ざっかん記 -4ページ目

荻窪、




金山隆夫氏の棒、上智大の学生オケ公演、済む、

っきょうは、自分の使っていた社用車へ積んでいる発掘道具一式を、夕までに車検の済んだ別の車へ積み替えておいてくれろと云われており、16時前に聖蹟別棟を出て本棟へ往き、小1時間で済ませてちょうど17時ころ、定時退勤して移動す、

演目はまったく知らずに来たが、着座してプログラムを開く途端に、開幕はスッペ《詩人と農夫》序曲とあるのが見え、飛び上がるほどうれしくなる、っつづいてチャイコフスキー《ロメ&ジュリ》、っそしてドヴォルザーク《8番》である、

同団は、っじつに60年の永きに亙り、っこの年初に物故された汐澤安彦氏のご指導を仰いでこられたという、っぼくは、っその最晩年のお姿は望みえなんだが、数年前までは頻繁に公演を拝聴しており、率直に云って、最後の最後までぼくは彼氏のよい聴き手ではなかったかもしれないが、っしかし、ったしかきょうとおなじ上智大のオケだったとおもうが、錦糸町で聴いた、っさいしょにヴェルディ《ナブッコ》かなにか、次いでチャイコフスキー《胡桃割り、、、》スート、っそしてサン=サーンス《オルガン》、っそれと、っこれも上智大か、青学かな、っや、青学のほうはいつもオケがすこしく下手っぴで、っそのときはとても巧かった記憶が遺っているので上智大だとおもうが、っやはり錦糸町でのラフマニノフ《2番》コンチェルトとシベリウス《1番》と、っそれから池袋で聴いた、っそれはどちらかの学生オケのOBOG連による団体の公演だったとおもうが、前プロは忘却の彼方、メインに演られたフランク《シムフォニー》などは、っいずれも厳格厳密厳正なる仕事人としての片意地を突き附けられた、有無の云えぬ辛口の大演奏であった、

っきょう開幕に先立って、エルガー《エニグマ》〈ニムロッド〉が献奏せられるが、中規模器たるここに対してずらりと居並んだ絃、管も乗れるだけ乗った大編成は、腰のつよい満ち足りたひびきを上げ、故人の遺徳を偲ぶのであった、っぼくも、上記いくつかの麗しい記憶と、自分がなぜ汐澤氏の音楽性へ馴染めなんだか、っなどなどへ想いを致し、っじつに胸へ迫るものをおぼゆ、氏に比すれば、っぼくなぞは遙けくだらしない軟派な人間なのだ、っもっと血も泪も存る音楽が慾しかったのである、っもっと音楽といっしょに泣いたり笑ったりしてくれたかったのである、っしかし彼氏の演奏は、っそうした感傷を拒絶して憚られないのであった、っそれがしばしば、っぼくには単に無趣味、無感動にっきり聴こえなんだ、熱くなるまいとされていることはわかるが、熱くなるまいという消極的の態度っきり聴こえず、っそうされたことによりなにが達成せられたのかがよくみえないばあいがおおかった、指揮者とオケとの関係というのもおもしろく、っよく弾ける団体であればあるほど勝れた演奏を行なう人と、ヘタに楽団が巧いとかえって音楽が小手先へ流れてしまい、っあまり弾けない団体をうるさく扱かねばならなんだと思量せられるさようの公演のほうが、執念が発露して好感を與える人といられる、汐澤氏はぼくには後者の方という印象で、っときにプロフェッショナルも立ち混ざった団体を振られることもおありだったが、折角にこんなに弾ける楽団をお振りなのに、なぜもっといろいろとなさらないのだろう、なぜこんなにもあっさりと音楽を流してしまわれるのだろう、っとこちとら客席でいじいじしてしまったものだ、対して上記、フランクを演られたのは、世辞にも巧いとは云えぬ団体であったものである、

っさて、規律に貫かれた汐澤氏に対して、金山氏の棒はいかにもおおらかでいられ、っときには、そんなにテキトーに振るんかいっ、ってなものだが、っそのことによるざっくばらんな奏楽はぼくにすれば、カラー・フィルほか、彼氏の主催団体においてここ数年に聴き馴染んだものであり、誰も彼も指揮法指揮法した棒の軌道と鳴る音とでいかにも画一的でつまらない当節にあって、っあのように恬淡たる楽音の膚合いこそは耳にこころにうれしい、

っせんじつ和田一樹氏を聴いた際には、棒の的確さ、っそつなさがむしろ鼻持ちならなく、お高くとまっていないで夢中で音楽をせんかいっ、っという苛立ちをおぼえたのであり、っしたがってもっと多様な歌、多彩な音色が慾しかったのであるが、っきょう金山氏を聴き、っさようの棒だから表情らしい表情は附かず、音色も千変萬化とはとても謂えないのであるが、っではそれに対しておなじように、もっとゆたかな音楽をくれよっ、っとの不満を懐くかというと、っまるで否である、朴訥な造形にもなんらの憾みもないし、利いたふうの表情や音色の変化なぞ、っぜんぜんなくてけっこうである、音楽とはまことにおもしろく、奥深いもので、っそれなりに表情の附いているはずの演奏に対して、ぜんぜん表情が足りないっ、っとの不足をおもうこともあれば、変化に乏しい無粋な演奏を、このまま無粋なままでいてくれてよい、っと許容しうることもあるわけだ、

スッペは、っじつに愛すべき作家であり、っそれは彼がちゃんと勝れた作品を書いているからである、っとは申せ、っぼくはオペレッタ全編などどれひとつ識らず、無数にあるその序曲のいくつかを愛聴するにすぎないのだが、っぼくが最もこのむのは、っじつにきょうの《詩人と農夫》である、、、っあ、っぼくのいつもの文体からゆけば、《詩人と農夫と》っと書かねば不統一であったか、2番目はといえば、最有名の《軽騎兵》は、天邪鬼、臍曲がりのぼくからすれば採りたくない、有名に成りすぎることの悲哀というのはあり、ブラームス《ハンガリアン・ダンス》をどれか1曲のみ聴かせてもらえるというならば、っぼくがまず眞っ先に棄てるのは〈5番〉であり、〈1番〉か〈4番〉かで眞剣に悩むであろう、スッペならば、《うつくしきガラテア》《スペイドの女王》《ヴィーンのあさ午晩》、っいずれ棄て難いけれども、2番目はぼくは断然《怪盗団》である、ファンファールに始まり、っさいしょの主題をトュッティにするときの、一見シアリアスだけれど、っどこかくすりと笑える畳み掛け、ギターを伴なうクラリネットの鼻歌の寛いだたのしさ、2度目の鼻歌へ入るファンファールの合いの手、コーダへ向けての起伏に富んだ賑やかし、っその最後に4度くりかえされる上昇音型は、っだからぼくはこの作のあらすじもまるで識らないのであるが、怪盗団の面々が、野郎どもっ、ずらかるぞっ、あいあいさーっ、っと逃げ足の構えをする様を描写しているように聴こえ、っこの音型の後、オケはまさしく脱兎のごと駈け抜ける、っいずれもたまらなく愛おしい場面場面である、

っそんなに愛惜しながら、当の《詩人と農夫と》の実演を聴いたのは、っひょっとしてきょうが初めてなのではないか、ったしかそうである、解説には定まって、序曲はしばしば単独で演奏せられる、っと書かれるのであるが、っそんなのは嘘で、ロッシーニだヴェルディだ、っあるいはヴァグナーだの序曲や前奏に比すれば、スッペは、名は通っており、誰しも1曲や2曲は音盤でその作を聴き識っていても、演奏頻度は高いとは云えない、東京へ6つも7つもプロフェッショナルの楽団があっても、っそのどこかのどれかの定期がスッペのなにかで開幕するなどということは、っまずない、アマチュアの公演も聴き、聴かないまでも演目を数多に検めることをしているぼくでも、おっ、ここスッペ演るんだっ、っと気附いた機会はごくごく僅少である、っまだしも演られるとしても、っそれこそ《軽騎兵》か《詩人と農夫と》かくらいであり、《怪盗団》となれば、序曲のくせにしてギターを用意せねばならないなど、実演を聴くチャンスはまず絶望的であろう、

っこんやの演奏は、ったっぷり、堂々たる佇まいで、セロのソロも立派、中途から、いま俺、《詩人と農夫と》を直に聴いているんだよな、、、っ、っとの感激に襲われずにいなんだが、熱愛の楽曲だけはあり、俺ならここのリズムはこういう感触で処理するけれどな、っとかという贅沢な不満を募らせ、っしかしそうした小器用さを望めなくてこその金山氏の存在感なのであって、ドゥアだろうとモルだろうとそのために音色を凝ったりされない、曲想の繫ぎ目でも勿体ぶったテムポ操作をされない、神経質に弱音を効かせたりされない、っさようの粗野な音楽性からスッペがすっぴんのままぼくらの眼前へ顕れ、っまことに好感を惹起せられずにいない、

