ざっかん記 -4ページ目

世田谷の、




中学校校庭の調査、続行中だが、っあすは大風のため、事前に中止とした、会社からも、とくだん緊急の業務がないばあい、休暇の取得を推奨する、っとの達しがあり、素直に休むこととした、



っぼくはXを偏執的にサーフィンすることはしない、っここのところ散発的にあれこれのポストへ返信をしているが、自分ではポストはしていない、っこの駄ブログの更新時毎に、リンクを投稿しているのみだ、

っきょうは先の大戰の終戰の日、、、一般に右傾の向きでは敗戰の日と呼ぼう敗戰の日と呼ぼうと云わるが、っぼくは、っまず形式上のみとはいえ、有色人種の解放という大義の一端は果たされたという点で、必ずしも敗北一色ではないと解し、敢えて終戰の呼称にこだわりたい、大東亞戰爭は、っあるは幕末からその終戰へ至るまでの1世紀弱の激動の経緯は、500年1000年の時を經れば、大略として我が日本のあらたなる神話として語られうる内容を誇っているとおもう、っこれは言及済みだが、戰爭を美化するなという声はおおいけれども、美化とは、っうつくしくないものをさもうつくしいかのように騙ることを謂う語彙である、っだから、先の大戰を美化するな、っと云われてもぼくにはさしてひびかない、っそもぼくは大東亞戰爭を頂点とする我が国の近代史を、大略として、っここ再度三度くりかえすよ、大略としてまったくうつくしいとおもうからである、っもちろん悲劇もあり、暗部も恥部もあろう、っけれども、っそのことをいくら強調されても、っそれはどこまでどう解釋してみたところが、っけっきょくはむつかしい時代のなかでの不可抗力と納得するよりほかなかろうとの結論へ、っすくなくもぼくはいつも落着する、、、っえっと、上の読点3つからここまでが挿入句ね、っだが、っなんだかヴァイオリン弾きらしい方のポストで、っその方のおばあさまがほかでもない79年前のきょう8/15にものされたという日記の文面画像をupされ、旧字、旧仮名遣いのために判読に難儀されている旨、投稿されているのへ行き合った、っすでにほかの方が全文の新字、新仮名への置換をなされていたのだが、っぼくにとってもさほど難読の文面ではなく、っほぼ滞りなく読み下すことができた、っそして、っその文脈にいたく感銘を享け、っひとこと、返信を送らせていただいた、

っその大意は、玉音放送を拝し、泪したこと、兵卒、およびそのご家族への慰撫と深謝と、敗戰が我が3000年の史上におく一大汚点であること、國體の護持こそが肝要で、我等はきょうというこの日の汚辱をけっして忘るまいと胸底へ銘記し、いつの日か必ずや仇を討たむ、っと、

っその方は大正のお生まれといい、っしたがって終戰時にはお若くてハイ・ティーン、上で30がらみというところだが、っかかる手記、っつまり他人に読まることを想定していない、飾る必要も騙る必要もない、眞率と取ってよいだろう文筆がさようの文面をしているということは、っいかにもぼくの溜飲を下げる、

っわけてもほくがいちばんに感激し、返信を送らずにいられなんだのは、以下の1文へ接するに及んでである、曰く、でもこの罪は誰にあるのか? 政府、軍人は問うまでもない、私達一億国民が背負うべきだ、っと、っこのたった1文脈はしかし、戰後に流布せしめられた自虐史観をきれいさっぱり洗って余りある、っぼくは兼ねてより、戰前・戰中を確立せる自意識と社会性と、、、っもっと早く云えば常識を有って生きられた世代の方には、戰後に洗脳を受けた世代がおもうよりも遙けく冷静で幅広く、逞ましい自己認識、社会認識がともにおありだったろうとかんがえていたものだが、っこの方の手記はまさしくその證左である、

っわずか一個の傍證にすぎないと云わるかもしれない、っが、前段の文面から推して、失礼ながら、っこの方は社会的に特別に高い地位に存る選良的の女性とはみえない、っいわばなんの変哲もない市井の人として大過はなかろう、っよって、っこの文面と同様の認識を具えた国民がその往時に相当数いられたと当て込むことにも、っまた大過はないと思量せらる、

っいまいちど、>でもこの罪は誰にあるのか? 政府、軍人は問うまでもない、私達一億国民が背負うべきだ、っぼくのかかる自虐史観への修正の企てを煙たがる向きは、どうせおまえは、>私達一億国民が背負うべきだ、との自己責任論をよがっているのだろう、っと横槍を入れたいのではないか、っしかしそれはぼくにとりさほどの痛痒ではない、っぼくがより感銘しているのはむしろ、>政府、軍人は問うまでもない、っこの1文である、っこの1文が引用文全体へ与える奥行きこそは、っじつに甚大である、自虐史観を覆されそうになることを嫌がる向きに、っそのことがわかるだろうか、っぼくはぜひにわかってくれたい、

っもう日附を跨いで終戰の日はきのうとなったが、っきょうは休みを取ったので、っこのまま、っなるがたけ丁寧な説明を試みたい、

戰後の歴史認識というものにぼくがおぼえる脆弱さとは、自国の歴史とその経緯に対する責めを、っなんらの躊躇とてなく他責的に語る安易である、っそしてその安易を、>でもこの罪は誰にあるのか? 政府、軍人は問うまでもない、私達一億国民が背負うべきだ、っとの戰前・戰中派の手記は優にクリアされている、自虐史観に隨えば、っなんだか戰前・戰中の我が先人はお上からの達しに隷従盲従せる不明の人の群れということとなるが、>政府、軍人は問うまでもない、っの1文がその偏見を払拭する、っのみならずこの引用文全体は、他責的に責任の所在を探しているのでなく、政府、軍部の要人も一介の市民も、等しく我が日本国国民に相違なかろう、っと読める、

体制として民主主義を布くからには、国民として政府を対他的に語ることは、っすなわち幼稚であり拙劣である、っというよりも、彼彼女は民主主義を正解していないというほうが当たっている、彼彼女は云うだろうか、選挙制度を典型として、民意を反映しづらい構造を議員の歴々によって組まれてしまっている、っぼくは云おう、それも民主主義の結果でしょ、彼彼女は、彼彼女の夢見る善政を指して、民主主義を守れっ、っと叫ぶ、っぼくは云おう、それを目指しに目指した心算が、やっぱり種々の通弊悪習に苛まれずにいないこと、そのこと全体を指して民主主義と弁えておくべきじゃないの、っかかる議論は、手ぬるい現代では堂々巡りを来たそうが、上のような手記をものしうる戰前・戰中派の方々のご認識は、僭越ながらよりぼくの側に近くていらっしゃるのではなかろうか、前現代を無条件に現代に劣後する時代とみることは、っひじょうに危険な陥穽である、

