公演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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っきのう、




触れ漏らしたことがふたつほどあった、

午の川崎でのみなとみらい21響のマーラー《5番》は、っつい去年だかに出版せられた最新ほやほやの校訂譜による演奏で、日本で譜面を取り寄せたのは同団が初めてだったとのこと、従来の譜面からすると異なる音が数多にあったというが、聴いていてただの1音たりとも、え、こここんな音だっけか、っと気附かず、鈍らなもんだね、っぼくの耳も、

っそれから、有楽町での新日本フィルの絃の配置は両翼、セロ・バスが左、本名徹次氏は、ったしか郡山響との公演時もそうで、九響のときはどうだったかしら、っともかく、っご本人の意向が通るときにはそうされたいのだろう、



っきょうはこれから小柳英之氏公演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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有楽町 その2、




本名徹次氏と新日本フィルとの公演、済む、っやはりコンチェルトへ特化していたようで、アイレン・プリッチン氏とのサン=サーンス《序奏とロンド・カプリッチオーソと》、っそしてソフィア・リウ女史とのチャイコフスキー《1番》コンチェルトである、

通路を挿んで隣に派手に身体でリズムを取りながら聴いているババアがいて、っもう指摘するのも面倒なので、公演全編をほぼ瞑目して聴いている、っいるからな、っほんとうにああいうクソババアが、っしょうがない、

っどういうわけか、規格外の超大器での公演なのだということを、次第に忘れる、ピアノは、っやはり高いほうが、っそんなにかつんかつん打鍵しているわけでもないところでも、っびりびりと音が割れ勝ちで、低いほうは逆に重たくひびかずごとごととハムマーの直接音がするっきりで、っこの楽器にとっては好適な音響ではないが、Vnがソロとなるサン=サーンスでは、っすくなくもかむりつきで聴いているかぎりでは、っそのソロの音像もクリアだし、オケのトュッティによる風圧もまずまず爽快で、限界のある音場で聴いているのだという憾みをまるで懐かなんだ、

、、、っただ椅子がねえ、5,000個も設置せねばならなくて予算をケチったのか、っさっきもいまも、っほんの半時間ほど坐しているっきりなのに、っすぐに尻が痛くなってくる、落成からもうかなりの年月が經っているし、建築往時には、音場の坐席とは人体工学の高度の知見を反映したプロダクトでなければならない、っとの意識も稀薄だったのかもしれない、っほかにも、済んで出るのに、階段のほうが早いからそうすると、敷いてある絨毯マットがいかにも安物然としていてみすぼらしい、

ソリストはおふたりとも名手にちがいないが、リウ女史を聴いていると、っまあこの曲はアルゲリッチ女史の複数の音盤があまりにも一時代を席捲してしまったということもあるが、っその女だてらの凄まじい腹芸からすると、っまだ17、8歳というこの細腕はしかし、っほとんどザッハリヒカイトと謂いたくなるくらい、っどれかの音のためにほかのどれかの音を犠牲に供してというように、感興の赴くままに音楽が伸縮するということがない、どの音もその音も、譜面へ書いてある上は弾かなくちゃなりませんので、っとでも云いたげに、恆に細大漏らさず弾きのけられ、ここはこういう気分です、ここはまた別のこういう気分なんです、っという変化が極小である、1楽章のカデンツなど、っそれこそアルゲリッチ女史で聴くと大宇宙の始まり、ビッグ・バンかというけたたましさで、フレイズ感覚の自在もまた天下無類だが、っそれに絆されてしまった耳で聴くとリウ女史は、書かれている音は綜て掬い切られているのだが、っときに生硬とさえ感ずる、

っこれは、ジョージ・ハリオノ氏を聴いているときにも惹起せられた感懐である、っおもえらく、楽曲を自身の側へ引き寄せて弾いてしまう、っというセンスがアナクロニズム視せられるようになってきていることの表われかとみられるが、っまあ一概にも云えまい、っいっぽうでは、っかっての綺羅星連による歴史的音源が、検索すればいつでも気軽に聴ける時代となって、ピアノではとくにコルトーのルバート感覚が現代の一部の若いピアニストによって篤く奉ぜられ、彼等の奏楽へ色濃い影響を與えているとのことである、時流もそう易々と一方向へは傾かず、っさように過ぎ去った流行、、、流行というか、コルトーの語法はコルトーだけのものであるのにちがいないが、っが後代によって再評価せられることもまたあり、っそれらこれらが綯い交ぜとなって、っいまこの時代を創るのであろう、

っこんかい本名氏の老練は、サン=サーンスでこそよりつよく感ぜられた、っいちどオケに音を出させておいて、っしかしもっと弱音が慾しいと膝を折って中腰になりながら掌で抑える仕種をなさるのは、、、っそこはぼくは眼を開けて観ていたのであるが、っあの郡山響との公演でも頻繁に行なわれ、っそのように微細に強弱が噛み分けられ、っしかもそれが、練習で周到に約束しておくのではなく、楽曲を奏している瞬間瞬間の閃めきとして為されることにより、演奏は溌溂とした生き物として動き出す、っそれを、ルーズな練習をしているから本番でそうしなくてはならなくなるのだ、っと取る向きがあるとしたならば、っよほどの人でなしだ、弱音や最弱音がどの程度であるべきかというのは、っどこまでいっても、っいままさに演奏を行なっているその場その場の判断に依存せざるをえまい、本番とは異なる環境である練習場でいちいち、ここはこのくらいの音量、ここはこのくらいの音量、っなどと完全に定め切っておくことなど、っできようはずもない、

指揮の存り方として、本番の演奏中にいちど出した音を事後的にもっと抑えろと指示するというのはあるいは、っじっさいに物理的のデシベル値を下げろというよりも、弱音に対する緊張感の示唆という機能のほうが優るのかもしれない、っそれこそ歴史的音源でいえば、大カザルス晩年の、マールボロ音楽院管やプエルト・リコの自分のためのフェスティヴァル・オケとのモーツァルトなどを聴くと、っごくしばしば、しっ、っとピアノを求めるカザルスの呼気をマイクが拾っている、っそんな大巨星に指揮台上から、しっ、っと云われたら、オケ・マンは全神經を集中せしめた奏楽へ徹しねばなるまい、



