ぶきっちょ  第1回配本 | ざっかん記

ぶきっちょ  第1回配本

 

 

 

 その日、クラス・メイトのひとりが数学の授業中に英単語帳を開いていたのを教師に見咎められた。すると彼は立ち上がって、いまの自分には数学よりも英単語をひとつでもおおく憶えることのほうが大事なんだ、と相手に楯を突いた。教室は凍りつく。情けなくも数学教師はその剣幕に圧されて、彼を(なだ)めるようなことを云い、席へ着かせた。(しょう)(すけ)は級友の逆上に同情できなかった。それなりの進学校、1年生といえども誰も大学受験を見据えて神経質になっている、それはわかるが、条件はみなおなじだ。数学の授業中に英単語帳を開いていたのはあきらかに彼の不正、それをそのように居直ってよいものかと。ところがだ、授業が終わると、さっきのあれはなんだったのか、とみなが当の級友を取り囲んで質し、事情が知れると、なんと彼はクラスのヒーローとなったのだ。俺たち私たちのこの受験戦争に揉まれる欝憤(うっぷん)を、彼が代表して晴らしてくれたのだと。どうしてそうなるんだ。尚介は烈しい嫌悪をおぼえた。すこしく離れた席からその喝采の輪をみていたときに感じたこの疎隔の憾。だがいまだ若く青い彼は、真正面から堂々と正義を信ずることができなかった。最後まで、級友に詰め寄って、おまえが間違ったことをしたんだろ、と云うことができなかった。どころか、女子生徒たちが(こぞ)って英雄を褒めそやすのをみて、自身の感じた嫌悪を、不正義に対するそれでなく、単にちやほやされている級友への嫉妬であると思い込もうとさえした。このことを振り返るとき、彼は自分で自分が口惜しくてならない。不正義に対するすごすごとした不戦敗。間違っているとわかっているそのムードにしかし流されてしまうことの恥ずかしさ。たとい教室で孤立するとも、おまえが間違ったことをしたんだろ、そう級友に云うべきであったと。

 ちかごろ尚介は、家庭内でもいらいらを溜め込んでいる。父尚心(たかみ)に対する母(とき)()の態度が気に喰わないことしばしばなのである。つい先日もこんなことがあった。家族で買物へ出掛ける車中、運転席に父、助手席に母、後部座席に自分と歳の離れた妹心緒(みお)。狐の嫁入り、あがるとちょうど虹が架かる。父はそれを仰ぎながら、ああ虹だ、と快哉。そのうちに信号待ちの前の車に追突しそうになり、おっといけない、慌ててブレイキを踏む。どれどれと父母の間から顔をのぞかせていた妹は身体(からだ)ごとつんのめりそうになる。父はえへへと頭を掻いている。妹もきゃっきゃと笑っている。尚介も、しょうがないなあ、とおもいながらもそういう父親が嫌いじゃない。ところが母だけが急ブレイキの途端、ちょっとおっ、といかにも欝陶(うっとう)しそうな怨嗟を漏らし、信号が青に変わってからもなんだかだと父に悪態をついている。どうして夫のおっちょこちょいを愛おしくおもってやれないんだろう。なんであんなに欝陶しそうにするんだろう。若い尚介は不満におもう。

 彼が母の父へのそういう態度を気にするようになったのは、この春からのことだ。はじめはさる日曜の午前だった。家族4人で居間にいて、きゅるきゅるきゅるという音がするのを耳に留めて父が、なんの鳥かなああれ、と云った。2度か3度云った。母はヴェランダへ出て洗濯物を干しているとき、その音が小鳥の(さえず)りでなく、隣家でサッシを開け閉めしている音なのだと気附いた。気附くや居間へ来て、窓の音よ、鳥じゃないわ、と云い放った。え、そうなのかあ、と父は笑っている。がソファに寝そべって漫画雑誌を開いていた尚介は、おもわずに誌面から目を離し、母のほうをみる。どうしてそんなに冷たい云い方をするんだろう。そうおもったのは、ひとつには、尚介自身きゅるきゅるいう音を小鳥の声だとおもい做していた。またひとつには、彼は4月に高校へ入るや、ある同窓の女子生徒にぞっこん恋をしてしまった。毎日まいにち教室でせつない胸を詰まらせている。せつなさは少年の心をして麗しい夫婦像を夢見させる。その夢を打ち砕くように、窓の音よ、鳥じゃないわ、と母の声がしたからである。気のつよい妻と彼女に剣突(けんのみ)喰わされてもへっちゃらな夫。おそらくは、尚心・時緒夫婦のかたちはずっと以前からこうだったのだろう。成長する尚介の視線にいま、それが好もしく映らなくなってきたのだ。

 彼はその気分を口外していない。しないで、両親の姿をぢっと観察している。気にして観ていると、母が父に苛立ちをあらわにする瞬間は、日常のなかにもう無数度に(わた)ってある。いまもだ、あ、まただ、ああまたいらいらしている、またいまなにか小言を云った、きょうは朝一番からだ……。漫画雑誌を開いていても、ふたりがなにかちょっと云い合いをはじめると、その会話に耳を(そばだ)てている。過敏になっているから、夫婦のありふれたやりとりにも棘を粗探ししてしまう。そうした日々の観察が、尚介から家庭内での口数を奪ってゆく。

