金山隆夫氏の棒、上智大の学生オケ公演、済む、
っきょうは、自分の使っていた社用車へ積んでいる発掘道具一式を、夕までに車検の済んだ別の車へ積み替えておいてくれろと云われており、16時前に聖蹟別棟を出て本棟へ往き、小1時間で済ませてちょうど17時ころ、定時退勤して移動す、
演目はまったく知らずに来たが、着座してプログラムを開く途端に、開幕はスッペ《詩人と農夫》序曲とあるのが見え、飛び上がるほどうれしくなる、っつづいてチャイコフスキー《ロメ&ジュリ》、っそしてドヴォルザーク《8番》である、
同団は、っじつに60年の永きに亙り、っこの年初に物故された汐澤安彦氏のご指導を仰いでこられたという、っぼくは、っその最晩年のお姿は望みえなんだが、数年前までは頻繁に公演を拝聴しており、率直に云って、最後の最後までぼくは彼氏のよい聴き手ではなかったかもしれないが、っしかし、ったしかきょうとおなじ上智大のオケだったとおもうが、錦糸町で聴いた、っさいしょにヴェルディ《ナブッコ》かなにか、次いでチャイコフスキー《胡桃割り、、、》スート、っそしてサン=サーンス《オルガン》、っそれと、っこれも上智大か、青学かな、っや、青学のほうはいつもオケがすこしく下手っぴで、っそのときはとても巧かった記憶が遺っているので上智大だとおもうが、っやはり錦糸町でのラフマニノフ《2番》コンチェルトとシベリウス《1番》と、っそれから池袋で聴いた、っそれはどちらかの学生オケのOBOG連による団体の公演だったとおもうが、前プロは忘却の彼方、メインに演られたフランク《シムフォニー》などは、っいずれも厳格厳密厳正なる仕事人としての片意地を突き附けられた、有無の云えぬ辛口の大演奏であった、
っきょう開幕に先立って、エルガー《エニグマ》〈ニムロッド〉が献奏せられるが、中規模器たるここに対してずらりと居並んだ絃、管も乗れるだけ乗った大編成は、腰のつよい満ち足りたひびきを上げ、故人の遺徳を偲ぶのであった、っぼくも、上記いくつかの麗しい記憶と、自分がなぜ汐澤氏の音楽性へ馴染めなんだか、っなどなどへ想いを致し、っじつに胸へ迫るものをおぼゆ、氏に比すれば、っぼくなぞは遙けくだらしない軟派な人間なのだ、っもっと血も泪も存る音楽が慾しかったのである、っもっと音楽といっしょに泣いたり笑ったりしてくれたかったのである、っしかし彼氏の演奏は、っそうした感傷を拒絶して憚られないのであった、っそれがしばしば、っぼくには単に無趣味、無感動にっきり聴こえなんだ、熱くなるまいとされていることはわかるが、熱くなるまいという消極的の態度っきり聴こえず、っそうされたことによりなにが達成せられたのかがよくみえないばあいがおおかった、指揮者とオケとの関係というのもおもしろく、っよく弾ける団体であればあるほど勝れた演奏を行なう人と、ヘタに楽団が巧いとかえって音楽が小手先へ流れてしまい、っあまり弾けない団体をうるさく扱かねばならなんだと思量せられるさようの公演のほうが、執念が発露して好感を與える人といられる、汐澤氏はぼくには後者の方という印象で、っときにプロフェッショナルも立ち混ざった団体を振られることもおありだったが、折角にこんなに弾ける楽団をお振りなのに、なぜもっといろいろとなさらないのだろう、なぜこんなにもあっさりと音楽を流してしまわれるのだろう、っとこちとら客席でいじいじしてしまったものだ、対して上記、フランクを演られたのは、世辞にも巧いとは云えぬ団体であったものである、
っさて、規律に貫かれた汐澤氏に対して、金山氏の棒はいかにもおおらかでいられ、っときには、そんなにテキトーに振るんかいっ、ってなものだが、っそのことによるざっくばらんな奏楽はぼくにすれば、カラー・フィルほか、彼氏の主催団体においてここ数年に聴き馴染んだものであり、誰も彼も指揮法指揮法した棒の軌道と鳴る音とでいかにも画一的でつまらない当節にあって、っあのように恬淡たる楽音の膚合いこそは耳にこころにうれしい、