っさて、っあすは日程的にはやや一息つけるのかな、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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有楽町 その1、




LFJ中の1公演で、最大器たるA器におく本名徹次氏と新日本フィルとのご共演ひとつめ、済む、演目は、ヴァグナー《ラインの黄金》の冒頭から、っあれで幕が上がるのかな、っほんの下から順に声部が加わって全員が音を出し切るところまで、っそれと、ルーカス・ゲニューシャス氏を迎えてブラームス《1番》コンチェルトとである、

入場すると、1階は中央辺がぼんやりと埋まっているっきりで、脇の方へは厖大な空席があり、このくらいっきり来場者がないのならば、同C器での催行でじゅうぶんではないか、っとおもう、ミニマル先輩は、ったしかC器のことをおっしゃったのだとおもうが、ごっちゃごちゃの聴こえで最低だった、っとのことである、っちがうのかなあ、っさらに別の器のことなのかもしれない、っぼくはC器では田代俊文氏と東大の学生オケとや坂入健司郎氏と新響とやを聴いており、っいずれも、コンサート・ホールとしてなんら難点をおぼえることがなかった、

飽和したひびきを望めないとなると、善後策はひとつっきりなく、っおもいっきりかむりつきへ坐し、目前の舞台から直接音をぶっつけられることである、っよって右寄りの最前列を購ったのであるが、コンチェルトになると、正面からピアニストの表情を捉えむがためのカメラ・マンが舞台右端部へ現われ、っそのイヤ・モニからスウィッチャーの声がもろに漏れ聞こえており、っなんとも痛し痒し、興行側も、っこれを純然たる音楽催事であるとはまったくおもっていないようだ、つい一寸、クラッシックのコンサートっぽい雰囲気を提供する、っという程度のことなのだろう、

音響は、っやはり拡散放題だ、っとくにセロなどの低音楽器は、間接音を纏ってこそ初めて音色の豊麗が得られるので、っこんな環境では糸瓜のごと中身がすっかすかの虚ろな音っきりしない、っそのくせ、ピアノの高音の強奏はハウリング気味だし、っぼくの位置からではまったく見えないティムパニなどは、っどすどすごとごとといやに潰れた鈍い音がいつも管絃から遊離して鳴っているし、っとことん音楽的の音響ではない、

っただ、っもっと潤澤の器での演奏のように互いの音がかむさり合わないので、各描線はか細く瘠せてはいても、オーケストレイションをマルチに見渡しうるある種の快感はあり、っかなり細かいところでも、へえ、そこでそんなふうに転調するのか、そこのその楽器はそんな音型だったのか、っといういくつもの気附きはあって、無駄な時間をすぐしているとはさしておもわず、っどころか、コンチェルトのフィナーレあたり、っむしろたのしんでいた、

コンチェルトのバックではあっても、本名氏の練達の手腕はそこかしこで実感せられた、っそれでも、彼氏だけに任せておくと、っあの福岡での九響とのドヴォルザーク《新世界》と同様、っやや澹泊に流れてしまう惧れも同時に感じていたところ、っそれを救ったのがソリストのゲニューシャス氏である、テムポ観もフレイジングもじつに伸縮自在、若い男性ではあるが、力任せに叩き附けるごと打鍵はまるでなく、っむしろ大きく空気を孕んで時空を撓ませる泰然たる気風に、最大の美質を発揮されていた、

っそれが覿面に効果をあげたのがフィナーレであり、㐧1テーマも深刻ぶって勢い込まれるということがなく、連符を含む㐧2テーマはそれ以上に深い呼吸で、弾きながらフレイズを味わわむとされるがために、っほとんどテムポが後ろへ後ろへと倒れてゆかむばかりとなる、っそれへ附き合うことによって本名氏の語りもまた奥行きを増し、アレグロの推進力よりも、瞬間瞬間の音楽のゆたかさのほうが前面へ出ていた、

っやっとのことドゥアへと転ずるコーダは、っやはり入念な管絃楽法がガラス張りに透けて視え、胸の膨らむごとふくよかさは望むべくもない音響ながら、作曲上の設計図を仔細に確かめることができたよろこびは、っけっして小さくない、



っさて、っまたガード下の喫煙スペイスへおり、っこのあと21時の遅くからもう1公演、っこのスペイスはその21時に閉まるので、直前までここへいればよい、席の位置はたしかほとんどおなじあたり、っそちらの演目もまったく知らない、っまたなにかコンチェルトなのかな、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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川崎、




高橋勇太氏の棒、っみなとみらい21響公演、済む、演目は、シュトラウス《ドン・ファン》、マーラー《5番》、高橋氏の棒へは、品川区民管とのモーツァルト《ツァウベル・フリュート》ハイライト公演で触れ、っひじょうに上質の演奏だったので、っよく憶えている、

川崎でのマーラーはつい先般、森口真司氏の《3番》にいたく感銘したばかりだが、《5番》はぼくはたいていの指揮者の造形やテムポ観に馴染めないので、っきょうはさしたる期待は有っていなんだところ、っなかなかの達成を聴かさる、っみなとみらい21響は、っわざわざマーラーの命日を撰んで結成せられたというように、っこの作家をたいせつにかんがえる楽団でいられるようで、っぼくは金山隆夫氏との《3番》で初めて彼等の奏楽へ接したが、ったしかに、っまったくみごとな演奏であった、来年にはきょうとおなじ高橋氏と《1阡人》をお演りになるといい、っその日はすでにして予定が入れてあり、っそちらの演目もマーラーだが、っまだ切符を購ったわけではないので、っそちらは蹴ってこちらを聴くとせむ、っそのほうが切符代も断然安いしね、