っこれもいつかに云ったとおもうが、っむかし〈たかじんのそこまで言って委員会〉を視ていて、っや、っあれは個人が切り出してYouTubeへupしたものを視聴したのだろうか、っよく憶えがない、っいまだ三宅久之氏のご存命ご出演中で、政界へ転出以前の橋下徹氏などもお出になっていたかとおもうが、っやはり先の大戰のことを議題としており、最後、っまとめとして引き取って司会の辛坊治郎氏が、しばしば往時の日本とドイツ、、、ドイッチュ表記で統一するんだったな、ドイッチュとが同列に論ぜらるが、両国は体制として本質的に異なる、我が日本は終戰へ至るまで一貫して民主主義国でありつづけた、そのなかでしかし治安維持法を通し、国家総動員法を通し、軍部に枢要な大臣ポストの掌握を許し、実質として軍国主義国家としてふるまった、ということは、国会なんだよ、っとここで宮崎の哲ちゃんが高い語気を有って、そのとおりっ、っと和し、辛坊氏が、国会がちゃんと機能していればそんなことにはならなかったんだよ、っとつづけ、っふたたび宮崎氏が、そのとおりっ、っと相槌を打たれた、っそこへ三宅翁の、うんっ、そうだっ、っとはげしく肯くお声も重なっていたのではないかとおもう、

終戰のまさにその日、玉音放送を拝したその震蘯のさなかに存ってなお、>でもこの罪は誰にあるのか? 政府、軍人は問うまでもない、私達一億国民が背負うべきだ、っと書ける人を、戰前・戰中の人々はお上に拐かされ、唯々諾々とそれに隨った不明者と評価することは、っあきらかに不当であるというか、単に誤っている、彼等は、っどんなに名ばかりであれ、民主主義体制として開戰し、民主主義体制として継戰しつづけ、っついに民主主義体制のまま終戰を迎えたからには、国民の誰ひとりとして、、、っすくなくもまず有権者ならば、完全に無辜ではありえないと、っしかと弁えていられたのである、

っさようの逞ましき常識人が、っいかな敗北の痛手が心身へ重く圧し掛かろうと、戰後にすぐさま飜意飜転して憚らないとは俄かには信じ難い、社会のさまざまの位相において、彼等はどうとかその気骨を示さむと意志し、行動したにちがいなかろう、っけれどもそうした出る杭は、公職追放その他の占領地政策により打たれ、挫かれていったのかと拝察せらる、っそしてぼくなどは、苦汁をしぼりつもけっきょくはその軍門へ降った人々により築かれた、っそれもまた年月を經れば盤石となってしまった、敢えてこの語を用うればレジームを一身に呼吸して育った世代なのだが、不勉強にして文献や史料を渉猟してみることがなくとも、漠然とでも、酷烈の時代を生き抜いた人々の認識が、そんなにばかげているはずがあってたまるか、っとくらいはおもっていた、っそこへきょう、貴重な日記の1頁を拝見拝読し、やはり往時の人は政府にも軍部にも無批判の隨従ではいられなかった、そしてもちろん民主主義国の一国民としての自己責任も自覚されていた、っとの一例へ触れることが叶い、っまこと感激に堪えなんだのである、

民主主義を標榜して各種のデモンストレイション等へ勤しむいま現代の活動人士よ、政府がたまさか自分一個の意に染まぬふるまいを為すからといってそれを指弾して、民主主義を守れっ、っと叫ぶことが、っいかに幼稚な民主主義の誤解、冒瀆であるか、篤とおもい知れ、民主主義体制がいくらかは増しに機能するとしたならば、っそれは任意の有権者一個の投票行動の如何に依らず、政府の施策とは国民の総意の応報であるとしてこれへ耐える気概を有つ者で作る、っその国家においてのみであるだろう、民主主義者たらむとするならば、国民として政府を対他的に語るな、っどんなに自分と対立する政策を掲げる政府であってもだ、完全な他責も完全な無辜もないものと弁えよ、っとうぜんの常識だろう、っこのとうぜんの常識をしかしわずかならず失している現代のぼくらでは、気高い常識人たるの大東亞戰爭の当事者諸賢について喋々する資格は、有てなくてまたとうぜんである、

っさようにして大東亞戰爭は、美化の対象であるはずもなく、っただにうつくしいのである、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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桜木町、




金山隆夫氏の棒、カラー・フィル公演、済む、演目はドビュッシー《イベリア》、シュトラウス《アルペン》であるが、恆のとおり憮然たる金山氏は、前プロのあとも、っぼくはすばらしいとおもったのでほかの人のものは減衰してきてしまうなか拍手をつづけたが、指揮者の再登壇はなく休憩へ入ってしまい、本プロ後も、っいったん引っ込んでからでなく終演後すぐに各パート単独の答礼を促し、2度目にはもうオケからの指揮者への喝采となって、っそのまま全楽員がこちとらへ首を垂れてあっさりと散会してしまう、っよって14時に開演していま出てきて、っまだ15:30すぎである、

っとくにあほヴァイアラス騒ぎ後の、っほとんど無条件にとでも云いたいくらいに客席から舞台へ篤い拍手と歓呼とを長々と送る慣習をあまり快くはおもっていないぼくとして、っこのくらいあっけなく始まってあっけなく了わる会というのは歓迎である、っぼくはオケの登壇時も他の全員が出揃ったあとでコン・マスのみが単独で出るのがいやで、っいっしょに出てきたがよいとおもっており、彼等の登壇中は拍手もしないし、っただ、コン・マスがこちとらへ辞儀をされるときは、っそれに応えてぼくも客席で頭を下げるようにはしている、っもっとも、っその辞儀もほんとうはしてくれなくていっかなけっこうである、っむかしのオーケストラのライヴ動画を観ていると、コン・マスはほかの人といっしょに勝手なタイミングで袖から出てきて、客席のほうなど気にもしないというふうにすぐに着席してしまう、っあれでよいのだ、っあんまりお客へ向かって媚態を振り撒かないで、俺たちは高踏な音楽をやってんだぞこなちきしょう、てめえ等なんぞにわかってたまるか、っと超然としていてくれればよいので、っもっと云うと、日本人のぼくらとしては、指揮者とコン・マスとの握手も不要とおもう、握手という礼法は日本の伝統にはないからで、っいかな西洋音楽を演奏するのであっても、指揮者が袖から出てきて、オケへ向かって会釋、、、っちなみに指揮者のオケへの会釋は、っお客への辞儀の後にではなく、前にである、っぜったいにっっっ、っはするけれども、コン・マスと握手はしない、っもちろん終演後も同様、っさようの指揮者と楽団とがあったら、ったいへんにこのもしいこととおもう、