 尚心はといえば、彼は息子が自分に肩入れしたがっているのに気附いていない。彼にもおっちょこちょいの自覚はあり、それで、どちらかといえば尚介から嫌われているのでないかと、年頃とならば父親のどじな姿からは目を逸らしたかろう、父として息子の口数減をそうみている。いや気に病むほどではない。息子の小中学生の頃からすれば父子の会話が減ったという程度のことで、ともかく、それは彼の年齢をかんがえれば自然のことにおもわれた。

 

 ところで尚心のそのおっちょこちょいなのだが、これはじつに筋金入りだ。

 彼は近所の父親連中とつくる草野球ティームに属しているが、打っては空振り放題、守ってはトンネル三昧、まったくの役立たずである。しかしその譬えようもない愛嬌を買われて、できないから辞める辞めるというのをみなから腕をひっぱって引き留められ、きょう目下に至る。その愛嬌を主将の井上は、役立たずという役に立つ立ち方、と評する。そこに厭味はまったくない。真実そのままを云い表わしたつもりだ。そして当の尚心もそれを厭味と取らない。そう云えばわかるだろう。それが彼、小田切尚心だ。

 ティームは9人に満たない7人。その7人もいつも顔が揃うでなく、結成当初は何度か隣町のティームと試合をしたが、ちゃんと9人のメムバーがいるむこうから頭数を揃えて対戦しなくてはならないことを嫌がられて、それでいまでは試合もできない。そのとき都合のつく者だけで集まり、柔軟体操やランニングのまねごと、キャッチ・ボール、ノック、その程度である。いや隠さず云えば、みなおつかれさまの酒席目当てなのだ。

 少年野球の面倒を看ることがままある。これがじつは地域では重宝がられている。対象は小学校低学年の子等。高学年ともなればそれ専門のリトル・リーグがあって、その子等を指導できるほどには尚心たちは腕達者でない。子守程度にちいさな子にボールの扱いを教えるのだ。元気のあり余った子が休みの日に日がな一日外で過ごしてくれることをありがたがる父兄はすくなくない。

 その子供のなかでも牛島二郎という少年の面倒看は、ほとんど専らに尚心が引き受けている。というのは、二郎少年のばあい元気があり余るというより、彼は喘息もちで、尚心も幼少時そうだったから、発作を起こした際の対処に明るいのだ。彼に慰留を容れてティームへ居残ることを決めさせた最大の理由はこれだ。なんとか体力をという親御の意向を背負って欠かさず練習へ出てくる健気(けなげ)な少年を、気に掛けないでいられる尚心ではなかった。ティーム・メイトも、けっして彼に面倒をおしつけたのではない。だいいち尚心自身ぜんぜん重荷に感じていない。華奢な体軀ではあるが、発作を起こさなければ二郎少年だってのびのびと活発な子だ。尚心にはこの子がかわいかった。

 自分たちの練習であれ子供たちの指導であれ、終われば待ってましたと近所の赤提燈へくりだす習い。ビールが旨いうまい。尚心の愚図はいつも恰好の酒の肴にされてしまう。スケイプゴートを叩くのじゃない、それで打ち解けるのだ。叩かれる者が破格の()たれづよさを()っていれば、その和気藹藹は()る。

 きょう日曜も、炎天下でよい汗を流した連中は安居酒屋の卓を囲んでいる。やはり尚心のことで盛り上がっている。きょうのなど、誰も彼も話題にせずにはとてもいられない。

 ――きょうのあれは傑作だったな尚ちゃんよ。

 ――おうそうそうっ。なかなかやろうとおもってああはできない。

 誰かが口火を切り、膝を打って応じたのは電気屋の木之下。きょう練習が済んでベンチへ戻ってくると、みなからからの喉を潤おす。尚心も水筒からスポーツ・ドリンクを飲むが、ひょっと水筒の蓋を落とし、転がるそれを追いかけて立ち上がりざま、開いたままの水筒の口からじょぼじょぼじょぼとスポーツ・ドリンクを砂地へこぼす。すぐ脇へ立っていたのが木之下。キャッチャーを任されている巨体でしかしさっと飛び退いた彼の視線の先へ、スポーツ・ドリンクは砂埃をあげてふりそそぎ、あっという間に地に()んで乾く。一同沈黙。その彼等の目を一身に集めながら尚心は、傾いだ水筒を元へもどすがよいやら転がる蓋を追いかけるがよいやらであたふたし、その滑稽ぶりに笑いが()ぜる。

 ――かわいかったなああのあたふたする尚ちゃんっ。抱き締めたくなっちゃったっ。

 ――よせよせ。汗だくの中年同士。

 ――いやあんた天下の博愛主義者よな。自分の喉はさておいて、からっからの地面に惠みの雨をくれてやろうってんだから。人柄が出てた人柄が。

 キャプテン井上、いつもこうやや七面倒な科白(せりふ)を吐きたがる。

 やがていい時間になり、こんやはもうお開き。

 ――そろそろおあいそか。おいきょうはなんだみんな、ひとつ俺にまかせといてもらいてえな。

 たぷんと貫禄の腹を叩いて左官職、3塁手山田。……3塁手とはいっても、ときとばあい、面子の集まり方にも依るが、尚心たちティームは、まずとうぜん遊撃手など置けない。7人全員が揃ってもまだ外野は2人。いまはもうほとんどしなくなってしまったが試合時には、塁の埋まりぐあいに応じて内野手の守備範囲もあれこれ変わる。