誤解されたくないが、無表情の、ザッハリヒカイトの音楽が鳴りつづけていたというのではまったくない、指揮者が表情を附けることが目的化した棒を振っていられないというだけで、オケはめいめいが懸命に弾かれ、っそれが期せずして迫眞の音の貌、音の色へ昇華せられていたものである、チャイコフスキーにおいて、エルガーとともにこんやほぼ最大の編成となった楽隊は、冒頭から木管の塗り重ねが分厚く、っそれがそのまま不穏不吉の前途を伝えるし、学生オケとしてちゃんと弾ける絃、殊に中低絃は、弱音主体、中音量以下のなかで行なわれる序奏中の漸強に、っやはり早くも悲劇の苦味を宿している、っこの中低絃の音色は文字通り出色で、両家諍いの㐧1テーマの片鱗を示す部分へ遷移する際の、爪を立てて烈しく胸を掻き毟るごと狂おしさ、悲恋の㐧2テーマを再現した後、コーダへ向けて退潮してゆく際の変奏の、っじつに救いのない沈痛、っいずれも一途な奏楽がどんな表情、っどんな音色よりも曲の核心を刺し貫いていた、

対して高絃は、辛く云えばそれと同格の凝集力を具えていたとはしえないが、っしかし、井﨑正浩、森口真司両氏の棒でもっと大音場で同曲を聴いた際には、楽団はいずれも非力で、っきょうのように弱音部にも濃密なドラマがなく、主部では㐧1テーマのぎしぎしと軋るポリフォニーも、㐧2テーマのめくるめく昂ぶりもともに体現し切れなんだところ、っきょうは複雑な声部声部の拮抗でも全体がダンゴへ堕さないし、歌においてこそポリフォニーを十全に伝え、っそのすべての場面で、絃は恆に満ち溢れるひびきで中音場を支配していた、っそしてぶっきらぼうにみえる金山氏も、㐧2テーマで絃を追う木管、ホルン、トロムボーンを、っもののみごとに浮沈せしめられるのであった、

ドヴォルザークももちろん安易な表情を頼まぬ直截の語り口で、小品に対して長丁場なので、流石に色気や気障な節回しのひとつやふたつ慾しい気もせぬでもないが、1楽章がさいしょのトュッティへ至ると、最も快いオーケストラのひびきというものに全身を包まれ、っそれが全曲を一貫する、構成といい書法といい、土台、小作りに作ってあるこの曲で、相応に間接音の成分のすくない大音場での演奏では、音楽的に単純すぎて間が保たない頼りなさがある、っそれが、綜奏はめいっぱいに展がり、音の薄い部分ではソロの息遣いまでリアルに伝わるかかる器で聴けば、俄然、っどこもかしこも魅惑の塊である、筆もがんらい、っかようのひびきを当て込んで運ばれたのにちがいあるまい、2,000人も入っちゃう音場とか、ばか云ってんじゃねえよ、っというところではないか、

終業して着替えるときには暑くてかなわず、汗だくになったものだが、荻窪で中央線を降りると清しい夕涼みで、っいまも、外気は温いには温いが、快く頰を撫でる、っまだ聖蹟の駅の喫煙所へおり、っこれから帰る、



っお次は、日附が変わったのでもうあさって、広島日帰り強行軍にて、フェドセーエフ氏が振られるはずであった広響公演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




川崎、




危うく聴き逃すところであったが、和田一樹氏の棒、オーケストラ和響公演、済む、演目を確認する間もなく着座して開演であったが、劈頭は、あれ、この曲どっかで聴いたことあるなあ、なんだったかなあ、っと思案していて、っしばらく進んで、大栗裕氏の《大阪俗謡による幻想曲》だとわかる、遠征して大阪フィルを聴いてきた直後に大栗作品を聴くとは、っこれも巡り合わせだ、次いで久石譲《千と千尋の神隠し》より諸曲、っそしてラフマニノフ《2番》シムフォニー、

和田氏は、っもっとぷくぷくの、っそれこそ豆タンクの外見のイミッジがあったが、登壇されるとスリムになっていられ、あ、え、和田さんだよね、っとこちとらはじめ見逸れるばかりであった、年齢的に、健康をお気にされてお瘠せになったのかもしれない、

有楽町ではわりに大食だったこともあり、っけっして嫌味な雑音をさせない久石氏の筆では、申し訳ないがやや船を漕いでいてしまう、

大栗作品は、吹奏楽の人たちにとっては神品であろうが、っあの亡くなられた有名な人、何さんとおっしゃったか、高校の先生、っあの方の演奏をYouTubeで観ても、聴こえて来るのは厳格な音価それのみであり、っそれはじつに吹奏楽の通弊中の通弊であろう、っどうしてもっと揺れ動いたりしないのであろうか、っま、コンクールとやらがわるさをしているのだろうが、

っところが、っきょうの和田氏はじつにそういう棒でいらした、以前にこのおなじ器で彼氏とどこかの大学の学生オケとの公演を聴き、っそれがぼくが彼氏を聴くさいしょの機会であったはずで、っそのときもややその印象を有ったように記憶するが、っきょうその所感が決定的となった、っひとくちに謂えば、っちっともこころが動いていられない、指揮者が、っである、っああした演奏を客席で聴くその態度というのが、っじつのところいちばんむつかしい、っこちとらもまたこころの遣り場がなく、所在なさにいたたまれないのである、

オケは、YouTubeでいくつか演奏を聴いて、っそれなりに弾ける人たちだとおもっていたが、っその予断よりもなお勝れて、っまことに精妙な名楽団であられる、午に聴いた日本フィルは、っゆとりがないわけではけっしてないが、っもっとぎしぎしと緊密に音々が凝集しており、対してこの団体は、サントリーと川崎とのアコースティックの差もあれ、っすべて音像音像の間へ空気を孕み、互いに潰し合うということがなく、日フィルよりも落ち着いた奏楽ができていられたくらいである、

っところが、っやはりオーケストラの生殺与奪の権を握るのは指揮者である、ラフマニノフの1楽章が、っそうさ提示の㐧2テーマへ至るあたりまでには、早くもぼくのこころは冷め切ってしまい、以降は遺憾にもその懸念が当たっていることを確認しつづけながら、っついに曲はフィナーレまで済んでしまうのであった、

振り姿に、っいかになんでも気負いが顕われなさすぎる、っとくに、曲想を遷る際のザッツにおいて、さあっ、気合い入れてゆくぞっ、っという風がまるで発露せず、っというよりも意識してそう振るまいとされているのだ、表情や、複雑な管絃楽法の裡での声部声部の炙り出しについては、必要不可欠のものは漏れなく、っそれ以外にも、あ、そんな音の動きがあるのか、っとこちとらを瞠目せしむ差配もひとつやふたつではない、っけれどもその表出が曲が始まったが最後、恆に、用意しておいた表現を用意しておいたとおりに行なっています、なにかいけませんか、っというぐあいなのである、クレッシェンドするということは、っすなわちこころが波立つということではないのか、ディミニュエンドするということは、っそこへ悔悟の念が滲むということではないのか、歌とはそのままこころの迸りであり、歌いながら楽器の組成を変え、転調するということは、っそこでこころの色が塗り変わるということではないのか、和田氏の発せられる音を聴け、伝わってくるのは、っほとんど音の物理的の強弱くらいのもので、曲想の変転につれて動揺するその心象が、っこちとらにあってほんのすこしくも展がらない、音へきもちを乗せてゆけない、音とともに羽搏いてゆくよろこびを実感しえない、指揮者とオケ・マンとの役割とは、っもちろん練習で能うかぎりの表情を周到に用意しておくのだとも、っが、っひとたび舞台へ上がったならば、っその表情表情を、ったったいま、っこのいまに発想発明したかのごと、音楽の命を生き直すことではないのか、っだからこそのライヴではないのか、和田氏のあのようでは、っひたすらに死音を並べつづけるに等しい、っとちゅうからは、オケのアマチュア離れのした精妙さがかえって怨めしく、鼻持ちならなくなってくるばかりである、

2楽章もそうだ、っどこもかしこもそうだ、開始は、っあのように振られればもちろんなんら破綻はしないとも、っしかし切迫緊張したその楽曲の妙味がまるで脱落欠落している、主部のふたつめのテーマでは、スケルツォでも歌わないと気が済まないのかよ、っというそのラフマニノフの情緒過多を、っほんのすこしくも伝えてくれない、っなぜもっとこころごと身体ごと投げ打つように歌の渦中へ飛び込んでゆかれないのか、指揮者が、っである、トリオの開始もそこから主部へ戻ってくる顚末でも、一事が萬事、聴こえてくるのは、こう振れば間違いは起こりません、っという消極的の態度のみで、こういう音楽のこころなんですっ、っという積極性、夢中さがない、欠片もない、

っわるくすればこころを籠められすぎるコバケンさんの直後に聴いているから、っなおのことかかる悪印象が立つのであろうか、音捌きの巧み、っそつなさならば、和田氏のほうがぜんぜん秀でていられるのである、っしかし、っしかしである、

