ざっかん記 -4ページ目
2025年01月12日(日) 07時54分32秒

栃木、小山、

テーマ:近況



佐藤久成氏リサイタル、済む、っきょうのピアノは桐榮哲也氏という髪を派手な色に染められたあんちゃんでいられたが、奏楽は、っときおりかすかに指が回り切らない憾があったが、っむしろ堅実な人であり、佐藤氏の相方としてまことに相応わしい、

演目は、前半にシューマン《1番》とシュトラウスとのソナタを演り、後半は小品集、ファリャ《スペイン舞曲》やボーム《カヴァティーナ》のほかに、念願叶ってショパン遺作、、、っじっさいには生前最期の筆というわけではぜんぜんないらしいが、っの《ノクテュルヌ》が含まれていたのがうれしい、

器は駅ビルのなかのほんの貸スペイスといったところで、最後列へ坐したが、っそれでもまだだいぶん直接音直接音し、っが、耳に痛いというほどではなく、っただ、っああした極小音場では、瞑目して音だけを聴いているにかぎる、眼を開いて舞台を観ていると、演奏家の生身の人間としての実在感があまりにも近くに存り、っかえって鑑賞の邪魔である、

シューマンは、っあんなにも明快でかつ性格的の主題の連続する作品も書いていたのかとおどろくほどの佳品である、

シュトラウスの若書きにも同様の親近感をおぼえるが、ピアノ・パートは、っそこへさらに絢爛たる装飾性をも加えている、

小品集は寛いだ気分でたのしめるが、寛ぐといってもそれは気分だけで、挙措まで崩してしまってはいけない、っきょうの客席はその点で最低最悪で、曲や楽章が終わる最後の1音がいまだ消えるか消えないかのうちに、ううん、っとか、おお、っとかという溜息みたような音声を発するばかたれが前半のソナタの演奏時からすでにして複数人いたし、後半では、何曲目かが済んだ際に佐藤氏がマイクを握られてすこしくお話しになり、っあんなんで日常生活がままなるんかいなというほどのいつもながらの訥弁ぶりで場内かなりに笑いが漏れたこともあり、以降はよりルーズな雰囲気へ堕して、演奏中に私語をしたり、佐藤氏の繰り出される激越な表現表情に笑声で応じたりという不埒なくそったれあほ客が増加、アンコールのゴセック《ガヴォット》に至っては、っなんと1割強ほどものお客が、主題に合わせてハミングするというおよそ度し難い事態にまで腐敗し涯てる、演者からこういう堕落したお客のうちの1人だとおもわれているのではないかと想像するのはほんとうにいやな気持ちだが、っどうとかこころを鎭めて楽音に神経を集中せしむ、



っさて、小山は日中でも東京より寒い気がし、済む途端に湘南新宿ラインへ飛び乗って戻る、っいま新宿で、小柳氏公演の開演まではまだ1時間半あるので、歩って初台の王将へ移動中、食事して、っそこから参宮橋の器まではまた歩って10分15分だ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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2025年01月11日(土) 09時49分09秒

荻窪、

テーマ:音楽



豊平青氏の棒、クレド響公演、済む、演目は泰斗ジェラール・プーレ氏を招いてバッハ《1番》コンチェルト、っそしてマーラー《トラギッシェ》である、

プーレ氏はことしで87歳になられるというが、っじつに妙音を発せられる、っおそらく、若年、壮年のヴァイオリニストからすると擦絃の圧力が必要最小限で、っために繊細な描線だが、っやさしくひびいて器へ染み入ってゆくその音の伸び方は、彼岸に聴くように神妙である、

豊平氏のマーラーは以前に《5番》を聴いたが、各部がかなりにソリスティックに動く同曲からすると、《トラギッシェ》はわりに全員でひびきを作る場面がおおく、立派な概観を提示さる、



っさて、っあすはよるに小柳英之氏の公演のみ、っかとおもっていたら、午に栃木の小山で佐藤久成氏のリサイタルがあり、往って戻ってよるの小柳氏公演に間に合いそうなので、出掛けることにした、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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2025年01月04日(土) 14時20分43秒

川崎、

テーマ:近況



坂入健司郎氏の棒、東京ユヴェントス・フィル公演、済む、演目はバルトーク《中国の不思議な役人》スート、っまだ18歳でいられるという若尾圭良女史を招いてバーバー《Vnコンチェルト》、っそしてストラヴィンスキー《ハル・サイ》である、バーバーの2楽章の主題はごくリリックなオーボーのソロであり、ソリストの父君でボストン響の奏者でいられるという圭介氏が乗られ、同主題を吹かれる、

午の千葉フィルとなんというひびきの相違であろうか、東京ユヴェントス・フィルは、《ハル・サイ》でようやくすこしく綻びが見えるという程度であり、清冽にしてシャープ、っじつに玄人跣のアンサムブルである、っかって、っやや拍へ音が嵌まっているっきりという悪印象というか無印象を遺したのはマーラー《夜歌》くらいであり、ブルックナーなどはいつもすばらしい、っきょうはまた別種の厄介な音楽だが、声部声部が密集しても絶えずぜんぶの音が聴こえているゆとりがある、っかすかにアンバランスだったのはバルトークのフィニッシュ附近のみで、管打に押されて絃の音型がほぼ聴こえなんだくらいである、

バーバーは初めて聴いたが、管打はホルン、トロムペット、ティムパニまで一通りいるものの、絃は小ぢんまりとした規模でソリストを囲む、っそんな和気藹々の編成のなか、1楽章も冒頭から切ない歌が流れ、っその歌がまた、爽快へしかしほんの数滴、苦味を垂らした憎い和声を纏ってみたり、っすこしくポリフォニックに動いてみたりと、っいちいちカッコいい、カントリー映画の附隨音楽でも聴いているような気分だ、対して管、っそして楽章最後にソリストが奏するリズム動機は、流石にアメリカ人の筆らしく、スウィングする、