っそれ以前に《ドン・ファン》だ、ったいへんにすばらしかった、っきょうは舞台のすぐ右っ肩から聴いていて、森口氏のときにもおもったが、開幕㐧1音から音量がごく豊富であり、鮮烈至極の音響がする、オケは、必ずしもテクニークに勝れるというわけではないのだが、絃も木管も金管も打楽器も、っきょう日はプロフェッショナルでもアマチュアでもとかくさらりと流れてしまう精薄の奏楽が澎湃としているところ、っいずれもがねちっこい執念を聴かせてくれ、っぼくなどには、オーケストラの奏楽とはがんらいかようのものだ、っとの観がつよい、っしたがって《ドン・ファン》はめくるめくごと開始し、クラリネットによるひとつめの女性性テーマの片鱗をその手前でトュッティによって仄めかすところで、オケの作る濃密な音色にがつんとやられて、早くも泪腺が弛む、

っそのクラリネットのテーマをすぐに追い掛ける絃は、指揮者に篤いおもい入れがあり、メムバーがそれを感じ切っていなければ、永遠の女性像を追い求める男心の苦衷を十全に描き出すに及ばず、何度も腐すが、カラヤンのここはまるでダメなのだが、っきょうはほんとうに泣けた、世の綜ての女よっ、どうかわかってくれっ、これが本物の女を求むる男のこころというものだっ、あなた方も、ひとたび女と生まれたならば、男のために本物中の本物の女と成ってくれっっっ、っという、シュトラウスも、若くしてよくああした音を書いたものである、っその時点でよほどの女性遍歴があったのだろうか、っあるいはちがうのかもしれない、っより切ない恋愛小説はまるで女っ気のない男性作家によって書かれるの習いのとおり、女性の扱いになど疎くてこそ、シュトラウスはこれを書きえたのではないか、

っその後の經緯もまるで間然しない、オーボーの㐧2の女性性テーマも、ヘルデン・ホルンも、っその全楽への再現も、絶望への急落下も、っひたすらに曲のこころだけを伝え、物理的の奏楽に勝れていてこそ、っしかしその物理的の奏楽の具体というものを聴き手へ意識させなんだ、っおよそ演奏とは、っほんとうはその次元に咲いて初めて、眞なる花であろう、テクニークがお客へ露見し、巧いなあっ、っなどと感心させているようでは、本格の藝術へいまだ遙けく遠いのである、

トロムペット1番は、シュトラウスでは女性がお務めで、太い音をお出しになれる名手でいられたが、マーラーではヴェテランの男性と乗り換えとなる、っぼくはそのまま女性がマーラーでも吹かれるのがよいのじゃないかとおもったが、っこの男性もフォルテを鋭く破裂せしめて吹ける方にはちがいなく、全曲出立のファンファールこそやや吹き損じられたが、っこの曲の1番として不足はなくていられた、

難曲だから、っもちろんさまざまの綻びは生ずるのだが、シュトラウスと同様に、っまず楽員諸氏がみずからの奏する楽曲を味わい、謳歌し切らむとする勇姿を示され、全曲これなんとも眩ゆい、

高橋氏の造形は、っきのうの城谷正博氏とおなじく、細部をぐりぐりと突っ込むことをほとんどされないが、っやや凡庸もおもわせた城谷氏からすると、っきょうは好個の正攻法と聴こえ、っあそこへもどこへもと相当度にうるさい願望を有ってしまっているぼくでも、飽かず附き合っていられた、っその願望が叶えられたわけではないのだが、叶っていなくとも、これはこれでけっしてわるくはない、っと納得させられたのである、っこの曲の奏楽としては珍かにも、オケによる生地がごわごわと分厚く、っともすると細密な書法へ応接せむとするあまりにしゃびしゃびとした水っぽい合奏へと堕してしまう、っその通弊を絶えず逃れられていたことが大きい、



っさて、川崎からきょうは新橋まで来て、っそちらの王将で食事をし、っこれから夕、っよると有楽町で本名徹次氏と新日本フィルとの2公演であるが、ったっぷりとゆとりがあるので、JRガード下の喫煙スペイスにてのんびりとすぐすとせむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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有楽町、




E器ロビーにおく坂入健司郎氏と東京ユヴェントス・フィルとのバッハ《3番》スートほんの1曲っきりの公演、済む、っしかも、20分で了えねばならぬ都合上、各リピートも割愛、コン・ミスへは坂入氏の盟友、石上真由子女史、チェムバロへは谷本喜基氏という布陣、

入場すると、舞台上でのゲネプロ中、舞台前へはパイプ椅子により客席が設えられているが、っほぼ満席、っぼくはもとより坐る心算はなく、最後列へ立って聴く、演奏前に坂入氏がマイクを取られるが、周章てて話す癖がおありで、っことば撰びも不如意となられる、落ち着いて喋りなさいよ、っという、

楽音もマイク、スピーカーを通していたが、Vnのしゃきしゃきとした倍音が派手に聴こえるのは、マイクがより周波数の高い音を拾い勝ちであるからだろう、

坂入氏のトークでは、同曲がラモーやリュリなど、フレンチ・バロックからの影響下に書されたことへ言及せられていたが、っそのとおり、華やかなリズムや音色が意識せられた造形であった、〈アリア〉ではVnも倍音倍音しない穏やかな擦絃となるため、比較的、全楽をバランスよく聴くことができ、ノン・ヴィブ気味ではあるが無味なザッハリヒカイトではないという歌い口の清潔は、リピートが履行せられぬのがまことに惜しい一場の精神の潤いであった、



っさて、っあすはここでの本名徹次氏と新日本フィルとの2公演を含む午夕よるのトリプル・ヘッダー、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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高崎、




城谷正博氏の棒、ロマン派音楽研究会管公演、済む、演目は、オケのみによりヴァグナー《トリスタンとイゾルデと》の1〜3幕の前奏と〈愛の死〉とと、マーラー《復活》とである、後者のソリストは渡邊仁美、郷家暁子両女史、コーラスはロマン派音楽研究会唱、器はオルガンがないので、キィ・ボードでの代替となる、