っこれ以上書いては残酷だろうか、3楽章の入りも、音楽といっしょに心中して死んでも惜しくはない、っという魅惑のテーマではないか、っそれがあんなにも無趣味に、っあんなにも淡々と弾かれてよいはずがあろうか、っや、っよいはずはない、孤独に歌うクラリネットの弱音も、っどこか空々しくひびく、っのち、絃主体にひたすら同一音型を繰り返しつようよう音高を上げてくる部分は、っまあ曲がそのように書いてあるからまずまず胸の膨らみ、昂ぶりを伝えないではない、っけれども、っその頂点において始めのテーマが再帰したときに、ああっ、還って来たっ、、、っという感動がない、

フィナーレも、音構造の複雑さとは裏腹に、っこころは虚しいままだ、

っいやなに、破綻してこその音楽だ、っなぞ云う心算はない、指揮者が率先して力んだのでは、足並みを乱し、ポリフォニーの解像度は落ち、音色を汚すのみだ、っというきっとそういう境涯でいられるのだろう、っそれはわかるが、非礼を承知で申せば、達観を音にするには、っいまだ20年も30年も早くていらっしゃるのではなかろうか、巨匠、老匠と呼ばれる人で、体力は衰えながらも音楽が死んでいない人というのは、壮年までのようにぐいぐいと楽隊を牛耳るということをしない替わりに、もっと音楽だよっ、もっとこんなにも音楽じゃないかっ、っということを、舞台で棒を振る瞬間瞬間に行なうのである、っもはや熟練を突き抜けた純眞純潔が、無邪気が、っそこには在るのだ、命盡きるそのときまで、っやはり感動するこころなのである、っきょうの和田氏からは、やほら、夢中んなったってしょうがないですからね、っというこころの退歩っきり聴こえやしない、っそこで退いたぶんだけできた余裕を、っより音楽へ、っより篤く音楽へ投機すべき原資とするのでなくて、っいったいぜんたいどうするというのか、

アンコールでまたも、ん、これもどっかで聴いたことあるぞ、っとおもうと、久石作品時のオケ中のピアニストをソロへ据えて、っなんとラフマニノフ《パガニーニ・ラプソディ》の、逆行型の変奏のすこしく手前らへんから始め、曲尾までは行かずに、っその変奏が済むところまで、っそのピアニストの件の主題は、っちゃんとこころを傾けてすばらしいタッチと歌われ方とでいられ、っうっとりと聴き入ったのであるが、バトンを享ける和田氏は、っやはりおなじだ、徹頭徹尾、っこころが動かなくていらっしゃる、独り彼氏にかぎらず、これもじつに壮年の職業人の悲哀なのかもしれない、っと、っなにかここまで来るとむしろ同情的になりさえしたものだ、仕事を積み重ねられ、腕は磨いてこられたのである、っもちろんそうだろうとも、っけれども、っこちとらこころを鬼にして云わむ、それがどうしたってんだっっっ、



っさて、っお次は水曜、金山隆夫氏と学生オケとの公演、亡くなられた汐澤安彦氏が永年お振りになった楽団であるが、金山氏も同団の指導陣のおひとりで、衣鉢を継がれるということのようである、っおふたりのスタイルにはかなりに隔たりがあるようにおもい、っそれがどう出るだろうか、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




ギロッポン、




、、、危ねえ、っきょうはいま終演して、恆のごと桜田門から宮城遙拝、有楽町の王将まで歩って食事をし、ガード下の喫煙スペイスでシガレットを服みつこれを書いて、っのんびり帰るっきりかとおもっていたが、っまだもう1公演ある、っべつにそちらはどうしても聴きたいわけではなく、ダブル・ヘッダーをしたいというにすぎないが、川崎である、

っぜんぜん失念したまま終演後はサントリーの階上庭園の隅でこそこそシガレットを服んでいて、っやっと歩き出して桜田門をめがけて財務省の前あたりへ来たときに、あれっ、よるもあるのかっ、っと気附く、っしかし、食事をする時間くらいはあり、っいま王将、っけれども、ホール・スタッフの方が熟れず、っいじいじとす、っほかのお客も、遅いんだよっ、っと文句を云っているおっちゃんがいる、っぼくはけっして文句は云わない、飲食店のメムバー構成が恆に萬全ではないなどというのは、世にありふれた事象である、腹を立ててはいけない、

っそれにしても、っこの季節はもうダメだ、暑いっ、往き合う人々はみな平気そうにしていられるが、っいったいぜんたいどういう身体をしていられるのだろうか、っぼくは歩っていて汗だくになってしまう、っしくじった、っまさかにかまでに暑いとおもわで、眞っ白の服を着て来てしまった、襟や袖口へ汗染みを作ってしまおう、

っいま、無事に食事を了えて、有楽町から川崎イン・タイムの京浜東北へ乗る、っけれども、開演前に食後のシガレットの仕合わせとはゆかない、器へ即入場である、



っさて、っきのうにつづいてコバケンさんの棒、日本フィル公演で、千葉清加女史のソロになるモーツァルト《3番》コンチェルトと、マーラー《巨人》とであったが、っきのうのいくつかの瑕疵も雪がれ、頗る好印象であった、

聴いていてまず、今後は、桜木町は2階のバルコニーをRBでは舞台へ近すぎる、RCよりも後方にせむ、っとかんがえを改む、2階正面では融け合いすぎるのであるが、RBでは反対に融け合わなさすぎる、っきのうはひとつびとつの楽器の生の音が聴こえてしまい、相応に奏楽上のかすかかすかな粗ももろに認識できてしまうのだったが、っきょう、っいつものサントリーのRCから全楽を見渡していると、っみごとにブレンドせられた全体のひびきと、っかつすべての声部がクリアに聴こえるその解像度に、っあらためて幻惑を嘗めずにいない、

モーツァルトは、2楽章を待たずに曲頭からもはや天楽より注ぐごとである、コバケンさんは、っとくになにもしていられないとも云えるが、10型の倹しい絃をしかししっかりと鳴らされたその量感は、紛う方なきコバケニズムである、っもちろん、っごしごしとめいっぱいに弾くような曲想ではなく、小編成と大音場との最も幸福なマリアージュである、

マーラーは、っここさいきんのコバケンさんは、っどんな曲を振られても力まれず、各パートへのキューも以前ほど繁忙ではなくなられ、っそれはきのうもそうであったが、っきょうは、っお背中を拝見していて曲頭から意志的の振り姿であられ、往年の熱血を取り戻されたような精悍、キューも入念に送られ、っそれとオケへ任せ切られてほとんどお振りにならない個所とのコントラストもじつに絶妙でいらした、

音勢バランスとしても、っきのうは、トロムペットが全員は吹かれない、オットー氏のみか、2番とユニゾン、っないし和音というときに、もっとはっきりと音型の輪廓のわかる吹奏を為されたい、っとおもわせる場面がわずかにあったが、っきょうは恆に瞭然、っまことにきもちが好い、

1楽章は、っなおもっともっと音の出し入れ抜き差しに執念が滲んでもよかったが、オケをやや放任の気味でいられたきのうからすれば遙けく主導的の棒でいられ、っいかなる瞬間もひびきがぴたりと定まっていられる、っそう、全曲に亙って、俺はこの曲はこのひびきで演るのだっ、っという彫琢され盡したオケのその感触である、っもちろん、細部では今次に一期一会の味附けもあったろう、っけれども全体の概観として、俺はこの曲にこれ以外以上のひびきをかんがえられないっ、っというその極まったアンサムブルの組み上がり方が、っまことにコバケンさんのマーラー《巨人》の高度極度の範型、雛型であり、2楽章もフィナーレも、っかくして舞台からやや距離を取って聴くと、っちゃんと全体が混淆し、無理強いをしない音として鳴り渡るのである、

フィナーレ終盤の絃は、管打がめいっぱいに鳴っていながらも、っきょうは燦然たる耀きを発しており、あっ、っと雷に打たれて、っぼくは泪腺を弛めた、っまことに天晴れの幕切れであった、



っさて、っまもなくよるの開演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




桜木町、




コバケンさんの棒、日本フィル公演、済む、演目は、同団の千葉清加アシスタント・ミストレスを立ててモーツァルト《3番》コンチェルト、っそしてマーラー《巨人》である、

舞台を右っ肩から見下ろす位置だったが、っこの器は、っむかしは2階正面へ坐ったもので、っしかしそこだと、音が遠いわけではないが、完全に融け合い切った後のひびきを聴くので、っよく云えば豊麗、っしかしややもわもわとする嫌いで、仕事の後に公演へ来ようものなら、睡魔を回避するのは至難である、視界を犠牲に供してでも、2階のバルコニーをなるがたけ舞台へ寄り、っしかし最前列はあの落下防止のワイヤーが目障りなので、2列目ないし3列目へ坐すのが肝要である、っきょうも、開始から数瞬こそ、張り切られるコン・マス木野氏おひとりの直接音が聴こえてしまわないとせず、っそれは彼氏はむかしからそうであられ、新日本フィルの崔氏などもしばしばそうでいられるが、っじきに熟れ、モーツァルトとあってじたばたとされず、っほとんどオケを見守っていられるっきりのコバケンさんの淡々たる棒もすばらしい、管はオーボー、フリュート、ホルン各2というささやかなもので、っしかも木管は、1、3楽章はオーボーのみ、2楽章はフリュートのみっきり吹かれず、っその質感の落差がまた小気味よい、