自由席、13時開場で、っその30分ほど以前には器へ着いた、20番目くらいであったが、開場直前に1階席のみの開放だとの案内があり、落胆す、っまんなかの通路の後ろの最前列、中央ブロックの右端へ背嚢を置き、外で汗だくになりながら喫煙して開演を待つ、器直近の喫煙スペイスはさいきんに廃止せられてしまったが、っそれと一体の商業施設を日本丸の側へ出て建物伝いに器側へやや戻ると、っべつの喫煙スペイスがあるのだときょう知る、

っさておき、ドビュッシーから絃はフル編成で1st17からバス8までがどっさりと乗る、アマチュアでかかる曲趣をかかる規模で演ると、各ソロが冴えなんだり、絃は、っひとりびとりは最弱音の心算でも束にするとmpくらいになってしまっていたりで、全体に大味となり勝ちだが、っきょうの彼等はちゃんとチェムバー的の箱庭を現出せしめる、絃はコン・マスのソロとか、前列の方のみとか、プルトの裏のみとか表のみとか、っいろいろのディヴィジがあるが、っその際に音のキャラクターが薄まってしまうこともなく、ホルンは澄明、トロムペットはほとんどオーボーのような剣のない音勢を事とし、っしかもちゃんときれいな音色で、っこまかい音符がぜんぶ聴こえる、っすばらしいテクニークだ、カスタネット、タムブリン、デューブラー・ベル、シロフォン、っあるいはハープ、チェレスタといった特殊楽器の聴こえ方も最適で、㐧3曲の終結でやっとつよい風圧のトュッティ、っしかもそれとても爽快の部類へとどめ、っまことにみごとな開幕である、

《アルペン》では、流石に曲の偉容を発散し切れない場面も出てくる、ったとえば〈陽の出〉にしてからがそうで、舞台上のホルンは主題を吹くときに満々と勝ち誇るような音量を出せずにしまう、っこれに対して〈登山〉が始まってのバンダのホルンほかは舞台裏ではなく舞台右っ肩の客席へ陣取り、っしたがって通例よりも大音量であり、舞台上の絃の合いの手を完全に掻き消してしまう、っただし、曲頭からの〈よる〉はすばらしく、トロムボーン、ファゴットとテーマを仄めかし、ホルン、クラリネットが加わるころにはVnが入り、っついに横笛とともに山の稜線に光の矢を望むグロッケンシュピールは、ちん、っとしか打たないしょぼい演奏もおおいなか、っちゃんと、かきんっ、っと大粒の耀きで、っそうでなければ《アルペン》は始まらない、

っその後は概して好調で、〈牧場〉にカウベルを聴いて以後の絃の優美な歌は、朝比奈さんの意想外なほどの快速で生き急ぐ颯爽も懐かしかったが、金山氏はゆったりとこころを籠めて唄う、っうつくしい音色だ、

〈登頂〉がまた立派で、トロムボーンのコラールに襟を正され、オーボーはみごとな独り舞台、っその後に打ちつづくしばしの大トュッティはほんとうに晴れがましい眺望であり、作家が異名《アンチクリスト》と呼びたがったというそのほとんどエゴイスムスと表裏を一にするヒロイスムスがありありと実感せられ、っその彼方にニーチェの俤がちらつくようで、っぼくとして感泪も堰き難い、

〈嵐〉ではぞんがい各声部とも音型がこまかく、音量を出せないが、っためにかえってオルガンやウィンド・マシーンがよく活きる怪我の功名、サンダー・マシーンを加える最騒音はちゃんとけたたましく満堂を揺るがす、

〈落陽〉ではやはり絃がよよと泣き濡れ、っとうとうふたたび〈よる〉へもどる、個人的には最後の最後、Vnの下降グリッサンドをもっと効果的に活かしてくれたかったが、見ていると、っその心算で残しておかないと弓が足りないといったところだ、っとまれ、旗日、山の日にこころゆくまで登山気分を堪能した、、、っいつもおもうのだが、1日でアルペンをてっぺんまで行って麓へ戻るって、日程として不可能だとおもうんだけれどね、っま、っそれは云いっこなしってこって、



っさて、っお次は来週のきょう、っまた金山氏の棒で、川崎でマーラー《3番》である、っつづきますねえ、アンチクリスト気分が、っそれから、カーチュン・ウォン氏と愛知室内オーケストラとの公演の切符が売り出しているのへ気附かず、っきょうさっき、開演前に慌ててアカウントを作り、購っておいた、芸文センター、っよろしく2階正面の最前列の最後の1席を得られたのだが、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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上野、




念願叶って、都美館にてキリコを観る、

1階の展示か、マヌカンで括って数点揃えた一隅が個人的には最も印象深く、至近距離でためつすがめつしたのち、距離をとって観たり、っいったん次のコーナーへ遷ったあとで戻ったり、2階へ上がる前にもういちど戻ったりと、最も時間をかけて鑑賞した、

っわけても《不安を与えるミューズたち》という1作は、っこんかいの展示でも白眉とすべきだろう、出口のところへ撮影コーナーがあり、パネルへ複写したものがあったので撮った、


若くときの主題を後年に再制作したものとのこと、写真をパネルへ焼くとかく陰翳がどぎついふうだが、実物はもっと全体にシックで落ち着いた色調であり、画面全体を丁寧に仕上げた完成度といい、比類のない逸品と映じた、っこの手の作があると以前から知ってはいたが、っきょうぼくのなかで、《愛の詩》などとともに、最も愛すべき彼の作のひとつへ躍り出た観だ、


本作で色彩について感慨無量なのは、マヌカンの頭部の赤や、画面奥の、実在するという建物の緋色である、っさっきそれを観つ、画学生時分、相笠先生がご自身の東京タワーを描かれた作を示されながら、赤という色の彩度を発揮させるに、くすんだ灰色の中へそれを置くに如かず、それで東京タワーを描くについて、敢えて背景を曇天にした、っという旨のことを云われたのを頻りに想い出していた、キリコもここで、赤や緋の隣へ空や翳の汚ない色を置いている、


マチエールについては、っごくわずかにごてごてと盛り上げたものもあったが、っほぼおもったとおりの薄描きである、ルノアール風のタッチへ傾斜したものはぼくは画膚としてこのまないが、っやはり彼からの直接の影響があったらしい、モティーフにしても、画だけを観ていて伝記の類へ当たってみないぼくからすれば、ったとえば家具をでかでかと描いたもののその発想などを知れてたのしかった、形而上云々というが、っほんとうは身近手近な身体感覚から主題を得ているのであり、っそこに健康美を感じないわけにゆかない、シュルレアリスムでは、っついにブルトンなどには近寄れないままのぼくであった、不健全なのである、っあの不健全をしかし得々として見せびらかしてくる感触が、っどうしてもいやなのである、っいろいろと叩かれている今次の五輪開会式などは、っそうした居直り不健全の成れの果てなのかとおもうが、絵画では、っはじめはダリに痛く傾倒したぼくも、彼も彼で、ブルトンなどよりは数等増しではあるもののやはりどこか画面が健康ではない気がし、っのちにはマグリット、っそしてより超然たるとみえるキリコに惹かれるに至った、


