井上キーミツの棒、読響で、キーミツの現役最終公演、済む、演目はメンデルスゾーン《フィンガルの洞窟》、楽聖《パストラール》、シベリウス《7番》、ショスタコーヴィチ《祝典序曲》である、
っもしこれのみ、っあるはさいきんの駄投稿のみを読まれる人がいられたら、キーミツってなんだよ、井上道義のことを謂っているのなら、彼の渾名はミッキーとかミチとか謂うんだよ、っとおおもいだろうが、っぼくもさいしょは井上ミッキーと表記していた、っそれがYouTubeでRebeccaのノッコ女史がデーモン小暮閣下と《Raspberry Dream》を共演される動画を観、っそのトークのなかで閣下は女史へ、コーノツ、っと話し掛けられ、当時われわれはノッコのことをコーノツと呼び習わしていた、っとおっしゃっている、っすなわち、鮨をしーすーと逆転せしめる要領で、ノッ、っと、コ、っとを逆転せしめ、コーノツ、っというわけである、っこれはすばらしくたのしく、っそれを識って爾来、ミッキーを逆転せしめてキーミツと表記することとし、我が愛すべき同僚、針木くんの渾名、ハリッキーもキーハリとしたのである、っこの変更の経緯についてはいつかの駄更新時に触れているはずであるが、っまあこの際あらためて、
っさて、っとうとうこの時が来てしまったわけだが、っいま了わって、っさっぱりとした気分だ、キーミツはもちろん満身創痍でいられるだろうが、っあれで開幕して袖から出られるそばから見る目によぼよぼよたよたのおじいちゃんだというなら、っこちとらも、ああ、もうほんとうに限界なのだなあ、っと実感もし、っお別れの肚も定まろうというものである、っところが、近来の演奏会と同様に、舞台人としての片意地であるのだとしても、っすくなくもぼくらの目に見えているうち、キーミツはとてもお元気そうで、最後の最後まで快活な音楽青年の風情でいられたのである、っまだこのあともいくつもの舞台を踏まれることだってできそうなのだが、っともかく、っそういううちに棒を擱かれたいという、彼氏一流の美学でいられるのだ、
読響の応接はまことに献身的で、っもとより太く健康的の描線を事とする彼等であってみれば、新日本フィルとの最期のご共演の際のような、音が地を離れ、天楽へ誘われているような感触とはまた違い、っむしろどっしりと大地へ根を張って、豊饒の惠みを満堂へ授けてくれる、
メンデルスゾーンは冒頭からたっぷりとしたテムポへもう萬感が籠もり、っここサントリーではときおりはっとするようにそれをつよくつよくおもわされるのだが、なんという銘器だっ、っとの実感にシビれる、っすべての声部が曇りなく最良のバランスで耳を擽る、っこれは楽聖でもたびたびおぼえた快感であるが、っいつも云うように、っもっと音がしっとりと濡れ、直接音が分厚い残響に包まれているトーンをこそ所望する向きもあるのかもしれない、っそうした器の特性はぼくとしてもわからないじゃないが、っしかし、っではその手の器でここサントリーでのような高度の分解能を望めるだろうか、っこのすっきりとして雑味を後へ遺さないトーンは、通えば通うほどに愛着を生ずる、っぼくは本邦の天下の殿堂としてなんら構わないとおもっている、
同曲、っおよび楽聖は小ぢんまりとした編成での演奏、陣容はさようながらも、奏楽としてはヴィブラートを躊躇われない、っその《パストラール》はぼくも、広上氏が代行された新日フィルとのもの、キーミツご自身が振られた都響、大阪フィルとのものを聴いてきたが、っきょうが最もそうした編成の規模の妙味をよく叶え、っまたキーミツの表現としても、スコアの奥の奥まで目配りが利き、大フィルの際に感じた、抽象的の音の配列のみがものを云っている、っという手応えがきょうもする、っそう云うとザッハリヒカイトをおもう人もいようが、っそうではなく、っかなり恣意的に目立たない声部声部へフット・ライトフット・ライトを浴びせまくられているのにも拘わらず、井上道義によって脚色せられ、謳歌せられた《パストラール》、っとの印象がせず、っただただ楽聖の《パストラール》が、至純に流れてくるのである、2楽章の最後で鳥たちが啼いたあとの終結を惜しむようなゆっくりとしたテムポや、フィナーレのまんなかの部分を過ぎ、主題が変奏せられるその後半などでぼくの目頭が熱くなったのは、キーミツがぼくらの眼前からいなくなってしまうという感傷からではなく、音楽的のうつくしさに原因していたのにちがいあるまい、