っそして千葉女史のソロ、浪漫派以降の、名技巧難技巧といえばそうだが、っせわしくてこちとら落ち着かないあれやこれやの一大コンチェルトに疲れた耳へは、っかかる嫋やかな古典派はいかにも慰めと聴こゆ、っなんとこころゆくまでヴァイオリンという楽器の特性特質を味わいうることであろうか、E線A線の倍音の煌めき、G線の深い胴鳴り、っそのすべてが余すところなく仕合わせを惠み、っうっとりと聴き惚れてしまう、っこの器では神尾女史のソロを聴いた際にも、っそのクリアにしてゆたかな音像に陶然としたものだが、っきょうの千葉女史にもまったくこころを奪われ通しである、っそして流石にモーツァルト、全体に優雅な楽想のなかで、フィナーレはしかし、ソロとオケとが絡み合いつ、えっ、一寸危うい和音が鳴っているんじゃないのっ、っというスリルがあるし、柔和なはずだったのに、フレイズの末尾がふとモルへ吸い寄せられて、っしかしそうした場面もほんの一瞬で通り過ぎてゆく、小林秀雄のいわゆる、涙は追ひ附けない、っというやつである、

っさて、懸案のマーラー《巨人》であるが、っあのロンドン・フィル盤にせよきょうにせよ、っよくもわるくもコバケンさんには、眞に眞なる細部細部において、っどう歌うかとか、っどういう音の硬さ柔らかさ質感かとか、っどういうバランスでどこではどの楽器がぜったいに聴こえていなくてはならないかとか、っさようのこだわりをさして有たれないようである、っまあぼくとしてそれでもよいと云って云えなくもないが、至寶ヴァルター盤の、っとくに1楽章の老境ゆえの入念入魂を識る者として、っそんなにオケへ任せてしまわれずに、っもっともっと、っもっともっともっともっと極度のこだわりを聴かされたいとおもわずにいない、

っけれども、ロンドン・フィル盤の、外見ばかり整っていてその実、脱け殻みたような魂の入らぬ演奏からすれば、、、

っうおっ、っいま小田急、新百合で唐木田行へ乗り換えむとしたら、っぼくの降りた新宿行へ下野氏が乗って来られた、っどうだろう、黒川で読響とお仕事だったのかしら、っそれとも彼氏は新百合で昭和音大へなにかアカデミー・ポストをお有ちだったろうか、

閑話休題、っまだしもちゃんとライヴの集中力が全曲を一貫していた、っむしろ、っとくに1楽章のコーダから後、2楽章にせよフィナーレにせよ、騙されたとおもってもうほんのほんのほんの一段階オケに力を脱かせられ、けたたましい最大音量最強音圧はフィナーレの大団円の最後の最後にっきり用いられない、っという風にされてはいかがかとおもうが、っそれだけいまだ気力が充溢していられるということだ、っゆうべのバーメルト氏と足して2で割りたいくらいである、

フィナーレの展開の入りは、コバケンさんとしては1節1節打ち据えるようにして入られたいようであったが、オケ、殊にラッパ連は、前へ倒れるというのじゃなく、彼等としてはあれで自然な語感に基づく自然な吹奏でいられたが、コバケンさんにすれば、あっ、そうじゃないのにっ、っというふうでいられ、エラーというほどのエラーではない、妥協して棒をオケへ合わせられたのであった、っしかしああしたこともあすは、っちゃんとゲネ・プロ時に、ここは1音1音音を切って、そのために時間時間を取ってから、シムバル、タムタムとなりますから、っと打ち合わせをされ、っご所望通りの造形を目指されたい、

最後の登坂の開始を告げるヴィオラのアルコの打突は、音盤になっている00年代の同フィルとの演奏では、っがりがりいわせすぎて音色が汚ないなどというものではない、っその往時の同セクションのトップといえば後藤氏で、っご勇退から久しいながら、っきょうももぎりのところへ立たれてお客のお出迎えお見送りをなすっていたが、っおなじ席は現在、安達女史となられたにも拘わらず、っなんと、っきょうのそこもそのときとおなじような、勢い込みすぎて如何になんでも音が汚ないというその音を出してきている、同音型を何度も繰り返すその3度目あたりでやっと綺麗なヴィオラの音色へ落ち着くというくらいだが、大人しすぎてつまらないロンドン・フィル盤の轍をおもえば、っときにかかる勇み足を余している老コバケンさんも、っそれはそれでわるくないのではないかと看過した、

大団円はとうぜんのごとく全員大絶叫で、例の最後の最後、渡邉/同フィル音盤に聴く高絃のアルコの天啓のごと閃きは、活きてこちとらの耳へ届くはずもなく、敢えなく管打に塗り潰されてしまう、

締め括りの、カッコウっ、っの2音は、欧州の楽団との録音では、っそれでもスコア通りではなく、2音ともグラン・カッサを打たせられるのがコバケンさん流儀だが、日本の楽団とのライヴではなおかてて加えて、手持ちシムバルまで、ばしゃんばしゃんっ、っと参加せしめられるというダサダサ改変、っしかしまあ、コバケンさんがダサいことに関しては、っぼくは必ずしもすべてのレパートリーのすべての個所でそれを返上されたいとはおもわない、チャイコフスキー《5番》2楽章中途の2ndとか、マーラー《5番》フィナーレ冒頭ホルンの音価改変、っおよびストラヴィンスキー《ハル・サイ》におく同楽器の3連符を4分音符3つのようにされてしまうのなどは止されたいとおもうが、っこの《巨人》最終2音へのシムバル追加は、っべつにぜったいに止めてくれたいとまではおもわない、

っどうしてぼくがそのようにおもうのか、自分でもよくわからないのではあるが、ったとえばおなじコバケンさんでも、チャイコフスキー《4番》フィナーレの最終音へもシムバルを加えられるのは、っあれはイヤなのだ、っぼくがあそこで妄想するのは、トライアングルが、っその直前の瞬時にそれまでの撥よりもうんと重たいものに持ち替えて、最終音のみ、っお客がテューブラー・ベルでも鳴ったのかと錯覚するごと、かきーんっ、っという痛快な金属音をさせ、管絃、ティムパニの重たい音塊へ彩りを添えるというやり口である、っそのために、撥のみならず楽器の方も、ったまに見掛けることのある一般的のトライアングルよりも遙けく大径の同楽器を用意してもよいくらいである、っまたコバケンさんでは、ショスタコーヴィチ《5番》の最終音へもやはりシムバルを加えられるが、っそれも止していただきたい、、、っだからまあ、《巨人》もいちどくらいはスコア通りの演奏を聴かされたいのかなあ、っぼくの記憶違いでなければ、スコアはこうなっている、っすなわち、ティムパニ、グラン・カッサは直前までトレモロを打っていて、カッコウの、カッ、っでそれを打ち了える、っそして、コウ、っは管絃のみで、打は誰ひとり音を出さない、っよって巧いことやらないと、折角の賑やかなフィナーレが尻窄みで了わったように聴こえてしまう、っそのように悪印象で終演してしかし得々としているぼんくら奏楽の世になんと澎湃としていることかっっっ、、、っしかし、っだからっつってシムバルまで加えて、ばしゃんばしゃんっ、ってんじゃ、っやっぱりダサダサだわなあ、嗚呼、小林研一郎っ、

平日金曜から休んだからな、っあすもまだ休みだ、っあのモーツァルトが、マーラーが、っさてサントリーではどのように聴こえるであろうか、っあすこそ着て行く服がない、っま、っううん、っないこともないが、殿堂サントリーへ出向くときにはとくに、っこちとらもいちばん着たい服を着たい、これだけオシャレをしてきたんだから、それに見合う演奏を聴かせてよっ、っというそれは客としてのぼくなりの投企であるのだ、っだからぼくは、演奏会へ自分なりにちゃんとオシャレをして来ない人は、っどちらかといえば軽蔑している、っいちばんいけないのは、っしゃかしゃかいう化学繊維の服を着て来ても平気な貌をしている人たちだ、貴様等っ、化学繊維が如何にノイジーな衣擦れを発するかも自身で自覚できないのかっ、っいっぺん死んで人間をやり直しやがれっっっ、冬場にダウン・ジャケツを羽織って来て、っそれを客席へ持ち込んで脱いで膝上へ置いたまんま演奏を聴いているなんぞに至っては、っまことにまことに萬死に価する、っだからぼくは、有っているほとんどの被服が綿製である、演奏会を敬い、愛するとは、っひとつにそういうことである、

雨は止まない、っけれども、っこれから帰って洗濯機を回し、エア・コンを掛けて室干しせねば、っきょうはぜったいによるのうちに干さねばならない、っぜったいにっ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