事後、器の前の喫煙スペイスでシガレット1服の余裕はあったものの、っすぐに高崎から上野東京ラインへ飛び乗り、っこれから東京行、18:40には、有楽町で坂入健司郎氏と東京ユヴェントス・フィルとによるバッハ《3番》スート1曲のみの公演がある、ホール内での有料公演ではなく、LFJ中の公演でも講座でもワーク・ショップでも、有料の切符を所持していれば、っそれを提示して入場しうるというロビーでの催事である、彼等は、っおそらく同曲を含むのだろういつもとはちがう小編成での公演をあさってに控えておられ、っしかしそれはぼくは聴けないので、周囲が雑沓している不完全な環境でであっても、っせめて1曲っきりでも聴いておきたく、っために不本意ながら、っあすよるの例の同5,000席最大器におく本名徹次氏と新日本フィルとの2公演の切符を購う、本名氏の棒へは興味はあるものの、っあんな容積の大きすぎる音場では、音楽的の音楽鑑賞はまるで叶わない、っよくそんな催事を平気でやっているものだとおもう、っお客は、っふだんはクラッシックの公演などとは縁遠いという人も数多に来場しようが、っせっかくに直に接するオーケストラの音でも、っあんなまるで飽和へ遠い散漫な音響では、ロックのコンサートなどへは行ったことがあるがクラッシックはまるで知らないという人に聴かせては、なあんだ、オーケストラって生で聴いたらどんなに迫力のある音がするのかとおもったら、たいしたことないね、っとかえってほかのもっとまともな公演から彼等の足を遠退かせてしまいやしないだろうか、っせめてA器での公演では、適宜スピーカーから音を出すがよいのじゃないかとおもう、っそれも、増幅は大きすぎてはいけない、飽くまでも適宜である、っそうでないと、っそれを聴いてこんどマイクを通さないふつうの公演へ来てくれた人が、え、有楽町のときはあんなにも轟々とすんごい音がしていて、それとおんなじような音を聴けるのかとおもってたのしみにしていたのに、きょうのはなんだかショボいね、っとなってしまうからである、オーケストラの公演を催行する器は、彼等が舞台上で最大音量音圧を発した際に、天井桟敷へ至るまでちゃんと全空間が共鳴共震しうる容積でなければならない、

っきょうの演目は、ヴァグナーは前奏と〈愛の死〉とかと瞥見して、っならば東京へ戻って来るのに時間的にはまるで余裕だと高を括っていたが、っきのうあたりに気が附いて、1〜3幕の前奏を綜て演るとある、おっとっ、っと周章て、っその綜演奏時間を概算してみるが、電子テケツの案内へあるように、13時に開演して、16時まで掛かるなどということはなかろうと踏む、、、っよくない日本語だなあ、っこれだと、電子テケツの終演予定時刻が、16時までは掛かりませんよ、っと記載してあるというように読めてしまう、っそうじゃなく、16時終演予定だと記載されているが、っじっさいにはそこまでは掛からないだろうということが云いたい、っもう書き直すの面倒なのでこのままで、

っよしたっぷり16時まで掛かったとして、器と駅との間はのんびりと徒歩で10分弱程度、16:11高崎発に乗れれば安心、16:28発になってしまうとなると、東京着は夕の開演のわずか15分前で、東京駅から有楽町まではまあ10分もあれば歩けるとはいえ、心許ないにはちがいない、

っそのうえ、城谷氏のプレ・トークを聞いているに、マーラーはスコアの指示通りに1楽章後に5分間の休みを置くということなので、やめてよそんなの、、、っとこちとら開演前からはらはらす、最後的には新幹線という手段もあるにせよ、っわずか20分こっきりのロビー・コンサートのために在来線の倍額を出してまで駈け附けたくはない、

っただ、プログラムへはヴァグナーの演奏時間目安は30分だとあり、休憩が20分で、マーラーがとちゅう5分の休みを挿んで90分ほど掛かり、2曲の各カーテン・コールやその他のちょこちょことしたロス・タイムやの小計に仮に20分をみたとしたって、綜計はまだ2時間40分であり、っじっさいにはさして心配はしておらず、っとくに、ヴァグナーが現に30分ほどで済んで休憩へ入ってからは、っもう時間のことは気にしなくてよいとおもった、果たして、会が完全にハネるまで自席へいて、15:30すぎには外へ出て、15:55の電車があるのを検索して知り、駅までは10分だから、っならばシガレットを1本服んでいられると判断したのだった、

城谷氏はヴァグナーのオオトリテヱらしく、ったしか来年に新響でこの作家の公演をお振りになるのではないかとおもうが、っその造形はおおらかで厭味がない、オケは県下複数のアマチュア楽団から精鋭を集め、城谷氏と懇意なのだろうプロフェッショナルの奏者も加わっていられるという大所帯、絃は1st18だが、バスは8である、両翼、Vcは1stの隣、バスも左で、Vcの頭っ数はVaよりもおおく、例によって右翼バルコニーへいるぼくからすれば、セロ・バス連のf字孔の対角線上というわけで、下の厚い豊麗な音響を浴びる、管打を含めた全体としてもわるくないアンサムブルで、っなるほど、〈愛の死〉の最後の高潮には、ったしかに城谷氏の沽券が示されていた、

マーラーは、っぼくなどはときにもっと突っ込んだ表情表現を聴かされてもうれしいが、全編全曲がとくだんの衒いなくざっくりと語られる、っさようの語法でも、金山隆夫氏のごと無類の説得力を有つ方もいられるが、っきょうの城谷氏のフォームでは、っべつに悪感情は催さないものの、まあよくあるふつうの《復活》ですね、っというふうではあったかもしれない、個別声部では、相当度の名手もいられた半面、、、っん、っこういうときのハンメンって半面か、反面か、っどっちでもいいや、ハープなどはまるで気骨に欠け、っごく目立つ部分を除いて、や、あなた方おふたりの音、まるで客席まで届いていませんけれど、っというふうでいられたのがざんねん、っもっとほんの楽想の替わり目のアルページオのひと弾きでも、っときにぎらりとした鋭さを空間へ突き刺す果敢さが慾しい、っそれは偏に指揮者の趣味のなさだ、リハーサルでほんのいちどでも、いやいや、ハープ、遠慮しないで、もっと聴こえてください聴こえてください、っと云っていさえすれば、っそれだけでもぜんぜん違おうのに、