2楽章はシルキーな絃合奏に唱導せられたそのオーボーのテーマに始まるが、ったいていの奏者の吹くこの楽器は、現代的の機能を万全に具えたマシンという聴こえ方がする、っそれが、っほんとうに名うての人の運指と吹奏とになると、っむしろ天然の葦笛が鳴っているように錯覚するものである、っきょうの若尾父君の奏楽はまさしくそれで、フレイズの中途へ折れそうになよやかな最弱音を挿したりされるのは、っまさしく手練れの業だ、

書法もなかなかに入魂で、ソリストがようよう音高を下げてゆくなか、ソルディーノのトロムペットが楽聖の運命動機を鳴らしていたりなど、腹へ一物を蔵している人の筆である、

ミディアム・テムポの前2楽章を享けるフィナーレは忙しい常動だが、初めて聴いていて、これで複雑な展開を有つ長大な楽章だったらクールじゃないな、っと侮っていると、っまた流石、っほんの先行楽章の後奏といったぐあいにあっさりと駈け抜けて了わる、

ソリストの若尾女史はまったくみごとな音のキャラクターで、っさながらそのカントリー映画の若手主演女優である、コンチェルトが済むと父娘で前へ立たれ、坂入氏もセロの一員へ加わられて、絃群の伴奏でなにやらバロックとみられるアンコール、っここでも父君のオーボーの自在なることといったら、



っそれで《ハル・サイ》だが、12型くらいで、っこの曲を演るにはさのみ厖大な絃の規模ではなかった、っあるいは、大半が慶應閥なのだろうメムバーでは、っなかなか練習、本番へ参加できる面子を確保しえないのかもしれない、っきっとみなさん社会的にそれなりのお仕事をされているんだろうから、

坂入氏はとくだん衒ったことはなさらず、音楽的の所作に徹しられていたが、楽器楽器がぞんぶんに機能しながら、っすべてがちゃんと野蠻な呪詛の効果音として鳴り、っおおきに唸らされた、っこうした曲はそれだ、音という音がぜんぶ効果音、SEとして咲き乱れないと、っただ管絃楽の合奏能力それ自身を誇示されたところで、っなんの聴きでもしやしない、っくりかえすが、っそれを音楽的の所作の範囲で成し遂げること、っそれが指揮道の難儀であり奥儀であろう、音楽は音楽以外のなにものをも表現しない、っとはストラヴィンスキーのことばだが、っしかしその人のスコアがよろしく音楽的に語られえたとき、っぼくらはたしかに、禍々しい儀式を眼前に視るのである、



っところで、このコムビの次回公演はマーラー《5番》だそうだが、っさんねんっっっ、っさきほど触れたネコケン氏の同《9番》と同日開催、、、っううむ、千葉フィルの汗臭い人間臭い奏楽をネコケン氏が淡々と捌かれるそのマーラーも、不思議な味できっと胸いっぱいにしてくれるのにちがいないが、っぼくがより長くおおく聴いてきたのは坂入氏のほうだ、っここは若者の挑戦を見届けるとせむ、惜しいっっっ、



っさて、っあすは新居の鍵を受け取ってきて、現室との間を何往復かし、っある程度、荷を運んでしまわむ、っあそこ路駐していられんのかなあ、



みずの自作アルヒーフ

 

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2025年01月04日(土) 07時50分12秒

住吉、

テーマ:近況



ネコケン氏の棒、千葉フィル公演、済む、演目はドヴォルザーク《スケルツォ・カプリチオーソ》、コダーイ《〈孔雀は翔べり〉によるヴァリアシオン》、っそしてブラームス《2番》である、

ネコケン氏は、足元がだいぶんよたよたとされており、っぼくが聴きえたロズージェストヴェンスキー氏の最晩年の舞台姿が、っちょうどあのようであられた、腰から上が直立で、っほんの靴1足ずつ分くらいっきり脚を前へ出されないといった調子で、袖から舞台の中央まで来られるまで長時間を要され、高い指揮台へ上がられるには背凭れを摑んで1歩ずつ確かめながらでなければならず、後半ではその半分の高さの小っちゃな匣馬が指揮台の脇へ補助で置かれた、

っけれども意識は明晰でいられるようで、ボディ・アクションへ感情移入はほとんど顕わされないで、淡々と、っかつ泰然たる棒をお振りになる、っその棒と、昭和のスポ根奏楽、アマチュアリズムの大権現というべきオケの鳴り方とのケミストリーがまた快い、っこんかいは小中規模のよくひびく器を得、前回のマーラー《夜歌》に勝るこってこて加減で、肌理は粗いが、音の濃密、人懐っこさは無類無上である、っそしてテクニークとしても、アマチュアのうちで最上等ではぜんぜんないが、っしかしあれだけよく弾ける団体もじつはすくない、個々の音色の魅惑も抜群だし、指揮者がというより、オケの側がまず原則としてみな弱音無視、っこわごわ音を出してヒヨるくらいならば、えいやっ、っと景気よく鳴ってしまえというわけで、っぼくは、っまずはそれでよいとおもう、

コダーイは、近代的の書法で絢爛と幕を開けたかとおもえば、っどうも調子がオリエンタルで、っしばしば、中国の派手な雑技の伴奏を聴いているような感触がした、

ブラームスは曲頭の低絃、ホルンから、っやはり指揮者は手で抑えながら出ていられるが、鳴る音は豪快な弱音無視、健康的の音量と音色とがこころを潤おし、トュッティともなれば遙か大河の眺望である、っけれども棒はあくまでも端然としていられるため、っどこまで鳴ってもぜんぜんむさくるしくなく、っむしろ満々と音楽美のみが聴こえている瞬間がおおい、