桜木町へ、




着いたが、開演まではまだ2時間もある、先にカレー屋へ行ってきてもよいが、量もおおいし、睡くなってしまう惧れがあるので、止しておく、例の喫煙スペイスへいるが、っきょうは大阪も降雨していたし、っいま横浜も雨で、っよるまで止まなさそうだ、折り畳み傘を携行し忘れており、っここ喫煙スペイスも蔽いはなく、終演後、カレー屋までは10分15分、カレー屋からも横浜駅までおなじくらい歩く、ったまさか止み間に惠まれるものと期待す、

っまあしかし、人間は雨が降ったら濡れればよいのである、画学生の往時、っおなじアトリエの友人と大学からどこかへ出掛けるという算段にして、っしかし棟のエントランスまで来ると、戸外は雨であった、ったいした降りともおもえなんだのでぼくはすこしく濡れて歩ってあたりまえとおもったのだが、彼氏は、濡れるのがいやだから行かない、水野くんひとりで行ってくれろよ、っとそのままいっしょに遊びに行くのを断わりやがったのだ、っほんとうにたいした降りではなかったと記憶しており、濡れるといっても服の表面がしっとりするくらいのもののはずで、いやいや、えなに、ほんとうに行かないの、この程度のことで、っとだいぶん何度か問い質したとおもうが、相手はほんのすこしくでも濡れたくないと云って聞かず、っついに彼を置いてぼくひとりで出掛けたのだった、っま、肚では水野なんかに附き合いたくないとおもっていて、断わる口実を探していたということかもしれないが、っそれでぼくは彼氏のことを、なんだこいつこれしきの雨で、人間じゃねえし男じゃねえな、っと見下げてしまった、創価大から3年時に転入してきたカタブツで、っご両親とも教師といったかなあ、っべつにカタブツが画を描いていけないわけはないし、っぼくとて生え抜きの多摩美生のなまっちょろい変態変人自慢の気味に辟易していたのはそうで、っあのときもいまも、無闇に進取の気風へ靡かない靡けない人間にだって為せる藝術が存ってよいし存るべきだとおもうが、っしかし、っいま想い出した、カタブツというには、変なところで変なふうに倫理観の欠如欠落している男でねえ、

っや、法学の講義を取っていたら、っその講師が、雑談で八王子の駅北口近くへあるインド・カレー屋のことを話題にされたんだ、っいまでもあるのかなあ、シャンティという店で、っむさい雑居ビルの何階かへ入っていて、エレヴェイターの扉が開いたら即店内、店員と眼が合ったが最後、もう逃げようがなく食事をするっきりない、っという店だが、興味を惹かれてまずひとりで行ってみて、旨かったので彼を誘って行くことにしたんだ、っその降雨していたときとは別の機会にだが、っところがエレヴェイターで上がってみると、ランチが済んでディナーまで準備中のタイミングだった、っそれで駅周辺で時間を潰そうということになって、っそうしたら、っみなさん、デリカシーがないとおもいませんか、マックへ行きたい、っと彼は宣うのである、あのさあ、これからカレー喰おうっつってんのに、大丈夫、マック喰ったあとカレー喰える腹が残ってんの、っとぼくは呆れたのだが、大丈夫、いますごくお腹が空いていて、すぐにもなにか食べたい、すこしくなにか食べたくらいでカレー1皿が食べられないということはない、っと云うので、詮なくマックへ入ったさ、っかく申す、っぼくもまだ20歳そこそこ、っなんでもいくらでも食べられるという年齢であり、マックでちゃっかりセットを頼んで、ポテトもドリンクもLサイズにしさえしたかな、彼氏はいちおうはぼくに気を遣うのか、ハンバーガー単品とかだったかもしれない、っところが、向かい合って着座し、食べ始めると、乞食みたような物慾しそうな目でぼくのポテトを凝視しているわけ、彼氏は創価大で競泳の選手で、食べる量は惰性で変わらないから、競技を退く途端にまるまる肥り、背は低かったが、っいわゆる豆タンクのごと体型で、っさぞかし大食漢なんだろうとおもいつ、っあんまり愍れになってきてぼくは、食べるか、っとポテトのケイスをくるっと彼氏の方へ向けてやったんだ、っそうしたら、そう、いいの、っとばくばく喰いやがって、っそのときの彼氏の眼の色を見ていたら、っあれは忘れようとして忘られませんねえ、っほんとうに焦点が合っていなくて、貪食者そのもの、ああ、肥る人ってこういう人なんだわ、っとよおくわかった、っそのときの彼氏の意識へは、これから水野の紹介してくれる店でカレーを1食ちゃんと食べなきゃ失礼にあたる、っとか、このポテトは水野がお銭を出して購ったものだ、っとかということ、っすなわち倫理性社会性はこれっぱかしも浮かんでやいないんだ、

っこの話はこれだけじゃ済みませんよ、っみなさんももうお察しのことかとおもいますが、っそのあとカレー屋へ移動して、っふたりしてインド・カレーとナンとを食べていたら、ったしかにインド・カレー屋のナンは大皿からなおはみ出すくらいにでっかいですよ、っでっかいけれども、っそれをはじめの2口3口こそ、おっ、美味しいじゃんっ、っとかと世辞をほざきつ喰っていたんだが、半分食べたか食べないかのうちに、っあろうことかあるまいことか、水野くんダメだわあ、俺もう喰えない、っと抜かしやがったんだ、っこちとらずっこけるどころじゃねえっつうんだよっっっ、なんだこいつっ、最低の野郎じゃねえかっ、ってんで、っぼくはといえば、マックを食べたその腹でもまだぜんぜん平気で、彼氏の残した分までナンを1.5枚喰い切ってやりましたよ、っええ、っやりましたとも、他人様を食事へ誘ってそんなに気分のわるいことってありますかね、っいくらでっかいっつっても、ナンの半分くらい無理してでも腹へ押し込まんかいっ、男だろっ、っまったくっ、

彼いまどこでなにしてんのかなあ、っまあそんなのお互い様で、っおおきなお世話だろうが、大阪出身だったかなあ、っやはり教師同士の倅だから手堅く教職を取っていて、っそのまま地元へ帰って美術教員とかやってんのかなあ、っわるいがぼくが生徒だったら、人に食事に誘われてその店の開店を待つ間ほかのもんが食べたいなど云って、肝腎の目当ての店で食べ切れずに残すなんて無礼千萬なことをする奴に教師面されたかねえよ、

、、、っこんな話するはずじゃなかったんだが、っまあしかし、っこういう挿話は書いていてたのしいですね、いるんだよ、人間ってそういうのが、けっきょくはかわいいもんだよ、っと、



っそう、っきょうあすのコバケンさんと日本フィルとの公演演目は、前プロがあのアシスタント・ミストレスの別嬪さん、長原氏の前の奥方なのかな、ったぶん離婚されているとおもうが、っでも去年だか彼女は何月か離職されていて、っひょっとすると再婚されていて、産休でいられたのかな、っとのモーツァルトのコンチェルトで、メインがマーラー《巨人》、

コバケンさんのロンドン・フィルとのマーラー音盤、《5番》が途轍もない達成だったので、翌月連続発売の《巨人》へもおおきく期待を懸けたのだが、ダメでしたね、ベルリオーズ《幻想》音盤から3月連続リリースも、《5番》だけがあほほど突出しており、《幻想》と《巨人》とは、っなんというか、音を丁寧に置かなきゃ、っとオケが強張っていて、生気らしい生気がない、《5番》だけがちがう、名うてのロンドン・フィルの面々がしかし、必死こいて弾き、吹いていられる、っそれにより、噎せ返るごと暑苦しい奏楽となり、っしかし造形は飽くまでも大老匠の泰然自若、っそして抱き締めたくなるほど絶妙にダサいっ、っまことに得難い結晶である、っおもえらく、っこの差は単に練習時間の長短だ、《5番》は、っこないだの仲間たちオケとの公演が国内では10年振りのご披露であったといい、っおそらく海外でも振られていなかったのだろう、っもちろん曲想は完全に掌中へ入れられているのにちがいないが、録音にあたり、っおもわずに練習へも熱が入られ、っそれがオケへも伝わったものと思量せられる、対して《幻想》や《巨人》はまだしも上演の機会がおありで、っそれでしっかり巧いオケだと、っさっと通したっきりでもまずまず演奏が仕上がってしまう、っそこで、や、さらに細部をっ、っと頭へ返して入念に彫琢してゆく気力を、指揮者、オケ双方が奮えなんだのではないか、門外のぼくでも聞いたことがある、1曲を終わりまで大過なく弾けてしまうと、指揮者が頭へ返さむとしても、っべつに誰か楽員が口に出して不平を云うのではない、っけれどもなんとはなしにオケ全体のムードとして、え、なんのために、っという威圧の気味が出来するのだと、兼ねてより練習嫌いで鳴らされたコバケンさんのその性向が、っこうした録音でもまずく出たケイスであろう、