彼の著作を読んだ記憶があったが表題が想い出せず、っさっき略年譜を見て膝を打った、っそうだ《エブドメロス》だ、っこの著述刊行の経緯がまたイカしていて、キリコはシュルレアリスト連へ接近しつも従前よりブルトン等のとくに自動筆記には密かに拒絶反応を有っていた、っそれで見様見真似の自動筆記風でくそテキトーに当の著述をものして発表するに、ブルトン等からは嵐のような絶讚、っそれを聞くに及んでシュルレアリスムとの訣別をあっけなく決断したとのこと、っきょうの案内書にはそのあたりの詳細は触れられていなんだが、土台、一個の藝術家は、っへんてこな思想核らしきものへ群れていられるほど閑ではないということだろう、外形的にはあれこれの運動へ参加していると見えても、キリコはほかの誰でもないキリコであり、っそこが偉大である、


自画像もとうぜんながら数点、来ていたが、っざんねんながら、



っこれに匹敵する光芒を放つものを見出すことはできなんだ、彼のセルフ・ポートレイトは無数にあるが、っまず大半のものがこの作に比して描写の密度として何段も低く、顔の表情をして憂愁を語るにまるで及ばない、っこの作を制作中にのみ、すべてを云い切っておかねばならない、っというある種の霊性に憑かれたのにちがいない、っどの程度、有名な作なのか知らないが、っこれの載った画集に出逢えたぼくはほんとうに仕合わせである、紀伊國屋か、っちがうBunkamuraのギャラリーかなにかだったか、っそこでなんの気なしに開いてこの瞳に見つめられてしまい、貧乏画学生にとっては安くない代物だったのだろうが、っもう購わずにはおれなんだ、っいまでもそのときとおなじように鮮やかにかくおもうが、っいつか、っこんな貌のできる年寄りになりたいものである、




っさて、地震があったとかですこしく帰りの電車が遅れたが、っあすはなにも予定がなく、っお次はあさって、金山隆夫氏の横浜での無料公演、曲目はなんと《アルペン》である、っそれから、っきょうは井上キーミツとOEKとの最期の公演の切符の一般発売であったが、っよろしく購入に及んだ、っこれで年末までのぼくが行く予定の全公演の切符を入手したことになるのかとおもい、っひとまず胸を撫で下ろした、っあとはキーミツのご快癒と、年末まで駈け抜けられるだけの体力とを希求しないわけにゆかない、っもうこれ以上、大切な公演公演が欠けて代演が立ってゆくのをみるのはいやだし、っご当人にとってもそれは耐え難い痛苦であることだろう、




みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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川崎、




っまた早く起きられなんだ、都美館はあしたでいいやと寝っ転がりながらテケツを再度、検めるに、16日までの平日のみ有効の券を購っているとわかる、金曜はよるまで開室しているのだが、来週は日中、世田谷の現場で汗だくになってから着替えて出向くのもイヤで、っつまりもうきょうの公演後に梯子するっきりない、っいまJRへ乗り、30分と掛からずに上野へ着くが、18時ころから、閉館の20時まで、っまあ2時間あればたっぷり観らりょう、っだいたいぼくの美術館の滞在時間といえばそのくらいだ、



っさて、公演だが、広上淳一氏の棒、日本フィルで、シュトラウス《狩》、服部百音女史を迎えて《メン・コン》、っそしてチャイコフスキー《5番》である、っきのうはやはり平日の午ということもあり、堂内は閑古鳥が啼いていたが、っおなじく平日のきょうであるのに、打って変わって満員札止め、流石はド定番の演目である、っちなみに、広上氏の髭面は解消、

っきのうの神奈川フィルといいきょうの日フィルといい、開幕から愕くのはまずその音量である、両者とも力づくで鳴っているわけではぜんぜんないのに、音場がびりびりいうほどの鮮烈な音響がする、っここではアマチュアを聴くことがおおいからだろうか、ミューザってやこんなに鳴る器だったかしら、っというところ、っただ、ピキェロなどの最高音はほんのかすかにきんきんするかんじがしたが、気にしなければ気にならないという程度のことだ、

シュトラウスで賑々しく開幕して、服部女史の《メン・コン》はといえばあいかわらずスポーティなまでで、っぼくなどはかかる曲調あたり、っほっと息を抜きつ聴きたい瞬間もある、

チャイコフスキーはどこにも衒いのない造形で、日フィルはとても好い音を発していた、1楽章の道中など、っなにかはっと目覚めるように曲のすばらしさが眼前へ展がるような気がし、主題を遷る毎に、どれもうつくしいなあ、、、っと胸が震い、ったびたび目頭が熱くなった、

2楽章のホルンも、っあれは読響の人だったかな、胸いっぱいの大舞台、フィナーレは覇気充溢、っそれでいて熱情へ感けず、最後までアンサムブルとしてものを云いつづけている点がすばらしい、



っさて都美館、集中集中、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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川崎、




園田隆一郎氏の棒、神奈川フィル公演、済む、っあさのうちに都美館でキリコを観てきてとおもっていたが、っぼやぼやしていてその時間がなくてしまう、テケツは、17日以降は会期末にて当日のみ有効らしいが、16日までのものはいつでも来ていいよという券なので、っあす、行ってくるとせむ、っあすも午后はここ川崎で、広上氏と日本フィルとの公演、っきょうも来場されており、舞台を左っ肩辺から見下ろす位置へいられた、遠目には髭面は解消されたように見受けたが、っあす、判明するだろう、

演目は、團伊玖磨生誕、っおよびプッチーニ歿後のともに100年とのことで、前者の今上陛下と雅子妃殿下とのご成婚を祝す《新・祝典行進曲》の管絃楽版に始まり、木下美穂子女史を迎えて同《夕鶴》から、っぼくは同曲全幕をよく識らないが、っおそらく最重要なのだろうアリア、っそして《シルクロード》スートを演って休憩、後半は笛田博昭氏も加えてプッチーニのアリア集を作曲年代順に、

っぼくはシムフォニー・コンサートばかりでオペラを観に行く習慣を有たず、っばかりかかかるアリア名撰にすら縁遠いが、っきょう神奈川フィルの実演を聴いてもそうだし、音盤でその種のライヴ音源を聴いてもそうだが、シムフォニー・コンサートのときよりもオケのアンサムブルに勝れる気がするのが、っなんというか癪だ、っその率は高いようにおもう、