声楽では、〈ウルリヒ〉におく郷家女史が、っぼくがこれまでに聴いている同楽章でも一二を争おうかという稀代の名唱、醉いどれおっさん然たる汚ないヴィブラートと音色とでいられないのはとうぜんのこととして、透き通った発声がそのまま眞摯な祈念としてひびいていた、っしかも、オケの後ろ、コーラスといっしょに並んで唄われており、っぜんぜんお声を無理押ししていられないにも拘わらず、繊細なニュアンスまで漏れなく満堂へ伝わり切り、最後のLeben!へ向けての登坂など、っなんと満ち足りた包容力で時間と空間とを独占されたことか、、、っ、最敬礼っっっ、

っところで、フィナーレのアルト、ソプラノ各ソロによるO glaube、、、っは、各人がそれぞれ各詞の冒頭から唄われるのだが、っきょうは2度目のO glaubeでも郷家女史が唄われるので、聴いていてぼくは、えっ、違うよ違うよっ、っとなる、渡邊女史はやっとHast以下でバトンを受け取られたのであったが、っあれはなんだろうか、ったまさか渡邊女史にとりてはその音域は出せないので郷家女史により代行せられたのか、っあるいは、っきょうのスコアは近年出版の校訂譜だったというが、譜面上でもそのようになっているのか、プログラムの歌詞対訳では、2度目のO glaubeのところからSopran soloとなっているのであるが、

コーラスは、オケからするとだいぶん人数がすくなくていられるが、㐧1声から音量豊富で、っとちゅうで城谷氏もおもわずに、や、もうちょい抑えて抑えてっ、っという合図を送られたほどである、っしかも濁りのない明晰な発音であり、っその透徹したひびきに、堂内も森閑として一同固唾を飲む、

っそれでも、大団円まで昇り詰めると、流石にコーラスはオケに押され勝ちとはなったが、っまずまずの終結であった、声楽陣が声を出し了える最後の1音へ合わせる打楽器では、タム・タムの奏者がおもいきり振りかむって打たむとされて気合いが空転、楽器を打てずに撥を擲げ飛ばしてしまわれるというご愛嬌、舞台へは魔物が棲み、本番へは恆にトラブルが附きものである、



っさて、っよろしく東京まで来た、っまだ時間にはゆとりがあり、例の器のすぐ脇、JRガード下の喫煙スペイスで開演まですぐさむ、

公演はほんの20分ほどであり、事後は王将で食事して、宮城正面まで歩って拝礼してから帰りたいところだが、っなにしろきのう中世の墓を暴いて人骨へ触った身体なので、っもちろんゆうべシャワーを浴びたとはいえ、っそんな穢れを陛下のお側近くまで持ち込むとは、っおよそ臣たる者のふるまいではなく、っきょうは大人しく帰るとせむ、っさっき、東京駅を丸の内口へ出たので、和田倉門方向へ遙か宮城を望む駅前のど眞ん中まで来たとき、っそちらへ向かいて、穢れた身体でお近くまで来てしまってすみません、っと腰を90度に折って頭を下げてから通る、っそれで平にお赦しいただきたいところ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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中野、




山本訓久氏と東京学芸大の学生オケとの公演、済む、演目は、スッペ《ピク・ダーメ》序曲、ドリーブ《コッペリア》より数曲、っそしてブラームス《1番》である、

っきょうは午前のみ府中の黙々先輩現場へ応援に行くが、っあさ一番から現場内へハイ・エイスを入れむとして、っきのうの雨のぬかるみの上へ敷かれたプラ敷を後輪が引っ張ってしまってスタック、先輩に出て来ていただいて敷き直したりしたが何度かやってもダメで、っまあ辛うじて車の頭まで現場へ入っているのでこれでいいかということにして、っしかし後輪はどろどろ、午まで作業をして、タイヤひとつ分車を前へ出して泥を洗い落としているところ、っおなじく応援で来ていた野帳くんも、水野さん、手伝いますよ、っともう片方のタイヤを洗ってくれ、黙々先輩も、少々道路へ泥を引っ張ったってかまわないから、っと云ってくださる、っそれで地下足袋姿のまま運転して聖蹟旧別棟へ戻り、着替えて中野行、開演は16時とゆとりがあったため、王将で食事をしてから器へ移動す、

現場は、っごく近代まで、現在でも南隣の土地にある寺の寺域で、っさいしょに掘鑿せる区画では土坑墓の数はさほどでもなかったが、っつづく区画へ調査を進めるとそこがもろに往時の墓域であり、墓また墓で掘っても掘っても追い附かないとのこと、っしかも、府中だから調査のメイン・ターゲットは古代の区画溝ほかなのであり、中世の遺構なんぞに手こずっているばあいではない、っという窮状であって、佐野の手も猫の手も、水野ごときの手も借りたい、っというところか、っほんの半日っきりだったが、っぼくもうち1基を掘り始め、っしっかりしゃれこうべが出土、っが、台地上の覆土中で中世のむかしだから、っもはやぐずぐずで、っほんのすこしく突っついたっきりでもどんどん崩れてしまう、半裁を了えてセクション図を描き、完掘せむとするに、孔開き銭も出るわ大腿骨っぽい太い骨も出るわ梵字の刻まれた緑泥片岩の板碑も出るわ、っそれらが邪魔で、応援で来ていてもさくさくと掘り進めないもどかしさ、っけれども、っまずは半日で墓1基はほぼ完掘まで熟した、、、っや、っあれから骨を取り上げてアルミ箔で包んだり、銭はタッパーへ収納してシリカ・ゲルを入れてと、っまだ細かいことに時間が掛かるねえ、っせめてもの救いといえば、っつい以前までならば、骨でも遺物でも現場で長時間を要して方眼紙に手描きで1/10スケイルの出土状況微細図を採録していたところ、っいまならばiPhoneの3次元情報記録アプリケイションでちょちょいと撮影すればよいだけであることくらいか、っただ、っざっと管見したっきりでもまだまだどっさり墓がありそうで、っぼくがきょう掘ったのは、っあるいはあのしゃれこうべや顎の骨のサイズからすると大人の墓じゃないのかな、っまるで浅かったが、っほかの人が掘っているのを見ると、え、それ井戸ですか、や、骨が出てるんで墓です、ええっ、そんなに深くて墓なのっ、ってな1m以上掘ってあるようなのもあり、っありゃタイヘンだね、っま、黄金週明け以降も、っすこしくでも力になれるよう盡すとしますか、