っきょうの公演は配信がある、っぜひにロンドン・フィル盤の雪辱を果たされ、っぼくもそれをうれしいコレクションとしたいところ、



っさて、ナン残し野郎の話題へ暮れたせいで、、、っお蔭でほどよく閑も潰れて、間もなく開演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




大阪、中之島、




っいつも駅名で掲題しているのだから、肥後橋か淀屋橋かということになるのだが、っまあま、

フェドセーエフ氏来日中止につき、マティアス・バーメルト氏の棒、大阪フィル公演、済む、演目はグラズノフ《四季》とチャイコフスキー《ウィンター・デイドリーミング》とである、

っほんとうに悪癖も悪癖で、っきょうあすと着る服はある気がしたので、っゆうべは、どうせまた干せやしないんだから、っといつものように洗濯機を回すことをしないで、っそれなのにけっきょく居室の椅子で作業着姿のまま惰眠へ暮れて、っしかもその際に首を左へおおきく傾げていたらしく、醒めると張っていた右の首筋が睡違えたように痛み、っそれでも明方にその格好のまま、頭も整髪料で固めたまんまで、枕へそれが附かぬようにタオルで蔽うてアラームを掛けて10時前ころまで睡て、起きてゆうべやりかけのここさいきんに入手した音源をiTunesへ遷しのiPhoneと同期しのをして、散髪せねばならなんだので浴室へ入り、っもう時間がなかったので頭ぜんぶを丁寧に刈ることはできずにこめかみのあたりのみを最低限整え、出てきてもいまだ同期が済まず、チャリンコだと1晩と半日以上とで¥何百かの駐輪代になるので歩って駅まで往きたかったが、っもうその時間はなく、同期が済むのを待ちつ歯を磨いて、乗る心算だった小田急に間に合わなさそうで1本後でも新横へイン・タイムかを検索し、11:16に多摩センから乗るのに、っやっと同期が済んだのは11:03すぎ、身支度はすっかり整えて、地団駄を踏みつ待っていて了わる途端にそのiPhoneを携えてPCを落とし、チャリンコをぶっ飛ばす、っま、室から駐輪場までそんなに急がなくとも7、8分、駐輪場から改札、ホームまで3分程度なので心配はなかったが、っいずれぎりぎり、っそれを乗り逃したら新幹線へ間に合わないという小田急へどうとか乗る、

車中では例のごとく平日の午間っから崎陽軒のシウマイでビールを呑んでおり、快くうとうととし、新大阪着は開演の4時間も前、っその心算はなかったが不意に仁徳さんを詣でたい気がし、検索して三国ヶ丘へ向かう、降りて古墳東側周溝伝いに墳丘御正面まで歩って拝礼し、脇の売店で人物埴輪と前方後円墳とを象ったストラップをひとつずつ求める、っすでに両ともふたつずつ所有して背嚢へ括ってあるが、っうちひとつずつが破損しているので、っいつかの機会に購って更新せしめたかった、駅へ取って返して滞在時間わずか30分、大阪の駅から以前にも利用した曽根崎の安宿へ移ってチェック・イン、っすぐさま外出し、っいちど器の脇を過ぎって喫煙可のカッフェまで歩くが、っなんと、っこの間に喫煙席が解消せられて不能になっている、っざんねん、貴重なスペイスだったのに、2度と訪れることはなかろう、っもう入店してしまったので詮なくコーフィーのみ飲んで退店し、器へ戻り、入場、っここの喫煙スペイスはまことに利用しやすく、っいちばん奥の手摺から眼下の川や高速道路の車の流れを見下ろしているのも気分が好い、

堂内へ入って、楽員が登壇して来られても大阪のお客は拍手をされない、っこれでよい、っむかしの演奏会はこうだった、、、っぼくもむかし語りのおっさんになりつつある、

トロムボーンの1番はなんと箱山氏だ、定かではないが小耳に挟んだところでは日本フィルをよからぬトラブルでお辞めになり、っその後はかってのニュー・フィル千葉、現在の千葉響へ移られたはずであるが、メムバー表を繰ると、客演主席の印がある、往時は巨漢のイミッジがあったが、っだいぶん年寄られて、大人しそうなちっこいおっさんであられる、

っさて、バーメルト氏については、札響との協業のドキュマンをYouTubeに観て、っいかにも温順な方であるが、っきょうの印象もそのとおりで、老境の感慨を映して、アクションはじつに最小限、

演目は変更なし、っかかるプロは、っご自身の公演ではまず取り上げられなかろうから、っじつはおおきにたのしんでいられるのに相違ない、っより篤く感銘を捺されたのはグラズノフのほうか、っぜんぜん聴いたことのない曲だが、バレエ音楽でもあり、っむつかしいところはひとつもない、大フィルの落ち着いた鳴り方もすばらしく、っとちゅう、っどの季節の場面だろうか、絃の高低がカノン風に追い掛け合う旋律でじいんと胸へ沁みてきたところがあったし、っつづいてクラリネットの技巧的であってこそ詩を感ぜしめる小曲、ヴィオラとコール・アングレとのユニゾンから1stへバトンを渡す歌謡楽句もまたしみじみとした抒情であり、バッカナールのほどよい不穏がまたよきスパイス、曲が進むにつれてかなりに複雑に音々が集い、っそれがちゃんと緊張と昂奮とへ繫がって、済んでふかく満足を與えらる、

チャイコフスキーは、1楽章がさいしょにトュッティへ至るところからあきらかに意図して金管が抑えられており、っそのまま全曲その調子で運ばれる、っしたがってロシアンな野趣は後退し、格調ある古典音楽の風附きだ、っじっさい、っこの曲のオーケストレイションの妙はなかなかのもので、2楽章の序奏の絃各部の扱い、木管各種の音彩あたり、処女シムフォニーにしてすでに堂に入っている、っもっとも、後年にリヴァイズせられているのが現行版とのことで、っいちど、佐藤雄一氏の棒で《2番》の初稿というのを聴き、っそれは決定稿からすればずいぶん雑然としたものであったが、っあるいはこの《1番》も、改稿以前はもっと杜撰な筆だったのかもしれない、

グラズノフではトロムペットが1番おひとりのみで単旋律を吹かれ、流石の大フィルのトロムペット、っその元気のよい健康的の吹奏にはまこと胸の空くおもいがしたが、っこのシムフォニーでの同楽器にはさようの役回りの場面がほぼなく、っどの楽章でもずっとリズムの補強とかをやるっきりである、っその際に、大フィルはこの大音場を絃と木管との柔和なひびきのみですでにして飽和せしめることができており、っそうすると抑制せられたトロムペットは、長い音符では辛くもトロムペットトロムペットした音色を聴かせるものの、短い音符では軒並み破裂音が効かず、音型が伝わらないし、っそのことによって全楽から覇気が殺がれるのは、遺憾ながら大の失点と云わざるをえない、フェドセーエフ氏の棒であったならば、っどのような音勢バランスが志向せられたのであろうか、

音盤に聴くこの曲は、っなんといってもスヴェトラーノフ氏の彼の地でのセッション録りのPC盤だ、っほぼ直前におなじ楽団との来日ライヴにおいて《マンフレッド》まで含めた全曲録音を完了されたというのに、っご帰国後にどうしても再録をと所望され、来日盤とは肖ても肖附かぬ極大の造形が達成せられた、一般にはロシアンロシアンした猪突猛進の来日盤が重寶がられるようだが、っぼくにはいわゆる巨匠晩年の大化け、現地でのセッション録り盤のほうがゲテモノの観があってうれしく、っとりわけ《1番》はチャイコフスキーの若気なぞどこへやらの一大建築である、1楽章ではさいしょの横笛の主題をVnが歌う件、1stがアルコ、2ndがピッツィでユニゾンというおもしろい筆法だが、っその2ndを大々々強調っっっ、っそれはフィナーレの民謡民謡した㐧2テーマでもまったく同断で、アルコのVaに対してピッツィのVcを絃も切れよと最強奏、2楽章では、オーボーのテーマがセロへ渡る際、フレイズ中にある下降グリッサンドというかポルタメントをこれでもかと最後の最後までふりしぼるごと弾かせられる、っそうした妙味は、誰の棒によるのであれ、余盤からはけっして聴くことができない、っまこと為すべきを為し切られた特異な音盤である、

Vaへ出てVnへ渡される2楽章の副次的の主題は、っそれも本主題とほとんど雰囲気が変わらないため、っこの楽章は全体が単一の楽想から成っているように聴こえ、っしかも楽器を変えても主題の変奏らしい変奏もほぼ行なわれないが、っその副次主題においてバーメルト氏は、フレイズを中途で、ぷつ、っと切る差配をなすっていた、っところが、っおなじ主題を絃を追い掛けてファゴットなどが吹いているそちらはぜんぶ繫げたカンタービレとなっていたため、木管も同様に処理されるがよいのに、っとやや不首尾に聴いた、っあるいはスコアへは、っおなじ主題を絃と木管とで異なるアルティキュレイションに書いてあるのだろうか、っだとしたら、っまことに恐れ入るのだが、