次回はマーラー《9番》をなさるとのことで、っあの《夜歌》などからしても、相当度の達成を期待してよいのではないか、っまた市川と遠いが、っはるばる聴きに行くとせむ、



っさて、川崎へ移動して坂入健司郎氏公演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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2024年12月30日(月) 10時09分35秒

ギロッポン、

テーマ:近況



井上キーミツの棒、読響で、キーミツの現役最終公演、済む、演目はメンデルスゾーン《フィンガルの洞窟》、楽聖《パストラール》、シベリウス《7番》、ショスタコーヴィチ《祝典序曲》である、

っもしこれのみ、っあるはさいきんの駄投稿のみを読まれる人がいられたら、キーミツってなんだよ、井上道義のことを謂っているのなら、彼の渾名はミッキーとかミチとか謂うんだよ、っとおおもいだろうが、っぼくもさいしょは井上ミッキーと表記していた、っそれがYouTubeでRebeccaのノッコ女史がデーモン小暮閣下と《Raspberry Dream》を共演される動画を観、っそのトークのなかで閣下は女史へ、コーノツ、っと話し掛けられ、当時われわれはノッコのことをコーノツと呼び習わしていた、っとおっしゃっている、っすなわち、鮨をしーすーと逆転せしめる要領で、ノッ、っと、コ、っとを逆転せしめ、コーノツ、っというわけである、っこれはすばらしくたのしく、っそれを識って爾来、ミッキーを逆転せしめてキーミツと表記することとし、我が愛すべき同僚、針木くんの渾名、ハリッキーもキーハリとしたのである、っこの変更の経緯についてはいつかの駄更新時に触れているはずであるが、っまあこの際あらためて、

っさて、っとうとうこの時が来てしまったわけだが、っいま了わって、っさっぱりとした気分だ、キーミツはもちろん満身創痍でいられるだろうが、っあれで開幕して袖から出られるそばから見る目によぼよぼよたよたのおじいちゃんだというなら、っこちとらも、ああ、もうほんとうに限界なのだなあ、っと実感もし、っお別れの肚も定まろうというものである、っところが、近来の演奏会と同様に、舞台人としての片意地であるのだとしても、っすくなくもぼくらの目に見えているうち、キーミツはとてもお元気そうで、最後の最後まで快活な音楽青年の風情でいられたのである、っまだこのあともいくつもの舞台を踏まれることだってできそうなのだが、っともかく、っそういううちに棒を擱かれたいという、彼氏一流の美学でいられるのだ、

読響の応接はまことに献身的で、っもとより太く健康的の描線を事とする彼等であってみれば、新日本フィルとの最期のご共演の際のような、音が地を離れ、天楽へ誘われているような感触とはまた違い、っむしろどっしりと大地へ根を張って、豊饒の惠みを満堂へ授けてくれる、

メンデルスゾーンは冒頭からたっぷりとしたテムポへもう萬感が籠もり、っここサントリーではときおりはっとするようにそれをつよくつよくおもわされるのだが、なんという銘器だっ、っとの実感にシビれる、っすべての声部が曇りなく最良のバランスで耳を擽る、っこれは楽聖でもたびたびおぼえた快感であるが、っいつも云うように、っもっと音がしっとりと濡れ、直接音が分厚い残響に包まれているトーンをこそ所望する向きもあるのかもしれない、っそうした器の特性はぼくとしてもわからないじゃないが、っしかし、っではその手の器でここサントリーでのような高度の分解能を望めるだろうか、っこのすっきりとして雑味を後へ遺さないトーンは、通えば通うほどに愛着を生ずる、っぼくは本邦の天下の殿堂としてなんら構わないとおもっている、

同曲、っおよび楽聖は小ぢんまりとした編成での演奏、陣容はさようながらも、奏楽としてはヴィブラートを躊躇われない、っその《パストラール》はぼくも、広上氏が代行された新日フィルとのもの、キーミツご自身が振られた都響、大阪フィルとのものを聴いてきたが、っきょうが最もそうした編成の規模の妙味をよく叶え、っまたキーミツの表現としても、スコアの奥の奥まで目配りが利き、大フィルの際に感じた、抽象的の音の配列のみがものを云っている、っという手応えがきょうもする、っそう云うとザッハリヒカイトをおもう人もいようが、っそうではなく、っかなり恣意的に目立たない声部声部へフット・ライトフット・ライトを浴びせまくられているのにも拘わらず、井上道義によって脚色せられ、謳歌せられた《パストラール》、っとの印象がせず、っただただ楽聖の《パストラール》が、至純に流れてくるのである、2楽章の最後で鳥たちが啼いたあとの終結を惜しむようなゆっくりとしたテムポや、フィナーレのまんなかの部分を過ぎ、主題が変奏せられるその後半などでぼくの目頭が熱くなったのは、キーミツがぼくらの眼前からいなくなってしまうという感傷からではなく、音楽的のうつくしさに原因していたのにちがいあるまい、

読響とのシベリウス《7番》は、キーミツがマーラー《大地の歌》をなすった際にも聴いているはずであるが、遺憾ながらなんの記憶もいっさいない、っひとつの曲をわかろうとするには相応の体力と気力と時間とが要り、っそれには若い身空の貪婪が入用である、っぼくもいまなんの準備もなくすぐに演奏を聴かされても自分なりにその成否を判断しうる楽曲というのはごくごく限られており、っそれらのうち大半は10代20代のころに夢中で聴いたものばかりである、30代へ入ると、仕事の忙しさも云い訳にして、音盤などは購って聴かないままの枚数が、っおそらくは数百枚単位である、っそれとても、っおおくはもとよりよく識っている曲の異演というにすぎない、