っせんじつ和田一樹氏を聴いた際には、棒の的確さ、っそつなさがむしろ鼻持ちならなく、お高くとまっていないで夢中で音楽をせんかいっ、っという苛立ちをおぼえたのであり、っしたがってもっと多様な歌、多彩な音色が慾しかったのであるが、っきょう金山氏を聴き、っさようの棒だから表情らしい表情は附かず、音色も千変萬化とはとても謂えないのであるが、っではそれに対しておなじように、もっとゆたかな音楽をくれよっ、っとの不満を懐くかというと、っまるで否である、朴訥な造形にもなんらの憾みもないし、利いたふうの表情や音色の変化なぞ、っぜんぜんなくてけっこうである、音楽とはまことにおもしろく、奥深いもので、っそれなりに表情の附いているはずの演奏に対して、ぜんぜん表情が足りないっ、っとの不足をおもうこともあれば、変化に乏しい無粋な演奏を、このまま無粋なままでいてくれてよい、っと許容しうることもあるわけだ、
スッペは、っじつに愛すべき作家であり、っそれは彼がちゃんと勝れた作品を書いているからである、っとは申せ、っぼくはオペレッタ全編などどれひとつ識らず、無数にあるその序曲のいくつかを愛聴するにすぎないのだが、っぼくが最もこのむのは、っじつにきょうの《詩人と農夫》である、、、っあ、っぼくのいつもの文体からゆけば、《詩人と農夫と》っと書かねば不統一であったか、2番目はといえば、最有名の《軽騎兵》は、天邪鬼、臍曲がりのぼくからすれば採りたくない、有名に成りすぎることの悲哀というのはあり、ブラームス《ハンガリアン・ダンス》をどれか1曲のみ聴かせてもらえるというならば、っぼくがまず眞っ先に棄てるのは〈5番〉であり、〈1番〉か〈4番〉かで眞剣に悩むであろう、スッペならば、《うつくしきガラテア》《スペイドの女王》《ヴィーンのあさ午晩》、っいずれ棄て難いけれども、2番目はぼくは断然《怪盗団》である、ファンファールに始まり、っさいしょの主題をトュッティにするときの、一見シアリアスだけれど、っどこかくすりと笑える畳み掛け、ギターを伴なうクラリネットの鼻歌の寛いだたのしさ、2度目の鼻歌へ入るファンファールの合いの手、コーダへ向けての起伏に富んだ賑やかし、っその最後に4度くりかえされる上昇音型は、っだからぼくはこの作のあらすじもまるで識らないのであるが、怪盗団の面々が、野郎どもっ、ずらかるぞっ、あいあいさーっ、っと逃げ足の構えをする様を描写しているように聴こえ、っこの音型の後、オケはまさしく脱兎のごと駈け抜ける、っいずれもたまらなく愛おしい場面場面である、
っそんなに愛惜しながら、当の《詩人と農夫と》の実演を聴いたのは、っひょっとしてきょうが初めてなのではないか、ったしかそうである、解説には定まって、序曲はしばしば単独で演奏せられる、っと書かれるのであるが、っそんなのは嘘で、ロッシーニだヴェルディだ、っあるいはヴァグナーだの序曲や前奏に比すれば、スッペは、名は通っており、誰しも1曲や2曲は音盤でその作を聴き識っていても、演奏頻度は高いとは云えない、東京へ6つも7つもプロフェッショナルの楽団があっても、っそのどこかのどれかの定期がスッペのなにかで開幕するなどということは、っまずない、アマチュアの公演も聴き、聴かないまでも演目を数多に検めることをしているぼくでも、おっ、ここスッペ演るんだっ、っと気附いた機会はごくごく僅少である、っまだしも演られるとしても、っそれこそ《軽騎兵》か《詩人と農夫と》かくらいであり、《怪盗団》となれば、序曲のくせにしてギターを用意せねばならないなど、実演を聴くチャンスはまず絶望的であろう、
