吉祥寺、
井﨑正浩氏の棒、Filharmonikus Erdőなる楽団の公演、済む、演目はブラームス《3番》と楽聖《5番》とである、最寄りは三鷹であろうが、京王人のぼくとしては井の頭線で吉祥寺から歩くほうがよい、っが、自由席で、折角に早めに器へ着くも、1階席のみ開放で落膽、
パンフレットを開いて、楽団は井﨑氏と長年の懇意であるICUの学生オケのOB・OG連なのだとわかる、、、っよくない文章だねえ、書き直すのめんどくさいからこのままで、ICUは、学生の意識としても親御の経済力としてもレヴェルの高い大学であるはずだが、学生オケの水準はそれと比例せず、下手くそである、っだから、っそれを母体とするこのオケの合奏能力もある程度は察しが附いたが、っほぼその推察の通りのアンサムブルだ、っけっして上手くはない、
っしかし、井﨑氏はそうした楽団を相手にも恆の通り丁寧にして稠密なる棒をお振りになり、力まない、力めない合奏であるため、和音はいつも清潔であり、個別のエラーは頻発するが、開演からしばらくして熟れてくると、トュッティはなかなか好い音になる、
両曲とも、っすべてのリピートを励行、楽聖では、スケルツォを1度トリオの了わりまで行ってからそっくり主部冒頭へ還り、っもういちどトリオを通って再現というふうである、
ブラームスも堅実、着実な歩みによる好もしい演奏ではあったが、っいまだ、オケの腕に限界があるにしてはそこそこの達成、っという程度の話、眞に勝れていたのは楽聖で、クラッシックの代名詞たるこの曲で、っこれほどフレッシュな感銘を捺さるとは、率直に云って事前にはまるで期待していなんだ、
全編これ、果敢なる表現慾の氾濫、乱れ打ちである、演り古され盡してしまったこの曲へ、っよくぞあそこまでの創意を盛られたものだと、っまことにうれしく、頼もしく観ずる、っそのうちには、記譜には影も形もない表情もひとつやふたつではなかったろうが、知ったことか、演奏者には譜面へ背く資格も権利もあると、っぼくはおもう、
っだいいち、記譜の指定へどの程度、従順であるべきかという問題を、誰しも一概に語りすぎるというのか、誰も眞に眞なる眞剣を有って語らないように、っぼくなどには見受ける、作曲家の指定に忠実でありたい、っというお定まりの科白も、人毎にそこへ籠めたい内容は区々で、っあるは自身の演奏のつまらなさへの惨めたらしい弁明であったり、っまたあるはワガママな表現のまたワガママな正当化であったりする、一字一句まったくおなじ科白がしかしさように眞逆の文意であるかもしれないとしたら、作曲家の指定に忠実でありたい、っこの1文はもはやなんら有意ではない、っそのくらいのこと、演奏家、指揮者諸子には気附いていただきたいものだが、っそういう点で、論理に明敏で、っちゃんと賢い人が、音楽人にはそうおおくはないようである、猫も杓子も、作曲家の指定に忠実でありたい、作曲家の指定に忠実でありたい、、、誰かおひとりくらい、我々はときに極端に穿った譜読みさえ、あくまでも記譜の指定に忠実、との強弁のもとに正当化している、じっさいのところは、少々の、あるは場合によっては相当度に大膽な楽譜への背信行為も、演奏者の責任において許容せられているとかんがえている、っとこのくらいのことを云えないものか、っだってそれがあなた方が日常の演奏活動のなかで行なわれていることの精確な描写なのだから、っそれをあいもかわらず、作曲家の指定に忠実でありたい、っの1言で云いつづけられるとしたら、っぼくからすればひどく隔靴掻痒である、ウソ吐けっ、っとおもってしまうからだ、
っさておき、井﨑氏は、冒頭の運命動機からすでにして、っさいしょは末尾のフェルマータをわりにたっぷり、曲が進むにつれてほとんど無視される、っほんのそれだけでも、っどんなにか聴いていてうれしいか、っその後も、1楽章こそ曲の出来方からいってあまりそういうことをやれないが、2楽章以降では、フレイズを自在に伸縮させられる場面が頻出、強弱の変化も多様ならば、ピキェロの活かし方も無上にたのしく、
要すれば、我々はこの曲を演りすぎたし聴きすぎましたね、っという問題意識が絶えず演奏へ発露しているのだ、っそうした意識の譜読みやじっさいの演奏行為への影響は、っとうぜんにして演奏藝術のうちへ数えらるべきと、っぼくはおもう、っやはりやはり、作曲家の指定に忠実でありたい、っそんな戯言ではとても意を盡せぬほどの複雑微妙の演算を、演るにせよ聴くにせよ、っぼくらは日夜、熟しているはずなのだ、
っこの曲は、井上キーミツが新日本フィル、千葉の子供たちのオケ、大阪フィルとなさるのを聴いた、プロフェッショナルの楽団とのときは、絃を16型になすったり、キーミツなりにいろいろと趣向を凝らされてはいたが、っざんねんながらどの機会でもぼくは、これだと最後の最後にはけっきょくつまらない演奏なんだよな、っとの辛い本音を有った、っほかの誰にも出せない音、っほかの誰にも思い附かない解釋が鳴っていなかったからである、楽聖を演って、べつにこの程度、あなたじゃなくてもほかの誰でも演るよ、っとおもわせたら、っその時点で敗北である、っそのくらい、っきょう日ベートーヴェンはむつかしい、っぼくら世界中の人間が、寄って集ってこの作曲家とその作品とをさようのものにしてしまったのだ、
井﨑氏の表現が他のいっさいへ冠絶したとまでは云う気はない、っけれども、オケは比較にならぬほどキーミツ公演の3団体よりも下手くそだったが、キーミツのどの演奏よりも聴いていてたのしかった、っこれこそが演奏会へ通うよろこびである、オケの巧拙など、完全にではないが、っほとんど問題ではないのだ、偏に指揮者の問題意識である、殊に楽聖を演奏する際にはそうである、まだこんなベートーヴェンが存りえたのかっ、っとのおどろきを與えられなくば、オケが名門だろうが、信じ難いほど巧かろうがなんだろうが、っそんなのはまったく聴いている意味のない公演にっきりならない、
っまったく意表を突かれたが、アンコールはブラームス《ハンガリアン・ダンス》〈4番〉っっっ、っうれしいっっっっっ、打楽器の人数がいると〈6番〉になってしまうのだろうが、っこの楽団はティムパニっきりいらっしゃらないのだろう、曲想は断然〈4番〉のほうが勝れているので、彼等のささやかなメムバー構成に感謝深謝、
っさて、井﨑氏2日連続の本番、っあすは戸塚のオケとの公演、同団もアマチュアとしてさして巧くない部類だが、っきょうにつづく成功となるかどうか、
みずの自作アルヒーフ
《襷 ータスキー》(全4回)
https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)
《ぶきっちょ》(全4回)
https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)