っそれはそうなのだが、っいっぽうで馬齢を重ねてくると、なぜいままでこの魅惑に惹かれなんだのだ、っと不可思議なほどこころへひびいてくる楽曲というものもまた存る、っそれこそ《大地の歌》などはぼくにとってはその筆頭で、宇野さんエピゴーネンたるぼくはとうぜんながらヴァルター/ヴィーンのそれを若くときから何度も何度も聴いてきたが、率直に云って、え、これのなにがどうそんなに名曲なのさ、ってなものだった、宇野さんはいつも、マーラーを必ずしもこのまないが《大地の歌》のみは別格、っという態度でいられたが、っぼくにすれば眞逆で、っほかのシムフォニーはどれもわかるし、聴いていてその猥雑がたのしいのだが、《大地の歌》だけはわからない、音盤を再生する前に、っぜんぜんこころが躍らない、どうせまたわからないんだ、っという無力感に沈んだ日々が長かった、テノールの唄うみじかいナムバーは音の動きがおもしろいので聴いていられないじゃないが、っそれだけのことであり、っまったくこころへ沁みて来ないのである、っそれがあるとき、っもう三十路へ入ってしばらく經っていたかとおもうが、っそれはヴァルターではなく朝比奈さんの音盤であったはずで、聴いていて、1楽章のまんなかのオケのみの部分で、あっ、さびしいっ、っと視界が展ける途端に、泪が止まらなくなった、っそれからはぜんぶの部分がよくわかって、っとくに長大な終曲は、っわからない以前は聴いているのが苦行でしかなかったが、っもう手に取るように気分が伝わるのである、ヴァルターを聴くと、指揮者の表現としても録音の性質としても、お先眞っ暗っ、っみたようなうらぶれた淡彩、っあるは墨筆の山水画を観るような渋い味である、っいまではその妙味も理解するぼくだが、っまず楽曲のすばらしさをぼくへ訓えたのは朝比奈さんである、ソリストはおふたりともおなじ、年代を隔てて新旧両盤あるうちの、っとくにPCの新盤のほうが録音がより鮮明でぼくはすきだが、っそのとくに終曲などは、ヴァルターとはおよそ別世界で、大フィルがめくるめくようにカラーフルに鳴り、覗いて回す万華鏡には人生の麗しさ、っこの世界のうつくしさが余すところなく映る、朝比奈さんはこの曲について、ぜんぜん辛くもかなしくもなく、悠々とさらばさらばといってこの世へ別れを告げる、っとおっしゃっている、最後にくりかえされるEwigをさらばさらばと意訳していられるわけだが、演奏はそのご所感の飽くなき実践で、山川草木、花鳥風月いっさいをめいっぱい愛でながら、最後の最後まで健康美に耀いたままで終演する、っぼくにはそちらのほうがより理想的の演奏におもえる、

シベリウス《7番》も、実演、音盤ともにたびたび聴く機会があったのだが、っわからないものはわからない、っただぼけたんと右から左へと音々を見送っているのみである、転機はわざわざ高槻まで聴きに行った森口真司氏の公演で、っきょうのこの日を前に、っあれを聴くことができてほんとうによかった、演奏会というのもまことに宝籤で、っべつに切符代のほかに新幹線代や飛行機代まで出す出さないはお客お客の勝手であり、っそこまでして凡演っきり待っていなかったとて、文句は云えない、っこれもいつもの繰り言、っよのなかにいちばんおおいのは、駄演ではなく凡演である、人はそれを呪い、っぼくもその多分に漏れないが、っしかしよくよくかんがえると、っそれもある程度は仕方がないという気もする、っお客お客は演奏会演奏会へ非日常を求めてやって来るが、音楽家といえども一個一個の人間であり多忙な職業人である、っそうまいかいの演奏会に命を懸けているばあいでもなかろう、演奏会に文句を云う人も、っときには自身の胸へ手を当て、ではテメエはテメエの仕事をまいにち死ぬ気で熟しているのか、っと問わねばならないかもしれない、



、、、南大沢まで戻って、喫煙しながらでは手指が悴んでかなわず、っきょうカーテンコールでキーミツは最後、グラスを傾けるジェスチュアを繰り返され、帰ろうとしないぼくらへ、もう呑みに行きなよ、っと促されたが、促されるまま、年内最後の演奏会くらい、事後に独り呑むのもよかろうと、っいま居酒屋へ寒さを逃れる、

っそのシベリウスも、っやはり健全な音楽性の勝利で、草臥れた老境の枯淡はどこにもない、ヴァルチュハ氏などの棒では限界も感じさせた読響も、名匠を得れば向かうところ敵なし、鮮烈、溌溂たる合奏が、っここ2日ばかり何十回となく聴きつづけた楽曲に、っいま目前の感動を吹き込んでくれる、トロムボーンが重要動機を担うが、っさして特徴的の音型とも云えないため、っこころして聴いていないとそのことを認識しえない、聴きながら、こんな曲調じゃ、数度聴いたくらいではわからないはずだよな、っと微苦笑、



妙に垢抜けていて居酒屋僅少の南大沢では、深更まで開けている店2軒がともに満席で蹴られ、入ったのが22時閉店で、っいま追ん出されてしまう、安くない店で、1人して¥6千も呑んでやんの、っまた寒空の下、喫煙スペイスにて、ギア・トップ・フリントも奏功のトーレンスの快調が掌中にうれしい、

掉尾にショスタコーヴィチ《祝典序曲》、主部は個人的にはヤマカズさんみたようなのんびりテムポがこのみだが、俊速に生き急ぐキーミツの姿よ、老匠然をそれもまた善き哉と褒められながら音楽人生を了えられたくないというキーミツのキーミツたる所以を、最期の最期にありったけ発散される、一個の音楽人の終の光芒であられた、バンダはオルガンの前、客席の左右背面と2、30人も居並んだ格好で、っその音圧は大音場をびりびりと震わせ、っお別れはしんみりとでなく、賑々しくまさしく祝典祝祭の樂を以って、堪え切れない客席は、最終音が鳴っているうちから手を叩き出し、ブラヴォーを吼える、