っこんやの演奏は、ったっぷり、堂々たる佇まいで、セロのソロも立派、中途から、いま俺、《詩人と農夫と》を直に聴いているんだよな、、、っ、っとの感激に襲われずにいなんだが、熱愛の楽曲だけはあり、俺ならここのリズムはこういう感触で処理するけれどな、っとかという贅沢な不満を募らせ、っしかしそうした小器用さを望めなくてこその金山氏の存在感なのであって、ドゥアだろうとモルだろうとそのために音色を凝ったりされない、曲想の繫ぎ目でも勿体ぶったテムポ操作をされない、神経質に弱音を効かせたりされない、っさようの粗野な音楽性からスッペがすっぴんのままぼくらの眼前へ顕れ、っまことに好感を惹起せられずにいない、
誤解されたくないが、無表情の、ザッハリヒカイトの音楽が鳴りつづけていたというのではまったくない、指揮者が表情を附けることが目的化した棒を振っていられないというだけで、オケはめいめいが懸命に弾かれ、っそれが期せずして迫眞の音の貌、音の色へ昇華せられていたものである、チャイコフスキーにおいて、エルガーとともにこんやほぼ最大の編成となった楽隊は、冒頭から木管の塗り重ねが分厚く、っそれがそのまま不穏不吉の前途を伝えるし、学生オケとしてちゃんと弾ける絃、殊に中低絃は、弱音主体、中音量以下のなかで行なわれる序奏中の漸強に、っやはり早くも悲劇の苦味を宿している、っこの中低絃の音色は文字通り出色で、両家諍いの㐧1テーマの片鱗を示す部分へ遷移する際の、爪を立てて烈しく胸を掻き毟るごと狂おしさ、悲恋の㐧2テーマを再現した後、コーダへ向けて退潮してゆく際の変奏の、っじつに救いのない沈痛、っいずれも一途な奏楽がどんな表情、っどんな音色よりも曲の核心を刺し貫いていた、
対して高絃は、辛く云えばそれと同格の凝集力を具えていたとはしえないが、っしかし、井﨑正浩、森口真司両氏の棒でもっと大音場で同曲を聴いた際には、楽団はいずれも非力で、っきょうのように弱音部にも濃密なドラマがなく、主部では㐧1テーマのぎしぎしと軋るポリフォニーも、㐧2テーマのめくるめく昂ぶりもともに体現し切れなんだところ、っきょうは複雑な声部声部の拮抗でも全体がダンゴへ堕さないし、歌においてこそポリフォニーを十全に伝え、っそのすべての場面で、絃は恆に満ち溢れるひびきで中音場を支配していた、っそしてぶっきらぼうにみえる金山氏も、㐧2テーマで絃を追う木管、ホルン、トロムボーンを、っもののみごとに浮沈せしめられるのであった、
ドヴォルザークももちろん安易な表情を頼まぬ直截の語り口で、小品に対して長丁場なので、流石に色気や気障な節回しのひとつやふたつ慾しい気もせぬでもないが、1楽章がさいしょのトュッティへ至ると、最も快いオーケストラのひびきというものに全身を包まれ、っそれが全曲を一貫する、構成といい書法といい、土台、小作りに作ってあるこの曲で、相応に間接音の成分のすくない大音場での演奏では、音楽的に単純すぎて間が保たない頼りなさがある、っそれが、綜奏はめいっぱいに展がり、音の薄い部分ではソロの息遣いまでリアルに伝わるかかる器で聴けば、俄然、っどこもかしこも魅惑の塊である、筆もがんらい、っかようのひびきを当て込んで運ばれたのにちがいあるまい、2,000人も入っちゃう音場とか、ばか云ってんじゃねえよ、っというところではないか、
終業して着替えるときには暑くてかなわず、汗だくになったものだが、荻窪で中央線を降りると清しい夕涼みで、っいまも、外気は温いには温いが、快く頰を撫でる、っまだ聖蹟の駅の喫煙所へおり、っこれから帰る、
っお次は、日附が変わったのでもうあさって、広島日帰り強行軍にて、フェドセーエフ氏が振られるはずであった広響公演、