っあれはなんだろう、シムフォニーでは指揮者からの要求もあれこれと微に入り、奏者奏者が、あれも叶えむこれも叶えむ、こんな要求もされているあんな要求もされている、っとあくせくするあまり、っかえってアンサムブルのぎくしゃくを結果してしまうことがままあり、歌手が主役でそれを立てむがために合わせることありき合わせることありきで守りへ入った練習を積んでいるほうが、っむしろ創、、、きず、ね、きず、創のすくない、っまずは耳当たりのよい音が出せてしまう、っとかという皮肉だろうか、

っあるいはそうかもしれない、っこないだの井上キーミツと同フィルとの公演など、伊福部《リトミカ、、、》あたり、いますこしくぴしっとタテを合わせに来ないか、っといじいじさせたもので、攻め切れないのなら、っいっそ守勢のほうが聴き手に好印象を与えないともかぎらないのだ、

っというのも、神奈川フィルにせよどこの楽団にせよ、っきょう日の日本のオケはどこもたいへんに緊密な合奏を為しうる、っよしんば内輪内輪に振る舞ったとしても、っじつはさして創意に乏しい死音の連続とは聴かせないのだ、っきょうもそうで、園田氏の棒はどこまで行ってもひたすらに手堅い、、、っご存知のとおり、っぼくはこれをややクリティカルな文脈として語っている、っが、オケは開幕から燦然と耀き、っのち、曲趣曲趣に合わせて無碍なる変貌を遂げつ、終演するころにはちゃんと満堂、、、空席過多だったが、っをうんと唸らせたのである、っその間、っいわゆる単純なエラーも極少だったし、声部間の連絡不行き届きに因するばらつきもたつきもほぼ起こらないし、音色も強弱硬軟もちゃんと多彩だし、っほんとうに、いつもこの音でシムフォニー・コンサートをやってよっ、っというふうなのだ、



ってなわけで、っあすはいまや天下の日フィルによるそのシムフォニー・コンサート、っぜひ気張らずに、各人がのびのびと羽搏くのであってくれたい、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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川崎、




ジョナサン・ノット氏の棒、新日本フィルで、マーラー《夜歌》、済む、申すまでもなく、っがんらいは井上キーミツがお振りになるはずが、っざんねんながら腎臓がおわるくて降板、代演となった、

去年の二の舞である、っおそらく同様の事情であろう、坐骨神経痛を紛らすがための薬剤が腎臓にはダミッジとなるということらしい、キーミツとしてもさぞかしご無念であろう、同曲は、っあほヴァイアラス騒ぎの往時、大阪フィルとの公演が挙行せられるはずで、っぼくも切符を購ってたのしみに待っていたが、っぼくはまったく不要であったといまでもかんがえているしかしその集会の自粛により、っあえなく中止となった、キーミツはそのときの口惜しさを、公演は開催できなくとも、私費を投じて大フィルとレコード会社とを雇い、録音だけでもさせてくれろと申し出むかと周囲に相談したが、わるいことは云わないから止しておけと窘められた、っと述懐されている、

っまたべつの機会には、引退までの各公演でマーラー、ショスタコーヴィチの全シムフォニーを演奏し切ることとなり、っご自身がぼくらの面前から去られたあとにともに全集として発売の運びとなると云われており、っぼくとしても快哉を叫んだものだが、後者については、ラスト・イヤーのことし、《バビ・ヤール》と《死者の歌》とを予定に組まれていることから、日比谷旧全集以降の各楽団との記録記録を集成して全集化せむということだろう、っその際、大フィル、新日フィル、っおよびN響との演奏ですでに音盤化せられているものがあり、他の楽団との間で行なわれた公演で曲目が重複しているばあい、っそれらの音源も世に出すこととなるのかは気懸りだ、っただ、っそれ以上に不詳なのがマーラーで、っその全集というのは、新日フィルとのむかしの音源で未発売のものも出すということなのか、っそうではなくそのツィクルス以降にやはり各楽団とこんにちまでに演奏してこられたものを集めると全曲が揃うということなのか、後者だとすれば、っきょうの《夜歌》はその最後のピースだったということとなり、降板により全集は未完成となってしまう、

っきょうのプログラムはノット氏代演となる以前に刷られたものであったが、っそこへ載ったキーミツのコメントによると、当初は年末の最終公演で読響と《夜歌》を披瀝されるお心算であったところ、っおもい直して楽聖《パストラール》とシベリウス《7番》とにされたとのこと、っが、前者はこのあと大フィルとの公演があり、後者は読響とのマーラー《大地の歌》公演で演奏済みであるので、っこの際、生涯最期のワガママ、最終公演の演目をもとの構想どおり《夜歌》に再変更されてはどうだろうか、コメントには、同曲は聴き手を混乱させる部分がはげしい、っとあるが、っすくなくもぼくはまったくウェルカムである、

っそれをおもうと、っあのあほヴァイアラス騒ぎとぜんぜん不要だったにちがいない自粛ムードとは、っほんとうに罪作りである、っそれは大事な作品を演奏せむとする一個の音楽家の人生を奪い、っそれを聴くはずだったおおくの人々の人生を奪ったのである、



っさて、ノット氏だが、っまず絃の配置が両翼となり、セロ・バスは左へいるので、恆のとおり右寄りへ坐したぼくとして、1stとともにその背後の絃バスの音を全身で浴びることとなり、っその音響バランスはじつに新鮮だった、

彼氏の実演を聴くのは初めてで、音盤では、っあれはバンベルク響とやっていたのかな、マーラー全集のうち《3番》を聴いたし、っさいきんの東響との同《5番》も購った、後者については、っあれラファエル・パヤーレとかといったかな、っなんだかドレッド・ヘアの若いあんちゃんとモントリオール響との同曲音盤とほぼ同時発売で、っふたつとも購ったが、っざんねんながら東響とモントリオール響とではアンサムブルの柔軟性において雲泥の差があり、東響の音はこどものオーケストラみたようだった、

っそれからすると初共演というきょうの新日フィルとはよくスウィングしていたとおもう、っこれがキーミツの棒ならばもっと七転八倒しつようやっと最後の勝鬨へ至るという道程であったのだろうが、ノット氏は、1楽章が開始してさいしょに行進曲主題が出るところこそゆっくりじっくりというふうだったが、っその後は概して颯爽としており、フィナーレなどは目にも留まらぬ早業の連続で突っ切ってゆく、

合奏は絶えずさっぱりとして、っしたがって音色音彩は無類の煌めき、同一主題のリレーなども眼に見えるように浮かみ上がるが、っぼくにとってのこの曲は、朝比奈さんのいまだ洗練されざる昭和ニッポンのオーケストラ、80年代の大フィルとの音盤にとどめをさすので、っそのおどろおどろしいばかりの風体の魁夷と、少々、、、っや、っだいぶん肌理が粗かろうと全声部をがっしりと堆く積んで全体を屹立せしめるあのむさい漢のスポ根奏楽の魅惑はたまらなく、っきょうの演奏などを聴くとまったくの別世界だ、実演ではついせんじつ、ネコケン氏と千葉のアマチュアとの演奏を聴いたが、っそのほうが全体の風合いとしては、っぼくはすきである、一寸どたばたしているくらいが、演奏はたのしいのだ、