終演してマイクを握られ、っすこしくお話しになるが、馬車馬のように働いてきましたよ、これからも君等は馬車馬のごと働き給え、っと読響各位を労われるので、もしや、、、っとおもっていると、アンコールはなんとショスタコーヴィチ《ボルト》から〈荷馬車曳きの踊り〉、主演目のみではすこしくお上品に済んでしまうかとじつは不満もないじゃないライン・アップだったが、っあんな下賤下劣なアンコールを用意されているとは、流石に生来の臍曲がりにして正直者、井上道義であられる、

っそれが済んで楽員がいったん全員捌けられ、っいよいよほんとうにおしまいで、っあとはソロ・カーテンコールのみかとおもうに、キーミツが袖へ向かって手招きをされると、応じて出て来られるのはコン・マスのみ、、、っではなくぞろぞろとみな参集され、っさらに1曲、演奏へ加わられない管打のメムバーも舞台上で見守られるなか、武満氏の映画《他人の顔》のための〈ワルツ〉、ったびたび聴いてきた曲だが、っそのほろ苦い味が、っきょうほど身に沁みたことはない、

っさようなら、キーミツ、っあなたという人をけっして忘れません、っありがとうございました、



っそうだ、シベリウスで編成が拡大すると、絃バスへは高山氏がお乗りだった、っせんじつ京王をおなじ車輛へ乗り合わせたとき、井上さんの最終公演を聴きに伺います、たのしみにしています、っと挨拶申してもよかったのだが、っお乗りになるかは知れなんだので、

っまた、席を立って手洗いへ寄ると、森山開次氏が聴きにいらっしていた、彼氏も舞台人、同志のご勇退をいかに見届けられたであろうか、



っさて、正月休みは退去前の大掃除に暮れて、年を跨いださいしょの演奏会は4日、午に住吉にてネコケン氏公演、夕に川崎にて坂入健司郎氏公演と、乗っけから梯子である、



っどうかみなみなさま方も、っよきお年を迎えられますよう、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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2024年12月29日(日) 09時19分59秒

流山、

テーマ:近況



佐藤雄一氏の棒、ラ・プティット・ドラマティーク公演、済む、演目はハイドン《12・45・95・103番》で、2曲ずつ前後半の前半が済むっきりでもうまるまる1時間以上、休憩は15分で喫煙に出られないで、《95番》が済んで16時ちょうどくらい、終演して16:40すぎで、っおそらく完捌けの時間が迫っていたのだろう、カーテンコールの佐藤氏は駈け足で、っその後は各位が猛然と椅子や譜面台を片していられた、1曲減らすがいいじゃないのよ、、、

モーツァルトは初期のシムフォニーだとまだほんのディヴェルティメントみたようで、っどの楽章もあっさりしているが、ハイドンは《12番》からもう長大で、っそれをまた佐藤氏が恆のとおりのんびり放題に歩かれるので、緩徐章など、永遠に了わらないかにおもえる、

奏楽は、絃はもちろんノン・ヴィブで、っそのフレッシュな音彩と、っゆっくりとした歩調とのギャップメントが不思議な味だ、《45番》など、井上キーミツの棒でたびたび聴いたが、っまるで別物、別世界、っこちらのほうが偶数拍の強調や多声の噛み分けが煩いほどよく効いてたのしいとも云える、

ヴィブラートがないとはいえ、佐藤氏の語り口はじつにロマンティックで、1音1音にいちいちドラマをみていられ、歌い方といい強弱といい音色といい、2時間半の余も絶えず内容ぎっしりの音楽が鳴りつづける、

っなんだか、来年の6月には佐藤氏は、新しく起ち上げるらしい楽団とこのおなじ器でブルックナー《5番》をなさるようで、パンフレットへそのフライヤーが挿まれており、っもう切符を売っているようなので、早速に購っておいた、っこんな狭隘な器でブルックナーを演って大丈夫かしらんとおもうが、



っそうだ、っこないだ日本フィルのいくつかの演奏会の切符が売り出したのでカーチュン・ウォン氏のものとコバケンさんのものと、計4枚だか5枚だか購ったが、カーチュン氏のマーラー《復活》の売れ行きたるや、っすごかったねえ、日フィルの2日間のサントリー定期は、片方はRCが購えるが、っもう片方はどこを探しても一般発売のはなっから売っていやしない、会員のみで埋まっているのだろうか、っそれどころか、っその《復活》のどちらかかはもっと条件のわるい2階席も瞬く間にじゃんじゃん売れて行ってしまい、っぼくとしてまことに不本意ながらも、1階席を購わざるをえなんだ、2階席の後方へ坐すくらいならば、眺望を犠牲にしてもまだしも1階席のほうが増しかと踏んだ、



っさて、っあすはいよいよキーミツの引退公演、っきょうの往き帰りは、っずっとシベリウス《7番》を耳で鳴らしている、渡邉曉雄氏の、日フィルとの新旧両盤ではなく、っなんだか彼氏の誕生日を祝う特別公演のライヴ盤で、終わりに大拍手のなか《ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー》が奏され、コバケンさんがご挨拶をなさり、ヘンデル《メサイア》から〈ハレルヤ・コーラス〉が巨匠へ捧げられるというもので、っその公演の主演目は渡邉氏ご本人がお振りになったのかとおもうが、っそこへ《7番》が入っている、っそれからおなじく渡邉氏の棒で都響とのライヴ盤もあり、っとちゅうからはそれに替え、っいま帰途では、渡邉氏の末弟、藤岡氏が何年か前にお出しになった同シムフォニー全集のものを聴いている、っだいぶん耳馴染んできたようだ、