 ――なんだまかせるって。

 ――いやね、おとつい駐車場のコンクリ敷きだったんだけれども、その仕事のときはいつもね、仲間連中と賭けることにしてんの。

 ――賭け。

 ――そう、つぎの日までにネコだのイヌだのの足跡がつくかつかねえかってな。

 ――へえ。

 ――つくこた稀だからよ、つくほうには¥1000でいいけれどもつかないほうに賭けるときは¥5000出さなきゃならねえって決め式にしてあんだ。

 ――ああなるほど、足跡つく確率のほうが低いから。つくほうには、え、¥1000でいいけれども、つかないほうには……、え、あ、そうか、つかない確率のほうが高いんだからそうか、

 ――そうそう。

 ――¥5000張るリスクを負ってねと。

 ――そゆことそゆこと。

 ――¥5000。や、でかいねそりゃ。

 ――そうなんだよ。

 ――……ん、ちょっと待ってよ。

 聞いていた井上が嘴を挿む。

 ――なんだいキャップ。

 ――それはそうじゃないよ。足跡が、つくかつかないか、なんだから、確率はあくまでも1/2でしょ。や、あえて確率ということに話をしぼるならばだけれどね。過去の経験からつくほうが稀だとわかっているとしても、それは統計的傾向というにすぎないわけで、ある任意の1回において足跡がつく確率はやっぱり依然として1/2であることに……

 ――やややキャップキャップキャップ、キャップう、キャップう。

 ――え、なに。

 ――や、なにじゃなしにさあ。や俺はね、そういう面倒臭い話がしたいんじゃないの。

 酒席での井上はどこかでかならずいちどはこういう役回りを引き受ける。わざと鹿爪らしいことを云い、それを誰かに掣肘させる。それがまた彼等の間では決め式なのだ。止めだてされて、え、なに、と返すその貌のとぼけぐあいももはや堂に入っている。ほかの連中も笑っている。

 ――そうじゃなくて、きのう俺は勝ったの。あさ現場へ行ってみたらね、もののみごとに、あれはネコだね、ネコちゃんが横切った足跡。オーナーさんは、いいよ愛嬌だから記念に遺しとくよと許してくれたんだが、その足跡がつくほうにね、俺が賭ける番だったわけなのたまさか。や、ほんとうに滅多につかないからね、みんな嫌がるのよそっちへ賭けるのを。だから持ち回りってえのかおっつけっこってえのか。いつもだいたい4、5人だからさ、負けても、まあ仮に5人なら相手は4人だから、¥4000でしょ、¥5000出すのとちがわねえじゃねえかってことでね。こんかいは俺がその番だったんだけれども、おう、もうひさしぶりにね、足跡ついちゃったから……

 喋りながらズボンのポケットから裸銭で壱万円札1枚、五千円札2枚を出し、卓へ置いた。

 ――はいこれ。へへへ、ざまあみろってんだ。みんな負けるなんておもってねえからよ、五千円札なんか用意してねえでやんの。帰りに缶ビール買わせてそれでよ。

 ――あいかわらずまあくちゃくちゃだこと。財布へ入れなさいよ財布へ。で、なにはいこれって。

 ――いやなにってだからさ、きょうは俺の奢りってことで。

 ――いやいやそれはいけない。それとこれとは話が、

 ――そうだよ金ちゃん。それじゃわるいよ。

 ――いやいいんだよきもちよく出させねえな俺がその気になってんだから。いいの。へっへえ。これもあれよ、日頃の行ないってやつ。お天道様ちゃあんとご覧なの。いいのよ。こんなものウチへ持って帰ってみな、目敏くカミさんにめっけられてよ、サ・シ・オ・サ・エってのがオチよ。それかんがえたらここで呑み(しろ)へ消えてくれるほうがどいだけ清々するかしれねえ、な。だからきょうんところはひとつこれで……

 自分だけさきに靴を履いてさっさと表へ出てしまう。会計は占めて¥22580也。残された連中あわてて尻のポケットから財布を出す。

 ――なんだよ金ちゃん。カッコばかしつけてさあ、ちょっと足りやしないんだから。おおいっ、足んないよ金ちゃんっ。 

 呼ばれたところが暖簾(のれん)の隙間にみえる山田の金ちゃんはすでに常世の客でなく、電信棒と肩組みなにやら親しげに語らっている。

 ――だめだありゃ、しょうがないねまったく。いや¥2500ばかりこれだけの頭っ数で割ることはないよ。俺が出すから。

 ――そう、わるいねキャップ。

 端数は井上が持ってこの日は散会した。ともかくティームは、いつもこれが目当てなのである。

 

 ところで、さいきん尚心の周囲では不穏なことがある。一家の棲むマンションの東隣はもう10年来の更地なのだが、このほど、そこへ集合住宅の建築計画が持ち上がった。管理組合へ通知が来たのが去る4月、爾来、町内の自治会長をしている遠藤という男を頭に、建築反対運動が発起したのである。

 もっとも、当初は遠藤ほかごく数名が過敏にこのことに反応していたにすぎず、他の者は、竣工すれば隣のマンションと壁を合わせることとなる東側の居室の住人まで含めて、建築計画に対してさしたる異存はなかった。ここにこう自分たちのマンションがあり、隣もまた同等程度の平米数の更地だとなれば、早晩そうした計画が持ち上がってなんら不思議はない。歓迎せぬまでも甘受する用意は誰にもあったのである。