っさて、っきょうは世田谷の中学校現場は稼働、営業の社員さんに監督代行を任せてきたが、午に電話を入れてみたところ、っまあ大丈夫そうだ、っあすも現場は稼働、来週の木金もこの川崎の夏の催事だが、っこないだ社長から、現場、余裕があるなら、その2日は水野くんなしで無理にやることないし、止めちゃえば、っと云われ、っそれもそうだなとおもい、止めることとした、っそのほうがぼくも安気だ、っそのかわり盆休みはなし、

っお次はその木曜、園田隆一郎氏の公演で、っあさには都美館でキリコを観て来むとおもう、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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甲府、




コバケンさんの棒、山梨響公演、済む、オケはアマチュアだが、っこんかいで50回目の定期公演とのことで、コバケンさんを招いたらしい、演目は、前半には同地のジュニアとシニアとのオケから17名のトラを加えてヴェルディ《運の力》序曲、っさらにオルガンとコーラスとまでを加えてエルガー《威風堂々1番》を演って休憩、っそしてマーラー《巨人》、前半には司会者がお話しになって臨時のメムバーへインターヴューなどなさり、後半の演奏前にはコバケンさんがピアノを弾かれ、同《さすらう若人の歌》の各主題を唄われながら、っそのシムフォニーとの連関をすこしくお話しになる、ったしかことしで御歳84歳でいられるはず、往時からすればかすかによぼよぼされてきてはいるが、っまだまだお元気だ、

オケは、アマチュアとして中等程度の水準である、奇しくもヴェルディの同序曲はついせんじつサントリーでアマチュアの演奏を聴いたが、テクニークはその団体とは較ぶべくもなく、器のアコースティックもいわゆる旧式の多目的ホール然だが、コバケンさんの棒は慌てず騒がず、素朴な奏楽の味わいがあり、っこの技倆では圧倒的の感銘へは達しないが、っさりとてさほどの悪印象もせず、

エルガーは、っかようの超有名曲ほどぞんがい実演に接する機会が乏しいものだが、っこれもせんじつ井上キーミツと新日本フィルとの演奏を聴いた、っきょうはなぜか曲頭からの軍楽の部分をカットし、っその冒頭句が再現してコーラスを招じ入れる段から始まる、っなぜだろう、っそんなのたかが2、3分くらいのことなのだし、カットしなくたってよいものを、っあれだろうか、っきょうのコーラスは頭っ数がすくなく、音量を出せない団体だったので、彼等が声を出す前にオケのみで一定時間おおきな音を出していてしまうと、声楽の致命的の音量不足が露呈する、っという憂慮があったかしれない、っじっさい、コバケンさんはオケを手で抑えていられたが、っそれでもやはりもっと分厚い声の束を望みたかった、

マーラーは、各部のソリスティックな妙技を要求しては酷というもので、っしかし、コバケンさんの棒は全体に淡々とされており、3楽章あたりからフィナーレ全体など、生涯を懸けて味到し盡してこられた曲趣を遙けく見渡して無心に語り進むような一種、独得の境地境涯が展け、オケはしばしばトチるし、器のひびきとしても潤いを欠く、っつまり世辞にも高級な音響とはし難いのだが、っそれでも静かに、っしかし篤く説得せられてしまうような魅力があった、ったしか来年には日本フィルと同曲を披瀝される公演があったかとおもうので、行ってみむとおもう、



っさて、っあさってから世田谷の中学校の試掘調査、作業員さんはずっと現場で徐々に暑さに馴れてこられているわけで、暢気に冷所でデスク・ワークの監督のぼくが、っいちばんにぶっ倒れてしまうのじゃないか、気を附けて、休み休み作業するとせむ、

っお次はこんどの金曜、川崎でキーミツのマーラー《夜歌》である、午の公演だが、っとうぜん現場をやっている中途である、っが、社長からこの現場をやってくれろと電話をもらった際、8月に平日に休みたい日が何日かあるのですが、っと云うと、そこはなんとか都合を附けてくれればいいから、っと云わる、営業担当の社員さんが、アルバイト作業員さん払底のためこの現場へ一作業員として出てくれるのだが、水野さん、その日は俺が監督代行するからどうぞ休んでください、っと云ってくれる、っその次の週も木金とおなじ川崎の夏の催事のために休んでしまうので、っいささか気が引けるのではあるが、夏休みだろうとなんだろうと、平日の演奏会はよるにやってくれよな、っよのなかの人という人には、仕事があるんだよ仕事が、、、



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《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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川崎、




坂入健司郎氏の棒、東京ユヴェントス・フィル公演、済む、演目は、リゲティ《ルーマニアン・コンチェルト》、石上真由子女史を招いてシマノフスキ《1番》コンチェルト、っそしてブルックナー《3番》である、

坂入氏のブルックナーといえば、っなんといっても音盤に聴く東京ユヴェントス・フィルとの《9番》であり、っぼくは間抜けにも公演情報をスルーしてしまっており、実演を聴き逃して口惜しいおもいをした、っのち、彼氏はタクティカート・オケなる団体ともフィナーレ補筆完成版の同曲を演り、っそれも音盤と成ったが、ブルックナーについては、っまず楽団がその独得の音響構築について十二分に馴致している必要があり、っその点で同団は東京ユヴェントス・フィルほどの適性は示さず、無二の感銘は与えられなんだ、東京ユヴェントス・フィルについては、前回公演の主演目が同《7番》であり、っさっぱりとした川崎のアコースティックを纏って透明なひびきが一貫し、上から下まで、全声部のロールが等しく眼に映るような、っごく純度の高い秀演であった、

っきょうの《3番》についてもすべての楽章で、造形といい、っひびきの色といい、っその厚みと鋭さとのバランスといい、っまるで間然するところがなく確信を有って語り進められ、っぼくは、あの《9番》もかかる覇気の充溢する時間時間であったか、、、っとの羨望を嘗めつ、感歎とともに聴き入った、

長大なシムフォニーを演るのに、前プロもたっぷりとしているのが彼等の公演の定番、っきょうはその2曲もほんとうに目が詰んでおり、2時間半になんなむとする全時間が充実していた、

リゲティは、っのちにはコンテムポラルな作風へと分け入り、っその時代の彼氏の作品をぼくはよく識らないが、っこの《ルーマニアン・コンチェルト》の時分はいまだ素朴な筆で、コンチェルトと銘打つほどコンチェルトコンチェルトしている曲ではなかったが、っいちおう4つの部分に分かれていたらしい最後の部分では、裏拍へ乗ってコン・マスがソロを披瀝、っそこなどはあきらかにエネスコ《ルーマニアン・ラプソディ1番》とおなじ匂いがしてたのしかった、彼の地のフォルクロリックなダンスのリズムなのだろう、