開演するとき、終演するとき、っぼくはどんな気持ちでいるのだろうか、コンサートを前にこんな感情を経験することもそうそうなかろう、っそわそわする、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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2024年12月28日(土) 11時21分18秒

ギア・トップ・フリント萬歳っっっ、

テーマ:近況




着火安定っっっ、




みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




2024年12月28日(土) 11時10分47秒

祖師ヶ谷大蔵、

テーマ:近況



アルバイトさん演劇公演、済む、別役實《トイレはこちら》なる演目で、雑居ビルの屋上階の元カッフェにて、小1時間の男女2人芝居をご夫婦でなさる、

筋は、白装束の女が公園らしき場所の街燈の支柱へ縄を括って縊死せむとしている、っそこへ男が現れて街燈の脇のベンチへ坐し、道往く人からトイレはどこかと訊かれたらあちらだと案内し、っそれで¥100をもらう商売をすると云う、女は、人が通り掛からなんだら、相手が¥100をくれなんだら、っなど云ってそれは商売として成り立たないと男を諭す、悶着するうち、当の男自身が催し、もし離席中に客が来たら案内をし、お銭を受け取っておいてくれたい、っと云い置いてトイレへ立つ、客など来るはずがないし、来たとてお銭なぞ払わない、っと侮る女の許へ、袖でガード・マン風体へ早着替えをした客役の男が通り、トイレはどこかと訊き、教えられると¥100玉を渡して去る、っというもの、

アルバイトさんはたしかぼくよりすこしく年長でいられるが、っふだんよりも15歳くらい老けて見えた、流石に役者でいらっしゃる、



っそうだ、トーレンス、周知のとおり、同オイル・ライターの着火機構にはシングル・クロウとダブル・クロウとあり、ボディ全体のディザインとしては前者のほうがより洗練せられている、っが、シングル・クロウではホイールの片側にっきりスプリングの力が掛かるためか、多用していると着火率が漸減するという弊がある、っその点ホイールを両側から抱えるダブル・クロウの着火はわりに安定しており、ディザインを度外視して使用感を優先するならば、ダブル・クロウのほうが有能である、

っこれまで現物を入手、っあるはネット上で閲覧したダブル・クロウの画像では、サイド・フィラー・タイプはなかった、ダブル・クロウは専らボトム・フィラーなのかとおもい做していたところ、メルカリへじつにサイド・フィラー・タイプのダブル・クロウの出品があった、、、フィラーとはオイル・タンクを閉じる栓のことだが、っそれがボディの側面へ附いているのか、底面なのかというちがいである、

入手したのがこれ、







蓋がシングル・クロウのようにエムブレムを取り巻いて妙なるアールを描かないのはなんとも惜しいが、っしかしご覧のとおりサイド・フィラー、っかつ風防まで着いており、っじっさいに届いてみると、状態も約100年前の製品とは信じ難いほどの光澤を維持している、オイルを充填、、、っあれ、填の旧字以前は出せたのに、出せんくなっとるなあ、っけしからん、iPhone、土へんに眞ね、っして使ってみると、風防を固定するビスはオイル・タンク内まで貫通しているものとみえて、っひたひた充填だとポケツへ入れるなどしてボディが温まると、オイルが外部へ漏れ出してきてしまう、適度の充填ならばこの弊は起こらなかろう、着火率だが、届いた時点でフリント・ホールダーへ挿入せられていたフリントではまあまあ、っいつものロンソン・フリントならば改善が見込めるかとそれへ替えてみたが、っまるで着かず、っかなり軟質素材とみられるギア・トップ製へ切り替えてもダメか、っこれからやってみる、



っさて、っあすは流山にて、日大管のほうではなく、っこないだ聴きそびれたほうの佐藤雄一氏の公演、っその翌日はとうとう井上キーミツ最終公演である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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2024年12月27日(金) 13時59分33秒

荻窪、

テーマ:近況



井﨑正浩氏の棒、成蹊大の学生オケ公演、済む、井﨑氏は同オケへは初客演であったとのことである、

演目はこないだの佐藤雄一氏と日大管との公演と肖ており、ドヴォルザーク《謝肉祭》序曲、チャイコフスキー《白鳥湖》抜萃、っそしてブラームス《1番》だが、オケのテクニークとしては伯仲であるも、井﨑氏と佐藤氏とでは指揮者としてまるでものがちがう、っやはり、オーケストラを生かすも殺すも偏に指揮者である、

ドヴォルザークは、っわりにのんびりとした速度の裡へ無理のないトュッティを収めて快く開始するが、っもっとよく弾ける団体を相手にならばより速いテムポを採られたのか、っもとよりあれが井﨑氏のご趣味なのか、っわからない、っが、絃が音量を出せないアマチュアでは、シムバルやタムブリンが一寸つよく打ったっきりでもう主題の形姿が掻き消されてしまうところ、っきょうの学生諸君はVnもよくがんばっており、っちゃんと音楽の意味がわかる音構造で鳴っている、っそして管群の和音も豊麗かつ透明度が高く、中規模音場で客席を威圧してしまわない程度に全体が適度に分厚い、っよいひびきだ、っよって、冒頭主題が何度めかで調を遷る際の色調の変転も鮮やかである、

っふたつめの主題へ至ると、井﨑氏一流の気障ったらしいアクションへ応じてVnは情緒に濡れ、色を変え、薫りを発する、聴けっ、佐藤氏よっ、っあれが指揮者の仕事というものだっ、

ポリフォニーの咀嚼も微に細に入り、っしかもそうした細工がけっして全体の流れを遮ることがない、一般大学の学生オケとして必ずしも優等の部類へは入らない団体かもしれないが、っかなり高度の要求をしてもよいし、っするべきだと井﨑氏が判断されていることがわかる、