 ところがその遠藤の存在が厄介だった。家系は古くからの地元の有士で、ほかでもない彼が尚心たちの棲むマンションのオーナーであり、みずからも最上階に(へや)を有っている。ここだけでなく数軒不動産を所有、勤めからは壮年のころに離れてしまい、それからこちら家賃収入で悠々自適の身だ。おおらかな人柄であってよさそうな境遇だが、この自治会長がじつに曲者(くせもの)。収集日にマンションのごみ集積所に門番よろしく立っていては、住人のごみの分別法を見咎める。それも現に誤りがあるというならまだしも、石頭の検閲があると知っている住人等はそれぞれ過剰なほど分別に気を配っている、間違うはずがないのに、まだなんだかだ小言を云いたがる。だいいち、彼の云う分別法はかならずしもいつも正しくはない。それで困ってしまう。尚心たち夫婦もそれに漏れないのだが、だからこのマンションではどこの家庭でも、妻が夫に夫が妻にごみ出しをおっつけ合っている。じゃんけんをする夫婦あり。このことが口論の種の夫婦あり。子供を相手にならさすがに、と子に出しに行かせた夫婦もあるが、あえなく泣かされて帰ってきた。管理組合は、ごみの管理には責任をもつから、と何度も云うが聞く耳をもってもらえず、出張ってきている管理人も、オーナー直々にそんなことをされたんじゃ、と談判するが、あなたが頼りないから私がみなさんになにか云わなくちゃならないんでしょう、とやり返されてしまった。

 ごみのことだけではない。そうだとも。たとえば駐車場の水道。マンションの駐車場へ水道が引かれてあるのだが、さる住人が彼の休日にそこへホースを繫いで自動車を洗っていると、遠藤がつかつかと歩ってきて、ちょっと水の使いすぎじゃないのか、この水道代は管理費から出ているんだ、あなたひとりがこんなに使っていいものなのかな、とはじまる。ペットについてもそうだ。なにかしら飼っている室がおおいが、誰もたいがい1度や2度はチャイムを鳴らされ、誰かとおもえば遠藤で、玄関を開けるや、その鳴き声吠え声はどうにかならないのか、と有無を云わさず小言を浴びせられている。ある住人などは、その遠藤の訪問時にたまさか浴室の洗濯機を回していた。よるである。夫婦共働きで、その時間にしか回せないのだ。玄関先でその回転音に気が附くと、こんな時間に回すもんですかねえ、ペットの小言が洗濯の小言に替わる。……その他枚挙に暇がないが、いずれのばあいにも云えるのは、住人側に非がないか、あってもごくごくちいさいということだ。駐車場の水道は住人共用で、洗車に用いてはならないというきまりもない。ペットも飼ってよい。マンションは鉄筋コンクリート造で、ちょっとの動物の声や洗濯機を回したくらいの音や振動は隣室や階上階下へは漏れやしない。ましてここの住人たちだ、ごみのことといっしょで、遠藤の眼が光っているとおもえば、みなふだんからもろもろのことに気遣いながら暮らしている。つまりは多分に云い掛かりの気味で、彼遠藤にとっては、ごみを見たときが分別にいちゃもんをつけるときであり、洗車を見たときが水の使いすぎだと釘を刺すときであり、それが開放していた窓から漏れたネコのであれ、連れて廊下を歩っているときにほかの住人と往き合った際のイヌのであれ、鳴き声吠え声を聞いたときが難癖を附けに行くときであり、ともかく万事そうなのである。相手の事情を慮ろうとか、不可抗力なのかもしれないとか、彼の脳裡にはそういうかんがえがいっさいない。住民は戦々兢々。なにしろいつどこから鉄砲玉が飛んでくるか知れない。ちょうどあれだ、携帯電話が普及しはじめのころ、電車内で電子メイルを打っている若者を老人が叱りつけたような。小言も的を射ているならば聞けないじゃない。すべからくといえるほどお門違いだから困る。誰も抵抗できないのは、(ひとえ)に相手がオーナーだから、地元の古くからの有士だから。

 そんな遠藤だから、彼が鼻息荒く建築反対運動を云い出したとき、もとより彼への胡麻擂りに余念のない一部の者を除いては、誰もが関わり合いになりたくないとおもった。ところがみなこの自治会長の傍若無人を止めだてするにはおよばず、ひとりまたひとりと籠絡されていった。そしてとうとうこの日曜には、マンションの集会室で第1回の会合が開かれるのである。参会者は尚心たちマンションの住人にとどまらない。隣のマンションが建てば日照権を害される周辺住民たち――彼等もまたさほどには建築計画に異存はないのだが、遠藤に無理無理うんと云わされた。また、直接には日蔭に入るなどの被害のない者でも、地域社会の景観がどうのなどという主張の共有を強いられて、ともかくも、広くない集会室はいやいやながらの満堂。尚心たち草野球ティームも練習を中止。7人全員が集会室へ居揃ったのだった。

 

 この初会合で尚心は、彼には似合わしくなくとすべきか、じつに大それた挙に出た。遠藤がひとしきり反対運動の要旨を説き、なにかご意見は、と参会者へ問うと、関わり合いになりたくないなりたくない……、という念力で満たされた沈黙がしばらくつづいたあと、彼がおもむろに立ち上がり、

 ――その反対運動、ほんとうにやらなくてはいけませんかね。

 おずおずとこう云ったのである。瞬間、沈黙裡に、ある者はひやりとし、またある者はぎくりとし、いずれよくない汗を掻いた。すぐとなりへ坐っていたのが電気屋の木之下で、尚心の腕をひっぱりながら、