シマノフスキは、ピアノやチェレスタも加えて細密な心象を展開、佐藤久成氏の音盤のどれかにこの作家の曲が収録せられてあったはずで、っときおりそれとおなじ感触がするなとおもっていると、ソリスト・アンコールは石上女史がオケ中のピアノの前まで行かれ、コンチェルトでチェレスタを弾かれていた方のピアノでその曲を演られる、チェムバーではあの曲が代表作なのだろう、っいずれも堪能した、

ブルックナーでは石上女史が1stの3プルト裏で乗られる、以前にメインが楽聖かなにかのときの公演でもそんなことがあったか、っここでは、っすべての声部がいわば淡々としている、指揮者にしてからがそうだ、熱量に不足するというのじゃない、曲を信用し、無理なことはなにひとつする必要がない、っという一種の悟達を得ている頼もしさがあるのだ、

全体に、腰を据え切ってしまわない速めのテムポが快い、坂入氏は、っおなじブルックナーでも《8番》では概してたっぷりじっくりと語られていたものだが、今後は同曲にもきょうのような先へ先へと生き急ぐ感触を持ち込まれてもよいのじゃないか、っきょうの1楽章では、展開後半のトュッティの連続においてなお狂騒的のまでに加速する苛烈さが痛快であった、全楽章について云えることだが、金管、っそしてティムパニの絃に対する音量バランスはまことに最適で、っその質感がまた硬軟を噛み分けて最高であった、

2楽章もひびきを肥らせずさばさばと進んでこそ、一寸した音の動きや和声が潤いに繫がる、3楽章は後年の作からするとまだ単純な構成だが、っそれが爽快である、㐧2稿のノヴァーク・ファッスングとのことで、っその要諦は同楽章のコーダの有無、ブルックナーであるから、スケルツォは提示も再現もそっくりおなじ、コーダはなしで主部のトュッティで事切れるというほうがらしい気がしたが、っそのコーダはまたも鬼気迫る加速で手に汗握らせる、

フィナーレは開始の絃の音型からわくわくさせる、《8番》の同章開始などは天体天体の軌道などをおもわせるまさしく気宇壮大、っつまり宇宙それ自身が鳴る様をおもわせるところ、っこのフィナーレの開始は、往時、っいまだ開発されざるスペイス・シャトルへでも搭乗して、っさあ大宇宙へ飛び出してゆこうかという心象におもえる、人智の側から宇宙の驚異をみている感触である、道中は質朴な地上の歌と1拍ずらしフーガも酔狂なコラールとの対比を軸とし、っとつじょ、ファンファールが鳴り渡ってコーダへ至るアイディアは、作家本人としても快心の筆致であろう、演奏はやはり先を急ぐが、っそれがほんとうに音楽に活性を与えるのに最適の速度で、無窮動のうちに、っついに彼方に天啓を聴くここちであった、



っさて、っお次はこんどの日曜、っなんだか山梨でコバケンさんの演奏会、オケはセミ・プロくらいなのかなあ、マーラー《巨人》がメインだが、近年の彼氏の静謐かつ濃密な語りを体現せられたいので、指揮者が手ずからばたばたと煽動しないで、っそれこそきょうのように、フィナーレの最終音まで淡々としているふうを期待したい、

、、、っところで、っこないだネコ・ケン氏をかようにナカグロありで表記したが、っぼくはコバケンさんをずっとこう書いてきたので、ネコケン氏もこれでよかったのか、



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桜木町、




井上キーミツと神奈川フィルとの最期の共演、済む、演目はキーミツの我儘放題といったところで、シャブリエ《スペイン》に始まり、女声に東混を招いてドビュッシー《ノクテュルヌ》で休憩、後半は打って変わって伊福部昭で、松田華音女史を招いて《リトミカ・オスティナータ》、っそして《jpラプソディ》である、最後者は〈ノクテュルヌ〉〈祭〉から成るので、っいちおうは前後半の連関がかんがえられているともいえるが、っこの同名同名の両曲両曲はしかし、っともにいかにも遙けく隔たる膚合い風合いであることだ、

っきょうはあさから東新宿で健康診断だった、バリウム、下剤を飲むので、っなるたけ早く済ませたいとおもい、開始は9:00からと案内状にあったが、8:30ころ受附へ上がってみるとそのまま通してくれ、っしかしいつもよりも混んでいたようで、ったっぷり2時間くらい掛かってしまう、事後、ファミ・レスへいてお通じを待ち、新宿三丁目から副都心線へ乗れば、っみなとみらいへは1本である、っそうか、っだから降りた駅でいえば桜木町ではなくみなとみらいである、

シャブリエは札響、ドビュッシーは京響で聴いたのだとおもうが、っこんかいの神奈川フィルの質感はより印象的である、前者はぐっと腰を落として各部を確乎と意味附けつ進むので、絶えず栄養価の高い音が運ばれてき、っとはいえ余分な力は入れておらず、発音発色は清冽、絢爛たる音響である、

ドビュッシーは、両端曲における纏綿たる中弱音といい、㐧2曲における振り切ってしまわない、っそれでいて角を矯めてもいないほどよい強音といい、っありとある楽器のありとある強弱が地上を遊離し、人智を超脱するようで、2階正面最前列と、っひびき切ったあとの音を聴くような位置だったこともあり、っしばしば現実のオーケストラの物理音を聴いているとは信じ難い時間が流れた、東混の女声は下手側の遙けく階上へ陣取っており、っそのため、舞台上のオケはべつに変に萎縮して音量を絞っていたわけではないが、っちゃんとコーラスが活きるようなバランスだった、っそしてこれがまた人声でありながら人声に非らず、っかすかかすかな色調の差が無限のグラデュエイションを展開し、っやがては女性という性、人間という身体さえ忘れてしまう、