大阪はどういうわけかカレーのメッカであり、福島での公演の際は、器の脇のカレー屋へ寄るのをまいかいたのしみにしているが、っきょうも地図アプリケイションで調べて23時まで開けているというおなじカレー屋の別店舗まで歩ってみると、っまだ22時すぎなのにもう閉めていられてがっかり、ホテルの周囲は呑み屋数多でそのどれかへ入ってもよかったが、面倒なのでコンヴィニで簡単に摘めるものをみつくろって購い、室へすっ込んでしまう、

、、、っそうか、っあすは桜木町で夕からコバケンさん公演で、事後は、っあのカレー屋はたしか日曜定休だから、っあそこへ寄れるわけか、2日つづけてカレーになってしまわなくて、っむしろよかったとおもおう、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




流山おおたかの森、




佐藤雄一氏の棒、DUVEL=CITADELLE ORCHESTREなる新設の団体の公演、済む、演目はブルックナー《5番》であるが、例によって全編これ牛歩にて全奏には100分凸凹を要するため、2楽章の後に休憩20分、っぼくにすればなくもがなであるが、年配者への配慮もあろう、済んで出てきて16:10ころ、音が鳴っている時間だけでもやはり100分超だったのではないか、

っきょうもわりに現着ぎりぎり、3時間をみておけばゆとりがあろうとおもうも、先に来た際にはさして混んでいる印象のなかった錦糸町から三ツ目通りへ乗って松戸までが渋滞気味で、っそこから流山までは逃げ場のない1車線の1本道であり、っむしろそこが混んだ記憶があるのではらはらす、っが、っその道は、混んではいるがまだしも流れており、っほっと気を抜いたのがいけなくて、駐車場の直近まで来て1度は曲がる交叉点を間違え、1度は直進できる心算の左車線が左折専用レーンですこしく迂回させらる、駐車場へ停めたのが13:40すぎで、器まで歩って5分10分、っま、っそう数多の来場者があるとはおもえなんだので、っこれでもよく、っほぼ望んだとおりの位置を得る、

っからっけつのモバイル・バッテリーを1晩電源へ繫いでおいたが、っあさになってもまったく充電できておらず、へたっていやがるな、っと持たずに外出して、ch桜の最新の討論を3時間聞きつ走って来るうちに、iPhoneのバッテリーもほぼからっけつ、っいま終演して、モバイル・バッテリーは出荷時に充電してある状態か、っと検索して、そのケイスがおおい、っとの結果を得、王将の入っているモールへ来て家電量販店で求め、っお蔭でシャット・ダウンを免れ、っいまこれを書いている、

佐藤氏の同曲は、中野で聴いた交響楽団CTKとのそれも懐かしい、っその再来というわけだが、楽団は、新設と云う条、楽員は見たことのある人がおおく、っおそらくは、活動を休止したらしいサンフォニア・ドラマティークのメムバーのうち、残れる方のみが残ったということだろう、絃の編成はちいさく、奏楽も精度が高いとは云い難いため、佐藤氏の造形を十全に叶えるというわけにはゆかない、

1・2・4楽章の開始は、っよく行なわれている演奏に比してほとんど倍ほども遅い、3楽章も0.75倍速か、っもっとゆっくりとしているくらいだ、全曲冒頭こそ、狭い器で絃のピッツィの1音1音、アルコの1音1音のリアルなソノリティにシビれ、っその後も隨所で多声の堆積に驚異を嘗めるのではあるが、っいまのぼくならば、っやはりあそこまで歩を緩め切られてしまうと、体現せられて然るべき運動性がおおくの場面で犠牲に供されているとの憾も否めない、っとクリティカルに聴きたくもある、っもちろん、っそんなことは佐藤氏ご自身、承知の上での演奏であろうが、



っさて、っあすはまた三鷹の試掘、っお次は、金曜のよるに大阪へ宿を取り、フェドセーエフ氏が振られるはずであった大阪フィル公演、翌日帰って、土日は桜木町、ギロッポンとコバケンさん公演である、ったしかそのどちらかは佐藤氏の公演と重なっているのだったか、事前にわかっていればコバケンさん公演は1度に留めたところだが、っざんねんである、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




渋谷、




っきょうは原宿でなく渋谷から来たので、

ファンホ・メナ氏の棒、N響公演、済む、演目は、リムスキー=コルサコフ《5月のよる》序曲、ユリアンナ・アヴデーエワ女史を招いてラフマニノフ《パガニーニ・ラプソディ》、っそしてチャイコフスキー《悲愴》である、メナ氏はもとよりすぐ来週の同響定期を振られる予定で、今公演の代行を打診せられたようだ、

っやはりぼくは、っこの器に聴くN響のひびきへはどうしても乗れない、巧いのは先刻承知、っいつもの譬え、方眼紙へ製図するごと精緻な音々がびしばし定まるのではあるが、トュッティは、っむかしのようにぎゃんぎゃんとして硬くはないのだがぱさぱさと乾いており、全員で鳴ったときに、嗚呼っ、オーケストラって仕合わせだっ、っとこころを拐ってくれる豊饒潤澤がない、っそれを云っても詮ないとわかってはいるのだが、っしかし仕合わせでないものは仕合わせでないのだ、っそこを無理をして、音色のゆたかさがないのに音楽を味わったかのごと自分で自分を誤魔化すなどというわけのわからない自己暗示は、っぼくにはできない相談である、、、誰にとってもそのはずとおもうのだが、

っとはいえ、開幕のささやかな序曲は清冽で気分が好いし、ラフマニノフは、っこころごと身体ごと投げ打つパッションは、っとくにオケへは望めないものの、プロフェッショナリズムとして手堅いのはそのとおりである、っそして、っこんやゆいいつぐっとこちとらの心裡へ迫ったのはアヴデーエワ女史のアンコール、誰のなんという曲か識らないが、目頭が熱くなりもしたし、っはらはらと自身の胸の鼓動を感じもした、

メナ氏は大柄の体軀でいられるが、温雅そうな紳士で、っその造形には突飛なところはまるでない、《悲愴》はしたがってよくもわるくもN響イズムの極致であり、っごくごく局所的にどなたかのアヤしい音程に因する不協和音が聞かれはしたが、っまず事故らしい事故は起きない、っぼくにすればぜんぜんふつうのチャイコフスキーなのだが、済むと堂内はけっこう盛大に沸いている、っみんなあの程度のチャイコフスキーがうれしいもんなのかなあ、、、

席へ着くと、隣の女の子はさいしょの楽員のご登壇時から掌中へ空気を含ませてそれを破裂せしめる感触のかなりに熱心な拍手をされる娘で、っまさかにそれを止してくれろとは云わないし、眞隣で耳を塞ぐのも最低の厭味なのでせなんだが、っあまり感心しない、

っぼくが高校生時分にTVでN響などを観出した25年ほど以前には、っすくなくも国内の楽団に対しては、楽員のご登壇時に拍手を送るというお客側の習慣はなかったし、っぼくはいまでもそれでよいとおもっているから、っそのときにはいっさい拍手はしない、っそれでいてその往時から海外から来日する楽団に対してはたしか拍手が送られていたようにおもうから、ガキながらに、日本人のこういうところってヤだな、っとおもっていたものだ、、、っこの段落、叙述順不整序の悪文だが、面倒臭いので直さないままで、

っその後、指揮者のご登壇時にはぼくも拍手をするが、っほとんど音の出ないそれへ留めており、っよしんば感銘を受けて、演奏後に盛大な拍手をしたいとしても、っそれをするのは最後の演目が済んだ後のみとしている、っとくに破裂音のする拍手は耳への刺戟もおおきく、直前にそれを聞いてしまうと、相対的に舞台で鳴り出す楽音のニュアンスを微細に嗅ぎ取れなくなってしまう惧れがある、心頭を滅却せしめて奏楽へ勤しまむとされる指揮者や奏者を熱烈歓迎したい気は山々ではあるのだが、っその妙音をよりゆたかに味わわむとしたら、全演目が済まないうちから痺れるほど自身の手を叩いてしまっては、微量の栄養素を摂取する耳の機能も十全には発揮せられないというものである、

っちょぼちょぼとっきり拍手をせぬぼくは、傍から見ればお高くとまったいけすかない野郎かもしれないが、っぼくなりに熱烈に舞台からの楽音を待ち侘びているのだ、っあの女の子が、っいつかそうしたことにご自分自身で気附き、っより仕合わせに演奏会を經験されるのであってくれたい、



っさて、っここでの公演時のたのしみ、例の坂の中途の喫煙可のカッフェへ寄るとせむ、

っあすは、遙か流山にて佐藤雄一氏の公演であり、っまた社用車で往ってしまう、駅の近くへ安い駐車場を予約した、上野小器での坂入健司郎氏のモーツァルトを聴けないのが口惜しい、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(1回配本)

 

《ぶきっちょ》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(1回配本)