 ――おいよせ尚ちゃんっ。

 おしころした声でたしなめる。しかし尚心は聞かずに相手の腕をほどき、こんどはさきほどよりすこしく激した声音で決然と、

 ――私は反対ですね。反対運動に反対です。

 と云った。聞いて木之下は目を覆う。こそっと振り返る後方には井上が坐していて、彼と視線が合うと木之下は、あちゃあ……、という目の色をしてみせる。が井上は、彼も動揺しはしたが、いっぽうなにかさもありなんという気もしていた。いや、彼はこのとき尚心がこういう挙に出てみてすぐさま、あることを想い出していたのだ。それはいつかにたがいに家族連れでどこかへ遊びに行ったときのことだ。食事というほどでもないが小腹が空いたというので入る店を探していて、あるコーフィー・ショップの前へさしかかってここに決めようかとなったのだが、それに抗して、いまのようにとつぜん尚心が云い出したのである。――こういう外国資本の会社というのは、ご存知ですか日本の国に税金を納めないんですよ。法的にそれで罷り成るんだとしても、商いをやる者としてそれはどういう料簡(りょうけん)なんだろうと私はおもうな。日本の国で、日本の土地に店舗を構えて商いをしているわけでしょう。それなのに。だから私はこういうところへはただの1銭だって落としたくないんです。そうじゃありませんか奥さん。訊かれた井上の妻がそんなこと私に云われてもとどぎまぎしてしまうような、それは剣幕だった。その日の行楽が済んでさようならと別れる途端に妻から、小田切さんていつもああいう方なの、と訊かれた井上だが、彼のほうこそ訊きたかった。あれが俺の知っている尚ちゃんか……。井上にとっては、落っことした蓋を追い掛けようとして水筒の中身をこぼしてしまう姿こそ親しい尚心なのだ。ただそのときには彼も、たかがコーフィー1杯飲むくらいでなにを大袈裟な、くらいにしかおもわなかった。だからそんなことがあったのもまるで忘れていた。がたったいま、この集会室で、彼の脳裡にあのときの尚心の異様な剣幕が甦る。ははあ、あれか、あれがまた出たな……。こちらを振り向いたまま動揺を共有してほしがっている木之下の視線に、半分は同意の応答をしながらも、半分は意識が虚空を漂う井上。尚ちゃん、あんたいったいなにもんだ……

 集会室の沈黙は、おなじ沈黙にちがいないがしかし、さっきまでのといまのとでがらりと色合いを変える。尚心が一身に参会者の視線を集めるが、独り井上のそれだけが既視の感をもって彼の背を射る。なぜ、いまよりにもよって町内の大の厄介者を相手に彼のそうした性質(たち)が顔を出さねばならないか。なぜ、事勿れと(こうべ)を垂れて嵐が行き過ぎるのを待たないか。とまれ、まさかに異論が、それも全否定の声があがるとはおもいも寄らない当の厄介者遠藤が、いちばんぽかんとした貌で尚心をみあげている。凍りつく場内は固唾を飲んで彼のつぎの動向を待つが、きょうのきょうまでずっと傍らに人なきがごとしできた遠藤は、いざ反対者に立たれたとなるとひどくうろたえた。それはそれはおもしろいほどのうろたえようで、尚心が着席して以降は議事進行もまるでままならず、常日頃から彼に悩まされている参会者一同はそのあわてふためきようにひそかに溜飲を下げた。さっきは蒼褪めた表情をした木之下も、こんどは笑いを堪えるのがやっとという貌でたびたび井上や居合わせる他のティーム・メイトを振り返った。

 とうぜんながら、ティームのその日の酒席も色めきたつ。乾杯のジョッキをかち合わせるや、やんやの喝采が尚心へ浴びせられる。だが尚心には周囲のこの反応がちょっとわからない。咄嗟の衝動にまかせた起立だったのだ。当然のことをしたまでだと感じていて、そう褒めそやされても、それに価することをしたのか自身で判然しなかった。酔うほどに熱を帯びる仲間の称讃も、だからどこか空騒ぎにおもえた。

 そしてきもちよく酒が呑めない男がもうひとり。主将井上だ。尚心とちがって彼のばあいは先の心配をしている。この底抜け騒ぎもじき糠喜びに終わる。あんなことをしておいて、あんなふうに衆人環視のなか恥を掻かせておいて、ただで済むはずがない。かならずやきついしっぺ返しがくる。大の大人が雁首揃えて、その程度のことも想像ができないのか。よくもそう愉しげに酔っぱらえるものだと。それにまた、自分たちの口からは遠藤になにも云えぬくせに、他人がその気持ちを代弁してくれたのを手放しで喜ぶというのも、じつに彼の気に喰わなかった。それに関してはもちろん自己嫌悪もあるが、すくなくもこの一件は、酒をあおってぎゃあぎゃあ叫び散らすべきような慶事ではまるでない。それだけはたしかだった。