曲は終結へ向けておおきな漸増を来たし、井﨑氏は開幕曲から相当度のアジタートな棒を振られるが、偉とすべきは、昂奮を加えてもひびきが濁らず、っどれか声部が別の声部を潰さず、最後まで音楽的のアッピールを貫徹できたことだ、っあるいは、煽っても力奏で応じてくれるほどには腕が立たないオケの実力に鑑みて、オーヴァーに振るくらいでちょうどよい、むしろそうしないと不完全燃焼に了わってしまう、っとの経験的の勘が働かれたのかもしれない、

《白鳥湖》は日大管のときよりも数多のナムバーを採っており、コンサートでの抜萃ではなかなか演らない部分も入っていてたのしかったが、〈スペインの踊り〉を欠くのがぼくとして惜しい、っあれがわりにすきなもので、

っしかし、演奏はすばらしかった、佐藤氏よりもずっと細部の愛で方に神経が通い、ハープは客演であろうが、っまず音粒にまろみがあってひじょうに高級なのと、っそれをまた井﨑氏がもののみごとに浮沈せしめられる、〈情景〉では、オーボーの背景のこの楽器と絃のトレモロとが、っほんとうに水紋の展がってゆく様を幻視させる、人口に膾炙し切ったあんな有名曲をあれほど新鮮に聴かせるとは、っまったくみごとなお手並みである、

〈終曲〉が高鳴りを連ねてゆくと、懸命に棒へ喰らい附く若者たちの姿はまこと青春を画に描くようで、音もまた地を離れておおきに羽搏き、っこんなアマチュアの定番演目で涙腺が弛むとはおもわなんだ、

オケの性格として、迫らず、っおおらかな印象があった前半から一転、ブラームスは極めて戦闘的の運命の剋服である、井﨑氏の力まれようも尋常ではなく、スフォルツァンドのたびに撲り附けるような腕の振りには戦慄をおぼえるばかりだが、っそれによりオケ、っとくにVnは前半には聴かれなんだ突き刺すごと鋭い音も発せられるようになり、っより表現の幅が拡がる、っここでも井﨑氏の譜読みは周到で、苛烈に前進しながら同時に重要動機をそこかしこで掘り起こされる、

フィナーレ主部の主題は中弱音へ抑えてゆったりとこころゆくまで謳う、絃各声部の混淆の音色は、っしみじみとしたよい味である、加速するトュッティとのコントラストはいわでもがなで、鬼気迫る熱血漢、井﨑氏の勇姿も眩しい、っしかもここにおいてなお、鋭い音を出せるようになったぶん、全体の音が不当に硬質で耳に痛くなってしまうということがけっしてない、コーダの勝鬨におく絃のリズム動機は見違えるほどワイルドな発色と音力とを獲得しているが、っしかし最終音へ至るまで高度の格調が厳守せられたのである、

絃バスへは読響の高山氏がお乗りだった、トレイナーでいらっしゃるのだろう、っそして奇遇なことに、っついさっきまで京王のおなじ車輛で至近距離へいらっした、っぼくは荻窪から吉祥寺経由、井の頭線で明大前から京王へ乗り換えたが、高山氏はおそらく新宿経由でいられたのだろう、明大前でぼくが先頭車輛のいちばん前へ乗り込むと、っすぐ目の前へ楽器を抱えて坐していられた、稲田堤で降りられたが、読響の練習場の近所へお棲まいということなのかとおもう、



っさて、っきょうで仕事納めで、午前のみで退勤したが、っあすは、っいま聖蹟別棟へはアルバイトの方で役者をなすっている方がいられて、っきょうあす、祖師ヶ谷大蔵辺で別役實氏の戯曲の公演をされるということなので、観劇へ行くとせむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




2024年12月24日(火) 13時57分41秒

紀尾井町、

テーマ:近況



森ミドリ女史コンサートで、佐藤久成、高橋望、根岸一郎、田中星児各氏、っお出になる、森女史の幅広い人脈の成せる技であるが、以前には、っことし惜しくも物故せられた雀々師が1席演じられたこともあった、

っきょうはフレンチで、根岸氏のサティはあいかわらずのすばらしさ、佐藤、高橋両氏はフォーレのソナタ、田中氏はシャンソンを何曲か、っそれぞれなさる、



っこの年明け、引越することにした、っいまの室は、っぼくが入るときには新築で、1室っきりだが8帖か9帖くらいと広く、入居当初はよかったのだが、フローリングならばやはりベッドがないととそれを購って入れると途端に手狭に感ぜられ、っそれよりもなによりも、1室にベッドがあると休日は定まって自堕落な睡て起きてになってしまうのは若くときからの悪癖であり、2室の物件へ越して、寝室と居室とを截然と分けるほうがよかろうとずっとおもってきた、

仕事のほうは依然としてまいにちよるまで残業だが、来年中に中央区仕事から手が離れて来そうで、っそうするといまよりも稼ぎが減る、現室は新築オート・ロックということもあり、立地と間取りとの割に賃料がやや高い、2室でかついまの賃料よりもだいぶん安く、っそのうえ聖蹟別棟からチャリンコ通勤圏内だが、公共交通機関で出勤せむとすると迂遠で運賃が嵩む、、、っつまりまいにちチャリンコ通勤して交通費を稼がむということだが、っさようの条件となるとおのずから物件は絞り込まれてきて、当初は、通勤距離はすこしく遠くなるが、収納がたっぷりあり、採光もよさそうな小宮駅近くの物件に惹かれているも、休憩時の喫煙のたびに野帳くんから、や、水野さん、小宮は止めたほうがいいっすよ、あんなとこなんにもないっすから、っと止められ、っぼくとしても小宮駅周辺の寂れぐあいくらい想像できないじゃないが、べつになんにもなくていいんだよね、それに、いざ棲んでみればなんにもないようでなにかしらあるもんだよ、っとすでにして駅近くにアヤしげで旨そうな古惚けた洋食屋を、Googleマップでみつけてもいた、