読響とのシベリウス《7番》は、キーミツがマーラー《大地の歌》をなすった際にも聴いているはずであるが、遺憾ながらなんの記憶もいっさいない、っひとつの曲をわかろうとするには相応の体力と気力と時間とが要り、っそれには若い身空の貪婪が入用である、っぼくもいまなんの準備もなくすぐに演奏を聴かされても自分なりにその成否を判断しうる楽曲というのはごくごく限られており、っそれらのうち大半は10代20代のころに夢中で聴いたものばかりである、30代へ入ると、仕事の忙しさも云い訳にして、音盤などは購って聴かないままの枚数が、っおそらくは数百枚単位である、っそれとても、っおおくはもとよりよく識っている曲の異演というにすぎない、
っそれはそうなのだが、っいっぽうで馬齢を重ねてくると、なぜいままでこの魅惑に惹かれなんだのだ、っと不可思議なほどこころへひびいてくる楽曲というものもまた存る、っそれこそ《大地の歌》などはぼくにとってはその筆頭で、宇野さんエピゴーネンたるぼくはとうぜんながらヴァルター/ヴィーンのそれを若くときから何度も何度も聴いてきたが、率直に云って、え、これのなにがどうそんなに名曲なのさ、ってなものだった、宇野さんはいつも、マーラーを必ずしもこのまないが《大地の歌》のみは別格、っという態度でいられたが、っぼくにすれば眞逆で、っほかのシムフォニーはどれもわかるし、聴いていてその猥雑がたのしいのだが、《大地の歌》だけはわからない、音盤を再生する前に、っぜんぜんこころが躍らない、どうせまたわからないんだ、っという無力感に沈んだ日々が長かった、テノールの唄うみじかいナムバーは音の動きがおもしろいので聴いていられないじゃないが、っそれだけのことであり、っまったくこころへ沁みて来ないのである、っそれがあるとき、っもう三十路へ入ってしばらく經っていたかとおもうが、っそれはヴァルターではなく朝比奈さんの音盤であったはずで、聴いていて、1楽章のまんなかのオケのみの部分で、あっ、さびしいっ、っと視界が展ける途端に、泪が止まらなくなった、っそれからはぜんぶの部分がよくわかって、っとくに長大な終曲は、っわからない以前は聴いているのが苦行でしかなかったが、っもう手に取るように気分が伝わるのである、ヴァルターを聴くと、指揮者の表現としても録音の性質としても、お先眞っ暗っ、っみたようなうらぶれた淡彩、っあるは墨筆の山水画を観るような渋い味である、っいまではその妙味も理解するぼくだが、っまず楽曲のすばらしさをぼくへ訓えたのは朝比奈さんである、ソリストはおふたりともおなじ、年代を隔てて新旧両盤あるうちの、っとくにPCの新盤のほうが録音がより鮮明でぼくはすきだが、っそのとくに終曲などは、ヴァルターとはおよそ別世界で、大フィルがめくるめくようにカラーフルに鳴り、覗いて回す万華鏡には人生の麗しさ、っこの世界のうつくしさが余すところなく映る、朝比奈さんはこの曲について、ぜんぜん辛くもかなしくもなく、悠々とさらばさらばといってこの世へ別れを告げる、っとおっしゃっている、最後にくりかえされるEwigをさらばさらばと意訳していられるわけだが、演奏はそのご所感の飽くなき実践で、山川草木、花鳥風月いっさいをめいっぱい愛でながら、最後の最後まで健康美に耀いたままで終演する、っぼくにはそちらのほうがより理想的の演奏におもえる、
シベリウス《7番》も、実演、音盤ともにたびたび聴く機会があったのだが、っわからないものはわからない、っただぼけたんと右から左へと音々を見送っているのみである、転機はわざわざ高槻まで聴きに行った森口真司氏の公演で、っきょうのこの日を前に、っあれを聴くことができてほんとうによかった、演奏会というのもまことに宝籤で、っべつに切符代のほかに新幹線代や飛行機代まで出す出さないはお客お客の勝手であり、っそこまでして凡演っきり待っていなかったとて、文句は云えない、っこれもいつもの繰り言、っよのなかにいちばんおおいのは、駄演ではなく凡演である、人はそれを呪い、っぼくもその多分に漏れないが、っしかしよくよくかんがえると、っそれもある程度は仕方がないという気もする、っお客お客は演奏会演奏会へ非日常を求めてやって来るが、音楽家といえども一個一個の人間であり多忙な職業人である、っそうまいかいの演奏会に命を懸けているばあいでもなかろう、演奏会に文句を云う人も、っときには自身の胸へ手を当て、ではテメエはテメエの仕事をまいにち死ぬ気で熟しているのか、っと問わねばならないかもしれない、