っそれにしても、っこの間たまに現場へ出ることがあったとはいえ、監督としてアルバイトさんたちが立ち働いていられるのを突っ立って見ていて、仕事といえばたまに写真を撮るくらいだったので、っやっとかめで一人足として最前線で掘鑿作業に従事して、ってめえの身体の鈍りぐあいにはほとほと嫌気が差す、っまず、現代人の一般的の日常生活では、長時間に亙ってしゃがんだ姿勢でいつづける、っなどという状態は經験しないため、掘鑿がどうの以前に、っそもまともにしゃがんでいられない、っすぐに充血して、っつまりは正坐で脚が痺れたような状態になってしまう、中世遺構だから縄文みたように覆土はくわっちくわちではないが、っそれでも半時間も掘っていると腕の張りをおぼえ、っこれはあしたあさってあたり筋肉痛である、っまことに情けないかぎりだが、っま、1週も現場作業をしていれば、身体はすぐに馴れる、っよい運動だとおもうことにして、っこの際、体重も絞り込むこととせむ、

っやはり現場作業は、精神衛生上もデスク・ワークなどより遙けく健全である、、、っその作業がよりにもよって他人様の墓暴きであるとはじつに苦笑ものだが、掘っていて、っつい口を突いてサン=サーンス《死の舞踏》の一節が出てしまったりし、っすぐ隣では野帳くんが作業をしているので、佐野くんさあ、クラッシックで骸骨が夜な夜な踊り出すってな曲があるんだけれど、ついついそれ口遊んじゃうわ、っとぼくが云うと、ははは、そんな曲があるんですね、っと笑われる、っこんな雑談もデスク・ワークにはまるで望めず、っそうした点でもやはり現場はたのしい、休憩中の喫煙仲間とのダベりのここちよさもまた格別である、

っさておき、開演前に食事をしてしまったため、ドリーブが鳴っているときなどはかなりに睡くてしまったが、演奏内容は、っとても勝れていた、

学芸大は、ったしか井﨑正浩氏の出身校のはずで、っいつかに、っもとより後半っきり聴けないとわかっているうえで、府中で大井剛史氏のショスタコーヴィチ《レニングラード》を聴いて器を飛び出し、川崎へ移動して彼氏のブラームス《2番》を聴いた、っあの楽団が学芸大の学生オケではなかったろうか、っその際には、っひじょうに清潔な和音の薫る合奏ではあるものの、Vnの鳴りが細いことにやや憾みを懐いたと記憶する、っきょうも、12型程度の中規模の絃は相応に内輪な鳴りだが、川崎と中野との器の規模の差もあろうか、全体としてアンバランスな合奏とは露おもわず、っばかりか、20歳そこそこの学生連がこんなにも奥床しい大人びた奏楽を為すのか、っとの瞠目を迫られる場面が頻出した、

っそこへ果たす山本氏の役割こそは深甚であろう、同学の名誉教授でいられるというが、っご登壇時の挙措からしていかにも温順な音楽の先生といった風采で、振り姿も仙人のごと浮世の穢れを逃れられる、

スッペは、《軽騎兵》でも《詩人と農夫と》でもなく《ピク・ダーメ》とやや演奏頻度の低い逸品を撰んでくれたのが最高にうれしく、っその冒頭の静々とした絃からして、楽団の高度の錬成と山本氏の達観とはすでにしてあきらかだ、トュッティはしかし角を矯めて牛を殺してはおらず、っちゃんと凛然たる覇気が空間を震わせ、っそれでこそ指揮者たる者の眞なる達観である、打楽器へはタム・タムまで加わっているが、っあれは原曲スコアへも入っているのだろうか、っすべての打楽器メムバーを乗せむがために無理無理加えたともかんがえられる、っいずれ、彼等はけっして遠慮をせずしっかりと打って快音を聴かせられるのだが、っなおかつ、っやや倹しい管絃の合奏の基幹を、っしかし不当に掻き消してしまうということがない、っそして、っきょうも中野というあの器の意外や意外の好音響がその合奏を包み、世に最も仕合わせなオーケストラを聴く環境が萬端ととのう、

アレグロをこせこせと急がないのもまことに山本氏一流で、っその奥へ1音たりとも揺るがせにすまいとする厳しさが鋭く光っているので、速度の遅さがけっして守勢との悪印象を與えない、っむしろ、なんという丁寧な演奏藝術なのだ、、、っ、っとの静かな昂奮を惹起せられ、演目が珍しいっきりでもうれしいのに、っそれをあんなにも燻し銀の語り口で聴けたとは、っなかなかに得難い時間であった、

ドリーブでもこの老練は連続していたはずだが、っこちとらやや睡惚け勝ちであったのが惜しい、

気を取り直して、ブラームスはちゃんと覚醒して聴いていた、前半にはいなかったおっちゃんが、っふたつほど空席を挿んでぼくの右隣へ来ていて、演奏とシンクロせしめてブレスをする人で、っやや欝陶しかった、演奏会の客席へは、っかようの人もいる、ノイズといえば大半は、っほんとうは音楽にも演奏にもなんの興味もない人が立てるものだが、多少とも音楽に対して覚えのある人が、っそのことを周囲へ顕示せむとして立てるノイズというものもあるのだ、前者のノイズはある意味では無邪気なもので、っむしろきょうのようなおっちゃんのほうが、っその周囲へ坐していて腹立たしく、不愉快阡萬である、俺は舞台で鳴る楽音を聴きに演奏会へ出掛けて来ているのであって、テメエの愚かな自己顕示慾なんぞを聞かされに来ているんじゃないっ、っと怒鳴り附けてやりたい、っそのブレスがまた、ここのザッツは深い呼吸だよ、ここは速く鋭い音だよ、っとイヤに的確なので、余計に腹が立つ、っぶん撲ってやりたかった、フィナーレのアルペン・ホルンやつづくトロムボーン連のコラールでなど、ブレスというよりもほとんどいっしょに声を出して歌わむばかりの勢いなので、っじつに殺意をおぼえた、テメエこんにゃろっ、ぶっ殺すぞっ、っという、何度でも何度でもしつこく書く、演奏会の客席では、自分という存在などそこへはいないかのように振る舞う、っそれがコンサート・ゴーアーとしてのそれこそ達観というものである、っなぜ人は、っそんなあたりまえのことひとつもわかろうとしないのであろうか、