っが、っその小宮の物件はいまの賃料から¥1万ほど減るのみであり、希むらくはせめて¥1.5万くらい、¥2万も減らせたら万々歳というところで、っまだよくよく調べていなんだ一隅、っすなわち唐木田駅周辺をためつすがめつしてみるに、良物件があった、寝室6帖、居室はキッチンと合わせて7帖で、内見に行くと予想していたとおりにやや狭隘な感触がしはしたが、っしかし賃料はいまの室からじつに¥2.3万も下がり、っさらにうれしいことには、築年数は30と数年とで外観は相応に古びているが、内装はいつかにフル・リフォームしたものとみえて、っなんだかどこかの小洒落たギャラリーかというように寝室の壁のうち1面が眞オレインジに、居室の1面は眞っ青に塗られてあり、カーテンは購わずとも遮光ブラインドが既設で、っさてはエア・コンが2室ともに附いているときている、収納が1箇所っきりないのがやや心許ないが、っしかし、っあの内装ならば新築のいまの室から越してもさほどの落差はおぼえなかろう、っまた、最高4階建てだが、っその室の部分は2階建てで、空室は2階とつまり最高階、下階は店舗だが1階の表へ回ってみるとガラス戸の中は物置然で営業はしていないようであり、っあんなところでそうそう別テナントが入るともおもわれない、建物の構造は中央部に螺旋状に階段があり、各階それへ鈴生りに室が附いているというわけで、っいわゆる壁を隔てた隣室というものがない、っつまり騒音トラブルとは完全に無縁だ、っそして通勤としても、小宮からでは聖蹟別棟までチャリンコで40分凸凹であろうが、唐木田、っほぼ尾根幹沿いというような立地で、多摩センへ向かって降り、1山越えて別棟とアップ/ダウンはあるが、所要時間はいまとほぼ変わらず20分程度であろう、交通費としては、唐木田-多摩セン-調布-聖蹟、加えて別棟までのバス代で、南大沢からのいまよりも、小田急が1駅咬むぶん¥何十か高いかもしらん、っま、っぜんぶバスで行けばもっと安く行けるだろという話だが、っいちおう会社最寄りの聖蹟まではかならず電車を利用するという請求法でぼくは通してきたのだ、

、、、交通費については窮めてさもしい話に聞こえているだろうが、中小企業サラリー人士のすくなくない一部がさようの条件で室探しをするのじゃないかとおもう、っすなわち、チャリンコではすっと出社できるが、電車を使うと乗り換え乗り換えでけっこうな金額が掛かり、っまいにち20分くらいでチャリンコ通勤しながら往復¥1千以上の交通費を稼ぐ、っそれだけで¥2、3万/月違うからねえ、1駅2駅ですぐ会社へ着いちゃいます、っなんてところへは棲んじゃいられませんよ、アルバイトさんでは、っいま時分のような寒い季節以外は日吉から聖蹟までチャリンコ通勤という強者もいるし、っぼくも相模原へ棲まっていたアルバイト往時には、荒川まで片道50kmをチャリンコ通勤したこともある、馴れてしまえば2、3時間チャリンコで走るのなどべつにわけはないし、っそれで1日のシガレットと食事代とくらいは稼げるのだから、っやらない手はない、

っそれで、先の木曜あたりに不動産サイトから問い合わせし、っすぐさま仲介業者から連絡がきて、日曜には内見に行き、っいまの室の退去日は年明けの22日にし、会社へはその日の休暇届を出しておいたが、転居先の契約は1/5からを希望する旨、営業の女の子へ伝える、別棟へもう何月も以前から空のハイ・エイスが1台停めっ放しになっており、っこないだ年末の会議で聖蹟本棟へ行った際に人足人事ボスへ、自力で引越をするからあのハイ・エイス使わせてくれろ、っと云うと、え、引越すんの、いいなあ、俺も引越してえな、ハイ・エイス、あん、いいよ、っと許可をもらう、1/4は来年さいしょの演奏会で午とよるとともに塞がっているが、年始休み最終日の5日からちまちまと荷を運び、22日の平日に粗大ゴミの持ち込み処分で引越完了としたい、内見から戻り、仲介の女の子とは、これから審査に入りますので、動きがあったら連絡します、はい、よろしくお願いします、っと云って別れたのだが、 5日入居開始となると契約は年内に済ませねばならでと管理会社も急いでくれたのか、帰宅までの30分もしないうちにすぐに入電し、審査通りました、っとのことで、年内の契約手続の対応時間候補をいくつか挙げられたうちひとつが、っもとより午后を休むはずだったきょうの14:30で、午前で退勤して、っいつも駐車場の喫煙スペイスを利用している市役所の出張所で住民票を発行してもらい、室で一張羅に着替え、チャリンコで多摩セン近くの仲介業者へ出向いて契約し、時間に余裕があったので、帰りに1山越えて走るのもいやであり、松ヶ谷トンネルを登って降りて堀之内へ駐輪、京王へ乗り、新宿でいったん降りて紀伊國屋の1階奥の喫煙具店でオイル・ライターのフリントをいくつか購い、中央線で四ツ谷、

っわずか数日のうちにとんとん拍子で契約まで済ませてしまえてよかった、



っそうだ、オイル・ライターといえば、っさいきんメルカリでじつに逸品というべきトーレンスの出品があり、っうれしく購ったのだが、っいま堀之内の駅の喫煙スペイスで、手が凍てついてきたので、っそれはまたの機会に紹介するとして、

っさて、っお次は仕事納めの27日、っまた夕まで仕事はしないで午に上がって、っこないだ聴き逃してしまった井﨑正浩氏の公演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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