 理性を欠いた宴席に、当の尚心はきょとんとするばかりだが、井上はだんだんと辟易の気を募らせた。仲間の大人気なさを目の当たりにしたくはなかった。

 ――尚ちゃん。

 ――え、なに、キャップ。

 ――あんたいつか云わなかったか、計画が持ち上がったとき。隣にマンションが建つのはかまわないって。

 ――ああ、うん。云ったよ。じっさいかまわないんだ。みんなだいたいそうおもってるだろ。ご近所さんたちもそうさ。

 ――だったらなんであんなことをした。する必要がないだろ。

 ――え、……え、どうしたのキャップ。貌がこわいよ。怒ってるの。

 切り出し方を間違えた、井上はおもった。だが人間よくこういうことがある。井上はけっして尚心を責めたいのじゃない。むしろ彼を讚えて浮かれているその周囲を諫めたかった。なのに、いざ口を開くと尚心を相手に棘のある云い方をしてしまった。おそらくは、云われなくとも自制しろよ、大人なんだから、という気から仲間たちに直截なにか云いたくなかった。だからだろう。こうじゃない、しくじったな。(はら)ではそうおもうがしかし、もう尚心へ喰って掛かることを止められなかった。それで、苛立つ口調をふたつみっつ相手へ浴びせた。遠藤に楯を突こうが突くまいが隣マンションは建ってしまうだろう、どうせ結果がおなじなら黙っていればよかった、というのがその主旨だ。それに対して尚心は応酬の要領を得ず、好戦的な態度を示さなかった。だが井上が、いまからでも遅くない、反対運動反対の主張を取り下げて穏便に事を済まそう、ともちかけるとなぜかそれは拒んだ。それが解せず、井上はひとりで熱くなった。

 ――俺はわからないな。なぜそう頑なになるんだ。もういちど云うぞ。隣にマンションが建つのをあんたも仕方ないとおもうわけだろ。だったらわざわざ事を荒立てることはないじゃないか。まして相手はあの遠藤さんだ。敵へまわしてどうなる。え、ちがうか尚ちゃん。

 膨れる自己嫌悪をどうしようもなかった。喋りながら、こんなことを云う資格は自分にはない、という苦味を奥歯へおぼえた。周囲は、いままで黙っていた彼のとつぜんの昂ぶりにたじろいだが、その貌々には一様に、なに祝杯に水を差すんだ、と書いてあった。そういうギャラリーの白眼視に虫唾がはしり井上は、自棄(やけ)を起こしてもうひとつふたつ尚心を突き離すようなものいいをしてしまった。それは鐘を打つつもりなのに、烈しい舌戦をさえ交えたかったのに、相手は暖簾だった。尚心は、もっともだ、キャップの云うとおりだよ、とどこまでも寛容な態度だったのだ。そうじゃない、反論してくれろよ尚ちゃん、内心ではそうおもう井上だったが、表面上は彼が尚心を諫めたような恰好に終始した。誰も一挙に酒が不味くなり、後味のわるいままこの夕は散会となった。

 明けて月曜のあさを迎える尚心たちのマンション。この日は時緒がごみ出しへ行く。常のとおり集積所では遠藤が仁王立ちで待ち構えていたが、ふだんなら分別の成否を穿鑿しがてら話し掛けてくる彼なのに、このあさは、ああ小田切さん、おはようございます、といういつになく慇懃な挨拶ひとつきりだった。毎度そのためにわざわざ見られてもよい服装に着替え、かんたんに化粧までして出てくる時緒なのに、難なくごみを置いてくることができてしまい、拍子抜けした。室へ帰りがけはたと立ち止まる。平気だと踏んだが薄着では足りなかった肌寒さに肩をすぼめる。組んだ腕をさすりながら、なにかおかしなことでも起きなきゃいいけれど……、ひょっと見上げるけさの空は不安の色にどんより曇っている。いったい、槍でも降らせるつもりなのだろうか。

 

 的中するのが女の勘だ。夫の参加した初会合の日から、そうさ3日目くらいだったか、時緒が夕飯の買出しにスーパー・マーケットへ出向くと、いつもならおたがい籠を提げたまま顎に手をやってしばらく立ち話になる主婦仲間に、出逢う途端にさっと視線を逸らされ、先へ行かれてしまった。

 5日目のきょうは商店街の魚屋の女将にこそこそと手招きをされた。なんだろうとおもって寄って行くと、あたりをうかがいながら耳打ちをされた。――ご主人、たいへんなことしちゃったわね。わるいこと云わない、謝ったほうがいいわ。あなたからも説得しなさいよ。云われても時緒にはなんのことやらわからない。なんのことですかと訊いてみてはじめて、夫が先の日曜に起こした行動について知ったのである。耳打ちを聴きながら、全身から血の気の失せるのを、時緒は感じた。茫然として魚屋の店頭からアーケイド街のタイル敷きへよろめき出ると、もう異世界へでも居る心地がする。そこから自宅マンションへもどるふだん歩き慣れた道程も、きょういまは剣山を裸足で歩かされる劫罰だ。

 よる、尚心は遅く帰った。時緒は寝ないで待っていた。台所にだけ燈りを点けて食卓に着き、手を組んで杖にし、顎をその上へ乗せて微動だにせず。仕事を終えてへとへとの尚心は、時緒がいるとおもわずに居間へ入ってきて、薄燈りの台所から、おかえりなさい、と囁かれて肝を冷やす。

 ――わっ。

 おどろく拍子にごみ筒を蹴飛ばしてしまう。底へ向かってすぼまっている形のごみ筒は、倒れて中身をぶちまけながらフローリングに円を描いて転がる。ああああああああ、転がるそれに逃げられてなかなか捕まえられずに、もういちど蹴飛ばしてしまったりしつつ尚心は、

 ――お、おまえ。いたのか。いたならいるって云ってよ。

 と云う。やっとごみ筒を捕まえる。散乱したごみを拾い集めながら、帰る早々、しかもこの深夜に、また自分のこういうどじを(なじ)られるだろうと待ち構えていたが、聞こえてきたのは想いも寄らぬ科白だった。