っとまれ、演奏はひじょうに勝れていた、アマチュアの楽団では、前半の小品などでは吃驚するほどの高度のアンサムブルを聴かせても、長丁場のシムフォニーとなるとそのぶん箍が弛んでしまうというのが通り相場だが、っきょうの彼等は、っもちろん一寸した個別のエラーはときおり起こりはするが、絶えず各位が全体のなかでのそれぞれの役割を咀嚼した上で、もういちど一からこの大古典を再構成再現前し切るのだ、っとつよく意志し合った奏楽を全楽章に亙って完遂された、っほんの学生時分のサークル活動でしかし、っこんな大指揮者の下で演奏することができたというのは、っおひとりびとりの青春、人生にとり、っまこと掛け替えのない財産にちがいない、一客風情がかようの云い種をするのも不遜にちがいないが、っきょうの学生さんたちは、っちゃんとそのことをわかって弾かれていたろうか、あなた方、いまけっこうスゴいことしちゃっていますよ、っという、

っもちろん、っぼく個人としては、ブラームス《1番》は要所ではもっとはち切れむばかりに熱気の滾る演奏を好み、山本氏の晦渋な境涯へそれを望むことは叶わなんだが、枯淡と謂うにはあまりにもゆたかに花も実も存るフォームであったことは事実だ、2楽章のコン・ミスのソロにしても、っそれこそまさしく名花である、

フィナーレの展開冒頭の主題では、管のタンギングが絃の嫋やかな歌に釣られていっしょに寝てしまわぬよう、山本氏は彼等のために細かい拍を振られるが、っそれがために絃連中はかえって拍節を見失ってしまい、っややタテが乱れるという手痛いミス、っしかし、っそれもまた、指揮者の高度の問題意識に因する事故なのであって、っぼくも、っけっして事故をよろこぶわけではないが、っそれだけ絶えず音楽へ活性を與えむ與えむとして運ばれている演奏がこころうれしい、っこれを文字通り、虎穴に入らずんば虎子を得ず、っと謂うのである、っいいじゃないか、ったまに親虎にみつかって噛み附かれたって、リスクを取らない奏楽など、断じて音楽ではない、

っいつものことながら、アンコールの《ハンガリアン・ダンス》は、打楽器がちゃんと人数のいる楽団ではどうしても〈6番〉になってしまう、っぼくは〈1番〉か〈4番〉かを聴きたいのであるが、



っさて、っあすは地方遠征と、っすぐに蜻蛉返りして来ての、東京での一寸した公演とのダブル・ヘッダーかな、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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桜木町、




青木洋也氏と横浜シティ唱との公演、済む、演目はメンデルスゾーン《2番》《さいしょのワルプルギスのよる》、同団は運営費が潤澤なものとみえて、オケはアマチュアではなく新日本フィルが呼んであり、ソリストは澤江衣里、浅谷里美、布施奈緒子の3女史、鈴木准、加耒徹、加藤宏隆の3氏とじつに6人、オルガンへは大木麻理女史と、豪華布陣である、両曲ともみじかくなく、済んで21:20ころである、

っいまうちの会社では府中の駅を降りてすぐのところでひとつ現場をやっていて、黙々先輩が監督をされているが、中世だか近世の土坑墓が山ほど出ててんやわんやだというので、っきのう入電して、っぼくも一人足として駆られることとなった、っきょうはしかしあさから雨の予報で、午后あがるようならば現場作業をされるというので、ではぼくはあさは聖蹟旧別棟へ出勤していますので、午后作業をするばあいは連絡をください、っと云っておいて、っその心算であさ旧別棟へ出向いたが、午ころお電話をいただいて、やっぱり午后もダメそうだから全日中止にします、っとのことで、17時旧別棟終業で19時に桜木町にいるのはぎりぎりなので、っぼくとしては府中へ移動してしまいたかったが、詮なく午后も旧別棟へいて、っただ、っぼくが黙々先輩に頼まれた荷をハイ・エイスへ積み込んだりしているところ、水野さん現場へ出られるんですね、っと気ぃ遣いの石川サユリストさんがあれこれ世話を焼いてくださるので、抜け抜けとそれへ乗じて、16時すぎころに、購い物へ行ってそのまま直帰します、っと、っまあほんとうにすこしく作業着屋へ寄ったから完全に嘘ではないが、っほとんど嘘を吐いて早めに退勤し、っいつもの駐車場へ停めて積んで来たチャリンコを降ろしていったん帰宅し、私服へ着替えてチャリンコで駅まで走り、横浜行、小田急、町田經由で来るが、横浜線がすこしく遅れていたので、っあれで17時まで仕事をしていたのでは、イン・タイムで桜木町へいられなんだかもしれない、

っさて、演奏だが、青木氏は鬼教官さながらの凄まじい気魄の人で、オケへもコーラスへも厳しい叱咤が休まることがない、っそれへ応えていっさいのメムバーが為すべきを為し切られ、っまことに質の高い奏楽演唱が公演全編を一貫した、っもちろん、プロフェッショナルであるオケ、ソリストに比してコーラスにはいくぶんなりとも遜色があるとはいえ、っすべての瞬間で、絶えず明確に曲想をわかって聴いていることができた、