伊福部《リトミカ、、、》は、っあれではダメだ、っもっとオケの全員が、っあの曲を演るということの特殊さを把握し切っていないのでは、眞なる成功には程遠い、っとくにアレグロにおいては、ソロもオケも、誰1人として興に任せてテムポを揺らすべきではない、1人残らずが精確なイン・テムポを刻む機械を志向すべきである、機械になっていることが重要なのではなく、っそれを志向していることが、っである、アムプロヴィザシオンの精神が寸分も要らない、っなどと云っていない、その発散のための代表的の方途であるテムポやフレイズの伸縮はしかし、この曲においてだけは峻拒せられねばならない、っと云っている、っさいしょの急の部分は、ソリストが主題の1周目で加速し切って定めたテムポをもっと完全に全員が共有し、っその箍の内へもっともっと全員がかちっと嵌まってしまわねばならない、っきょうはたとえば、トロムペット連が初めて音を出すときに、っぜんぜん、っまったく拍へ嵌まって来られない、ブーだ、声部声部が揺れ、声部間ではほどよくタテがブレる、っそのことが快いというのは、っほかのどの曲ではありえても、っこの曲の急速部では禁忌であり、っというよりもただの失敗である、拍へかちっと嵌まりにゆく、っそのことにもっと本気で、命懸けで臨んでくれなくてはっ、中間部でも誰かが走り、誰かが遅れということが起こったが、っあるいは本格のミュージシャンにとってほど、機械的のまでにイン・テムポで奏する、っというのは屈辱に当たるのかもしれない、っもちろんそうだろうとも、っけれどもこの曲は、っこの曲だけはとにかく、っその屈辱の甘受こそが成功へのゆいいつの道なのである、プロフェッショナルでも演奏の機会が増えつつある同曲ではあるが、っこの認識までが汎く滲透せむことを希ってやまない、

《jpラプソディ》はその失地をみごと回復、キーミツは以前よりこの曲に2曲ともゆっくりとした足取りで歩くという趣味を持ち込まれているが、っそれもきょうが最期の実践でいらしたのだろう、以前にN響との共演を聴いた際には、㐧1曲のVaのソロが曲趣よりは奏者の顔が浮かんでくるようなほとんどナルシスティックな唄い方に聞こえ、乗れなんだが、っきょうの奏者は万感おもい入れながらもひたすらに森閑たるよるの風情を伝え、中間部の濃密に感銘もまたあらた、再現ともなると、主題のVnは弱音、管や打のアクセサリーのほうがものを云い、っとりわけ多種多様の質感をしずしずと振り撒く後者は、っなにかもうそうした厳粛な儀式が執行せられるごと、作家自身さえ、っあそこまでの深遠な手応えを期待していたのかどうか、

㐧2曲は、先陣のクラリネットにはあっけらかんと先を急がせるが、トュッティが爆ぜるやどすんと腰を落とし、っそのまま事切れるまで横綱相撲、《リトミカ、、、》ではタテが乱れることで各楽器の音色、質感まで安定を逸する嫌いがあったが、っここではすべての声部がきらきらと宵の賑わいに煌めき、っどんなに狂騒の態を帯びても粗暴な直接音の乱打と堕さない、

っこの曲、っとくにこの㐧2曲は、声部の拮抗の多様なアイディア、各楽器の質感の繊細な噛み分けにおいて、っときに後年の《交響譚詩》や《シンフォニア・タプカーラ》を凌いでいるとさえ聴こえる、同様の手応えは、っむしろ《土俗的三連画》などにより煮詰まったかたちで昇華せられていよう、っきょうの演奏では、途中、光の綾が飛ぶようなVnのフラジオレット、っさいしょのクラリネットのテーマが管群へ再現するときのやはりVnの合いの手と、指揮者がぼんやりしていてはぞんがい埋没してその効果を上げないロールがいずれもみごとに活かされており、っこの曲がテンション頼りの単細胞な1作ではないことを実地に證明していた、



っさて、っあすは川崎にて坂入健司郎氏の公演、



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紀尾井町、




井﨑正浩氏の棒、オルケストル・デ・ベルなる団体の公演、済む、

〈俺のブラームス〉と題して、年1回、っすべて井﨑氏の棒で、ブラームスのシムフォニーをコンチェルト等と組んで番号順に全曲演奏せむという企画らしく、去年の㐧1回で《1番》を演奏、っその公演の存在は事後に気附いたので、聴き逃してしまった、っことしの㐧2回は《2番》をメインに、劈頭は《悲劇的序曲》、近年高名にして、井﨑氏ともハンガリーにおいてご共演済みという髙木凛々子女史をソロにそのコンチェルト、パンフレットの曲目解説は井﨑氏ご本人が書していられ、っそれは彼氏の公演ではしばしばあることだが、っこんかいは相当度に詳細に亙っており、っお蔭で開演前に読み切らず、休憩中は外へ喫煙に、出られずにしまったのか、出なくて済んだのか、《Vnコンチェルト》も1楽章はかなり長大であり、シムフォニーも、っふだんは1楽章提示のリピートを割愛されているという井﨑氏が、〈俺のブラームス〉などと銘打つからには、っときょうはそれを敢行、っさらにソリスト、オケともにアンコールがあり、14時開演で、っやっとハネたのは16:20すぎ、

8型くらいの絃のオケは、ホルンなどがときおりかすかに吹けなかったりするが、っしかしとても巧く、小中規模器たる紀尾井町に悠然たる響が充ちる、

っきょうの演目は、序曲がニ短調、コンチェルトとシムフォニーとがニ長調とニ調で統一せられていたが、っそれ以外にも、井﨑氏のご指摘にある通り、全曲を通してブラームス一流の拍の凝り様、コンチェルトにおく、ハンガリー出身のヨアヒムを意識したジプシー風情、っおなじニ長調の楽聖の同楽器コンチェルトへの敬慕の匂い、っさらに遡ってバッハの影、っすべてが実践としての演奏を通してこちとらにも諒解せられた、

井﨑氏も恆に勝る入魂ぶりで、2階正面席から聴いていても、歌謡主題と声を合わせて唄う彼氏の声がしばしばはっきりと聴こえた、彼氏の《2番》は一般大学の学生オケとの演奏も聴いており、っそれも清涼ですばらしかったが、オケに勝れるとここまで細部細部にまで拘るのか、っときょうはじつに一驚を喫した、

髙木女史の奏楽は初めて耳にしたが、凛然たること名に負うごと、濃密なオケと相俟ちつあらゆる場面で曲の魅惑が全開し、っとくに変化に富む重厚な構造の1楽章では、再現の㐧2テーマあたり、ああ、いい曲だなあ、、、っとしみじみと実感せられ、っひとりでに泣けてきてしまう、っぼくもだいぶんおっさんになってきたので、っさいきんは泪脆くていけない、



っさて、っお次は土曜、井上キーミツと神奈川フィルとの公演であるが、キーミツのご体調は大丈夫であろうか、っもう引退まで半年となって、っいまさら残る公演へ代役を立てるというのは、彼氏としても痛恨どころではなかろう、ドクター・ストップが掛かったとしても、死んでもよいからやるっ、っとおっしゃりたいところだろう、客ごときのこちとらとしては、死んでもよいからやれなどとは云えないのであるが、っどうとかお元気なところを拝見できればとおもう、、、っところで、っその日の午前は健康診断でねえ、バリウムを飲まねばならないので、っなるたけ早めにクリニックへ行って済ませてしまい、余裕を有って下剤が下ってくれますように、、、汚ない話で恐縮、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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