 ――あなた、遠藤さんの反対運動に反対したそうじゃないの。

 聞いて尚心は拍子抜けする。なんだそんなことか。そんなこと、こんなに遅くまで俺の帰りを待っていて訊くほどのことか。妻の真意が読めなくて、しゃがんだ居間の床から彼女のほうを振り仰ぐ瞬間、彼はいちどならず肝を冷やす。時緒は(せん)のままいっさい姿勢を崩さず、食卓から彼を見下ろしていた。台所の蛍光燈の光を背後から浴びたその顔面はまったく蔭になっており、尚心のほうからは表情ひとつ窺い知れない。威圧されておもわずにごくりと音がするほど生唾を飲む。ただならぬ雰囲気である。彼は、まだぜんぶごみを拾い終わらずに立ち上がる。

 ――な、なんだ。藪から棒に。ど、どうしてそこだけしか電気を点けないの。明るくして待っていたがいいじゃない。

 云いながら居間の蛍光燈を点けた。明るくなるといくらか安心したが、露わになった妻の貌は憮然たるもので、なおその意思を量り兼ねた。点燈で2、3残っていたごみも明るみに出たので、尚心は拾ってごみ筒へ入れた。そして食卓のほうへやって来ながら、

 ――で、それがどうかしたのか。

 と妻へ訊いた。

 ――どうかしたのかじゃないわよっ。

 時緒はくわっととつぜんに激した。冷やすどころか、尚心は肝を潰す。コップ1杯の水を汲みに台所へ行くつもりで食卓の脇へさしかかる時に、そう噛みつかれたのである。

 ――な、なにどうしたの。怒ってるのか。

 ――怒ってるにきまってるじゃない。なにが、どうしたの、よ。

 ――なにが。

 ――なにがじゃないわよ。なんてことしてくれたのよ。

 ――なにかいけなかったかよ。

 ――いけなかったかって……。いけないわよ。いけないにきまってるでしょ。相手は誰だとおもってるのよ。

 ――相手はって、相手は遠藤さんだよ。

 ――あなたって人は。ふざけてるのっ。そうゆうこと云ってるんじゃないわよ。あなただってよく知ってるじゃないの、遠藤さんがどういう人か。とにかくすぐに謝ってちょうだい。あしたにでも。私いやよ。あした謝ってあした。あしたよ。あしたじゃなきゃだめ。あしたは早く帰るんでしょうねあなた。

 凄まじい剣幕で畳み掛けられる。

 ――お、ちょ、ちょっと待てよ。待て。待てってばさ……。おまえ……、おまえそう云わずにさあ。遠藤さんああいう当たりがきつい人なんだから、おまえが力になってくれないでどうするんだよ。

 ――いやよ私そんなの冗談じゃないわっ。あなたの勝手ではじめたことじゃないのっ。ぜったいにいやっ。

 ――お、

 ――いやったらいやっ。

 ――……

 最後までいっさい聞く耳をもってもらえなかった。

 そのあと尚心がシャワーを浴びているうちに、時緒は寝てしまっていた。尚心がおなじベッドへ入りづらい気持ちになるのは、20年に近い結婚生活ではじめてのことだ。いろいろの夫婦喧嘩を経てきた。がこんどのこれは、(あした)の太陽がなあなあにしてくれる性質のものではないと、彼にははっきりとわかっている。ぷいとむこうを向いて寝ている妻はいちおうは彼が寝られるだけの場所を空けておいてくれた。が蒲団へ入ってはみたものの、寝附きは至ってよくなかった。眠ったような眠らないようなままでカーテンの外が白んでくるつらいあさを、じつにひさかたぶりに経験する尚心だった。

 このとき来、時緒の彼に対する剣のある態度は以前にも増してひどくなった。

 

 それでも尚心は自身の態度を曲げなかった。1度目のすぐ2週間後のやはり日曜に開かれた2度目の会合へも、彼は堂々と出向いた。彼なりに遠藤からの風当たりを恐れてはいたが、相手の態度はそれとはちがった。遠藤は、尚心がそこにいないかのように、そもそも反対運動をすべきかという彼の問題提起などなかったかのように、平然と運動推進ありきの演説をしてみせた。おなじだ、尚心はおもう。初会合の席でも、彼がとつじょ起立して刃向かうと、遠藤はほとんどうろたえることしかできなかった。いまもそうである。努めてこちらをみないようにしながら、それでもあきらかに、こないだのようになにか口を挿まないでよ小田切さん、という示威をもって躍起になって喋っている。ハンカチで額や鼻の頭の汗を拭い拭いするその様は、すでに滑稽ですらある。威勢が、あってあたりまえで、それが挫かれることなど想像だにせず生きてきたのだろう。ぞんがい裸の王様なのかもしれんなあ……、そう彼のことを憐れんでやる心的の余裕さえ、尚心にはあった。侮るというのではけっしてないが、恐るるに足りない、かわいいものじゃないかと。なるほど彼はきょうこの場でたしかにある圧力を感じた。だがそれは遠藤からではない。早めに集会室へ来て座を占めていた自分を避けるよう避けるようにして坐りたがる参会者たちのその雰囲気からである。だから、時緒もそうだし、近所の連中もみな、かんがえすぎなのだ。自分たちでせっせと不安を産み出しているのである。彼は会合の間中ずっと、こういうのをなんと云ったかなあ、なにか云い方があったなあ、と首をひねっていて、散会間際になってやっとおもい当たった。そう、疑心暗鬼だ。