新日フィルは絃10型のささやかな編成だが、っきょうはこないだの公演とちがって高度のプロフェッショナリズムを堅守され、っかつ、っどの声部へも楽曲を味到せむとされる積極性の顕われていた点がすばらしい、恆に落ち着き払って弾かれながら、っしかし曲想に連れて自然と色が移ろうのである、

メンデルスゾーン《2番》は、っぼくはガキんちょのころに金山の市民会館で沼尻竜典氏と名古屋フィルとの演奏を聴いている、コーラスはグリーン・エコーだったろうか、愛知県合唱連盟かな、っあのころ名フィルと共演するコーラスといえば、っそのどちらかだ、沼尻氏は同曲をたいせつなレパートリーにされているようであるが、っしかし、後期浪漫派や近現代物の猥雑をよろこんでいる幼稚なぼくではあんな曲調へ順応しうるはずもなく、っその演奏もさっぱり憶えていない、っのち、東京へ出て来てからも1度か2度はどこかで実演に触れた気がするが、っともかくぜんぜん楽想を憶えていない、

っそれがきょうは、っまあオケのみによる先行楽章こそ、やっぱりこれじゃ喰い足らないんだよな、っとすこしくおもいはしたが、声楽が加わると俄然、生彩を得て、っこちとらとしてもおもわずに惹き込まる、

ソリスト各位のキャラクターの相関も快く、っひびき重視の澤江、比較的、倍音を効かせた浅谷両女史の重唱など、っそのハーモニーは絶妙であった、

最後のアーメンへ向かいて、道中、音楽は翳りを帯びる時間もあるが、っそれを払拭してコーラスが歓びに耀き渡ると、オケの和音ももちろん晴れ晴れとした調へ移り、誰ひとり無用に力んではいられないため、音場の空気がみごとに色を変える、っぼくもはっとして感動で胸が詰まるのをおぼえるが、舞台を観ると、唄われていない澤江女史は、眼をぱちくりさせながら天を振り仰ぐような仕種をされ、っそのあと一寸、手を鼻へ当てられていたから、っやはりおなじように感極まってしまわれたのではないだろうか、

《さいしょのワルプルギスのよる》はぜんぜん聴いたことがない曲だが、っより劇性が高まるため、退窟とは無縁である、っここでもソリスト連のキャラクターは綜てみごとに立つ、加耒氏の演唱へ触れられたのもうれしい、っあれ、井﨑正浩氏のときも彼氏だったろうか、福岡で聴いた鈴木優人氏のときはたしかに彼氏だったが、バッハ《ロ短調ミサ》中のこの声部のソロでは、加耒氏にとりては音域が低すぎるナムバーであり、下がひびかず、オケに敗けてしまわれるのが惜しい、っきょうの曲は彼氏にはじつに唄い易かろう音域で、っその理智的の美声を篤と堪能することが叶った、バスの加藤氏はもっと太くどっしりとした発声でいられ、彼氏は加耒氏の直後に悪魔的の場面を唄われるので、っその野卑な感触がこれ以上にない好コントラストを具現したものである、

《ファウスト》は、っぼくも画学生の往時に読み、終局の畳み掛けには無類の昂奮を味わったが、非現実的のCG映像でもなんでもござれの現代に活字を眼で追っているっきりでもあんなにどきどきさせらるのだから、遙けく娯楽に乏しかった往時に同作が人々へ與えた影響といったら、っそれはもう計り知れない、っきょう解説を読んでいて、っぼくはそれをまったく識らなんだが、ゲーテ自身が音楽を伴なった同作の上演を企図してほうぼうへ働き掛け、作曲ははじめなんとかいうメンデルスゾーンの師へ依頼せられたが、断られ、っそこで弟子みずからが挙手、偉いもので、ゲーテもメンデルスゾーンの才覚を情報としてちゃんと知っていて、っその申し出を諒としたとのこと、

っかんがえてもみれば、長命を全うしたゲーテはかっては楽聖ベートーヴェンとも相見えており、っかくしてメンデルスゾーンの時代にも大文豪として轟き、絵図に見る風采はあのとおり厳ついが、っどっこいおもいのほか人当たりがよくて、社交の場では若い女性を脇へ侍らせていたようである、晩年にはショーペンハウエルを高く購って彼氏独得の思想的試みを激励し、珍かにも社交界へ顔を出したこの偏窟な哲人を遠巻きにしてご婦人たちが、先生っ、なんなんですかあのむっつりした野暮天はっ、こういう場では周囲へ愛想笑いのひとつやふたつ振り撒いたもんでしょうにっ、っと気味悪がるのを窘めて、まあまあ淑女諸君、彼は我々凡人にはおもいも寄らぬ思惟の只中へ存るんだ、そっとしておいてやりましょうよ、っと宣ったとか宣わないとか、楽聖との会見の挿話でも知られるとおりに、文豪文豪といわれるが、っぞんがい虚飾に身を鎧い、自己憐愍を湛えた人であったのかもしれない、クンデラ《不滅》などは、っそうした観点からこの大先達の横貌を活写している、っしかしそういう人でも、《ファウスト》をもって一時代を席捲することができたのである、、、っぼくもいちおう文人の端くれですからね、ったまにはかくキョウヨウをひけらかさないと、

パンフレットへは各公演のフライヤーが挿まれており、加耒氏が唄い振りされる女声唱の公演の案内もあって、これはっ、っと注目せるが、っざんねんながら井﨑氏公演とバッティング、っほかに、樋口隆一氏がサントリーでブルックナーのミサ曲を振られる公演もあり、休憩時にiPhoneを持ち出してよろしくRCへ良席を得る、



っあすは、午前のみ黙々先輩現場へ応援に行き、社用車を旧別棟へ戻してそこで着替え、夕からなにか演奏会、っそこから先、日曜も旗日も平日も、5/7まで1日の空隙とてなく演奏会つづき、ダブル、っおよびトリプル・ヘッダーの日もある、地方へも出向く、草臥れますねえ、、、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(第1回配本)

 


《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(第1回配本)



《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12935343873.html(第1回配本)




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