、、、南大沢まで戻って、喫煙しながらでは手指が悴んでかなわず、っきょうカーテンコールでキーミツは最後、グラスを傾けるジェスチュアを繰り返され、帰ろうとしないぼくらへ、もう呑みに行きなよ、っと促されたが、促されるまま、年内最後の演奏会くらい、事後に独り呑むのもよかろうと、っいま居酒屋へ寒さを逃れる、
っそのシベリウスも、っやはり健全な音楽性の勝利で、草臥れた老境の枯淡はどこにもない、ヴァルチュハ氏などの棒では限界も感じさせた読響も、名匠を得れば向かうところ敵なし、鮮烈、溌溂たる合奏が、っここ2日ばかり何十回となく聴きつづけた楽曲に、っいま目前の感動を吹き込んでくれる、トロムボーンが重要動機を担うが、っさして特徴的の音型とも云えないため、っこころして聴いていないとそのことを認識しえない、聴きながら、こんな曲調じゃ、数度聴いたくらいではわからないはずだよな、っと微苦笑、
妙に垢抜けていて居酒屋僅少の南大沢では、深更まで開けている店2軒がともに満席で蹴られ、入ったのが22時閉店で、っいま追ん出されてしまう、安くない店で、1人して¥6千も呑んでやんの、っまた寒空の下、喫煙スペイスにて、ギア・トップ・フリントも奏功のトーレンスの快調が掌中にうれしい、
掉尾にショスタコーヴィチ《祝典序曲》、主部は個人的にはヤマカズさんみたようなのんびりテムポがこのみだが、俊速に生き急ぐキーミツの姿よ、老匠然をそれもまた善き哉と褒められながら音楽人生を了えられたくないというキーミツのキーミツたる所以を、最期の最期にありったけ発散される、一個の音楽人の終の光芒であられた、バンダはオルガンの前、客席の左右背面と2、30人も居並んだ格好で、っその音圧は大音場をびりびりと震わせ、っお別れはしんみりとでなく、賑々しくまさしく祝典祝祭の樂を以って、堪え切れない客席は、最終音が鳴っているうちから手を叩き出し、ブラヴォーを吼える、
終演してマイクを握られ、っすこしくお話しになるが、馬車馬のように働いてきましたよ、これからも君等は馬車馬のごと働き給え、っと読響各位を労われるので、もしや、、、っとおもっていると、アンコールはなんとショスタコーヴィチ《ボルト》から〈荷馬車曳きの踊り〉、主演目のみではすこしくお上品に済んでしまうかとじつは不満もないじゃないライン・アップだったが、っあんな下賤下劣なアンコールを用意されているとは、流石に生来の臍曲がりにして正直者、井上道義であられる、
っそれが済んで楽員がいったん全員捌けられ、っいよいよほんとうにおしまいで、っあとはソロ・カーテンコールのみかとおもうに、キーミツが袖へ向かって手招きをされると、応じて出て来られるのはコン・マスのみ、、、っではなくぞろぞろとみな参集され、っさらに1曲、演奏へ加わられない管打のメムバーも舞台上で見守られるなか、武満氏の映画《他人の顔》のための〈ワルツ〉、ったびたび聴いてきた曲だが、っそのほろ苦い味が、っきょうほど身に沁みたことはない、
っさようなら、キーミツ、っあなたという人をけっして忘れません、っありがとうございました、
っそうだ、シベリウスで編成が拡大すると、絃バスへは高山氏がお乗りだった、っせんじつ京王をおなじ車輛へ乗り合わせたとき、井上さんの最終公演を聴きに伺います、たのしみにしています、っと挨拶申してもよかったのだが、っお乗りになるかは知れなんだので、
っまた、席を立って手洗いへ寄ると、森山開次氏が聴きにいらっしていた、彼氏も舞台人、同志のご勇退をいかに見届けられたであろうか、
っさて、正月休みは退去前の大掃除に暮れて、年を跨いださいしょの演奏会は4日、午に住吉にてネコケン氏公演、夕に川崎にて坂入健司郎氏公演と、乗っけから梯子である、
っどうかみなみなさま方も、っよきお年を迎えられますよう、