 ティーム・メイトもおおむねおなじ意見で、その日の酒席では、がっかりだ、もうちょっと骨のあるやつだとおもった、などとみな挙って遠藤のことをくさした。尚心は、きょうは自分は坐っていただけだが、こんどの会合ではもういちどなにか云いたい、と抱負を述べて、仲間からも激励を受けた。べつに彼等の後押しがなければ奮い立てなかったわけでなく、たとい孤立無援でも、云うべきことは云わねばならないとおもっていた。だがその尚心の発言を聞くや、それまでひとりだけ黙って呑んでいた主将井上が口を開いた。

 ――いや尚ちゃん。だからよせって。きょうのように黙っていればいいんだ。もう蒸し返さないほうがいい。

 彼のこの発言の途端、場の雰囲気は、またお説教だよ、という色を帯びる。もっとも、尚心自身は井上のことを煙たいとおもわず、それよりももっと素朴に、自分には疑心暗鬼におもえる遠藤の威勢というものを、なぜ井上はそうまで恐れるのか、それを知りたかった。

 ――どうしてキャップ。遠藤さんだって人の子だよ。まるで話の通じない相手じゃないでしょ。いや俺はね、喧嘩を売りたいんじゃないの。7階建てのマンションに棲んでいる当の本人が、隣におなじ7階建てのマンションが建つことに公々然と反対するってのはいったいどういう料簡なのか、それをちょっと遠藤さんに訊いてみたいだけ、ほんとうを云うとその程度の気分なんだ。だって俺が遠藤さんならさ、……申し訳ないけれど、そんなこと恥ずかしくてできないもんね。平屋に棲んでいて隣にマンションを建てられちゃう、っていうなら話は別だけれど。

 ――だからそんな興味本位程度のことならやめとけっての。

 ――いやだからどうしてかを云ってよ。理由を教えてほしいよ。それに興味本位じゃないよ。だって遠藤さんはこの地域の代表者だよ。その遠藤さんの声はつまり俺たちの声でしょ。俺もあのマンションに棲んでいるんだ。このまま黙っていたら、自分もマンションに棲んでいながら隣にマンションが建つのに反対する、っていうなんだか気持よくないことになる。それは俺いやだもん。だからやっぱりなにか云いたいよ。

 ティーム・メイトたちはみな一様に、そうだそうだ、よく云ったぞ、とはげしく頷くと、井上へ向かって、どうだ、反論があるか、という視線を集中させた。だが尚心のこうした主張を聞いても井上は、苦々しそうな貌をするだけで、なぜ遠藤に逆らわないほうがいいのか、その理由をついに云わなかった。

 この件が勃発して以来、どうもティームは旨い酒を呑めない。

 

 会合は午前にあり、昼すぎからもう呑みはじめていたといういいご身分の尚心たち。この日はよるを待たずに早めにお開きになって、帰宅した彼は、インター・フォンを用いずに、自分で解錠して自室へ上がる。玄関を入っても人の気配がせず、きっと自分がよるまで帰らないつもりで、時緒が子供たちを連れて外食へ出るなりしているんだろうとおもう。廊下の奥、居間の扉は開放されていて、入った居間から台所を望むと、そこにしかし時緒の後姿があった。あれ、いたんだ。おもいながら寄って行くと、その後姿はなんだか(ぼう)っとして気の脱けた脱け殻のようにみえてきた。

 ――ただいま。

 近寄って声を掛ける。すると、はっと我に返った時緒は、あわてて手にしていた煙草を流しの水溜まりへさしいれ、火を消した。じゅっ、という音がして火は消えたが、残った煙はまだ換気扇へ吸い込まれてゆくとちゅうだった。尚心は、彼女が煙草を吸うと知らなかった。が不意に出っ喰わした事態の気まずさに、おまえ煙草を吸うのか、彼はその科白を呑み込んでしまう。

 ――な、なによ。下で呼んでくれれば開けるじゃない。

 繕うように時緒は云い、尚心の脇を通り、居間のほうへ行った。

 ――う、うん……。ほらいないとおもったからさ。

 ――そうなの。

 おまえ煙草を吸うのか、彼女が煙い残り香を連れて自分の脇を通り過ぎるとき、尚心はそう訊きたい衝動にふたたび駆られた。だがそれを制しでもするかのように、

 ――お兄ちゃんはお友達といっしょよ。買い物と、映画も観てくるようなことを云っていたかしら。心緒も外で遊んでいるわ。暗くなるまえには帰るように云ってあるから大丈夫よ。お兄ちゃんのほうはわからないけれど、あの子はじき帰るから。

 と訊きもしないことを時緒は喋った。

 ――……そうか。

 そう応じてしまったから尚心は、もう肚にある質問をそのまま止め置くしかなかった。いまのように台所で吸っているのなら、それがずっと以前からなら臭いで気附いているはずだ。ということはさいきん吸いはじめたのだろうか。理由はなんだ。やっぱりあれか、遠藤さんのことか……。とつじょてきぱきと夕飯の支度をはじめた時緒の態度は、彼の目にいかにも弁解じみてみえた。時緒はやはりさかんに、あなたも食べるの、晩酌は、などと訊いてきた。

 いったい、妻といい井上といい、遠藤のなにをそんなに恐れているというのだろうか。あすにでもすぐにと彼女に懇願された遠藤への詫びをとうぜん尚心は入れていないから、それからこちらふたりは、事ある毎にこの件でちょっとした口論になる。だがそれが、彼女にとってずっと吸ってこなかった煙草を手に取らせるほどの心労の素だというのか。もっとも、よしんばそうとしても、いずれ尚心は、反対運動に反対という自身の態度を変えるつもりは毛頭ない。次回の会合でそのことを再度主張する気でいる。

 

 

 

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