武蔵中原、




三原明人氏の棒、ミハラ・シンフォニカ公演、済む、演目は、㐧10回の記念公演というのに、っと云ってはなんだが、シューマンとブルックナーとのともに《2番》という、っなんとも汎く一般向けとはし難い選曲で、っしかしいずれも三原氏こだわり、肝煎りとのことである、

っなるほど、っそのおもい入れのほども伝わる、っひじょうに意志的の演奏で、楽団も、アマチュアとして最優等ではないかもしれないが、指揮者の意気に感ぜられるところ夥しい、

三原氏は、YouTubeでいくつかの演奏を拝聴し、っいつかの機会に実演へ触れたいとおもっていたおひとりであるが、アレグロなどは仮借なき前進性を剛直に徹され、シューマンの2楽章主部あたり、っやや落ち着かぬばかり、っけれども、初めて来た器は狭隘かつ旧来かつ多目的のそれであり、っその環境下で、各位ご自身等の役割を知悉された絃5部の音色、質感の適宜適切、多彩なることは耳にうれしくたのしく、っぜんぶの音が丸裸で聴こえるので、曲想も手に取るようにわかる、フィナーレの主題中へは、イデー・フィクスたる曲頭のファンファールのみならず、1楽章、っおよび3楽章へ既出の音型が谺していた、

ブルックナー《2番》は、音盤などでもちゃんと触れたことがなく、っきょう初めて聴いたようなものだが、っこないだ聴いた《0番》はいまだ構成が後年のものと同様となっていないため、っときおり現在地不明の混乱を嘗めたところ、っきょうのこれはもう全曲の経緯がブルックナーブルックナーしており、初めて聴いてもだいたい自分がいまどのあたりへいるのかがずっとわかっていた、

1楽章へはヴァグナーの《トリスタン、、、》や《タンホイザー》の楽想からの直接の引用があるほか、彼自身の《8番》フィナーレ㐧3テーマ、同スケルツォ主部、っあるいは《3番》フィナーレをおもわせるような音の動きを発見してたのしむ、

っこの楽章といい2楽章といい、絃のピッツィの使用も印象的で、っその後者のホルンとの並走は、っこんどは《5番》1楽章を想起せしむ、

スケルツォ主部はかすかに《9番》の片鱗を覗かせるようであり、っついにフィナーレは、展開を欠くように聴いた《0番》とちがい、っちゃんとブルックナーのフィナーレである、



午前は仕事をする心算であったが、今週は忙しく、草臥れて2度睡3度睡のうちに9時を回ってしまい、っはっと覚醒してすでにして11時半すぎ、例によってよるに洗濯機を回したまんま干しておらず、干し了えて身支度をして外出は12:40前、中原の駅近くへ駐車場を予約しており、社用車で来る、っぎりぎりか、間に合わないくらいかとおもい、矢野口の交叉点まで来て、っそのまま川崎街道か、多摩川沿いの道かで迷うが、右折信号のタイミングで川崎街道へ入るところ、対向の府中方面は大渋滞だが、っこちらはわりに空いており、っときおり制限速度きっかりっきり出さない先行車へ、もうちょい出そうよもうちょい、っと焦らされつ、駐車場着13:50ころ、器まで歩って5分、っどうとかイン・タイム、

事後は、車は停めっ放しで、小杉まで1駅歩き、東横で渋谷、黒山というには外人も数多に混ざっている人いきれを掻き分けつ、代々木公園手前まで坂を登る、惜しくもフェドセーエフ氏来日中止、代演の立ってしまったN響定期である、っきょうはこないだの天井桟敷とちがい、2階のSが購ってある、

フェドセーエフ氏は、秋の小山女史とのコンチェルト公演の切符が売り出したので祈るごときもちで購ったが、果たしてギロッポンにてそのご尊顔を拝しうるであろうか、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




錦糸町、




冨平恭平氏の棒、オーケストラ・ハモン公演、済む、演目はマーラー《1千人》である、ソリストは、ソプラノが中川郁文、冨平安希子、三宅理恵の3女史、アルトが花房英里子、山下裕賀の両女史、テノールは糸賀修平氏、バリトン小林啓倫氏、バス加藤宏隆氏、合唱は成年がコーラス・ハモン、ボーイズはジュニア合唱団Uniである、中川女史は井上キーミツとの《ラ・ボエーム》も記憶に新た、冨平女史は、冨平氏の細君であろうか、

件のカッフェで14:40ころまでシガレットを服んでいて入場す、カレーを頼んだが、っおもいっきりレトルトの味で、昨今の米価高騰を受けているものとみられ、っご飯はいかにもすくない、っま、開演前のほんの腹拵えなので、っそれでよかったが、コーフィーだって、っきっと市販のものをペット・ボトルから移したっきりだ、

免許の更新ということは誕生日が近いわけで、っきょうが41歳で聴く最後の演奏会だったが、冨平氏以下何百という楽隊から、っすばらしいプレゼントを頂戴す、っこの曲は、キーミツと坂入健司郎氏と、っほかにもあるだろうか、数えるほどっきり実演を聴いていないが、っきょうがいっとう感銘がふかい、

不足ならばいくつかは云える、っまずソリストは、テノールの声質は、必ずしもぼくのこのみではなかった、っまた、っどんな曲でもいつもながらの懸案、ボーイズは、っまず頭っ数からひじょうにすくなく、チャイルディッシュな地声の妙もない、

っけれども、㐧1部が開始するや、っもう理窟ではないのだ、オルガンの燦然たる存在感もすばらしく、っそしてコーラスっっっ、音場全体を鳴動せしめるその覇気は、㐧1声が発せらる瞬間にもう勝負ありで、乗っけから打ちのめさるここちがする、っそして、中音量以下、弱音の部分でもそれだけ声がしゃびしゃびと水っぽくなったり高音の発声に限界を感ぜしめたりすることがなく、っつまり恆に音楽的に上等なのである、

オケがまた元気のよいことっ、っそしてじつに巧いっ、っむしろ3階席でよかったのかもしれない、っぼくの位置へは、コーラス、っそしてソリストもぎりぎりおまけで、全員のお声がオケに押され、消されてしまうことなく届いていたと云いうるが、っあれで1階の人は、っときにオケの音勢をつよすぎるように聴いたかもしれない、

他に吼えられるとボーイズはほぼ完全に掻き消されてしまうため、㐧1部の展開に相当する全員で複雑に絡み合う部分は、っその超多声の醍醐味が1段落ちる、同コーダ附近も同様である、っけれども、全体の音圧はふだん聴いているもっとふつうの編成の楽曲からはけっして得られない妙味で、冨平氏がまた遅めのよいテムポを用意して声楽、器楽ともにがっしりとそのフレイムの裡へ収められ、以前に聴いた彼氏のどこか学生オケとの公演では、あ、この人アツくなれない人だな、っとの印象を有ったのであるが、っしかしそのときもきょうも、っさようの沈着さをもってこそ、っよりひたひたと音楽それ自身の力が寄せて来るようである、

㐧2部はソリストへそれぞれ個別の役割が振られるので、っよりオケとの音勢バランスの問題がおおきい、坂入氏は㐧1部では彼等をオケとコーラスとの間、㐧2部では舞台前面へ配置されるという手立てを講ぜられていて、っなるほどとおもったものだが、っきょうはずっとオケとコーラスとの間、冨平氏は、っこの㐧2部でもやはり感情的になられることはないようであるが、っしかしひじょうに執念深く声部声部を捌いていられ、各ソリスト、っそしてボーイズが主役になる場面で、っしばしばオケを掌で抑えるアクションをされる、オケがまたそれへ機敏に反応、っみごとに影の役割へ徹しられるが、っその差配はけっして音楽全体の魅惑を薄めてしまうことがなく、っむしろ指揮者がそれをせなんだら、っしばしばソリストソリストのお声が聴こえず、悪印象を遺したことだろう、っどんなに昂奮のさなかにおいても飽くまでも音響の司祭たるのお役目を放棄されなんだ冨平氏のその仕事人気質に対しては、満腔の敬意を捧げたいところである、っなんとならば、っその棒によってこそ、っついに全曲は最大の昂奮と感動のうちに鳴り了えたからである、

㐧2部も長の道中を辿ってゆくと、っこちとら中途からもう安心し切って全身全心を楽音へ委ねており、オケのテクニークがどの程度であるとか、っそういうことはぜんぜん意識の表面へ上らなんだ、マリア讚仰のテノールは、っやはり声質は気に入っていないのに、っもうどうでもよい、泣けてたまらなんだ、っその後のふたたびの彼氏のソロにしても同断である、他のソリスト連も、っみなそれぞれにキャラクターが立ってすばらしかった、ボーイズも、っせめてほんのすこしくでも地声のかわいさが慾しいが、っもうケチは附けまい、っそしてコーラスの柔につけ剛につけ可ならざるはない勇姿よ、、、

極めて上質なのに、前後不覚の狂騒をいささかも頼んでいないのに、っしかし篤く、烈しく胸へ迫る《1千人》であった、永く永く記憶へ刻まれるにちがいない、



っさ、帰らむ、っあすは三鷹の試掘である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)